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このままでは誰も目覚めることができず、やがて肉体を失い、霧のように消えてしまう。
管理者の言葉のすべてを鵜呑みにすることはできなかったが、しかし完全に否定することもできなかった。
見せられたあの杯の中身は、不吉さとも恐怖とも異なる得体の知れ無さがあった。
人の行く末がこれだと言われて、もしかするかもしれないと思わせるような。
そしてこれまでもランタンたちは魔精による、不思議な現象をいくつもみてきた。
「ありえなくはないように思います」
戻ってグノーに話をしてみると、彼は悩みながらもそう答えた。
「欲望を消費し尽くし、その結果に、肉体を失う」
まだベッドで眠り続ける変異者たちへ視線を向ける。
自らの願いによって姿を変えた者たちの存在は、管理者の言葉を裏付けるものの一つであることは確かだった。
「考えることもできなくなり、ゆえに戻れなくなる。いや、肉体を失うのが先か、肉体が器ならば……」
ぶつぶつと呟くグノーは、あっという間に深い思索の海へ沈んでいった。
ランタンは遠慮がちに彼に触れた。少し触っても呟くままだったので、肋間にある経絡を突いた。
グノーは電気を浴びたようにびくりとして我に返った。
「失礼しました。しかし、彼らの症状がそこまで進行するには、それなりに時間がかかるはずです。自分の欲望を消化するとなると、ある程度の手順を踏まなければならない。猶予は充分にあります」
「うん、僕もそう思う。そもそもここは大変異前からあるようだし」
療養所と自称されるこの地は、サラス伯爵の手から離れたものたちのための場所だった。だが伯爵が自身に尽くしたものたちの労をねぎらうために用意したわけではない。
彼らは手放された。伯爵からも見捨てられたのだ。
そういったものたちが互いを慰めるように集まってできた場所だった。辿り着いたものの中に管理者のように知識や技術を持つものがおり、やがて療養所として機能するようになった。
大変異以前、つまり伯爵の生前は定期的に人の流入があった。
しかし今はもう増えることはない。彼らはゆっくりと、すべてを閉じようとしていた。最後の一人は誰に看取られることもなく。
「地脈の乱れを正してほしいそうだ。どういうことかわかるか」
「その専門なら、ええっと。おおい、いいですか」
グノーは一人の観測官を呼び寄せた、
グノーよりも年上で、髪に白いものが混じっているが四十にはなっていないだろう。
男は空間の魔精濃度の向上と維持についての研究を行っているらしく、それは人工的な迷宮発生などの基礎となる技術だった。
がりがりと頭を掻きながら喋るのが癖であるようだ。
「ようはこの地は地脈の上にあり、そこに流れる魔精を利用して夢を見せているのかもしれない。彼らの目的が夢の終わりに辿り着くことなら、地脈が乱れ、その力が不安定になったり失われたりすることは望ましくないのだろう。地脈は様々な要因によって乱れ、迷宮の発生や強力な魔物の営巣、人工的ならば儀式魔道などの大規模な魔道の行使によってこれを引き起こすことも不可能ではない。閉ざされた空間内では不思議なことにある種の力が増大し続けることが確認されていて、乱れによってこの閉鎖が――」
「――なるほど。ありがとう。どうもありがとう」
止める間もないほど饒舌な説明だったが、ランタンには半分も理解できなかった。
曖昧な笑みを浮かべ礼を言うと彼は、まだ今度続きを、と言って持ち場に戻っていった。
彼が観察する硝子容器の内は色づいた液体で満たされており、そこに空気中の魔精を溶かすことで濃度とその変化を探っている。
「夢見るのに魔精が必要なら、これを断てば夢から覚める?」
「村ではそれを期待したのですが、残念ながらそれほど簡単ではないようです」
「あ、そう」
知ったかぶりがバレたみたいに、ランタンは少し恥ずかしくなった。グノーは気にした様子もない。
「彼らは既に多くの魔精を所有しており、それが使われているようです。魔道の暴走に近いと思っていただければ」
例えば戦闘中、危機的状況に陥ったとき無意識に魔道が発動することがある。命の危機に対する根源的な恐怖や攻撃性に魔精が呼応するからだ。
だが無意識的なそれはひどく危険だった。加減されずに発動した魔道は相手ばかりではなく自分自身を巻き込むこともあるし、所有する魔精を使い切ってしまうこともある。
ほとんどの探索者にとって魔精は分かちがたく結びついたものだ。魔精が消費し尽くされると意識が消失し、最悪は死に至ることもあった。
「みんなの様子は?」
「落ち着いています。変異の進行はみられません。呼びかけに反応を示すものもいます。目覚めは、しかしまだ」
「そうか。やっぱりきっかけが必要なのかな。管理者の言うとおりにして、問題は起こるだろうか」
「彼らにこちらへの害意はないように思えます。理想に殉じるという先程の話を聞けば、彼らの行動原理の内に、世話をする、というものがあるような気がしてならない」
グノーは僅かに哀れむように眉を寄せた。
「わかった」
ランタンはベッドの間を歩き、ひとりひとりの顔を覗き込んだ。長く一緒に旅をしてきたが、こんな風にじっくりと寝顔を見るのは初めてのことだった。
異形のような顔は見慣れたものだったが、憑き物の落ちたような寝顔は幼いほど無垢に見える。
人の顔だな、とあらためて思う。
首から上を獣にすげ替えたような亜人族も、その変異者も、どうしてこれほど人の顔に見えるのだろう。
変異の下にかつての面影が透けるようだった。
「ランタン」
よほど神妙な顔をしていたのだろう。リリオンがそっと背中に触れる。
はっとして顔をあげるとゼインがこちらに近付いてくる。ひどく険しい顔をして、唇を真一文字に結んでいる。ランタンの間合いの外で立ち止まる。
何か言いたげだが躊躇っている様子なのでランタンから声をかけた。
「おはよう」
「……皮肉か?」
ゼインは短く呟いた。
ランタンは肩を竦める。そのつもりはなかったが、しかし彼はそう受け取ったようだった。
無理もない。
彼はランタンに自身の欲望を目撃されている。
変異前の姿に戻るだけではなく、村の人々から感謝と賞賛を受ける自分の姿を。自作自演の夢だ。それは恥ずかしいばかりではなく、ともすれば自分が惨めに思えてしまうほど、すべてをさらけ出した姿だった。
「話は聞いた。俺も一緒に行っていいだろうか」
「いいよ」
ランタンは二の句もなく頷いた。
ここで眠るものたちの側に寄り添い、目覚めの手助けをすることも重要だったが、ゼインは動かずにはいられないようだった。
高い自尊心と、強い責任感を持つ男だ。変異によって人生が歪まなければ、ひとかどの探索者となっていただろう。それだけの資質があったし、それを自覚もしていた。
ゼインは頷き、拳を握った。金属化した皮膚の一部が、氷に罅が入ったような音を立てる。
「すぐに出る。用意を済ませたら管理者小屋の前へ。いいか?」
「用意する」
踵を返すゼインを見送り、ランタンとリリオンはルーの眠る小屋へと向かった。
「ランタンは大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「ランタンも、さっきまで傷ついて眠っていたのよ」
「心配ばっかりかけてごめん」
そんな風に謝ってほしいわけではなかった。だがランタンを引き止めることもできない。
リリオンは少し黙り込んだ。
風が流れる。この中に魔精が混じっている。それは目に見ることができない。しかし存在し、色々な作用をもたらした。
風を掬うように掌を上向ける。
「――魔精って不思議ね。人をあんな風に変えてしまうなんて」
「うん」
「そんなものがあるなんて迷宮に行くまで知らなかった。どうしてこんなものがあるのかしら」
「なければよかった?」
「わからないわ。ランタンはどう?」
リリオンは首を横に振った。長い髪が重く揺れる。
「僕もわかんない。この力がなくなるのは怖いよ。何もできなくなる」
ランタンは手を握ったり、開いたりする。単純な腕力も、爆発の魔道もランタンを今まで生かしてきたものの一つだ。これを失えば自分は今の自分としては生きてゆけないかもしれない。
「そんなことないわよ。何もできなくなるなんて」
小屋に戻ってもルーはまだ目覚めていなかった。
彼女は他の変異者のように夢を見ているわけではなく、極度の魔精酔いによる昏睡だった。けれど目覚めないのは不安だった。
「ルー、また行かなくちゃいけなくなったよ。戦ってこなきゃ」
眠るルーに語りかける。できれば側にいてやりたかったが、しかしランタンは行かなければならなかった。それこそが使命だというように。
汗で湿った頬を撫でる。微かにルーの表情が変わった。
「おにーちゃん、ローサはルーさんのことみてるよ」
「ああ、頼むよ。目覚めたら、すぐに戻るって伝えて」
「うん」
ローサが心配げな眼差しを向けてくる。
ローサにさえそんな風に思われていると言うことは、自分はよほど弱っているように見えるのだろうか。
ランタンは安心させるように微笑んで見せたが、上手く笑えたかはわからない。
「ねえ、ゆーれー」
ローサはガーランドを振り返った。
「ゆーれーもおにーちゃんといっしょにいってあげて」
ガーランドはぴくりと眉を動かした。表情はほとんど変わらないが、怪訝に思っているようだった。
「おにーちゃんのこと、てつだってあげてください。おねがいます」
ローサがぎこちなく頭を下げると、ガーランドは腕組みを解いて壁から背中を離した。




