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その夜、風が吹いた。
風は遠征隊が泊まる廃村に色を持たない濃い霧を運んできた。
ちらつく雪も同化するほど白い霧は見る間に村を飲み込み、建物さえとっぷり沈んで見えなくなった。
そして霧は家屋の中にも静かに入り込んで、匂いのない香のように部屋の中を満たしていく。
探索者のいびきが霧に包まれてふっつりと聞こえなくなる。
死んだような静寂だったが、その胸は代わらずに上下している。眉間に寄っていた皺が薄れ、寝顔が穏やかになっていく。
やがてその姿も霧に隠された。
誰も目覚めなかった。
久し振りの屋根の下での睡眠だったからかもしれないし、この得体の知れない霧のせいなのかもしれない。
ランタンも霧に包まれてぐっすりと眠っている。呼吸のたびに霧は身体の中に取り込まれる。
村が目覚めたのは、夜が明けてからだった。
霧はなくなっている。
「う――ううん」
妙に甘えた声で呻き、寝返りを打つ。
毛布を首の所まで引き上げて、瞼が瞬きにもならない痙攣を繰り返す。
「ランタンさま、起きてくださいませ」
優しく声をかけられて、肩を揺すられる。
誰の声だったか。
聞き慣れたはずの声が一瞬、認識できなかった。
ああ、これはルーの声だ。
「もう、朝でございますよ」
「――朝か、早すぎる。ちょっと待ってって言っておいて」
「太陽は待ってくださいませんわ」
微睡みは幸福な時間だった。
ぼんやりする頭におっとりとしたルーの声が心地良く響く。起こそうとしているのにむしろ眠りを誘う声だ。控えめに肩を揺すられることさえ、揺り籠に揺られるようだった。
「ランタンさま、起きてください。ルーを困らせないでくださいませ」
「わかった。起きる。起きるよ」
口先だけのランタンにルーは実力行使に出た。
毛布がばっと剥ぎ取られて、ランタンは赤ん坊のように身を丸めた。ひんやりとした空気に身を包まれる。
「ひどい。起きるって言ったのに」
「おっしゃるだけではいけませんわ。行動していただかないと」
「ほら、起きた。起きたよ。これでどうだ」
「素晴らしいことです」
「おはよう」
「はい、おはようございます」
振り子のように起き上がり、これでいいか、と胸を張る。
欠伸混じりに背伸びをすると、まなじりに涙が浮かんだ。ルーがそっと拭ってくれる。
女っぽい甘い香りがある。
ルーはころころ笑った。
指先はひんやりして、ぺたぺたとした独特の感触がある。その手を取って頬に当てた。この冷たさは不快ではない。
「こちらにお着替えを用意しておきましたよ」
「うん、ありがとう。なんだか、いい匂いがするなあ」
「リリオンさまが朝食をご用意してくださっていますよ。お着替えをすませて、お顔を洗ってきてくださいませ」
ルーはにっこりと微笑み、部屋を出て行った。
「あれ、ここは……?」
ランタンはふと違和感を憶えて、視線を巡らせた。
目覚めたのは手狭ながらも居心地の良い一室で、板張りの床に敷いた布団の上だった。
布団は綿もしっかりしており清潔な感じがした。
「こんな所で寝たんだっけ……――まあ、いいか」
がりがりと頭を掻いて、ランタンは着替えを始める。
違和感は拭いきれないが、寝ぼけているのかもしれない。
着替えを済ませて部屋を出ると土間に備えられたかまどでリリオンが鍋をかき混ぜている。かまどの位置が低いので尻を突き出すように屈んでいる。
「おはよ」
声をかけると髪を押さえながら振り返った。髪は首の所で一つに纏めてある。
「おはよう、ランタン。もうごはんできてるわよ」
「うん、ありがとう。でもその前に顔洗ってくるよ」
「そうね。まだちょっと眠そうな目をしてるわ」
「そう?」
顔を触りながら裏口を出て、瓶に溜められた水で顔を洗った。陽射しが春めいている。肌寒くはあるが冷たくはない。手にすくった水がぬるく思える。
「うーん」
青空が広がっている。
風が爽やかで、小鳥のさえずりがいかにものどかだった。
「春。もう、春なんだっけ?」
ランタンは首を傾げながら家の中に戻った。
「ねえ、リリオン。もう春なんだっけ?」
尋ねるとリリオンは目をぱちくりさせて微笑む。
「まだ寝ぼけてるの? もうずっと春でしょ」
「ずっと春か。春はいい季節だからなあ」
「そうよ。あったかくていい季節よね。でも寝ぼすけはダメよ」
「鳥のさえずりが聞こえたよ。なんの鳥だろう。ぴいぴい鳴いてたな」
きつね色に焦げ目をつけた、けれど中がふわふわした白パンと黄味が二つの目玉焼きと厚切りのベーコンが出てきた。淡い色をしたスープには春の野菜が浮かんでいる。
食欲をそそる香りがする。
「でも昨日、雪が降ってなかった? 風の音を聞いたような気もする」
目玉焼きの半熟の黄身を崩し、千切ったパンをつけて口に運ぶ。ベーコンに豪快に齧り付き、口の中の塩気を野菜の甘いスープで流した。
「おいしいよ。なんだか久し振りに食べる気がするな。気のせいかな」
「よかったわ。ほら、もって食べて。まだまだあるのよ」
「おかわりちょうだい。――でもあんなに風が吹いたら、せっかく咲いた花が散っちゃったかもしれないね。春は花も綺麗だから、もったいないな」
リリオンは器を受け取り微笑んだまま、そうね、と頷いた。
「適当に頷いたでしょ。気が付かなかった? 夜、風が吹いたんだよ。本当だよ」
「気が付かなかったわ。夢を見たんじゃなくて?」
「そうかな。リリオンがぐっすり眠ってただけかもしれないよ。春のせいで。あー、おいしかった。ごちそうさま」
「あ、いいわよ。そのままで。わたしが洗うから」
「ありがと」
「どういたしまして」
リリオンが食器を重ねて裏手へ洗いに言った。
その後ろ姿を見送り、八分目の腹をぽんと叩く。
そこに幸福が詰まっているような感じがした。
「しかし、そうか。もう春なのか。いつの間に春になったんだろう」
ランタンは一人、なおもしつこく呟いた。
「ちょっと出かけてくる」
「はーい」
リリオンに声をかけ、腰に戦鎚を吊って表に出る。
いかにも素朴な田舎の村が広がっていて、村人が農作業に精を出している。百年も昔から変わらないような農耕の暮らしを営んでいるようだった。
軒先でローサが村の子供たちと遊んでいた。
「ローサちゃん、おっはいんなさい!」
「いくよ-、それ!」
男の子と女の子が回す大縄の中にローサが跳び込み、それを調子よくぴょんぴょんと跳んでいる。
ちょっと間抜けな感じに口を開け、しかし本人はいたって真剣な様子だった。
「ほい、ほっ、ほいっ!」
「わあ、ローサちゃんすごい。記録更新だよ!」
「すごい? ローサすごい?」
「すごいよ! かっこいいよ!」
「やったー!」
惜しみない賞賛を浴び、ローサは無邪気に喜んだ。
春の陽射しに金の髪も、虎の毛並みもきらきらとしている。
ひどく平和な光景だった。
「あ、おねぼうさんだ!」
「もう起きたよ。おはよう、上手だな」
「ローサ、ずっと、とべるよ! ほら、ほら、ほらあ!」
拍手してやるとにへらとだらしなく笑う。それでも引っ掛かることがない。ローサは額に汗を浮かべて、いつまでも跳び続ける。
それをガーランドが見守っている。
「その子らは?」
「ローサの友達だ」
「ふうん、懐かれてるな」
ガーランドの周りで子供が遊び回っている。追いかけっこをして転んだり、ちゃんばらをして打たれたりすると、ガーランドに泣きついてくる。
しかしガーランドはそれに手を貸さない。子供は自力で起き上がり、打たれたことの敵を取ることもない。子供はただぐっと涙を堪える。
ガーランドはそれを見て、微かに表情を緩める。小さな水球を作り出すと擦り剥いた膝や、赤くなった額にそっとあてがった。
「ローサ、ずっと一人で跳んでないで代わってやれよ」
「うん、ひっかかったら、やるよ」
春の心地良い陽射しの中、ランタンは村の散策に出かけた。
畑には黄色い菜の花が咲き乱れており、家畜の豚がそこら辺をうろうろとして、畑の中まで入ろうとして農夫に鼻先を引っぱたかれている。
「子供、村人、がいる。いてもいいのか。村なんだから」
「やあ、ランタン、おはよう」
「――おはよう、おはよう」
名の知らぬ村人と挨拶を交換していると、ようやく見知った顔があった。
よく知っているはずなのに懐かしく思うのはなぜだろう。
探索者ゼインが畑を耕している。
「やあ、畑仕事?」
「やあ、ランタン。たまにはこのようなものもいい」
精悍な顔に泥が跳ねている。
屈託のない笑みを浮かべ、肩に鍬を担いだ。溌剌とした姿だった。
「ここには蕪を植えるそうだ。向こうには人参や茄子、夏前には収穫できるぞ」
「へえ。ところでゼインってそんな顔だっけ?」
「む、何かおかしいか?」
ゼインは顔を触る。それを農夫が慌てて止めた。
「ゼインさん、お顔に泥がつきますよ。ああ、頬に」
汚れたゼインの頬を拭おうとする。
「いい、いい。そんなことまでしなくても。どうせ汚れるのだ。後でまとめて拭けばいい」
「いや、わたしらがこうやって過ごせるのもゼインさんたちのおかげですから」
「当然ことをしたまでだ。気にすることはない」
謙遜してみせるゼインは、しかし満更でもなさそうだった。
村の中ではそんな様子がそこかしこで繰り広げられていた。
探索者たちは村人から恩人のように有り難がられている。探索者たちはそれに応えて満足気な顔をしている。
そのせいか、村人といい仲になっているらしいものもいた。
「みんなあんな顔だったかなあ。――そう言えばハーディを知らない?」
通りすがりの牛飼いの男に問いかける。
ここの村人は遠征隊全員の顔をどうしてか知っているようだった。
「ハーディ殿ですか。あの方なら西に恐るべき魔物が出現したとかで、それの討伐に向かわれましたよ。結構なお方ですな。頭が下がります」
「好きものだよ」
「以前は三日も帰らないで何をしていたかと聞けば、悪の巡回騎士と一騎打ちをしていたとか。今回はどれほど帰らないのでしょうか」
「なるほど、ハーディらしい」
「ランタンさまはまた湯屋ですか?」
「湯屋があるの?」
「なにをおっしゃいますか。このところずっと通っていらっしゃったじゃありませんか。今からいかれるんでしょう」
「そうか、そうだったかな。春だからすっかり忘れてしまったのかもしれない」
「はっはっは、湯屋の場所もお忘れじゃないでしょうね。あの丘の上ですよ」
「わざわざありがとう」
小さな羽の白い蝶がふらふらと横切っていく。
「夢遊病のようだ」
木陰に二人の男女がいる。
蝶が誘われるのも不思議ではない甘い気配を発しているので、あまりじろじろ見るべきではないだろう。
しかし女の方はよく知った顔だった。
デイジーだ。短く刈った髪に、傷だらけの肌をしている。それはほとんど硝子質に変異しているからだ。
そうだ。
変異というものがある。なんで自分は今まで忘れていたんだろう。
ランタンは首を傾げる。
もはや彼女を見ていたわけではないが、向こうは視線を感じたようだった。
圧力を感じるほどきっと睨みつけられ、ランタンははっとする。向こうも見ていたのがランタンだと今さら気が付いたようだった。
「げ、ランタン」
「邪魔をしたみたいだ」
「みたい、じゃないわ」
今さら無視することもできない。ランタンはデイジーの方へと歩み寄る。
やはり彼女には変異がある。見慣れた顔だ。他のものたちを見たときに感じた違和感がない。
「いちゃついていたの? 朝っぱらから」
「サイテーね。悪い?」
「いいんじゃない。春だし」
ランタンは男の顔を見た。
ずいぶんとハンサムな男だった。彫りが深く、眼がぱっちりとして、鼻筋も通っている。
田舎の村には似つかわしくない、どこぞの王子さまだと言われても信じられる上品な顔立ちだ。
男とデイジーは一定の距離を保っている。触れれば傷つけてしまうからだろう。
綺麗な青い目でデイジーを見つめており、それは情熱的と言うよりも包容力を感じさせた。
恋人というよりも保護者のような、しかしそれでいて親密そうでもあり、なんだか不思議だった。
「ずいぶんいい男だね」
「でしょう。こうやって見てるだけで、わたし幸せ……」
「へえ」
うっとりした顔のデイジーはいかにも幸せそうで、ランタンはふと胸が痛んだ。
触れることのできない恋だ。
あるいは触れる必要がないのかもしれないが、その喜びを知ってしまったランタンにはあまりに健気に思える。
「お幸せに」
ランタンはそう言ってその場を離れ、丘の上の湯屋へ向かう。
「何か引っ掛かるんだけど、それがなんだか……」
春の陽気のせいだろうか、と考えるが何でもかんでもそのせいにはできない。
「風呂に入りながら考えるか」
言いながらも、ううん、とまた唸る。




