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カボチャ頭のランタン  作者: mm
01.Take Me By Storm
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005 ☆

005


「おそいっ!」

 ランタンが棲家の前に立ち止まるとリリオンが待ち構えていたのかのように棲家の玄関を開け広げた。肌を刺すような怒気がその扉の向こうからランタンに放出されているが、それは一瞬のことだった。両手いっぱいに抱えるように昼飯を持ち帰ったランタンに、リリオンはわぁきゃあと嬌声を上げた。ランタンは視線を荷物に遮られてその表情を見ることは出来なかったが、リリオンの表情は忙しく変化していることだろう。

「よいしょっと」

 部屋の奥まで進んでテーブルの上に荷物を置いてランタンは振り返った。

「ただいま」

「おかえり!」

 リリオンは返事をランタンに返したが、その視線の先はランタンの頭を通り越してテーブル上の食料に向かっている。なんとも現金なことだが、その気持ちはランタンにも理解できる。食欲をそそる香りが、あっという間に部屋中を満たしたのだ。リリオンはランタンの脇を走り抜けテーブルに齧り付いて、ふんふんと鼻を鳴らした。

 リリオンはまだ暖かい柔らかなパンから立ち上る小麦の甘い香りを嗅いでは頬を緩め、串焼き肉の滴る脂の香りに唾を飲み込み、内陸部では珍しい魚介を煮込んだスープの潮の香りに待ちきれないとばかりにランタンを振り返った。

 きらきらきらとしたリリオンの瞳に、ランタンは思わず食事の許可を出したくなったがまだ我慢をさせなければならない。リリオンの風体は食事をするには汚すぎる。

「ほかにもお土産があるよ」

 ランタンはそう言って雑貨屋で購入した貫頭衣(チュニック)を取り出して、広げてみせた。するとリリオンはまるで揺らめく赤い布(ムレータ)に突進する闘牛のようにランタンに飛びかかった。

 止まれ、と口に出す暇もない。ランタンは滑るように半身を引いてリリオンを避けた。

 放っておいたら勢いのまま玄関に激突しそうなので、とっさに手を伸ばしてリリオンの後ろ襟をぐっと掴んで引き寄せると、彼女の襤褸はその力に耐え切れず紙のように引き裂かれた。白く肩甲骨の浮き出た背中が顕になった。

「うわ、あぁ、ごめん!」

 ランタンが目を丸くしてペロンと垂れた襤褸の布を咄嗟に支え、背を隠した。掌に背骨の棘が刺さる。リリオンは背中に手を伸ばし破れた襤褸を確認しているようだった。

「いいわ、だって新しい服があるもの!」

 リリオンはニコニコしながらするりとランタンの腕から貫頭衣を受け取った。リリオンは自分の身体に合わせてみせて、踊るような足取りでランタンにその姿を見せびらかした。

「どうかしら?」

「……とっても似合うよ」

 背筋をぴんと伸ばしたリリオンはランタンの見立てよりもさらに背が高かった。大きめに買ったはずの貫頭衣が少し小さく、袖は七分で、裾は膝頭がちらりと見えている。だが白い生地を胸に当てるだけで、汚れの中に見えるリリオンの肌の白さがいっそう眩しく見えた。

「ランタンっ! ありがとう、大切にするね」

 その肌よりも更に眩しくリリオンは笑った。ランタンもその笑みに当てられも頬を緩めかけたが、次の瞬間に凍りついた。なんとリリオンが恥ずかしげもなく襤褸を脱ぎだそうとしたのだ。

「ちょい待てっ!」

 ランタンが焦って声を掛けなければ、リリオンは裾から、一気に脱皮するように服をまくり上げていたことだろう。だが当のリリオンは、大きな声を出したランタンに対してきょとんとした視線を向けた。

「なんで?」

「なんでじゃないよ、急に」

 リリオンは肌を晒すことに羞恥を覚えていないようだった。ランタンはリリオンを見た目よりも子供とは思っていたが、その想像よりもさらに幼いのかもしれない。この世界の人間の年齢はどうにも、見た目から判断し辛い。例えば迷宮に潜り魔精を躰に浴び続ける探索者は実年齢よりもずっと若々しく強靭な肉体を手に入れていたし、亜人種にいたっては外貌から年齢を判別する事は、動物の年齢を推し量るほどに困難だった。

「ねぇリリオンって何歳(いくつ)?」

「今年で十一になるわ」

 今年でと言うことは、今はまだ十歳。ランタンはぐらりと頭が痛くなるのを感じた。自分よりも五つも下で、頭の位置が二つ分ほど上にある。ランタンは面白くなさそうな唇の形を作って、いやそうじゃない、と意識を切り替えた。

 年齢を聞いたからといって外見が変わるわけでも、年齢に興奮や罪悪感を覚えているわけでもないが、ランタンは年齢を聞いてリリオンの肌を見て慌てた自分を馬鹿らしく感じた。

「ならまぁいいか、いやよくない。リリオン、服を着替えるにはまず身体を綺麗にしなきゃダメだ」

「えー、ごはんが冷めちゃうわ」

「その格好で食卓に着くことは許さないよ」

 ランタンは腰に手を当てて、駄々を捏ねるリリオンを睨み上げた。それでも不満気な顔にランタンは腰から狩猟刀を抜き取ると、外套でその刃を磨き、鏡のようにとはいかないがリリオンの顔を映しだした。

 リリオンは白刃に映った自分の顔を見て、猫が顔を洗うように手でゴシゴシと擦った。擦られた皮膚がほんのり赤く染まったが、汚れは薄く引き伸ばされただけだ。

「ほら女の子は、ちゃんとしなきゃね」

「でもごはん冷めちゃう……」

「ごねるともっと冷たくなるよ」

 リリオンは色気よりも食い気が優っているようだったが、ランタンは断固としてそれを認めなかった。ランタンも空腹だった。空腹こそが最高のスパイスだとは思うが、リリオンと対面して食事を摂る気にはならない。ランタンの常識からすればリリオンは病気になりそうなほど不潔で、野生動物の臭いがした。

「水も布も用意したから、隣の部屋行くよ」

「……ごはん」

 ランタンだって温かい食事を食べたい。未練がましい目を昼飯に向けるリリオンの腕を引いて、ランタンは引きずるように玄関を出て隣の部屋へと向かった。

 その部屋は住むには少し荒れている。扉はやや歪んでいて開くと悲鳴のような耳障りな擦過音が立ち上り、窓には蜘蛛の巣が張ったように白く罅割れた硝子が嵌められていて、その罅は窓枠をはみ出して壁まで侵食していた。天井の隅には大きな穴が開いており、まるで隕石でも落ちたかのようにその真下の床までをも貫いている。穴の縁まで行けば危ないが、今のところ床が崩れる気配はない。

「ここはまぁ、浴室だと思って」

 ランタンは部屋の中央まで進んでリリオンを振り返った。ランタンの立ち止まったすぐ奥に、唐突に浴槽(バスタブ)が鎮座している。がらんどうの部屋に浴槽が横たわっている風景は中々奇妙なものだが、ランタンはこれを気に入っていた。

「わたしこれに入れないわ」

 浴槽はランタンですら足を伸ばし切ることが出来ない程度の大きさで、もしリリオンが入るなら膝を抱えて座り込まなければならないだろう。

「行水するなら十分だよ」

 ランタンは雑貨屋で購入した最も安い水精結晶を取り出すとそれを握り砕いた。すると途端に手の中からバケツをひっくり返したかのように水が溢れだした。生温く飲料にするにはどうにも不味い、飲むと腹を下すという噂もあるほどに、だが洗体や掃除に使うには問題のない水だ。

 二つ、三つとそれを砕くと浴槽の半分程度の水が溜まった。それを確かめてランタンはリリオンを振り返る。リリオンはまだ少しむくれていたが、ランタンはそれを無視した。

「じゃあリリオン。手桶はこれを使って、手拭いはこっち。最後に体を拭く乾いた布はこれだから濡らしたらダメだよ。あ、あと靴も。着てる服はもう捨てていいけど、靴はまだ使うから濡らすんじゃないよ」

 あれこれとランタンは指で指し示した。だがその指の先をリリオンの視線は追わない。

「聞いてる?」

「きいてるわ」

「それは良かったよ。じゃあちゃんと洗うんだよ。基本は上から下に。髪を洗う時は乱暴にしちゃだめだよ。爪を立てず指の腹で頭皮を揉むように、顔を洗う時はちゃんと耳の後ろも洗って――」

「もうっ!」

 リリオンは急に叫んでランタンの突き出した指をぎゅっと掴んだ。ランタンは一瞬そのまま指の関節を増やされるのかと思ったが、リリオンはやりどころのない空腹(いらだち)を発散させるようにそのまま上下に、ぶんぶんと振った。

「そんなに言うならランタンが洗ってくれればいいでしょっ!」

「は?」

「だってランタンの言うことよくわからないわっ! きれいにしないと、なんでごはん食べられないのよっ?」

 ランタンは喉の奥で小さく呻いた。咄嗟に吐き出しそうになった、何の繊細さ(デリカシー)もない言葉をどうにか飲み込んだ。リリオンが苛つくように、ランタンもまた空腹で少し気が立っていて、また脳への栄養が足らず頭も回らなかった。

 ランタンは戦闘靴(ブーツ)を蹴り飛ばすように脱いで、靴下も引剥がし、膝までズボンの裾を捲り、袖を捲り、その手を浴槽にためた水の中に埋めた。

 ぼこん、とランタンの手の周囲の水が気化し、水面で爆ぜた。一瞬で水から湯へと変わったそこから手を引いて、指先から水気を払う。

「いまのなに!?」

「秘密」

 目を丸くしたリリオンに、ランタンは冷たい目で吐き捨てた。そして死刑宣告するようにリリオンを指さした。

「自分で脱ぐか、それとも脱がせて欲しいか、どっち?」

 ランタンが言うが早いかリリオンはあっという間に裸になって、襤褸布同然の服を丸めて部屋の穴へと投げ捨てた。一糸纏わぬ姿であっても、リリオンは何一つ隠そうとはしなかった。

 完全に顕になったリリオンの肉体は華奢で、肉付きは薄い。胸は少しだけ膨らんでいたが、肋骨や骨盤が浮き出ていている。手足はひょろりと長く、棒のように真っ直ぐだ。女らしさが皆無というわけではない。だが十歳というフィルターを通して映るランタンの瞳には、ただ縦に引き伸ばされた子供の身体でしかなかった。

「じゃあ座って、お湯掛けるよ」

 木製の腰掛けはランタンにはちょうどいいが、リリオンには小さすぎた。薄い尻を乗せる分には問題なかったが、長い足は折り畳むと窮屈なので放り出している。

 ランタンはリリオンの背後に立って、まず手櫛で髪を梳いた。リリオンの髪はぼわぼわと乾燥して、所々が綿埃のように絡まっている。ランタンはそれらを丁寧に梳かし(ほぐ)していく。こんなことならば櫛でも買ってくるんだった。そんな風に考えるランタンを余所に、リリオンは床に接地する踵を支点にリズムを刻むように揺らしていた。

「リリオン、上向いて」

「んー」

 ランタンは手桶にたっぷりとお湯を汲み取って、言われるがままに上を向いたリリオンの頭に遠慮無く湯を浴びせた。リリオンの長い髪がまるでスポンジのように湯を吸い込んで、頭が重たそうだ。だがランタンが頭皮を揉みほぐし、その毛先までをゆるゆると濯ぐと幸せそうに目を細めた。あれほど昼飯に執着していたのに、今は汚れを落とされる心地よさに浸っている。なんとも現金なものだ。

 洗い終わった髪をぎゅっと絞りぐるりと丸めて、乾いた布で頭ごと包み込む。細く切れやすいリリオンの髪は、髪は女の命ともいう格言を思い出して丁寧に扱ったが、それもここまでだ。ランタンはリリオンに手拭いを一枚渡した。

「前は自分でやるんだよ」

 ランタンはそう言い放つと、リリオンが口を開く前に手桶に汲んだ湯を浴びせかけた。そして石像でも磨くかのように濡らした手拭いでリリオンの体を擦りに擦った。白い手拭いがあっという間に黒く染まり、肌から垂れる雫もまたタールのように黒ずんでいた。擦れば擦るほど、まるで肉が剥がれるように垢が落ちて、リリオンは擽ったそうに身を捩った。大型の愛玩動物(ペット)を洗っている気分だ。

「ちゃんと足の指の間まで洗った?」

「あらったよ」

「爪の隙間は?」

「んー、あらった」

「よし、じゃあ流すよ」

 浴槽に溜めた湯はもうほとんど微温(ぬる)くなっていて、ぐらりと浴槽を傾けることでどうにか手桶をいっぱいにする分しか残ってはいない。ランタンはその最後の湯で、満遍なくそっとリリオンの身体を(そそ)いだ。

 暖められて血の巡りが良くなった、リリオン身体は薄紅に上気している。ランタンが大きな布をリリオンに渡すと、彼女はそれに身を隠すように身体の水気を拭った。

「ランタン、どう?」

 リリオンが布を(はだ)け、その裸体をランタンに見せつけた。雪のように白くなった輝く裸体に、ランタンは一瞬目を奪われる。子供だろうが、美しいものは美しいのだ。もう少し肉付きが良かったら、ランタンは自分を軽蔑する羽目になっていたかもしれない。

「……綺麗だよ」

「やったぁ!」

 飛び跳ねんばかりに喜ぶリリオンからそっと目をそらし、ランタンは一度大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。一度高く鳴った心臓がまた緩やかに響き始める。ランタンは、ぱちんと手を鳴らした。

「ほらこれ着て、食事にするよ」

 貫頭衣を投げ渡すとリリオンはその場にぱっと布を手放して、大事そうにそれを受け取った。するりと頭から貫頭衣を被り、髪を包んでいた布を外して頭を振った。まだ少し濡れた髪が淡く波打っている。

 新しい服に身を包んで嬉しいのかリリオンはくるくると回った。裾がふわりと膨らみ、白い太股が顕になるのも気にしていない。こんなにも喜ぶのならばもう少し上等な服を買ってやればよかったかもしれない。

 二人は棲家に戻り、まだ暖かい昼飯を前にランタンは雑貨屋からサービスしてもらった飾り紐を思い出した。今にも食事に飛びかかろうとするリリオンを宥め(すか)して、そっとその髪に触れた。

 柔らかい髪だった。洗う前にはほつれた糸屑を寄せ集めたようだった髪が、まだ細すぎではあったが、それを()るとまるで絹の生糸を思わせた。ランタンはそれを首のあたりから緩く太い三つ編みにして紐で縛った。

「わぁ」

 髪を解いたままではリリオンはきっと頬にかかる髪を食べてしまうだろう。そんなふうに思ってランタンは髪を結んだが、リリオンは編んだ髪を揉んで、飾り紐を撫でて喜んでいた。

「よし食べよう。――いただきます」

 ランタンは手を合わせ、リリオンは何者かに祈りを捧げて、少し遅目の昼餉が始まった。

 ランタンもリリオンもまずは果実水(ジュース)で口を潤した。果実水はわずかに醗酵していて、舌先でぴりりと泡が弾ける。林檎の香りが鼻に抜けて、アルコールの甘さが喉を炙ったが、酔うほどの度数ではない。

 串焼きの肉は羊の肉だ。臭みを取るための香辛料が、どこか煎った木の実(ローストナッツ)の香りをさせて、肉を噛むともったりとした肉汁が溢れた。濃い目に味付けられた塩と肉汁が混ざり、これがまた甘いパンとよく合う。ランタンはぺろりと拳大のパンを飲み込んで、再び果実水を呷った。

 リリオンを見ると彼女もまた串焼きを片手に、こちらは薄焼きのパンを持っていた。ランタンはそれだけを食べようとしている彼女を制し、そのパンの上に挽き肉と豆を辛く味付けた物を載せて巻いてやった。リリオンは一口食べると驚いたように目を丸くしたが、果実水でそれを飲み込むと再び口に運んだ。さっと赤くなった頬や唇がその辛さを物語っていたが、同時に食べるのを止めないリリオンの様子がその旨さを物語っている。

 ランタンもその挽き肉炒めを一匙口に放り込んだ。舌の上に触った瞬間、辛味が口腔を灼いたが、肉の旨味と豆の甘みが広がって、鼻から抜ける香辛料の複雑な香りが食欲を更に掻き立てた。ランタンもリリオンに渡したように、結局薄焼きパンにそれを乗せて、さらに蒸した芋を砕いて混ぜあわせた。ばくりと丸めた薄焼きパンをかじると辛味が和らぎ、芋のホロホロとした甘みが際立つ。それを見たリリオンが早速真似をしていた。

 幸せそうな顔だ、とリリオンの顔を眺めながらランタンは海鮮スープをもそっと啜った。魚介の出汁がしっかり利いていて、生臭さは一切ない。生姜汁を絞ってあって、締めにはちょうどいい爽やかな味だ。

 ランタンはもう満腹になったが、リリオンはまさに育ちざかりの子供そのものの食欲を見せていた。ランタンが余らせた串焼き肉にがぶりと噛み付き、頬を膨らませるほどに咀嚼をしている。脂に光る唇が、ぷっくりと盛り上がっている。

「……ん?」

 リリオンの、頬がそのまま裂けたように薄かった唇が、今は少し厚みを持っていた。肉を飲み込んだにもかかわらず、頬もまた丸みを帯びている。果実水を一気に呷って満足気に漏らした吐息が甘く、唇を舐める舌の赤さが覗いた。

 食べた側からエネルギーに変わっている。食らった肉がそのまま肉に、飲んだ果実水がそのまま血になったかのように、リリオンの身体が一回り大きくなった。火を入れた炉にどんどんと石炭を放り込むように、リリオンはテーブルの上に残った食事を喰らい尽くしていく。ランタンと同じように海鮮スープを、魚の骨も海老の殻も気にせずにバリバリと、締めに飲み干して、リリオンはそのまま眠りに落ちそうなほど幸せそうに目を細める。そしてそこに命でも宿ったかのように腹を撫でている。

 ランタンはその様を引き攣りながら見ていた。この世界はランタンにとって不条理で意味不明なものが多かったが、リリオンもまた似たようなものだ。年下なのに自分よりも背が随分と高いことは、面白くはないが理解できる。だがたった一時間程で骸骨兵(スケルトン)が受肉するのならば、いくつかの迷宮の難易度が大幅に上方修正されることだろう。今ランタンの眼の前に居るのはやせ細った少女ではなく、すらりとした少女だった。

 ランタンは混乱していたが、少なくとも食事前にリリオンを風呂に入れた自分を褒める事だけは忘れなかった。

 果実水はもうない、ランタンは水筒を取ると冷えた水を飲んで心を落ちつけて、再びリリオンに視線をやった。リリオンが手を伸ばしている。

「わたしにも水ちょうだい?」

 そう呟いた唇は脂でぬらぬらと濡れて、頬には唇の端から頬へと赤い汁が半ばまで伸びている。ランタンはリリオンに水筒を渡したが、それに口をつける前に濡らした手拭いで顔を拭った。頬が柔らかいが、顎のあたりはまだ細く骨ばっていた。顔をこねくり回されるのを、目を瞑ってされるがままに我慢している表情はやはり子供のそれだ。

「よし、いいよ」

 リリオンが目を開くと、落ち窪んでいた瞳は生気を取り戻し膨らんで、視線が交わると笑みが弾けた。淡褐色(ヘーゼル)の瞳に映る自分の顔を、ランタンは無表情だなと思い、少しだけ頬を釣り上げた。

「さて買い物だけど、どうする?」

 ランタンが聞くとリリオンは大きく手を上げて、いく、と声を張り上げた。だがそれだけで立ち上がる気配はない。

「お腹いっぱいで動けないんでしょ?」

「だいじょうぶ!」

 リリオンはそう言ったものの、どう考えても食べ過ぎだった。ランタンが買ってきた食料は昼飯という名目だったが、余った分を夕飯にしようという目論見を込めて買い漁ってきたものだ。だがその目論見はリリオンによって阻止され、それを阻止したリリオンは腹を(さす)っている。

「まだ日も高いから、少し休んでから出よう」

「……うん」

 食堂や酒場は日が落ちても営業しているが、多くの店は日の入りとともに店を閉めてしまう。今はまだ太陽が中天から傾きはじめたばかりなので、それほど時間は差し迫ってはいない。

「ランタン……」

 ランタンが甲斐甲斐しくテーブルを片付けていると、深くソファに沈み込んだままのリリオンが重たげに口を開いた。

「なに?」

「買い物ってどこ行くの?」

「上街だよ。入ったことはある?」

 リリオンは眠たげに首を振った。

 下街へ入る手段は腐るほどに存在するが、上街に入るには街をぐるりと取り囲む城壁に、たった三つだけ開放された門を抜けなければならない。当然そこには衛兵による検問が敷かれている。あの侵入者共では確かに検閲を抜けれそうな気配はなかった。良くてその場から追い出されるか、運が悪ければ捕縛されるかもしれない。彼らに連れられていたリリオンもまた下街のどこからか、ここへ入り込んだのだろう。

「……でも、ここの市は、ちょっとだけ見たわ」

「ああ闇市(ブラックマーケット)ね。あれも中々だけど、上街の商店街はもっと凄いよ」

「ほんとぅ? ……たのしみね」

 リリオンの瞼はもうほとんど閉じており、言葉尻は溶け伸びている。

 昨夜ランタンが仮眠をとっている時もリリオンは起きていたようだし、風呂に入って満腹になったことで気が緩んだのだろう。ランタンはリリオンの手から零れ落ちそうになった水筒をそっと抜き取った。

 リリオンは一つ瞬きをする間に、もう穏やかな寝息を立てている。夢の中ではまだ会話を続けているのか、それとも更に食事をしているのか、口元が小さく動いた。髪と同じ色の白い睫毛が淡く震える。

 その寝顔は、ランタンに彼女を叩き起こすことを躊躇わせた。少しだけ意地悪をして頬の肉を摘んでみたが、全く起きる気配はない。このまま永遠の眠りに就かせることも容易だろう。ランタンはそっと首に触れてから、ベッドに腰を下ろした。

 十歳とはいえよく解らないな、と頭を掻いてそのまま横になった。天井の灰色が目に重い。

 いくら子供だからといっても、この無防備さをランタンは心配になった。ランタンがリリオンを開放するまで、リリオンが身を置いていた境遇は最低に近いものだろう。暴力や、男や、人間そのものを軽蔑し恐怖を覚えてもおかしくないほどに。

 だというのにリリオンは留守番をしていろといえば逃げ出すわけでもなくきっちり家にいたし、ランタンの目の前で恥じらいもなく裸になり身体を任せるし、ご飯を食べて腹一杯になったら無防備にも眠りこける。

 この無垢で明け透けな性格が幼いゆえか、あるいは生来のものだとしてもそれも良し悪しだが、もしランタンを白馬の王子か何かと勘違いしていたらとても面倒だ。どんなふうに対応していいかわからない。

 そんなふうに考えて、ランタンはベッドマットに顔を押し付けて()もった声で呻いた。自意識過剰だ。ただ野生動物の餌付けに成功しただけの、それだけのことだ。ランタンは暫く虚無感に身を委ねた。

 ランタンはもそりと再び体を起こし、リリオンを見やった。唇の端から透明な涎が垂れそうになっている。

 常識のない子供なんて動物と同じだ。だが面倒くさくなったからといって、一度手助けしたものを無責任に放り出すのは、それこそ自分の手で殺すようなものだ。

 ランタンはベッドから降りると、こぼれ落ちる前の涎をそっと拭ってやり、穏やかな、阿呆面とも言いかえることが出来そうなほどに緩みきった寝顔の頬を軽く張った。

「ほら行くよ」



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