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一人の人魚が川からあがった。
岩に手をついてぐっと身体を持ち上げる。顔だけ見れば人族の女にしか、鱗のある上半身を見れば何かしらの亜人族のようにしか見えない。
だが岩の上に引き上げられた下半身は紛れもない魚の尾びれだ。
彼女はこの集団の指揮者のようだった。
よく引き締まった身体はほとんど裸だったがそれを恥じらう様子は見られなかった。犬のように身体を震えさせて肌の水滴を振り落とし、ぎゅっと緑の髪を絞った。
頬が白く、唇が薄い。
寒色の瞳をこちらに向ける。
人魚の女たちは数十もいたが、脚を持つものは一人もいなかった。大人の、だが若い女が十名ほどで残りはもっと若く、あるいは幼かった。
例えば亜人族であれば血の濃淡は様々で十人もいれば、一人ぐらいは上半身まで魚のものや、人の姿に鱗だけを持つものがいてもおかしくはない。
だが彼女たちは一様にして人の上半身と魚の下半身を持っており、例外は一人もいなかった。
これで流れる血が青ければ魔物であると断定できるが、彼女たちには赤い血が流れている。
つまりは人だった。
当初こそ好戦的だったが誤解が解けた今、彼女たちはいきなり襲いかかった自分たちの不明を恥じているようだった。
魔物のように本能ばかりではなく、きちんと理性を備えている。
観測官たちがこの場にいたら彼女たちの存在にひどく驚いただろう。
彼女たちもやはり魔精から生み出されたのだろうか。それともサラス伯爵が密かに保護していたのだろうか。人知れず存在した少数種族はいかにも伯爵好みと言えた。
しかし彼女たちが何者であるかを知ることはできない。
言葉が通じないのだ。
指揮者である女はこちらに何かを伝えるように、イルカの鳴き声に似た独自の言葉を発している。
言葉は通じないが、交流の意思がある。
複雑なやり取りは不可能だが、ある程度の意思の疎通を図ることは不可能ではなさそうだった。
身振り手振りを交えて話しかけてみると、向こうも同じように手を動かしながらこちらに答える。
「……ううん、ぜんぜんわからん。――ちょっと濡れた手で触らないでよ」
まだ幼い人魚たちはこちらの脚に興味があるようで、こっそり近付いてズボンの裾をめくったり靴を脱がせようとしたりする。悪意がないと知らなければ、川底へ引きずり込まれるのではと思うだろう。
無邪気さが逆に妖怪じみている。
ランタンが煩わしそうにすると、指揮者がそれをたしなめた。幼い人魚はとぷんと潜った。
「まったく伝わらないわけじゃないんだけど。こういうのはローサが得意なんだよな」
まだ上手く言葉が話せない子供同士が不思議と仲良くなるように、ローサはこういった相手と意思の疎通を図るのが得意だった。
残念ながらランタンにその力はこれっぽっちもない。
「リリオンはわかる?」
リリオンは自信なさそうな顔をして少し首を傾げ、視線を上流の方へ向けた。
「あっちに何かがある、って言ってる。のかなあ」
女は尾びれの先で、ぱちんと川面を打った。そうだ、と言うように。
「それから少し、怖がってるみたい」
「そう?」
女の瞳には意志の強そうな光がたたえられており、恐れの感情を見つけることはできなかった。
しかし急に攻撃してきたのは、何かを恐れていたからこそかもしれない。
「あっち? あっちに何かあるのか?」
ランタンが指さし、通じないとわかっていても大きくはっきり尋ねると、彼女もまたきゅるきゅると声を発し大きく頷いた。
そして川の中に飛び込んで、仲間たちに向かってなにか語りかける。
彼女たちは戦えるものをともに行くものたちと、子守のものたちの半分に分けた。
そして川を遡り、振り返って手招きをする。
「これはわかるぞ。ついて来いって言ってるな」
「――行くのか?」
ガーランドがランタンの肩を掴んだ。
「ああ、ついていく」
「地脈の乱れはどうする?」
「正すさ。最終目標らしき鼠はもう斬って捨てた。なら次のおかしなことはどう考えたって彼女たちだろう。半分虎なら良いけど、半分魚じゃ助ける気にはならないか?」
「姿などどうでもいい」
「それは良い考えだ。ゼインに聞かせてやりたいな」
ガーランドは嫌そうな顔をしてふんと鼻を鳴らす。
ゼインはすでに人魚の後を追っていた。
ランタンたちも、ガーランドもその跡を追った。
人魚たちは静かに川を上ってゆく。この先にいったい何があるというのか、ずいぶんと慎重な様子だった。
時折、振り返っては川原石を鳴らすこちらの足取りを咎めるような仕草を見せる。
しばらくすると激しい水音が聞こえるようになった。急流の音色ではない。辺りの湿度が増し、気温が下がったような気がした。
どうやら近くに滝があるらしい。
人魚たちはいよいよ、ことさらに慎重になって明らかに何かを恐れていた。陣形が密集し、泳ぎづらいだろうに身を寄せ合った。
ランタンは泳ぎをやめた人魚に近付き、腰を屈める。
「この先に、恐れるものがいるのか?」
ふっと掌で口を塞がれた。氷のように体温が低く、鮎のような匂いがした。人魚は唇を結んで、訴えかけるような視線をこちらに向けてきた。
手首を掴んで塞がれた口から外し、ランタンは頷き、口角を上げた。
「僕らだけで様子を見に行こうか。どうやら本当に怖いものがいるらしい」
人魚たちはかなりの魔道の使い手だった。これだけの力を持つものがこれほど恐れると言うことは、きっと地脈を乱すほどの魔物が存在するのだろう。
その場にいるだけでこれほどの影響を与えるとなると例えば竜種のようなものがいるのかもしれない。
それは巨人族と並んで、生きとし生けるものすべてに恐れを抱かせる存在だ。
ランタンはそばにレティシアがいるのでもう慣れたものであるが、敵として出てきたときはやはり覚悟をしなければならない。
人魚たちの心配げな視線に見送られながら慎重な足取りで音のする方へ進んでいく。いよいよ滝の音が大きく聞こえると川縁から離れ、木々に身を隠しながら足を進めた。
ほどなくかなりの落差の滝が目の前に現れた。
滝壺は流れ込む水の勢いで真っ白くなり、水面が激しくうねる淵が広がっていた。
どどどと地響きのような音がこちらの足音を完璧に消し去った。離れていても身体が濡れる。
人魚たちが恐れる何かの姿は見えないが、探索者たちは互いに警戒した顔を見合わせて息をひそめる。
不思議なほど生き物の気配がなかった。鳥のさえずり一つ聞こえず、水面の中に魚影の一つも見つけることはできない。
あるいは本当に竜種がいる可能性が高まった。
「――ランタン、あれ」
リリオンがちょんと肩に触れ、顔の横を少女の白い腕がぬっと横切る。指差した滝の方へ視線を向けると、滝の向こう側に人影があった。
抉れて窪んでいるのか、あるいは洞穴のようになっているのか。それは人魚の姿だった。
カーテンの隙間から向こうを窺うような、ほんの僅か瞳の反射が確認できた。
「よく気付いたな。彼女たちの仲間か」
「あのように隠れているということは、やはりこの淵に何かが潜んでいるということだろう」
「飛び出さないでよ」
ランタンはゼインに注意し、ガーランドへ視線を向けた。
彼女の透明能力ならば淵に潜む何かに気付かれず、滝の向こうの人魚たちに接触することができるだろう。
しかし接触できたからといって会話ができるわけではなく、こちらの意図を伝えることはできない。
ならば最悪の場合、最初の出会いのように戦闘となる可能性もある。
「行けというなら、行ってもかまわない」
思いがけない申し出に、しかしランタンは首を横に振った。
「助かるよ。でも敵対する可能性もある。今はその危険を冒す必要はない。何かと戦ってるところを見れば、敵の敵は味方だと思うだろう。まずは何がいるかを知りたい」
「それこそだ」
ガーランドは短くそう言うと躊躇いなく鎧を脱ぎ始めた。三人が、特に男二人が驚いた様子でいるのを横目に、鍛えられた肉体が幻のように透けていく。
「脱ぐなら脱ぐと言え」
「――見ればわかるだろう」
ランタンが小言を言うと、まったく見当違いの方から声が聞こえてきた。透明になるのは肉体の力だが、気配を消すのは彼女の技術だった。
耳が良いとか鼻が良いとか、よほどのことがなければ彼女の存在に気が付くことはできないだろう。
「気をつけて」
リリオンの言葉に返事はなかった。
ガーランドは既に淵へ向かっているのだろう。あるいはもう水面を歩いているか、それとも水中に入ったのか。
鼓膜を揺らすのは激しい水音ばかりで、水面に広がったかもしれない彼女の波紋は荒々しい波に掻き消されている。




