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背筋が震えて、尻の穴が自分の意思とは無関係にぎゅっと締まった。
遠征を始めてから蓄積していたものが溢れ出た。
目の前が白く染まり、まなじりに涙が溜まる。
ルーはしばらくそのままでいてくれて、ランタンは彼女の頭を腹に抱き込むように身体を丸めていた。
彼女の緑の髪を指で掻き分けて頭に触れると蒸れた熱がこもっているのがわかる。それは今、彼女の口内に溢れているものの熱が放射されているようだった。
ルーの口の中で硬かったものが緩んでいき、喉の奥に触れていた先端が離れ、全体が舌の上に横たわった。
ランタンの口からゆるゆると息が長く漏れる。
ルーが微かに喉を動かした。その動きが大げさに舌を上下させて、ランタンがびくりとする。
彼女の頭を離しても、ルーはすぐに身を起こさなかった。ほんの僅か上目遣いにランタンを見上げて、語りかけるように目を細める。
鼻で呼吸をして、じっとこちらを窺いながら、長く時間をかけて惜しむように離れていった。
疲労した身体にとってそれは更なる疲労を生む行為だったが、腹の底に居座っていた鉛のような重さは和らいでいる。
ランタンは自分自身の単純さにぼんやりとしてしまった。
ルーはランタンをリリオンの所へは連れて行かずに、バックが用意した空き家へ案内して休むようにと言った。
ランタンは極めて素直にその提案を受け入れて、一つの文句も言わずに用意された寝床に横になって目を閉じた。
夜半に目が覚めると、リリオンやローサが同じ部屋で眠っていた。
入り口の近くでガーランドとルーも横になっており、机の上でウーリィが蛇のように身体を丸めている。
室内には夕食の匂いが残っている。
そういえば魔物から肉を切り出していたなと思う。夕焼けの光景が思い出された。
あの手の魔物は臭いが強く、肉質も硬い。香辛料をたっぷり使い、きっと肉は挽いただろう。それを丸めて鍋にでも入れたか、それとも焼いたか。
想像すると涎が湧いた。それを飲み込むと、勘違いしたのか腹がぐうとなった。だがわざわざ起き上がって何かをつまむ気にはなれない。
外からは何かしらの作業の音が聞こえてくる。迷宮口へ攻め込むための用意だろう。
ハーディは一体どんな作戦を立てるのだろうか。
迷宮口に崩壊薬を投げ入れる。
そこまでにどれほどの魔物がいるだろう。百や二百ならば遠征隊だけで対処できる。いや、むしろ素人である市民たちに参戦される方が面倒だ。
しかしハーディは彼らを戦場に連れ出すような気がした。となればこれを守りながら戦う方法を考えなければならない。
ランタンは色々なやり方を思い巡らせていたが、ふと考えるのをやめた。これは今の自分の仕事ではない。それはハーディに任せたのだ。
ランタンは視線を左右にやった。
左ではローサがすうすうと寝息を立てている。このところは精神的に不安定だったからリリオンやガーランドにくっついて眠っていたが、今は誰にもくっついていない。少し落ち着いたのだろう。
右ではリリオンが静かに眠っている。耳を澄ませても寝息が聞こえないので少し不安になった。じっと唇を見つめる。
見ているとルーにしてもらったことを思い出して、欲望が鎌首をもたげるのを感じた。しかしその感覚とは裏腹に肉体は少しも反応しなかった。
疲れていることにはやっぱり疲れているんだな、と思う。
もどかしいような、しかし無反応な肉体にこそむしろ安心感を憶えた。もし動けるようなら、動いてしまっていたかもしれない。
ランタンは再び目を瞑り、今度は朝まで目覚めなかった。
目覚めたときには自分がそうしていたように、リリオンが自分の顔を覗き込んでいた。枕元にぺたんと座り、髪は結んでおらず左の耳に掛けている。
「うわっ」
「わあ!」
ランタンが驚きに声を上げると、その声にリリオンが驚いて遅れて声を上げた。耳に掛けた髪がはらりと零れる。リリオンは胸に手を当てて、はあ、と息を吐く。
「もー、びっくりするでしょ。急に大きな声だしたりして」
「……こっちの台詞だよ。びっくりした」
「人の顔見てびっくりしないで。わたし、そんなに変な顔してた?」
「してない。今日も綺麗だよ」
「やだ、もう。ランタンったら」
リリオンは照れた感じに顔を背け、それからあらためて向き直った。
「よかった、元気そうね」
「うん、元気だよ」
「昨日、ずっと寝てたから。わたし、びっくりしちゃった。心配したのよ」
「ごめん」
「ん。ねえ、ランタンお腹空いてない?」
「空いてる。ぐうぐう鳴らないぐらい空っぽだ」
「昨日、作ったお料理を残してあるわ。温め直すから食べて」
「うん」
ランタンはリリオンを見上げて頷く。
リリオンは首を傾げる。
「起きないの?」
「起きるよ。でもそんなに覗き込まれてると、起きたときに頭ぶつける」
井戸でも覗き込むみたいにランタンの顔を覗き込んでいたリリオンが、恥ずかしそうに笑った。ランタンはリリオンがどくより早く身体を起こし、こつんと額を当て、それから軽く口付けをした。
リリオンがその瞬間だけ、短く目を瞑る。
ルーとは違う感触だ。
久し振りの感覚で、妙に照れくさかった。
大きく伸びをした。背中の筋がほぐされていく感覚がくすぐったい。
「他のみんなは?」
「戦いの準備をしているわ。魔物の数がかなり、すごく、とても多いみたい」
「ふうん。ウーリィに崩壊薬を持たせて、投下させるって言うのを思いついたんだけど」
「ダメよ。確実性がないもの」
「かく、じつ、せい。誰の言葉?」
「ハーディさん。飛んでる魔物もいるのよ。ウーリィは竜種だけど、まだ小さいわ。やっぱり道を切り開いて直接投下するって」
「その役目は誰が?」
「まだ決まってないって。ハーディさんか、わたし、ガーランドさんとかゼインさんとかも候補よ。町の人も何人か」
「僕は?」
「ランタンはどうかしら? でも」
「僕はもう元気だよ。ほら――」
リリオンはかまどに火を熾そうとしていた。ランタンは一握りの炎を手の中に発生させるとそれをかまどに放り込んだ。灰の上で薪もないのに炎が立ち上り、ゆらゆらと鍋底をくすぐった。
「――ご飯食べたらもっと元気になるよ」
「よかったわ、本当に。ランタン、ずっとみんなのこと考えてたでしょ。それで疲れちゃったのね」
「さあ、どうかな」
鍋をかき混ぜるリリオンの後ろ姿に近付き、形の良い小振りな尻を二、三撫でてみた。
リリオンは振り返って、えっち、と唇を尖らせる。
やがて部屋の中に料理の香りが広がってきた。
魔物の肉団子が入った麦粥だ。汁は白く濁り、小振りな肉団子が沢山入っていた。魔物らしい濃い匂いがあったがそれほど不快ではない。
「おいしい?」
「うん」
リリオンに見つめられながら粥をかき込んだ。
昨日ルーに告白した苦悩をランタンは口にしなかった。
その勇気が出なかったからでもあったし、今が言うべき時ではないような気がした。
食事を終えて家から出ると夜に聞いた作業音が同じように響いていた。
空き家の戸板が片っ端から外されて、その表面に魔物皮を打ちつけて即席の大楯を作っている。
皮は鞣す時間がなかったので生皮をそのまま張り付けているが、防御力はかなりのものだろう。
他にも投石用の石を砕いているものや、魔物から奪った武具を磨いているものもいる。
町総出で作業をしているようで、みんな忙しくしている。
それもその筈で、迷宮崩壊作戦は明日に決行されるからだった。
ずいぶんと急なことだが兵は拙速を貴ぶと言うし、だらだら時間をかけても迷宮口周りの魔物が増えるだけである。
「おお、ランタンよくなったか」
「大丈夫か、まだ休んでてもいいんだぞ」
「よく眠れた? ご飯はもらった?」
探索者たちとすれ違うと、彼らは皆一様にランタンに声をかけてきた。心配してくれているらしい。
ランタンがそれとなく返事をすると、その素っ気なさこそが元気の証拠であるように安心し頷いて立ち去っていく。
「大病をしたみたいに大げさだ。なんだか恥ずかしいな」
「お見舞いに来てくれた人もいたのよ。ランタンは寝ていたけど」
「寝顔見られたのか。なんかやだな」
「あ、見て。あそこ人が集まってるわ」
「ほんとだ、なにしてるんだろう」
ランタンが近付いていくとそこには何体もの魔物が並べられ、それを指し示しながら調査官が講釈を垂れているようだった。
前列の方に探索者が陣取り、それなりに真剣な表情をしている。探索者の後ろで町の人々が興味と恐れが半分ぐらいの表情で話を聞いている。
どうやら迷宮口近辺に出現している魔物を捕らえてきたようだった。
二足歩行の猿鬼は子供程度の大きさの小型個体と、背の低い大人ぐらいの中型個体の二種類が存在しており、後者の方が力も知能も高いが単独行動の傾向が強く、むしろ集団で襲ってくる小型個体に気をつけなければならない。
獣型の魔物は四つ足、六つ足、八つ足の三種類、犬顔、猪顔、蜥蜴顔の三種類を掛け合わせた九形態に分類することができる。
足が多いほど大型の傾向が高く、力が強い。しかし足はそれほど素早くはなく、小回りも利きづらい。側面攻撃が有効だ。
顔立ちは魔物の行動に影響を及ぼす。
犬顔は群での狩りを行い、猪顔は闇雲に突っ込んでくる。蜥蜴顔は向かってくることは少なく、間合いに入った途端に牙を剥くような待ち伏せ型で背後からゆっくり近寄るのが好ましい。
そのようなことを探索者たちに聞かせている。
次に魔物を解体しながら脂肪の厚さや内臓の配置、どこにどんな骨がありどのように刃を通すかと言ったことを説明している。
辺りに血の臭いが漂い始めると、ぎゃあぎゃあと騒がしい声が聞こえる。
どうやら生け捕りにした魔物もいるらしい。殺し方を後で実践するのだろう。
それは六本足で猪顔の魔物だった。鎖に繋がれているが、今にも引き千切りそうなほど暴れていた。
子供たちが枝切れ一つ持って、それに近付こうとしている。生意気そうな顔の男の子が先頭に立って、枝の先端を魔物の尻に向けている。
「危ないわ。近付いたらだめよ」
リリオンが叱ると、まるで魔物が急に飛び掛かってきたみたいに驚いて持っている枝を放り投げた。
ランタンは足元に転がってきたそれを拾い上げる。
「なかなか勇敢じゃないか。これで殺せたら達人だな。ほら」
ランタンが枝を渡してやると、男の子はそれを奪うように引ったくった。そして魔物に向けるみたいに、それをランタンに向けてくる。
「お前、誰だよ」
喧嘩腰にランタンを睨み、その視線をちらちらとリリオンへ向けた。
「っていうかお前、ねーちゃんのなんだよ。なれなれしいぞ」
「ねーちゃん?」
「昨日、ちょっとお手伝いしてもらったのよ。ね」
「ふうん」
「――ほら、そんなに怒らないで」
リリオンは男の子へ安心させるような微笑みを向ける。
「この人はランタン。わたしの旦那さんよ。仲良くしてね」
その言葉に男の子は一瞬呆然として、嘘だ。と呟きそれから、わああ、と叫び声を上げて走り去っていった。残された友人たちは呆気にとられていたが、すぐさま彼の背中を追いかけていく。
「どうしたのかしら? わたし、何か変なこと言っちゃった?」
「言ってないよ。事実を述べただけだし」
子供相手に大人気ないと思いながらも、ランタンは少しばかりの優越感を憶えた。
並んで歩きながらリリオンがしみじみと言った。
「男の子って不思議ね」
「どこが? 男なんて単純だろ。女の子の方が不思議だよ」
「あら、そうかしら?」
「そうだよ。でも、きっと答えは出ないな。人間って不思議ってことで手打ちにしよう。ここで争ってもしょうがない」
ランタンは無抵抗を示すように両手を挙げた。そんなランタンの代わりにリリオンが家の戸を開ける。
「邪魔するよ」
そこにはハーディやゼインと言った有力な探索者と、騎士バックなどの町の有力者が集まっており、話し合いが行われていたようだった。
「おお、ランタン。何しに来たんだ?」
「来ちゃいけないみたいな言い方だ。明日、作戦決行だろ。話ぐらいは聞いておきたいと思って。なんか揉めてるみたいだけど。眉間に皺が寄って、寄って、寄ってないな」
ランタンは集まっているものたちの顔を見た。毛に覆われていたり、鱗が生えていたりで皺は覆い隠されている。
とりあえず近くにいた変異探索者の眉間に触れてみた。
鱗と言うべきか、硬質なもので覆われている。ゼインの金属片に似ているが、それよりももっと石っぽい。
「ざらざらしてる。へえ、こんな感触だったんだ。知らなかった。そっちのは? うわ、めちゃくちゃつるつるじゃん。ひと触りいくらで商売できそう」
探索者はどうしてか無防備にそれを触らせて、嫌がらなかった。ここまで寝食をともにしたのに新たな発見だった。へえ、ふうん、とランタンは突いたり引っ掻いたりもしてみた。
少しばかり重たい場の空気を混ぜっ返した。
「作戦と呼ぶほどのものではないが方向性は決まった。迷宮口付近に湧いた魔物の数が多すぎるので迷宮までの特攻隊を組む」
「うん」
「それをうちのものがやるのか、町のものがやるのか話し合いをしている最中だったんだ」
「一つ聞くけど、押し付け合い? 奪い合い?」
ランタンが尋ねるとハーディは笑った。
「奪い合いだ」
「なるほど。死にたがりが多くて困るね」
「死ぬ気はないさ」
ゼインがバックに視線をやりながら言った。
「だからこそ我々が行うべきだ。死ぬ気はないが、その可能性が大きいのも事実」
「町を守ることこそ我々の使命。あなた方、客人ではなく我々の方こそが行うべきことだ。自分たちの町を自分たちで守らないでどうする」
「いや、違う。我々は事が済めば去っていく。客だからな。もしお前たちがいなくなったら、守るべき人々はどうなる」
二人が睨み合っている。
「こういう話が続いているわけね。困ったね。なんなら僕がやろうか?」
「ランタン、話をややこしくするな。それにお前は病み上がりだろう」
「病んじゃいない、ちょっと眠たかっただけだよ。すっかり眠ったから僕はもう元気だよ」
「だとしてもだ。万に一つがある。お前を失うとあとが面倒だ」
「誰だって死ぬべきじゃないさ」
ランタンは自然とその場に腰を下ろし、胡座を組んで顎に手をやった。
リリオンがその隣に座った。
ゼインもバックもどちらも譲らない。
たぶん一番文句が出ないのは、こちらからもそちらからも人を選抜して特攻隊を組むことだ。だが文句は出ないかもしれないが、それが一番いい案かというとそうでもない。
実力差があった。そうなるとこちらは子守をしながら特攻することになる。
この場で自分はそれを言うだろうか。言わない気がする。特攻隊の中に自分を組み込んで、作戦も子守も同じようにするだろう。
ハーディが口を開く。
「正直なことを言えば、俺はうちのものにやらせたい。その方が確実だからだ。昨日の戦い振りを見るに魔物の群を突破するにはお前たちでは実力が足らない」
竜殺しの騎士ハーディにそう言われてしまうとバックらは返す言葉がない。
「俺も騎士の端くれだ。自らを騎士とするその気持ちはわからない話ではない。誇りも傷つくだろう。だが今は引いてもらいたい。お前たちが最もよくわかっていると思うが、この町には余裕がない」
バックはこちらの耳に届くほど強く奥歯を噛み締めて、頷くでもなく目を瞑った。
「命を繋げ。そうすれば誇りを取り戻す機会も増える」
バックはなぐさめの言葉を聞いただろうか、黙ったままでいる。頭上の耳が微かに震えた。
「それで僕の役目は?」
ランタンはそんなバックを横目に尋ねる。
「ランタンは勘定に入れてない」
「なんで」
「明日までに使い物になるかわからなかったからな。――まあ好きに動いてくれ。なんなら寝ててもいい、と言いたいところだがその力を寝かせておくのは惜しいな。なにせ」
「余裕がないんでしょ。わかってるよ。家も借りたし、ご飯も食べた。一宿一飯の恩義は返さないと」
ランタンは膝を打って立ち上がり、何となしに隣に座る探索者の肩をぽんと叩く。
服の下にこちらもただの肉とは違う感触があった。ごわごわしている。石鹸がよく泡立ちそうだと思った。
「話し合いの邪魔になりそうだし、僕はもう行くよ」
ランタンはリリオンを連れて家を出た。
腰の戦鎚に手をやって、リリオンを見上げる。
「身体動かすの手伝ってくれる?」
「もちろん」
リリオンが言うか早いが、ランタンはその手を取って町の外へ向けて走り出す。




