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 ひやりとした風が肌を撫でる。

 滝の飛沫が霧となって肌を濡らした。

 ガーランドの裸身は景色に透けて、誰の目に映ることもない。

 よく鍛えられた肌が寒さに粟立つのも、古傷が引きつったことも誰も知ることはできない。

 この透明になる肉体の機能(ちから)は追われる身であったガーランドを今までよく助けてきたし、今まさに必要なものだ。

 しかしこの肉体でなければガーランドは追われる必要もなかっただろう。

 波打つ水面に足を下ろし、その場に立った。ルーのように重力を操っているのではない。足元の水の密度を高めているのだ。針の穴に糸を通すような技術だった。

 滝の裏に身を隠す人魚たちを確認した。

 彼女たちもきっと例に漏れず魔道の達人だろう。

 しかし彼女たちにとってそれは技術ではないかもしれない。鳥が空を飛ぶように、魚が泳ぐように身に備わった力であるように思えた。

 例えばガーランドがローサを守ってやりたくなるのは、足運びにどことないぎこちなさが透けて見えるときがあるからだ。

 それはもともとまったく別の二つの身体を継いだために起こるぎこちなさだ。

 自分の肉体だってそうだ。半透明の触手髪は意識しなければゆらゆらと揺れ、意のままに操るためにはかなりの練習を要した。手足のように無意識の動きにまでは落とし込めてはいなかった。

 そんなところに親近感を抱いているのかもしれない。

 人魚たちにはそれがなかった。水の中で生まれ、産声を上げたその時から自由に泳ぐことができただろうという身体の使い方をしていた。

 しかしそんな彼女たちはこちらの魔道に気が付かなかった。

 やはり怖々とした視線を水面、いやその下へと向けている。そこに何かがいるのは間違いなさそうだった。

 だが深いには深いが、深すぎると言うほどではない水底に強い気配は感じられない。

 ガーランドは足を進める。滝に近付くほどにその勢いが衝撃となって身体を打った。細かな霧の一粒一粒が針のように感じられた。

 思わず顔を守り、目を細める。

 視線を水底から上げ、ランタンたちの方へ動かした。

 位置が変われば見方も変わる。

 彼らは崖から転がり落ちてきたのだろう大岩に隠れている。ランタンは鼠のように気配が稀薄で、リリオンとゼインはその身体の大きさの分だけ目立っている。熊か何かのようだ。

「いや、これは……」

 小さく呟いた。

 こちらからの景色は、よくよく見ると傷ついていた。

 嵐にやられたように、氾濫に侵されたように木々が傷つき、岩が砕かれている。これが魔物の仕業であるならばかなりの大物だろう。

 ならばやはりこの水底に何かがいる。ガーランドはその場に腰を屈め、水面を払った。波が失せて鏡面のようになったそこを覗き込む。滝の水流に抉られた水底は青いほど暗く、複雑な流れが渦巻いている。

 そこに向けて僅かに殺気を。

 渦巻きがふいに解け、ぬっと上昇した。

 ガーランドは即座に水を操った。覗き込んだ視線がそのまま槍になったように、尖った衝撃が水中を穿った。先端の鋭さが何かに触れて砕け散った。

 耳鳴りが聞こえる。人魚たちの悲鳴だ。荒々しく波打っていた足元が凄まじく隆起した。

「ガーランド!」

 ランタンの声が聞こえた。

 水面の隆起の勢いを利用して大きく飛び上がった。

 あれほど小さかったランタンの気配が、今やリリオンとゼインを飲み込むほどに膨れあがっている。

 ガーランドは濡れた肌が乾くのを感じた。ランタンの戦鎚が白々と熱を発している。

 人魚がまた悲鳴を上げた。

 しかしそれでも全力ではないだろう。この少年が本気を出せば下流で待つ人魚たちまで茹で上がってしまう。

 その力を隆起に叩きつけた。水がぼこぼこと沸騰し、その内に潜むものが姿を現す。

 竜種と見紛わんばかりの大蛇(うわばみ)だ。

 巨木よりも太く、滝をひと息に上りそうな長い身体を水底の色をした細かな鱗で覆っている。頭部は卵形で目はない。裂けるように開いた口に牙はないが細く赤い舌が不気味な雰囲気を醸し出している。

 どうしてこれほどの存在の気配がなかったのか。眠っていたとしてもあれほど完璧に気配がなくなることはないだろう。獲物を待ち伏せるために気配を殺していたのだろうか。

 纏わりつく熱湯を振り解くように振った頭部が、偶然にもガーランドに襲いかかった。「ぐう」

 圧倒的な質量を叩きつけられて、ガーランドは水面に巨大な水柱を立てて墜落した。

 骨にくる痛さだ。鼻の奥がつんとする。激しい水流に身を揉まれる。

 口から大きな気泡が溢れた。それが上る向きで上下を確かめ、腕をひと掻きし体勢を立て直した。

 水の中で大蛇の胴体がうねっている。滝の流れがそのまま肉体になったような力強さだった。水底の砂を、岩を巻き上げて水が濁った。

 大蛇の動きに合わせて水流が目まぐるしく方向を変えた。

 人魚たちほどではないにしろ泳ぎは得意だったが、少しでも気を抜くと溺れかねなかった。

「――はぁっ」

 ガーランドはようやく水上へ顔を出し、息を吸った。荒波が顔にかかって、空気とともに水が肺に入ってくる。

 三人が大蛇と戦っていた。

 蛇は陸地に上がることを嫌がり、三人は水中へ入ることができず互いに牽制しあっている。

 リリオンは剣を納めて、石を拾って投げつけているほどだ。直撃した石は鱗の表面で粉々に砕けている。

 蛇は隙を見ては跳びかかり、噛みつこうとした。避け際にランタンとゼインが殴りかかる。一歩間違えれば丸呑みにされかねない。足場も悪く手打ちになっていて効いているようには感じはしなかった。

 蛇は即座に首を引き、狙いを定めるように鎌首をもたげている。

 膠着状態だった。

 どうするか。ガーランドが水から上がることもなく状況を見極めていると、水中に身体を触る手があった。

 水の中にあってなお冷たい人魚の手だ。

 下流で待機しているはずの人魚の指揮者が水面から半分だけ顔を出して、こちらに訴えかけるような視線を向けている。寒色の瞳には酷い怯えがあり、それが大蛇への恐れであることは明白だった。

 それなのになぜ来たのか。

 きっと戦いが始まったのを理解したからだろう。

「なんだ。なにが言いたい」

 ガーランドは指揮者に尋ねた。指揮者はか細い声でなにかを言った。

 戦いを知ってここまで来たからには目的があってのことだろう。

「仲間と合流したいのか」

 滝の方へ顎をしゃくると指揮者は震えるように頷く。ガーランドは小さく舌打ちをして、人魚の手を掴んでやった。

 人魚は手の震えを止めるみたいにガーランドの手を強く握り返し、水中に潜った。引きずり込まれるようにガーランドも水中に潜る。

 水底を這うようにして進んでいく。

 夜、目覚めたローサにトイレに付き合ってほしいとせがまれた時を思い出した。

 濁った水の中は暗く、蠢く大蛇の影が黒く、ふいに触れる冷たい水の流れが死そのもののようだ。

 ガーランドが流されそうになる水流を人魚はわけもなく泳いでいく。手を握られたガーランドはほとんど引っ張られるだけだった。

 しかしそれでも指揮者にとって大蛇のすぐ脇を進むのに、ガーランドはなくてはならない存在なのだろう。

 滝の裏はやはり洞窟のようになっていた。人魚たちの姿は見えない。奥に逃げたのだろう。

 思ったよりも狭く、そしてひどく浅く、水深は掌の厚みほどしかない。指揮者はそこに上がるとひれで歩く魚のように進んだ。進みながら洞窟の奥に呼びかける。ガーランドはその後ろを着いていく。

 人魚たちは身を寄せ合い息を潜めていた。

 こちらの姿を確認するとまず悲鳴を上げて、それから指揮者であることがわかって胸を撫で下ろした。

 視線はこちらにも向けられたがガーランドはにこりともしなかった。

 人魚の女が百名ほどもいた。やはり誰もが若い女の姿で、もっと若い少女は三十名ほどだった。

 若いほど奥に隠されていて、その更に奥にはかなりの数の遺体が安置されていた。おそらく魔道によって守られているのだろう、巨大な雫のような水の中で眠っている。

 蛇と戦って命を落としたのだろう。遺体は傷ついていた。そして実際はもっと多くの死者を出したに違いない。あの大蛇は獲物を丸呑みにする。生きたまま食われたものもいるのだろう。

 人魚たちが恐怖するのも無理はない。しかしきっと再び戦おうとしていた。指揮者の人魚は怯える彼女たちに強く語りかけている。言葉の意味はわからないが、その強さは理解できた。

 恐怖と勇気が混在している。

 命とはいったい何だろう、と思った。

 それは自分やローサのように粘土細工のように混ぜ合わせたり、ゼインたちのように好きな形に作り替えたりできるものだろうか。

 (あぶく)のように生み出せるものだろうか。

 人魚たちは、ローサに似た姿の少女は、テンは魔精から生まれたのか。もしそうならばすべてが終わったら消えてなくなってしまうのか。

 命とはそんなものか。

「いや」

 断じて違うはずだ。人魚たちは泣きながら言葉を交わしている。

 自分に似た姿の少女に別れを告げたローサを思い出した。ほんの一時、一緒にいただけなのにずいぶんと寂しそうにしていた。そして消えていった。この腕の中で、最初からいなかったように。泣くのを堪えるような笑みを浮かべて。

 自分は、自分が生みだしたあの少女をもっと強く願うべきだった。それが利己的な考えであったとしても、それを願いあの少女を存在させるべきだった。

「お前たち」

 ガーランドは洞窟の壁を叩いた。天井からも水が染みているのだろう。壁は濡れて(ぬめ)っている。

 人魚たちはしんと静まりかえった。

「戦え。死にたくなければ戦うべきだ」


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