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「いやあ順調な探索だったね、リリオン」
「そうね」
「怪我もなかったし」
「ええ」
「夜にはぐっすり眠ったし」
「うん」
「引き返すのが早くて昼寝までしちゃったね」
「ね」
がちゃん、と金属音が夜空に響いた。ベルトからフックが外されてミシャが滑らかな手つきで金属ロープを丸めていった。
白々しくも聞こえるように会話をしてみたのだが、ミシャは全くの無反応である。
月から降り注ぐ光が俯いて作業するミシャの表情に影を落としている。影に覆い隠された表情は窺い知ることができない。ランタンは少しパサついた雰囲気のあるおかっぱ髪を見下ろした。美しい天使の輪っかが浮かぶ事もあるミシャの髪は、けれど今は僅かに草臥れている。
ミシャから少しばかりの不穏さを感じ取って、ロープの拘束から解放されつつあるというのにランタンは身動き一つ取ることができなかった。
ミシャはゆらりとランタンの前から立ち去るとリリオンのロープを外し始めた。いつもはきびきびと動くミシャだが、まるでフックの一つも重たげな様子であった。
顔に落ちる影と月の白い光のせいで顔色が悪く見えた。
いや、ミシャはいつもより確かに血色が悪い。少し目蓋が腫れぼったくて、目の下にある暗さは影ではなく隈のようだった。
「ミシャさん?」
「ん? どうかしたっすかリリオンちゃん。今外すからちょっと待っててね」
顔を上げたミシャはそう言って、リリオンに取り付けた初心者用のフックを次々に外していった。動きにきびきびとした様子は戻らなかったが、それでも少しばかりメリハリがでている。それはまるで寝ぼけた人間が声を掛けられて、僅かに覚醒した様子に似ていた。
ミシャは四点のフックと、そこから伸びるロープを一纏めにして起重機に放り込んだ。そして腰に手を当てて、月の光を顔に浴びるように大きく背中を反らした。弓形になった背筋から、ぱきぱきと氷が割れるような音が鳴った。
「なに見てるの?」
「なにも」
ランタンはつなぎを押し上げた膨らみから視線を逸らした。
ランタンは前髪で顔を隠そうとしているのか、額に爪を立てるように手櫛で髪を梳く。リリオンの顔をこっそりと盗み見て、そこに無垢な表情があることに胸を撫で下ろして視線をミシャへと向けた。
そして目が合った。
「どうかしたっすか?」
「……おでこが痒い」
ランタンは痒くもない額を掻いた。そんなランタンの様子ににミシャが小さく微笑んで、それに気を取られていたら背後からリリオンに腕を取られた。
「掻いたら傷になるわよ」
身動きを封じられたランタンの前髪をミシャはそっと払って、形の良い額が露わになった。
「ふふふ、ちょっと赤くなってるっすね」
なんだこの複合技は。
ランタンは文字通りお手上げになったが、それでも拗ねるようにふてぶてしい表情を作った。ランタンの細い手首を握るリリオンの指が少し余っている。ランタンは五指を重ねて、鳥の細い嘴のような形を作った。手首を捩る。
「せっかく怪我もなく帰還されたんですから、自分で傷を作ったらダメっすよ」
「聞こえてないのかと思ってたよ」
ランタンはリリオンの拘束からするりと抜け出して、掴まれていた手首を軽く回した。手首からぱきぽきと乾いた破裂音が鳴る。ミシャとお揃いだ。
いつの間にか空を掴まされたリリオンが、自らの掌を見つめて難しそうな顔つきになっていた。
「ランタンさんのお話はちゃんと聞いてるっすよ、――私は」
「まるで僕がミシャの話を聞いていないみたいな言い方だね」
ランタンは両腕を広げて、さあご覧なさい、と言うようにほぼ無傷の身体をミシャに晒した。ミシャはそんなランタンの姿を上から下まで、下から上まで眺め回す。そしてランタンのどうだと言わんばかりの小憎らしい表情に、まったくもう、と満足げな悪態を吐いた。
「睡眠も充分取られたようで、羨ましい限りっす」
ミシャはそう言って、喉の奥から迫り上がった欠伸を噛み殺した。そんなミシャをリリオンがランタンの頭を飛び越えて覗き込んだ。
「ミシャさん、ちょっと疲れてるね」
「まあこれが今日最後の仕事っすからね」
引き上げ屋の仕事は朝から晩まで続く。迷宮へ挑む者、迷宮から帰還する者。時折前者でもあるが、後者が予定時間通りに現れることは稀である。怪我や、あるいは戦利品が重たすぎて引き上げの予定時間までに迷宮口直下まで戻れないことは多々ある。
最初の仕事から最後の仕事を終えるまで引き上げ屋は迷宮特区を出ない。
暑さも寒さも、雨も風も、隣の区画で迷宮が崩壊し穴から魔物が溢れ出そうとも余程の大崩壊でもない限り引き上げ屋はそこにいる。起重機の上で待ち時間を過ごし、食事を取る。用を足す暇が惜しいのでほとんど水分は取らないらしい。
そして相手をするのは自分勝手で傲岸不遜、乱暴者の探索者だ。それは疲れもするだろう。
それに。
「ちょっと寝不足もあるね」
ランタンは慈しむような手つきでミシャの頬に触れた。
少し乾燥した肌が夜風に冷えてひんやりとして、親指の腹で目の下を撫でると震えるような瞬きをした。驚いたのかミシャは固まり、しかしすぐに眼を細めて擽ったそうにした。かと思うと持ち上げた瞼が重たそうで、涼やかな目元がとろんとして眠たげになった。
「大丈夫っすよ、ありがとうございます」
ミシャが穏やかに微笑んだ。そして頬に触れた手にミシャは手を重ねて、ゆっくりと剥がした。
「ランタンさんは、何だかんだ言っても時間通り帰ってきてくれるから」
寝不足なのは今日の朝早い時間から予約が入っていた為であり、そして昨晩の最後の仕事が遅れたからなのだという。
ミシャの所属する引き上げ屋では最終の予約時刻は深夜零時から三時までだったはずだ。
深夜は料金が加算される。そんな深夜に望んで引き上げ屋を予約する探索班は少ないが、昨晩の探索者はその少ない探索班の内の一つだったようだ。あるいはその時間にしか予約が取れなかったのか。
「久々っすよ。三時まで待ち惚けなんて」
「……その探索者さんたちはどうなったんですか?」
リリオンが不安そうな顔でミシャに尋ねる。
「ちゃんと全員帰還したっすよ」
そう聞いてリリオンはほっと胸を撫で下ろしたが、おそらく無事に帰還したわけではないだろうという雰囲気をミシャの様子からランタンは察した。
多少の怪我をした探索者は珍しいものではない。おそらくその探索者たちは生命そのものを脅かす、あるいは探索者という職業の生命に届くような怪我だったのだろう。
引き上げ屋の大変なところは、そのような修羅場であっても代金を頂戴しなければならないところだろう。場合によっては探索者ギルドにまで取り立てに行かないといけないこともあるのだと言う。
もしかしたらそういった作業もあったのかもしれない。
「お疲れ様、ミシャ。今日は現物払いで良いかい?」
「え? ええ構わないっすけど」
「悪いね」
ランタンはリリオンに背を向けさせて背嚢を漁った。
漁りながら、三時間待ち惚けか、ランタンはと考えた。その三時間、ミシャは何を考えていたのだろうか。起重機に腰を掛け、ただ一人。その時間ならば迷宮特区も人は疎らだろう。
ただ休憩するように身体を休めていたのか、それとも祈るような気持ちだったのか。垂らしたロープに反応が返ってきた時は、どんな気持ちだったのだろう。
それに深夜三時に仕事が終わったわけではない。深夜三時からようやく引き上げ作業が始まったのだ。その後諸々全てを終わらせたのは、眠りについたのは何時だったのだろうか。
それでも今日の引き上げは、いつもと変わらず滑らかだった。横壁に身体をぶつけることも、勢い余って内臓が浮くようなこともなかった。
「じゃあこれで」
ランタンは飛刀と石獣から採取した魔精結晶を混ぜ合わせてミシャに握らせた。
ミシャはその結晶を調べて、気まずそうに顔を引きつらせた。
「いや、ランタンさん――」
「足りなかった?」
「――こんなには貰えないっすよ」
「でも、減らしたら足りないでしょ?」
ミシャが言葉に詰まった。一個減らせば見逃せぬ程度僅かに足りず、だがそのままでは色を付けたにしても過分である。己の見立てが間違っていないことを確信して、ランタンはほくそ笑んだ。
ランタンがにこやかながらも有無を言わせない凄味を醸し出して、そっとミシャに押しつけた。リリオンよりもランタンの手は冷たく、そのランタンの手よりもミシャの手は冷たい。ランタンは小さなミシャの掌に魔精結晶を持たせる。
「余分は、まあ延滞金の先払いと言うことで」
「……分かりました。その時は迷宮の中までお迎えにあがらせていただきます」
「よろしく」
いつも通りのやり取りに、余剰金の分だけ重みがあった。
ランタンは余裕を見せて頷いた。ランタンは今まで多くの無茶な探索を繰り返していたが、引き上げの時間に遅れたことはただの一度もないのだ。ふふん、と鼻を鳴らして笑ったランタンに、ミシャは少しばかり悔しそうにしながら集金箱に魔精結晶をしまった。
「ミシャさん。わたしたちこれからご飯なんですけど一緒に食べませんか?」
「んーありがたいお誘いっすけど、まだ仕事が」
探索者を帰還させれば、はいお終い、とはいかないのが引き上げ屋の仕事である。
リリオンはリリオンなりに気を遣ってみたようだが、それが空振りに終わってしまって残念そうにしている。ランタンはそんなリリオンを撫でて慰めてやって、ミシャには、また今度暇な時にね、と声を掛けた。
ランタンは昔ミシャに食事を奢ってもらったことがある。その借りはまだ返せていない、と思う。
「ミシャはこのまま店に戻るの?」
「ええ、さっきも言ったっすけど。ランタンさんたちが今日最後のお客さんなので」
「よかったら送っていこうか?」
「どうしたっすか急に」
ミシャが半眼になってランタンに疑惑の眼差しを向けた。
「いやいや、いつもお世話になっている引き上げ屋さまにせめてもの感謝をと思いまして」
ランタンは本音ながらも、照れ隠しをするように勿体ぶった言い回しでそう言った。少しばかり嫌みったらしい言い方になってしまったが、ミシャはその言葉の中にある気持ちだけを素直に受け取ったようだ。
「じゃあお言葉に甘えて」
ミシャははにかんで、くるりと背を向けた。
「暫しお待ちを」
背中越しに言葉を残して起重機に飛び乗ると、レバーやスイッチの類いを操って起重機の首を引っ込め、弛んだロープを巻き直す。ぞるりと地面から車両を固定する杭が引き抜かれた。
「勝手に決めちゃって悪かったね」
「ううん、いい」
リリオンはランタンの肩に手を置いて、遠くを見上げるような尊敬の視線でミシャの起重機捌きに見とれていた。ミシャの小さな手が巧みに起重機を操り、起重機は生きているかのように滑らかな軌道を描いた。
「そう言えば、あれを逆さまにしたような奴だよ。石球用の地雷って」
「へえ」
ランタンが指差した杭を物珍しげにリリオンが見つめ、近付こうとしたので咄嗟に腕を引っ張って止めた。
動いている起重機に近寄るべからず、と言うのは起重機をそこいらの物質系魔物の一種のようだと侮って、ぶつかったり轢かれたりして酷い目に遭う探索者が後を絶たないので生まれた戒めだ。
死んでも次から次へと代わりが現れる探索者と違い、起重機は恐ろしく貴重で高価である。事故があった場合には余程のことが無い限り起重機優先で、探索者はどれほどの怪我を負おうと哀れまれることすらない。
起重機が低い唸り声を上げて動き出した。車輌そのものを動かす原動機に火が入ったのだ。ミシャが小さく手を振った。
「お待たせしたっす。上がってください」
「いいの?」
思わずランタンが聞くとミシャは、ええ勿論、と微笑んだ。
「本当に護衛さんみたいに、歩いて付いてくる気だったんですか」
これでは送るのだか送られるのだか分からないな、とランタンが迷っているとリリオンが歓声を上げながら起重機に突撃してよじ登ろうとしていた。
「あ、そこ触ると熱いっすよ」
「あつい!」
「……成長ゼロだな」
ランタンは呆れながら、リリオンに見せつけるようにタラップを踏みしめて起重機に乗った。座席は一人用だがそこそこ広く、詰めればランタンも座れそうだったがさすがにそんな無遠慮な真似はしなかった。
いつまでもタラップの傍にいるとリリオンが上がれないので、座席の後ろ側にぐるりと回って背後からの奇襲に備えるように進行方向に背を向けて座り込んだ。廃熱口を避けるようにして足を投げ出す。
「リリオンは前を注意ね」
「まかせて!」
リリオンはタラップの半ばまで上がったところで立ち止まり、座席を囲む枠を握りしめていた。
「落ちないように気をつけるっすよ。じゃあ出発します」
ランタンの尻に伝わってくる小刻みな振動が一度大きくなり、すぐに緩やかに安定すると起重機はのんびりと走り出した。再び尻を揺らす振動は起重機が生み出すものではなく、迷宮特区の荒れた地面のオウトツそのものだ。
「わあ結構早いのね」
人が走るのと同じぐらいの速度で起重機は進む。騒音はそれほどなく、サスペンションがしっかりしているのか振動も苦痛なほどではない。思っていたよりもずいぶんと乗り心地の良い乗り物だ。
引き上げ屋は長時間これに乗りっぱなしになるのだから、その為の快適さなのだろう。
迷宮特区の中には同じように店へと戻っていく起重機の姿がちらほらと見られた。
そうという決まりがあるわけではないが探索者は朝に迷宮に降りて、夜に迷宮から帰還するという探索パターンを取る者が多い。
ランタンもその内の一人だ。朝から昼の太陽が出ている時間帯に降下して、夕から夜に掛けて戻ってくる。迷宮には太陽も月もなく時間の感覚が曖昧になりがちなため、そうやって時間の感覚を調整している。
他の帰っていく起重機にも、ランタンたちのように座席外にも人を乗せている車輌があった。それは複数人で仕事を行っている引き上げ屋かもしれないし、引き上げ屋の雇っている護衛なのかもしれない。
迷宮から帰還した探索者が襲われるのはその懐が温かいからで、同じように懐温かく店に帰る引き上げ屋が襲われない道理はない。
迷宮特区の中では衛士隊と騎士団、探索者ギルドの武装職員が入り乱れて目を光らせ警備をしているが、あまり仲が良くないのか連携が取れておらず、目の行き届いていない場所は過分にある。特に夜も深くなると凶行を覆い隠す影は増え、そして同時に警備の数は減るのである。
探索者よりも単純な戦闘能力ではずいぶんと劣る引き上げ屋だが、探索者と同じほどにそれを狙うことにはリスクがある。それは起重機の存在だ。
起重機は目立つし、それを意図的に傷つけることは重罪だ。運が悪くなくても大抵は極刑に処される。起重機自体は引き上げ屋の持ち物だが、その心臓部、原動機は一つ残らず貸し出し品なのである。原動機に手を出すと関係各所から凄腕の刺客を放たれるともっぱらの噂であり、その噂が真実であることは誰もが知ることだった。
金銭目的ならば正直なところ探索者を襲った方が旨味がある。新人を狙えば割合リスクは低く済み、成功した場合の利益は引き上げ屋の売り上げを根こそぎにするよりも大きい。それに探索者はただの個人であり、殺傷したからと言って刺客を放たれることもない。
だがそれでも引き上げ屋が襲われることもあるのだから、たまったものではない。明日ではなく今を生きる無法者はうんざりするほど生息している。
とは言えこの広い道の途中で襲われる心配はないだろう。
リリオンが車上からの眺めを暢気に楽しんでいた。
起重機の上に座ってるランタンですら、その高くなった視点は新鮮だ。迷宮特区のずいぶん遠くまでを眺めることができる。今まさに迷宮から引き上げられる探索者、辺りを彷徨く流しの医者や、空の荷車を牽く者もいる。迷宮から大物を引き上げた場合や、あるいは歩けないほどの怪我人が出た場合にそれらを運んでくれるのだ。人力の荷車もあるし、荷馬車もある。
通り過ぎ様に、探索者六名で重たげに押している荷車を見つけた。布で覆って紐で縛り付けて固定してあるので何を運んでいるのかは分からないが、おそらく魔物の死骸を引き上げたのだろうと思われた。
荷車からはしとしとと血が溢れており、車輪が滑って空転している。欲張りすぎても大変だな、とランタンは呆れと、僅かな羨望を込めて見つめた。そしてそっと腰に下げた飛刀に触れた。
「あ、ケンカよ。大丈夫かしら」
リリオンが声を上げたので、ランタンはそちらに視線を向けた。そこにあるのはケンカではなく捕り物のようだった。
あれは衛士隊だろうか。月明かりを銀色の全身鎧が反射していて、ガチャガチャと鎧の鳴る音が遠ざかってもなお聞こえてくる。断末魔を思わせる悲鳴が聞こえてくるが、衛士隊がおこなっているのだから死んではいないだろう。
犯罪者を捕らえることを主としている衛士隊は、犯罪者にとってもっとも慈悲のある相手である。探索者を襲い、返り討ちにあった犯罪者が衛士隊に逮捕してくれと泣きついたという笑い話まであるほどだ。
武装職員や騎士団から聞こえてくる噂は血に濡れている。テスを見ていれば容易に分かるが、それらは殺人を厭わない。
「あ」
後続に別の引き上げ屋の起重機が付いた。そこに乗っている男の引き上げ屋と目が合ったので、取り敢えずランタンは微笑んでおいた。目が合ってしまったからには無視するのも失礼のような気がしたし、下手をしたらミシャの評判が下がってしまうのではないかと思ったのだ。
男の引き上げ屋は胡乱げな様子で小さく会釈を返した。
微妙な対応だが、それもそうだろう。起重機に後ろ向きで腰掛ける探索者など意味不明以外の何ものでもないし、だがだからと言って客になり得る探索者を無視することもできないと言うような所だ。
おまけに手でも振って愛想を振りまいておこうか、とランタンは小さく笑った。
ミシャの操る起重機の速度が下がり、男との距離も短くなった。男はランタンの姿をはっきりと視認してアワアワとしだした。ランタンは小さく手を振って、男から視線を切った。
「どうかしたー?」
「ん。ああ、ここはいつも混むんっすよ」
進行方向に身体を向けると上街に通ずる門まで来ていた。そこには起重機が連なっている。
衝突しないように速度を落とすことで渋滞が起きているのだ。数十台も連なってと言うことはなく、その数は両手で足りるほどだ。だが起重機同士が事故を起こせばその損害は計り知れないので引き上げ屋たちは酷く慎重になっている。
ミシャもまた、座席の背もたれに一度背を預けて大きく溜め息を吐いた。
「そうだ。これ食う?」
ランタンは探索食であるスナックバーをミシャに放り投げた。
ナッツ類とドライフルーツを混ぜ込んだ物凄く甘いビスケットに甘塩っぱいバターキャラメルを挟み込んだそれはコンパクトかつ高カロリーで腹持ちが良い。忙しい時にも疲れた時にもぴったりの一品だ。
「あ、ありがとうございます。探索食の中ではこれ結構美味しいですよね」
ミシャはそう言って包装をバナナのように向いて一口囓った。ビスケットを咀嚼するざくざくという音が耳に心地よく、唇から糸を引いたキャラメルが何だか妙に美味しそうだった。
「ランタン。わたしにもちょうだい」
それを見たリリオンが騒ぎ出したが、残念ながら最後の一つだ。
「すぐに晩ご飯になるんだから我慢しなさい」
「うー……」
「ほらリリオンちゃん、一口どうぞ」
ぐずるリリオンを見かねたのかミシャがスナックバーを差し出した。リリオンは一瞬だけランタンを窺い、けれどすぐに餌付けされた。一口囓っただけだが満足したのか、頬を押さえて眼を細めている。
「んーあまい。おいしい」
「こう言うのって大概甘いばっかりっすから、キャラメルの塩味が良い感じっすよね」
そんな二人の会話を聞いているとランタンも空腹を思い出してしまう。だがリリオンの手前、我慢しなければならない。
「ランタンさんも一口どうっすか?」
「大丈夫。ミシャが食べて」
ミシャは包装を全部剥いてスナックバーを口に咥えた。そしてそのまま両手でまた起重機を動かし始めた。行儀が悪いと言うべきか、器用だと言うべきか。ミシャは蛇が獲物を飲み込むように、少しずつスナックバーを咀嚼している。
「乗ってるだけだと気楽で良いけど、これの操縦って難しいの?」
ランタンが聞くとミシャはスナックバーを煙草のように口から外した。
「走らせるだけならそれほどでもないっすよ。揚貨機の扱いは、まあ自慢になりますが物凄く難しいっすけどね」
ミシャは冗談のようにそう言ったが、冗談ではなくその扱いは難しい。
時折、遠心力のままに振り回される探索者の悲鳴が迷宮特区に響いているなんてこともある。荒事に慣れている探索者だから悲鳴で済んでいるものの、一般人ならば過重に耐えられず失神しているところだ。
リリオンが操縦席を覗き込んでその機械的な雰囲気に眼をぱちくりさせている。レバーやボタンを指差して、あれこれと尋ねている。
「ミシャの邪魔するんじゃないよ」
「……はあい」
「大丈夫っすよ、ランタンさん」
生意気な感じで返事をしたリリオンにランタンが叱るような顔で睨み、まあまあとミシャが宥める。ミシャはリリオンの疑問に答えながら、そのまま起重機を動かして危なげなく門を潜った。
そのまま引き上げ屋の店舗がずらりと並ぶ道を行く。
普段歩いている時は気にならないが、この道は起重機が進み易いように整備されている。二台が余裕を持ってすれ違える道幅に、道は煉瓦舗装だが走行に際して振動はほとんどなく、起重機の重量と走行に耐える強度を備えていて割れるようなこともなかった。
蜘蛛の意匠の看板はすぐに見えてくる。店舗は既に閉店していて、起重機の車庫にだけ小さく灯りが点っていた。
「はい到着っすよ」
緩やかな減速の後、起重機が立ち止まりリリオンとミシャがタラップを使って、ランタンはそのままそこから飛び降りた。起重機の仄温かい廃熱をランタンはもろに浴びて嫌な顔をしたが、二人に見られる前にすぐに表情を改めた。
「今日はわざわざありがとうございます」
「送っていくって言ったのに、何だか乗っけてもらって悪かったね」
「ミシャさん、ありがとうございます。楽しかったです」
ミシャとリリオンは両手を繋いできゃっきゃと笑った。女の子同士のやりとりは微笑ましくもあるのだが、ちょっとランタンには入り込めない世界である。蚊帳の外のランタンをよそに二人は一通り別れを惜しみ、そしてさらに名残惜しそうに小さく手を振った。
「じゃあランタンさん、次回の探索は明明後日っす」
「うん、よろしく。ちゃんと寝るんだよ、ミシャ」
「……ええ、もちろん。ランタンさんも、リリオンちゃんもね」
「今日は昼寝しちゃったからな――」
「ランタン!」
無駄口を叩いたランタンにリリオンが強い口調で迫った。
「分かってるって寝るから、ちょっとした冗談だよ。――おやすみ、ミシャ」
「はい、おやすみなさい」
ミシャは次第に迫り上がって隠しきれなくなった眠気に眦を下げていた。垂れ目になると途端に幼く見える。
いつまでもうだうだとしていたらミシャの睡眠時間が減ってしまうので、ランタンたちはそこから立ち去った。
背後に鎧戸を空ける音が響いて、車庫の中からは光が溢れ出した。思わず振り返ると整備士らしき壮年の男の誘導で、再び動き出した起重機がその中へと進んでいった。ここからではもうミシャの表情を見ることはできない。
「さ、じゃあ僕らも帰るか」
「うん」
「軽くご飯食べて、さっさと寝よう」
ランタンは大きく伸び上がって、本当に眠たそうな欠伸を吐き出した。
「怒られないうちに?」
リリオンの呟きには小さく肩を竦めて答えた。
何を当たり前のことを、とでも言うように。




