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 リリオンは自分の目に映る光景が信じられなかった。

 白い大型の竜種は突如、振り返ったかと思うとランタンを丸呑みにしてしまった。頭を上向けると、かろうじて見えていた爪先が完全に見えなくなる。

 白い羽毛がきらきらと光る喉に子供ひとり分の膨らみが浮かび上がった。

 わざと食べられたんだと思った。

 ランタンには何か考えがあって、わざと竜種の口の中に飛び込んだに違いない。爆発して、内側からやっつけるんだと思った。

 けれど違った。

 いつまで経っても竜種は爆発四散しなかった。

 飲み込み辛そうに、喉がひくひくと動いている。

 頭の先から爪先まで、全身の肌が粟立った。髪の毛が全部針になったみたいに頭がちくちくとして、指先から血の気が引いた。

 ランタンは竜種に食べられてしまった。

 その事実に気が付いたとき、リリオンはがむしゃらに剣を振り上げて竜種の前に飛び出した。

 嫌だ嫌だ。

「返してっ! ランタンを返せっ!」

 リリオンのものとは思えない凄まじい声は、同じように身動きの取れなかったガーランドとゼインの金縛りを解いた。

 彼らもまた現実の突然さに理解が追いついていないようだった。

 戦いの中では何が起こるかわからない。そんなことはわかりきったことだったのに、ランタンという探索者が致命的な状況に陥る状況というものは、それでもなお想像の埒外にあった。

 錯乱したように向かってくるリリオンに対し、竜種は鷹揚に背を向けた。いや、あまりの巨体にゆっくり動いたように見えたに過ぎない。

 湖面が切り裂かれるように破裂した。湖に垂らしていた竜尾が音速を超える速度で薙ぎ払われる。

 リリオンの肉体はそれに反応した。

 振り上げていた大剣で半身を庇うようにして受け止める。凄まじい衝撃だった。大剣が折れても、あるいは竜尾が千切れたとしても不思議ではない。

 硝子の砕けるような甲高い破裂音が響き、周囲に衝撃波が波紋のように広がった。

 リリオンの髪がなびき、竜種の羽がはためく。

「ランタンっ、ランタンっ!」

 ランタンはまだあそこにいる。竜種の喉に留まっている。きっと手足を突っ張って、飲み込まれないようにしているんだ。きっとそうだ。まだ大丈夫だ。

 全身を支配しようとする恐怖に抗うように、リリオンは自分に言い聞かせる。

 竜種は薙ぎ払った尾を同じ速度で引き戻した。リリオンは走りながら、その一撃も受け止めた。踏ん張りが利かず身体が弾かれる。ずれた分だけ地面を蹴って、前へ前へと身体を進めた。

 十歩に足らない距離が永遠のように遠い。

 風が吹いた。凄まじい向かい風だ。リリオンは身体を低くする。竜種が翼を広げたのだ。空を覆うほど大きな翼を羽ばたかせる。

 再び大剣を振り上げる。その途端に風をまともに受けて、後ろにひっくり返りそうになった。竜種が浮いた。リリオンは歯を食いしばり、身体全部を使って大剣を振り下ろす。

 鋒が竜種の身体を捉えた。何重にもなった羽毛と鱗の層が刃を弾いた。

 竜種は小さく鳴いた。

 ランタンが行ってしまう。

 失ってしまう。

「返せ、返してっ! ランタンを返してよっ!」

 リリオンは叫びながら無我夢中になって竜種の身体にしがみついた。指に羽毛を絡めて、爪を鱗の隙間に食い込ませる。

 頭を何度も身体に叩きつけ、ごわごわする羽毛に噛みつきながら、返せ返せ、と何度も繰り返した。

 竜種はふわりと完全に浮かび上がり、瞬く間に湖が足元に置き去りにされる。

 ガーランドやゼインがどうにか尻尾の先にしがみついていた。




 誰か困っている人のために戦うのは当たり前のことで、もちろん心配だけど、だってランタンは優しくて強いからきっと大丈夫。

 そんな風に考えていた。

 しかしそれは甘い考えだった。

 伯爵領を歩いて、様々なものを見てきた。

 どこからともなく湧き出る姿の見えない魔物や、魔物としての巨人、破壊された街並みと取り残された感情、人々の望む理想の生活、壺の中で黒い靄となってしまった人だったもの。

 そんな信じられない光景以上に、ランタンが飲み込まれてしまったことが今も信じられない。

 でも事実だった。

 ランタンはまだ竜種の中にいる。

 生きているか死んでいるかはわからない。

 竜種にしがみつきながら、リリオンは涙が溢れてくるのを感じた。振り落とされないようにじっとしているのがやっとだった。

 竜種は振り落とそうとすらしていなかった。ただ飛んでいるだけだ。

 遥かなる空の上を、凄まじい速度で竜種が飛行している。

 どこへ行こうというのか。風を切ってぐんぐんと進んでいく。

 もう轟々という風音しか聞こえない。耳は千切れそうなほど冷えている。寒さに全身が強張り、風圧で呼吸すらままならない。

 涙に濡れた睫毛が凍って、薄目にした瞼がこれ以上閉じることも開けることもできなくなった。

 ごつごつとそれでも頭をぶつけ続ける。

 恐怖と混乱で頭がくらくらとする。

 それは魔精に溺れるのに少し似ている。ついさっき川の中で溺れたときも、こんな風にくらくらしていた。

 自分の小ささを思い知る。

 圧倒的な力の前にリリオンは自分の無力さを噛み締めていた。

 そう、自分は小さいんだ。

 巨人の血が混じっているから、人々の中ではいつだって頭一つ二つ抜けている。だから大きいんだと勘違いしていたが、自分はひどく小さい。

 どんな魔物だってやっつけてきたから、力だって強いと思っていた。それなのに何もできない。

 どうしたらいいだろう、どうすればいいだろうと考えるが答えは出ない。

 リリオンは嗚咽を漏らした。その声さえ凍り付いて、泣き喚くことすらできない。

 狭く潰れた視界に伯爵領が映った。

 遠征の最初に飛行船から見下ろした景色よりも、なんだかくすんだ色をして、ぼやけて見える。それだけ季節が冬の中に入り込んだのだ。

 そこには戦禍の跡も復興への兆しも、いくつか見てきた今なお続く人々の営みも見つけることができない。

 あれほどはっきりと目立っていた、青く発光する川の軌跡もどこにあるのか。

 ただぼんやりとした景色だった。

 でもそこに人が住んでいることを知っている。

 ランタンと一緒に旅をしてきたから。

 下から見上げたら自分の姿も同じように空の中に溶けてしまっているのだろう。

 自分だけじゃなく、もしかしたら何もかもすべては物凄くちっぽけなのかもしれない。

「うう、ううっ」

 リリオンは唸って、顔を竜種の羽に擦りつけた。凍った睫毛を溶かすと、かっと目を見開く。

 小さな自分よりも、もっともっと小さなランタンがリリオンにはどうしようもなく大切だった。

 吹き飛ばされないように片手ずつ手を離し、その手を竜種に叩きつけた。凍えた指先に血が通ってぼやっと温かくなる。乱暴なやり方だった。

 指先が動くようになると、崖を登るように竜種をよじ登った。羽ばたくたびに竜種の身体が大きくうねった。その度に動きを止めて、必死になってしがみつく。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 呼気が瞬く間に凍り、細氷となってきらめく。

 動きの激しい翼の周りを迂回して、ようやく背中によじ登る。腰に引っ掛かっている大剣をしっかり固定して、両翼の間を這って、頭の方へと進んでいく。少しでも身体を起こすと風に身体が起こされそうだった。

 まだどうすればいいかわからない。

 ただランタンに近付きたかった。

 首の付け根までやって来て、大剣の柄に手を伸ばす。

 首を斬り落として、ランタンを助け出そうか。しかしこの高さから落っこちたらどうやったって生きてはいられない。それでは意味がない。

 リリオンはさらに前進した。

 竜種の首はリリオンの腕でも回りきらないほど太かった。奈落に迫り出した丸太の上を這うように、ゆっくりと(にじ)り出る。

「あ、ああっ――」

 リリオンが悲鳴に似た声を出した。

 首の半ば、竜種の喉元を何度も、確かめるように撫でる。そこに明らかな膨らみがあった。

 いる。

「――ランタンっ、ランタン!」

 何度も呼びかけると、その膨らみが動いたような気がした。

 声に反応してくれたのか、それとも竜種が喉を動かしただけか、わからない。それでもリリオンは勇気が湧いてくるのを感じた。

 その途端、視線が開けた。

 竜種の首に跨がって、真っ白い首が伸びて、その先端にランタンを飲み込んだ顔があり、その更に先に伯爵領が、世界が広がっている。

 ぼやけていた景色の輪郭がいやにくっきりとして、見えるはずのない地上の光景がいくつも目の中に、あるいは頭の中に飛び込んできた。

 魔精の霧の中で見た、みんなの心の中の光景に似ている。

 平穏と戦乱の混沌。

 リリオンは一度目を瞑って、頭を振った。

 いつの間にか雲の中に入っていた。あたりは真っ白で、竜種の身体とあたりの光景の境目も曖昧なほどだった。あるいは霧の中かもしれない。

「わたしたちを、どこへ連れて行こうって言うの」

 リリオンはランタンの膨らみに手を当てながら、届くはずのない声を竜種に向ける。


ずっと半端な一年でしたが、お付き合いただきありがとうございました。

よいお年をお過ごしください。

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