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基本は青色を発する魔精結晶は、内包する魔精量が多いほどに色を濃くし、次第に黒く見えるようになる。
もし漆黒の魔精結晶が存在するのならば、そこに内包された魔精は人のあらゆる欲望を叶えるだろうと言われており、これを求めるがゆえに探索者となるものも少なくない
漆黒の魔精結晶はあらゆる可能性を生み出すがゆえに黒い卵と呼ばれる。
秘密結社の名の由来である。
ウドゥが腹に呑んでいた魔精結晶は、サラス伯爵が生前、彼に与えたものだった。
迷宮から得たものか、それとも人工的に生み出したものか、ともあれその結晶の色は黒に近かったのだろう。
でなければあれほどの広範囲に強い影響を及ぼすことはできない。
それほどの代物を与えたと言うことは、伯爵のウドゥへの寵愛振りは大変なものだったのだろう。
ウドゥの身の内で砕けた結晶は、内包する魔精を解放した。
それが衝撃となって身体を突き抜けていった。
視界は急速に狭まり、身を投げ打ってこちらを庇うルーの背中が押し潰されるように小さくなって、白一色に塗り潰される。
ランタンの意識はそこで途切れている。
はっと目覚めたとき、視界はまずぼやけた。
どうにか焦点を合わせる。見上げているものが古ぼけた天井だとわかる。木目が人の顔に見える。
暗いオレンジ色の光を放つ魔道光源が飴色の梁に吊されている。たいした光ではないが目を刺すように感じられた。猫のように目を細める。
空気は乾燥していて、微かに酸味を帯びた臭気がある。
辺りは静かで、自分の心音だけがひどくうるさい。
まるで見覚えのない場所だった。
あの薄暗い小屋から、誰かに運ばれたようだ。
そう思うよりも先にランタンはベッドから飛び降りた。
額から熱冷ましの手拭いが落ちて重い音を立てる、湿り気が残っていた。額に乗せられてまだそれほど時間が経っていないようだ。
身体は熱く、重く、それでいてひどく敏感だ。神経が剥き出しになったようだった。
「ルーっ! リリオンっ!」
視界が揺れる。
眼球が紐で吊されて揺れているみたいだった。ひどい眩暈がして、吐き気が込み上がってくる。
発した声が耳の中で反響して自分を苦しめた。
重度の魔精酔いだ。
これほどのものは久しく味わっていない。
それどころかランタンの探索経験の中でも数えるほどしかない。
魔精による肉体の活性、一時的な身体能力の強化、その過剰反応だった。
ルーは無事か。
彼女は二人を守るために、自らを投げ打った。
魔精を集め、定着させる魔道式の刺青が刻まれたルーの肉体は、あの状況において最大の効果を発揮する障害物だった。
しかし完璧に魔精を遮ることはできなかった。
守られたランタンですら、現状はひどい魔精酔いに苦しめられている。
ならば直撃を受けたルーはどうなってしまったのだろう。
そしてリリオンはどこにいるのか。
ローサやガーランド、ハーディやみんなはどうなったのか。
頭の中でいくつもの顔が浮かび上がった。
転ばぬように壁に背中を預ける。
見知らぬ場所に一人でいると、まるで迷宮にいるように思う。
揺れる視界を振り回すように左右へ向けて、壁際に戦鎚に立てかけられていることに気が付く。
扉の位置を確認し、そちらに視線を向けながら壁伝いに戦鎚を求める。
腕を伸ばし、中指の腹が戦鎚の石突きに触れる。それを手繰り寄せようとするとき、ぎと音を立って扉が開かれた。
ランタンは口の中が酸っぱくなるのを感じる。
飛び付くように戦鎚を掴み、素人みたいに扉の方へと向ける。
敵か、味方か。
入ってきたのはリリオンだった。
戦鎚を向けられたリリオンは目を丸くする。
「ランタン、よかった。目覚めたのね!」
「……リリ」
心配げな声さえ耳に障って、ランタンは顔を歪める。
重たげに戦鎚を下げて、杖のように身体を支える。
リリオンは抱えていた水桶を近くの机に下ろし、ランタンをそっと支えた。
「ここは安全よ。だからまだ寝ていて」
「気付け薬を」
「まだ苦しいのね。自然に治まるのを待った方がいいわ」
「いいから、頼む」
ベッドに座らされたランタンは、しかし強い口調で命令した。
リリオンはしばらく黙っていて、ランタンの表情を見つめる。
熱を測るように額から頬へ手をやって何とも言えない表情を作ったが、結局は根負けして気付け薬を取りだした、
小さな一粒を指先につまむと、ランタンの口元へ運んだ。最後に人差し指でそっと口の中へ転がした。
薬を奥歯で噛み砕くと、慣れ親しんだ強烈な苦みが口の中に広がった。ぎゅっと目を瞑る。絞ったみたいに唾液が湧いて、粉々になった薬が喉奥に流される。
「ランタン、お水」
目を瞑ったまま水を受け取って飲み干し、ようやく目を開いた。
眩暈はまだ少し残っているが、かなりましになっている。
「リリオン、無事なんだな」
ランタンははっきりした口調で尋ねた、
リリオンはランタンよりも軽症だった。
ルーに加えてランタンも少女の前にいたからだろう。図らずもランタンも盾になったのだ。
「ルーは? ここは? 他のみんなはどうなった? 夢からは覚めたのか?」
「ランタン、落ち着いて」
空になったコップに水を注ぐ。
「ルーさんは無事。ひどく魔精に当てられているけど、命には別状がないって。今はまだ眠っているわ」
「そうか」
「うん、だからそんな顔をしないで」
リリオンはランタンの横に腰掛け、控えめに肩を抱き寄せる。素肌に触れたように温もりが感じられた。
まだ肌は敏感なままだ。
「みんなも無事よ。でも目覚めた人とまだ夢の中にいる人は半分半分ぐらい」
「ローサは?」
「ローサは元気よ。ガーランドさんも、ハーディさんも戻ってきてる」
ランタンは不安を半分、胸に残しながらもほっと息を吐いた。
窓のない殺風景な一室だった。
古い建物のようだが清潔感がある。外の音は不思議なほど聞こえない。
「ここは? リリオンが運んでくれたのか?」
「ううん、わたしたちは助けてもらったの。わたしは意識を失わなかったけど、動けなくなっちゃった。どうしよう、どうしようって思っていたら、彼らが急に現れたのよ」
「彼ら?」
「そう、ここの人たち」
「ここはなんなんだ? あの村じゃないのか?」
「ここはさなとりうむだって言っていたわ」
リリオンは言い慣れぬ言葉を、言い間違えないように辿々しく口にする。
「サナトリウム?」
「うん、病気の人や怪我の人が身体を休める場所なんだって」
「ああ――、療養院か」
違和感もあったが、なるほどとも思った。
伯爵領は元々が身体を悪くした人たちが、希望に縋って辿り着く最後の場所である。そういった人たちのための療養院や保養所はあって当然だろう。
しかしこの荒廃した伯爵領でまだ存続しているのは奇跡的なことだった。
「ルーの顔が見たい。案内して」
「まだ休んでいて、って言っても聞いてくれないのよね」
「ごめん」
「いいのよ。本当はよくないけど」
リリオンは拗ねたように唇を尖らせる。
すぐに立ち上がろうとするランタンを制止し、並べてあった靴を持ってきて履かせてやった。それから手を貸して立ち上がらせて、支えながら扉を出た。
奇妙な雰囲気の場所だった。
森の中の隠れ里のようで周囲が木々に囲まれている。そんな中に小屋が距離をあけて点々と建っている。感染症予防のためだろうか。
差し込む木漏れ日が白く、風は爽やかだった。
人の姿もちらほらと見かけることができたが、全員が全身をすっぽりと覆い隠す衣服に身を包んでいる。
いかにも怪しく見える。
ランタンはひそひそ声でリリオンに尋ねる。
「信用できるのか。ここの人たちは。騙されているんじゃないか」
「そんなことを言わないで。確かにちょっと怪しいけど変異者だってそうだったでしょ」
「――つまり、そういうことか」
ランタンは頷いた。
隠れ里のような、ではなく実際に隠れ里なのだろう。
「ルーさんはここよ。静かにね」
小屋の一つに入ると、ルーが眠っていた。
ローサが看病をしている。ガーランドが壁際に背中を預けていて、ちらりとこちらを一瞥した。
ローサはこちらを振り返るや口を丸く開けた。そしてその口を慌て塞ぐ。
おにーちゃん、とでも叫ぼうとしたのだろう。
ランタンはまず妹の頭を撫でてやった。
ローサは掌に頭を押しつけ、そのままランタンの肩に顎を乗せる。
「あの子は?」
ガーランドが生みだしたローサに似た姿の女の子。ローサは村であのこと一緒に帰りを待っていた。その姿はここにない。
「きえちゃった」
ローサは寂しそうな声で言った。
「お別れはできた?」
「うん。またねって、いったよ」
「そうか」
ローサは自分から身体を離し、道を開いた。
ベッドでルーが眠っている。
全身に紅斑が浮かんでおり、浮腫んだ様子だった。
だがルーの姿は変わらなかった。あれほどの魔精を浴びれば、もしかしたら変異のようなことが起こっても不思議ではない。
呼吸は荒く、そのくせ胸がゆっくりと大きく上下している。
「苦しそうだ」
頬に触れると汗の冷たさと、肌の熱さが感じられた。
優しく触れた感覚さえ針に突かれたように感じているのかもしれない。ルーがびくりと震えた。
ランタンはルーに顔を寄せる。汗の匂いがする。
その姿は頭を下げているようにも見える。
耳元で何事か囁き、手の甲で頬や首筋の汗を拭ってやった。額の手拭いを取り替えて、髪を梳いてやる。
ルーはその度に小さな反応を見せたが、しかし目覚めなかった。
次の更新は25日としておきます。




