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 観測官はグノーという痩身の男だ。

 どうして理想に呑まれていないのかと聞けば、理性的でありたいと常々思っているからだと言う。

「とんちのような話だな。それでこの状況はなんだと思う?」

 尋ねるとすぐ答えが返ってくる。

「魔精が集まったことによる一種の迷宮化であると考えられます」

「迷宮化。やはりそうか」

「今までいくつか確認されている人工的な迷宮化実験はどれも限定された空間内で行われたものですので、これは珍しい現象ですよ。とは言えこの地ではありふれているとも言えますが」

 グノーはやや興奮した様子で捲し立てた。

 観測官たちがこの遠征に参加しているのは、それぞれがこの地で起こっている変異に興味を持っているからだった。まさにその只中にいる彼の興奮もわからなくはない。

 ランタンが面食らっていると恥じ入った様子で口を噤む。

「これは放っておいて収まるものだろうか」

「わかりません。ですが行動するべきだと考えます」

「なぜ?」

「迷宮化はこれで完結しているわけではありません。時間が経てばますます多くのものが複雑に変わっていくでしょう。今はまだ人々の変異は不完全ですが、変異が固定されてしまえばもう元には戻りません」

「逆を言えば放っておけば、彼らは元の姿に戻ることができるのか? 今の姿が固定されて」

「これにより、その可能性は示されました。ですが今、この偶然に賭けるべきではないでしょう。理想も過ぎればただの欲望となります。そうなれば、それはもはや元の姿ではない。今よりましな姿になれるかもしれませんが、それはサイコロを振るに等しい」

「望んだ目は出ないか。ではなぜこの変異は不完全なのだろうか?」

「仮説としては意識の統一がされていないから、そして無から物質や生命を生み出す迷宮の発生と異なり、元となるものがあるからではないかと考えられます。我々が考えるより元々の形を留める力は大きいのです。肉体を変化させるほどの変異は、本来もっと大がかりな準備が必要となるのはよくご存じでしょう」

「うん、そうだ。これはその残りか。そもそもまだ続く変異の只中に踏み込んでいることをつい忘れてしまっていたな」

「道中、我々が目にしたのはその結果ばかりでしたから」

「それでグノー、これはどのように対処すればいいと思う? 僕らはこれに気が付くことができた。そのおかげでおそらく迷宮化の影響からは逃れられている。――だが例えばガーランドはひとりの女の子を()み出した。ガーランドはこれが現実ではないと理解しているが、女の子は消えなかった。けれど先程ひとり、探索者を殴り倒してしまった。それが()み出したらしい女性たちは霞のように消えたが、そいつの変異は残ったままだった」

「前者はガーランド殿が惜しんでいるからでしょう。後者はそれぞれが似た理想を持ち、補完し合っているからだと思います。変異者たちは誰もが元の肉体を望んでいる。あるいは肉体を受け入れてほしいと。ひとりが意識を失ったとしても、他の誰かの意識がその穴を埋めるのでしょう。それもまた先程言ったように、この現象を放置するべきではない理由です。欲望は自分にだけ向くわけではありません」

「誰かに都合の良い自分に変えられるか」

 ローサの願いに繋ぎ止められたように。

「探索者たちを受け入れる村人たち、ガーランド殿の生み出した女の子というのがまさにそれでしょう。――彼女には少女趣味が?」

「もっと純粋なものだよ。微笑ましくなるぐらい」

「失礼しました」

 大人しく話を聞いているリリオンとルーへ視線を向ける。湯屋での彼女たちはランタンにとって都合の良い存在だっただろうか。

 なんだかずいぶんと無理矢理にされそうになったように思うが、もしかしたら自分は無意識の内にそれを望んでいたのかもしれない。そうであればずいぶんと情けない話だ。

 自分の知らない欲望にランタンは身震いした。

 内なるものを(つまび)らかにするこんな現象はさっさとなくしてしまった方がいい。

「なら全員の意識を断てばいいのか? それともひとりひとりを説得するか?」

「それも一つの手ですが難しいでしょう」

「そうか? ありがたいことにハーディは村を出ている。なら数は多いが、理想に溺れている今ならこれを制圧するのはそれほど困難には思えない。説得はかなり面倒だが」

「誰だって理想を壊されたくはありません。それは無意識の心理です。言葉であっても、力であってもきっと抵抗されるでしょう。その抵抗が現実化したとき、どのようなことが起こるのか」

 グノーは首を横に振った。

「抵抗は総意です。多くの意識が一つになったものを侮ってはいけない。きっとあなた方ですら、それを向けられたらひとたまりもない。この魔精が満ちる村の中にいる限り、逃れる術はないでしょう」

「かつて(くだん)という魔物と戦ったことがある。変異が起こった日、ここからもうちょっと離れたところで。それは人語を操り、発した言葉が現実化した。突如このように――」

 ランタンは胸の前で手を組む。

「――手を結ばれて封じられた。必中必殺。そんな感じか」

「おそらくは」

 ランタンの言う件を知らないのだろう。グノーは曖昧に頷く。

 しかし続けた言葉をきっぱりと言いきった。

「状況の解決は内からではなく外から、この魔精の流入を断つべきだと思います」

「流入?」

「はい、村を出て風上へ向かってください。この魔精は風の流れに乗ってこの村にやってきています。あちら方が魔精が濃い。どこかに湧出地があるはずです。その元を絶つことができれば、状況は改善されると思います」

「それは人為的なもの? それとも自然現象?」

「それについては何とも言いかねます。この地に起こることは奇妙なことばかりで。……テンという存在を我々はまだはかりかねております。彼は元々実在したのか。それとも()み出されたのか。我々には意識がある。これは直感的な理解です。では魂はどうでしょう。死後の行く先はどこにあるのか……」

 グノーは視線を彷徨わせて結局、天を仰いだ。

 学者らしい神経質そうな痩せた顔も、しかしこの遠征の中で日に焼けて精悍さを感じさせる。尖った喉仏が大きな呼吸に合わせて上下する。

 ランタンはつられて見上げた春空から視線を下ろし、どっしりと腕組みをする。この陽射しの暖かな空は、迷宮の空と同じものだ。

 リリオンとルーと視線を合わせると、リリオンは話を理解したのか、していないのか、ちょっと微笑んでみせる。

「――結局は急いで原因を見つけてどうにかしろってことか」

「身も蓋もありませんが、そのようになります」

「僕らだけじゃ今頃ひとりひとりを殴って回っていたところだ。ありがたいよ」

「行く先に必ずしも原因となるものがあるとは限りません」

「その時はまた助言を貰いに戻ってくるよ。僕らは行く、グノーは考え続けてくれ」

 ランタンは組んだ腕を解き、グノーの肩を叩いた。

 グノーはびっくりした様子で、ランタンの不思議なほどの力強さに背筋を伸ばした。

 その強さを見て知っていたとしても、いざその身に味わって知るのでは実感が異なる。

「かしこまりました。できる限りのことをします。ご武運を」

 この祈りは不要なものかもしれないとグノーは思い、風のように駆けていく三人の背中を見送る。

 それでもやはり祈りながら。


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