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激しい咆哮はしばらく続いた。
遠吠えのような素直さではない。わめき声のような咆哮だった。大気が震えて、木々がざわざわと音を立てた。
人魚たちは緊張したように静まりかえって、水の中に潜った。その波紋が消える頃、そっと顔を半分覗かせてあたりを窺う。
例えばあれほどの強さを誇った大蛇がなぜ水底に身を潜めていたのか。
魔物であるが蛇である。冬眠の準備をしていたのかもしれないし、もともとじっと身を潜める性質なのかもしれない。
大蛇はこちらの接近にすぐに気が付いて襲いかかってきた。大蛇の神経を逆撫でするような足音は立てていない。大蛇はその巨体に見合わずひどく神経質だった。
水底に潜み、あたりの様子を窺っていた。
人魚を待ち構えていたのかもしれないし、ただ獲物を待っていたのかもしれない。
あるいはこの咆哮こそが大蛇に身を潜ませた原因なのではないだろうか。
できることならば人魚たちから様々なことを聞きたいが、それは叶わない。単語を拾うことすらできない。
だが彼女たちは人間と同じように物を見る目があり、器用な手を持っていた。
平らな石を探してそこに濡らした指先で絵を描くことで、多くの情報をやり取りすることが可能だった。
「邪魔だよ。あっち行ってろ」
手元を覗き込む幼い人魚たちの毛先から雫が落ちて、石の上で弾けた。せっかく描いたものが台無しになった。
ランタンは子供たちを追い払い。熱を持った手で石の表面を撫でた。じゅう、と水分が蒸発する。
「邪魔者あつかいしたらかわいそうよ」
咆哮に怯えている子供らを案じてリリオンが咎める。ランタンは肩を竦めた。
「かわいそうでも邪魔は邪魔だ」
そう言いながら再び石に指を滑らせる。大蛇と人魚と滝を描いた。
「お前たちはここで暮らしていた。そこに大蛇が滝上から降りてきた。そして戦いが起こった」
人魚が頷く。
「そして負けた。半分は洞窟に隠れ、もう半分は下流へ逃れた。蛇はここに住みつき、お前たちは仲間を取り戻すために戦っては敗れた」
太陽と月を描く。
「朝も夜も蛇は眠らずに、近付くこともできない」
どれほど隠れていたのだろうか。飢え死ぬほど長くはないが、洞窟の人魚たちは一様に痩せていた。子供たちが比較的元気なのは、僅かな食料を優先的に与えたからだろう。
濡れた指で人魚の絵を塗り潰していく。人魚は眉をしかめ、また頷いた。
「大蛇はどこから来たのか。大蛇は滝の上、人魚は下に分かれて、棲み分けができていたのか? 違う。急にやって来た。それとも現れた?」
流れを取り戻した川には、まだ燐光めいて青く光っている。
大蛇は地脈の力に引き寄せられたのだろうか。それとも魔精によって顕現したか。
人魚は肩をぶるっと震わせた。白く細い肩が粟立った。
彼女は冷たい手でランタンの手を掴むと、そのまま石の上を撫でた。石を乾かす不思議な手だと思っているのかもしれない。
すっかり乾いた石の上に、人魚は細い指を滑らせた。指と指の間の水掻きが少し発達している。ルーの手はどうだったろうと、ランタンは思った。
人魚は控えめに滝と大蛇を描き、その上に広々とした湖を描いた。湖の畔に何かを描き加え、それを強く指差した。
「滝の上の湖にこれが棲んでいるのか。大蛇はこれに住処を追われたのか?」
「蛇よりももっと大きいわ。羽もある。飛んでやって来たのかしら」
鱗まで描いた蛇と異なり、人魚はそれを黒く塗り潰した。それでも翼と尻尾を確認できる。
巨大な蛇食い鷲でも飛来したのか、あるいはそれとも。
「竜種かな。大蛇を怖がらせるような存在は」
「でもさっきの咆哮は竜種みたいじゃなかったわ」
「リリオンもそう思う? 僕もだ。何が違うとは言えないけど、竜種はもっと怖い気がする」
「うん、わたしもそう。すごく大きな咆哮だったけど、怖さはあんまりだった。不思議ね」
「じゃあ鳥か? まあこれだけ大きかったら竜種も鳥も変わらないけど。蛇だって竜種に見えたぐらいだし」
そう言いながらもランタンは鱗も明らかな竜種と羽毛の柔らかな鳥を描いた。人魚は困った顔をして首を横に振った。それから少し考えて、太陽らしきものとまた黒く塗り潰した何かを描いた。
「何だろ」
「――影じゃないかしら。これのこと?」
リリオンが自分の影を指差すと、人魚は激しく頷き、そして下流の方を示した。
「向こうは、南か」
「レティの実家の方とは逆ね」
「竜種はネイリング領にしか棲んでないわけじゃないけど。――僕らと同じ方から来たのか」
これまで歩いてきた道のりを思い出し、ランタンはつい黙り込んだ。
ここでは命が簡単に生まれ、形さえ定かではなく、そして奪われていく。
変異者の助けになればと思っていたのに、ゼインは変異の度合いを更に強めてしまった。目覚めた彼はその事に気が付き、今は静かにしている。苦しみに耐えているのかもしれないし、諦めてしまったのかもしれない。
自分の行動の意味を疑いたくなるが、だからといって投げだしてしまっては元も子もない。
意固地になっているだけかもしれないが、もう戻ることはできない。
「うだうだ言ってもしかたない。何がいるか見に行くしかないな」
「うん」
リリオンは一も二もなく頷いてくれた。
「ガーランド、ゼイン。崖の上に行く。何がいるか見に行く」
立ち上がって告げると、ガーランドは唇を真っ直ぐ結び鼻を鳴らした。元の目的である地脈の乱れは大蛇を討伐することで、おそらく正された。
何がいるのかを見に行くだけならばいいが、それだけでは済まないだろう。この戦いは純粋に人魚たちの平穏のためのものだ。
しかしガーランドはもはや文句を言わなかった。黙って二刀を腰に差した。
ゼインはゆっくりとこちらを見て、そして頷いた。胸の上に手を当てて、心臓まで鋼になっていないことを確認する。
「ああ、行こうか」
平然とした声だったが、演技かもしれない。棍を手にとって立ち上がると、身体の調子を確かめるようにそれを回した。少しぎこちないが、問題は無さそうだった。
崖の上に行こうとするランタンたちを、むしろ人魚たちが止めようとした。ひどく心配げになって、足首を掴んで首を横に振った。きゅうきゅうと鳴いて、それには懇願するような哀切の響きがあった。
永遠の別れを確信するようだった。
よほど黒塗りの魔物が怖いらしい。
ランタンはわざわざしゃがんで、足首を掴む人魚の手をそっと外した。彼女はその手を水の中でぎゅっと握り合わせる。手の中で青い光が一瞬だけ濃くなった。
「大丈夫だよ。心配なんて要らない。じゃあ、またどこかで会うことがあれば」
素っ気ない別れの言葉を告げて、ランタンは歩き出した。
崖を垂直に登攀する。素手で登って行く。岩肌のオウトツに引っかけた指先に体重と装備の重量を預けて、身体を支える。背筋を使って身体を引き上げる。それを繰り返す。
右手側に滝が流れ落ちており、半身が冷気に晒された。右手の指先がじんじんと痺れた。
もっとも身軽なランタンがまず最初に登り切り、二番目はガーランドだった。
「よいしょ、ありがとう。ランタン」
リリオンが遅れて続き、ランタンが差し伸べた手を掴み、引き上げられる。
最後にゼインも同じようにして登り切った。
ごつごつしたゼインの手は指が太く、皮が厚くなった戦う男の手だった。さすがに息が上がっている。
「迷宮でも、こんなことはしたことがない」
「迷宮で初体験にならずによかったじゃないか」
「まったくだ」
崖の下を覗き込むと、人魚たちが不安そうにこちらを見上げていた。リリオンが手を振ってやる。振り返してくれたのは子供たちだけだった。
「奇妙な光景だな」
そう呟いたのはガーランドだった。彼女にそう呟かせるだけの光景が眼下に広がっている。目に見える川の流れのすべてが、青く発光している。地脈とはよく言ったもので、それは大地に伸びる血管のように見える。
しかしそんな光景をいつまでも見ているわけにはいかない。
流れ落ちる滝の轟音に混じって、小さな唸り声が絶えず聞こえている。
喉に痰の絡んだ喘鳴に似ていた。流れを遡っていくと、川幅が急激に広がって湖となった。
その声の主は、湖の畔に横たわっていた。
「鳥か? 竜種か?」
「どっちにも見えるわ」
「四つ足に、蜥蜴の尻尾。それにこの圧。間違いなく竜種だろう」
ゼインが断言する。
かなりの巨体であることは確かだったが、大蛇よりも遥かに巨大と言うほどではなかった。
人魚は地面に落ちた影の大きさをそのまま実体の大きさだと勘違いしたのかもしれない。
ランタンとリリオンは目配せをした。不思議とゼインが言うほどの圧を感じていなかった。
その竜種は全身を白い羽毛で覆っていたが、長い尾はやや青みがかった鱗に覆われていた。
眠るみたいに身体を丸めていて、鼻先は今にも湖面につきそうになっている。呼吸のたびに細波が立っている。尾はその先端が釣り糸のように水中に沈んでおり、そちらの湖面はぴくりとも動かない。
しばらく観察していても竜種は横たわったままで、時折、寝苦しそうに首を動かすぐらいだった。
「この環境で飛ばれたら打つ手はないぞ。奇襲をかけるしかないんじゃないか」
「それはそうだが……」
「何か問題があるのか?」
崖の上にはきっと避けられぬ戦いが待っていると確信していたはずなのに、どうしてかランタンの闘争心は燻っていた。
「わからん。竜種を見ても、それほど怖い感じがしない」
ゼインが怪訝な表情でランタンを見下ろした。
生物の頂点である竜種は、基本的にあらゆる生物に対して根源的な恐怖心を呼び起こす。それに戦いを挑む探索者も恐怖しないわけではなく、ただ恐怖することに慣れているだけだった。
「慣れすぎているだけじゃないか?」
「かもしれない。ガーランドはどう見る?」
「――強敵だ。戦わずに済むのならそれにこしたことはない」
「つまりゼイン派か。ともあれ近付かなければどうしようもできないな」
木々の中に身を隠すようにして、大回りに竜種に近付いていく。
「白くて綺麗な竜種ね」
リリオンがひそひそ声で囁いた。近付くほどにその姿が露わになっていく。
羽毛は新雪が積もったような白さだった。羽の下には似たような色の鱗もあるらしく、それが交互に折り重なっている。
ランタンは恐怖心よりもむしろ既視感を憶えた。
迷宮のみならず、レティシアの実家でも様々な種類の竜種を見てきたが、こんな種類を見たことがあっただろうか。これほど特徴的な竜種ならば早々忘れないと思うが。
「ねえ、ランタン。この子、怪我をしているんじゃないかしら」
「怪我?」
「だって、呼吸が変よ。唸り声じゃないんだわ」
ざらざらした呼吸音の合間に、しゃくりあげるような、あるいは空咳のような異音が混じった。
敵が弱っているのならばそれは喜ぶべきことだった。
ランタンの肩を、ふいにガーランドが掴んだ。
「変なことを考えているんじゃないだろうな」
「変なって?」
「まさかこれも助けてやろうなんて思っているんじゃないだろうな」
「――まさか、さすがにそこまで変じゃない」
その答えにガーランドの手が離れた。
リリオンが小さく唇を尖らせる。リリオンは変なことを考えていたのかもしれない。
「背後からまず僕が奇襲をかける。竜種の意識が僕に行っている内に追い打ちをかけてくれ」
こちらの戦力は万全ではない。ガーランドの魔道は大蛇との戦闘でほとんど使い切ってしまっているし、純粋な前衛の三人は身体に痛みを抱えている。だが弱気になるほどではなかった。迷宮であっても引き返すほどの痛みではない。
完全な死角から、ランタンはそっと近付いた。慎重に慎重を期して呼吸どころか心拍まで減らし、足音はまったくの無音だった。
だと言うのにその竜種は悪夢に飛び起きるように身を起こしたかと思うと、少しの迷いもなく身を翻し、ランタンに反応する余地も与えず蛇のように首を伸ばした。
「は」
ランタンの口から一音が漏れた。
眼前で竜種の口が開いた。嘴のように尖り、だが鋭い牙が内側に並んでいる。
そしてランタンは呆気なく丸呑みにされた。
これが今年最後の投稿にならないようにしたい。




