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森の中へと続く小川を辿っていくと、氷の張った湖へと辿り着いた。
その畔で一休みする。氷の下では川魚が泳いでいるのが透けて見えた。
呼吸をするために氷の割れ目を探しているのかもしれない。のろのろとした動きで、右往左往している。
ローサがそっと氷の上に片足を着け、体重をかけていく。氷は厚みを持っていたが、たちまちぱきっと音を立ててひび割れ、ローサは悲鳴を上げて飛び退いたが片足が濡れてしまった。
それに驚いて魚が素早く散っていった。
ランタンは首の辺りに痒みを感じて、ごりごりと乱暴に掻き毟った。
爪の隙間に垢がたまり、それを見てぽつりと呟く。
「風呂に入りたい」
探索者であるから不潔にはある程度慣れているが、しかし我慢の限界だった。
何日かに一度、身体を拭き清めているが汚れは取り切れず、疲労のように蓄積している。
「飛び込むか? 止めはせんぞ」
ハーディが半分は笑いながら言った。探索者たちもそれに同意するように笑う。彼らの不潔への耐性はランタンよりもかなり高いようだった。
もうすでに鼻は馬鹿になっているが、かなり臭う集団になっていることにランタンは気付いている。
ランタンはハーディの言葉を無視し、しかしおもむろに上着を脱ぎ始めた。
「おい、本気か?」
上半身を裸になって、ズボンにも手をかけ始めるとハーディは驚いたように探索者たちと目配せをした。
大気は冷え込んでいる。割れた氷の間に覗く水面から白い霧が上がるほどだ。
女たちも興味津々にそれを見ている。女の一人がリリオンの側によってぽんと腕を叩く。
「止めなくていいの?」
「よく我慢した方よ。ランタンは綺麗好きだから」
リリオンは荷台からランタンの着替えや、水から上がったときに身を包むための大布を引っ張り出していた。
「それもそうだけど、見ちゃうわよ。あんたの旦那」
「見られても恥ずかしくないわ。ランタンは素敵だもの」
「参った」
堂々とするリリオンに女は悪態をつくこともできず、両手を挙げて降参を示した。
ランタンの肉体は確かに素敵だった。
不潔に耐えかねての氷の張る湖に飛び込むという愚行をするはずなのに、その裸は清潔に見える。
白くて、細くて、寒さに粟立った肌が氷よりも滑らかだった。
耳や頬の赤らみが化粧をしたように鮮やかで、腰の辺りの妖しげな気配も相まって雌雄の境界を跨いでいるようだ。
女は自身も探索者であるからか、これまで魅力的に感じてきた男の肉体は頼りがいのある逞しいもののはずだった。
あれは子供の身体でしょ、と自分に言い聞かせるが、やはりその肉体はそれだけではない。
湖に向かって小走りになると、しなやかな筋肉の隆起が浮き上がった。そこに秘められた暴力を知らないものはいない。
湖の縁で軽やかに踏み切って、ランタンは割れた氷の隙間へと魚のように飛び込んだ。水柱の上の方が綺麗な球となって分離する。
湖面が波打ち、まだ残っている氷面がみしみしと音を立てて罅を広げた。
ランタンは頭の先まですっかりと沈んでしまって浮かんでこない。
見ているだけで身が凍るような光景だった。その冷たさたるや身が切れるほどだろう。思わず顔を背けたものもいる。
「……おい」
「…………でてこねえぞ、死んだか?」
しばらくランタンが沈んだままでいると、俄に慌ただしくなった。湖に近付いておそるおそる水面を覗き込んだ。
もしかしたら水中に魔物がいて引きずり込まれているのかもしれない。あるいは冷たさのあまり氷漬けになっているのかもしれない。
そんな不安をよそに、水底近くからようやく浮かび上がってくる肌色のものがあった。
「ぷはっ」
ランタンだった。
顔を出し、水をぴゅと吐き、大きな呼吸をする。ぶるぶると頭を振って辺りに水滴を飛ばした。それがまた冷たくて浴びせかけられた探索者たちが悲鳴を上げて遠ざかっていく。
ランタンはそれをちらりと一瞥するだけで悪びれることもない。
さっそくごしごしと身体をこすり始める。
また潜り、頭に爪を立てるほど力強く髪を掻き回した。水中で身を丸めて何をしているのかと思うと、いちいち足を抱え、その指の間まで洗っている徹底ぶりだった。
冷たさに顔をこわばらせることなく、むしろうっとりするような快楽の表情を見せて、ランタンはしばらく水の中で身を清め続けた。
ようやく満足したのか、ランタンはゆっくりと縁へと近付いてきた。
リリオンが手を差し伸べて、一気に引き上げる。
握った手は氷でできているみたいに冷たく、身体からはもうもうと白い蒸気が立ち上っている。放っておいたら肉体まで霧のように散ってしまうのではないかというように。
そんなランタンを素早く、大事そうに大布で包み込んだ。ルーも既に側に控えており、足元に跪くとランタンの足を拭い始める。
「すっきりした?」
「うん」
「そう、よかったわ。わたしもしようかしら?」
「おすすめはしない。飛び込んだとき心臓止まるかと思った」
ランタンはそう言ったが、上がってきた顔がこの上なくすっきりとしているのが羨ましくなったのか、男たちが次々と裸になって湖へと飛び込んでいった。
「だぁっ、寒ぃ、痛え! くそっ!」
「あーっ、ばかっ! ばかじゃねえの!」
「ぐあああっ!」
罵詈雑言や断末魔のような悲鳴を上げながら、男たちはそれでもランタンに倣って潜ったり、洗ったりを試みる。
それは溺れているように見えるが、やがて冷たさにも慣れたのか笑い声も聞こえるようになった。
魚たちが恐る恐る近付いて、洗い落とされる垢を啄んだ。次第に何匹も集まってきて、大胆なものになると探索者の身体そのものをつつくのもいる。
それを見てもうここの魚は食えないな、とランタンは思う。
清潔な着替えに袖を通し、最後まで湿ったままの髪を魔道で乾かすとランタンは気分がすっきりしている自分に気が付いた。
焚き火に当たりながら、熱い茶を飲む。
目の前からテンが幻のように消え去ってから、自分だけではなく遠征隊全体が暗くなっていた。
その気持ちは今でも引きずっているが、そんな中でも喜びを感じる瞬間はある。相反する感情も人の中では両立する。
人間は複雑だ、と思う。
男たちが湖から上がり始める。
ランタンに対するリリオンのような存在はいないので、凍える身体を自力で陸上に引き上げなければならず、ずいぶんと苦労しているようだった。
女たちが見かねて、男たちに手を差し伸べる。力強く手を握って、探索者らしく逞しい男たちを次々と引き上げていく様子は勇ましい。
「身体は拭いてくれないのか?」
「甘ったれんじゃないよ。ランタンぐらい可愛げがあれば考えてやってもいいけどさ」
女は言いながら乾いた布を男に投げ渡した。
少し羨ましそうに男の肉体を横目にし、その冷えた身体を温めるための茶を入れてやる。
「ありがとさん、生き返るぜ」
魔道でもって地形をへこませ、湖から水を引き入れる。
ランタンは手の中に炎を生み出し、水の中にそれを沈めた。
炎はしばらく水中で燃え続け、湯が沸いた。ランタンは手を入れて温度を確かめ、熱くなりすぎていたので水を引き入れる。
「これぐらいかな。ぬるくなったらローサに頼んで温めてもらって」
「ありがと」
ランタンは男たちを代表して礼を受け取った。
どういたしまして、と道化じみて後ろへ下がる。
「ごゆっくりどうぞ」
ランタンを見て男たちが羨ましくなったように、綺麗さっぱりした男たちを見て女たちも自分の不潔が許せなくなったようだった。
そんな女たちのために拵えた簡易的な露天風呂だ。
水の冷たさを知ったからこそ、そこに女を入れるわけにはいかないと思ったのだろう。
わざわざ天幕を張って、目隠しにしている。
女たちがぞろぞろその中へ入っていき、最後の一人が男たちへ告げた。
「覗くんじゃないよ」
「覗くか!」
「覗いたらランタンが黙ってないからね。こっちにはリリオンがいるんだ」
「僕は黙ってるよ」
「あら、そうなの?」
「忠告はなし、見つけ次第に殺る。だから安心して温まって」
「そりゃ安心だ」
女が天幕の中へと入っていく。
天幕内は蒸気がたまって既に温かかった。
女たちがきゃあきゃあと言いながら裸になっていく。
「探索だってこんな事はないね」
「こんな知らない土地で風呂だなんて」
鎧を外し、服を脱ぎ、しかしその下にあるのが柔らかな肌だとは限らない。
獣毛や鱗を持ち、戦いの中で受けた傷跡も数え切れない戦士の肉体だった。変異もあるから千差万別で、そんな中でやはりリリオンの肉体はよく目立った。
ルーやガーランドなどの高位探索者やそれに類する戦闘力を持つものの肉体も魅力的だが、リリオンのそれは格別だ。
解いて波打った髪が背中に流れる。毎夜、ランタンに梳かしてもらっているからだろう旅の痛みを感じさせない。
すらりとした背筋に、腰の位置が高い。力強さもあるがしなやかで、なにより丸い尻の小ささがまだ少女の幼さを現している。
それはランタンと共通する普通の探索者にはない部分だった。
思わずリリオンに注目している視線はいくつもあったが、少女は気にもとめていない。
ローサの着替えを手伝ってやり、風呂に飛び込もうとするのを引き止める。
「ちゃんと身体を流してからにしなさい。みんなのお風呂よ」
リリオンのそんな言葉が耳に届き、我先にと風呂に入ろうとしていた女たちがしれっと掛け湯をした。
肌の上を流れる温かさに思わす表情が緩んだ。
爪先に湯の熱さを確かめて、身体を沈める。ぐっと足を伸ばすと、もうそれっきり身体に力が入らなかった。
「ああ、幸せだ……」
「そうね」
思わず呟いた言葉に誰かが同意した。このような幸福感はしばらく味わってはいない。
なんて即物的なのだろうと思った。
幻のように消えてしまったテンのことをあんなに哀しく思ったのに、その哀しさが湯の中に溶けてしまったようだった。
人間なんてつくづく単純なものだ、と口元に自嘲が浮かんだ。
小さな頭と、そこに生えた柔らかな髪を撫でたことを思い出した。
子を持つことは探索者になってからすぐに諦めた。
もし子を産んだとしても、それを置いて迷宮へ挑むことはきっとできないと、そう思ったからだ。かといって子を迷宮に連れてくるなんて、それこそ馬鹿げた考えだ。
なぜそれほど迷宮に執着していたんだろうと思う。
戦いの中で背中を預けられる男にも出会って愛し合うこともあったが、結局は別れてしまった。
もしも二人の間に子供ができていたら、自分は伯爵領の戦いに身を投じることもなく、こんな身体になっていなかったのではないかと思う。
湯の中で手を洗った。
酷く鋭い爪が生えていて、ざぶざぶ顔を洗うと肌を刻んでしまうことがある。
テンの頭を撫でてやるとき、ずいぶんと気を使った。こちらがそんな風に気をつけていることをテンは知らなかった。ただ無防備に撫でられてくれたことは喜びだった。
「――テンは可愛かったね」
思わず呟かずにはいられなかった。談笑していた女たちがふっと口を噤み、静かになった。
思い出してさめざめ泣く女もいる。
「だから神様が連れていっちまったのさ。手元に置いて可愛がるために」
「やるせないね」
「まったくだよ」
身体が温まったので湯から上がる。
妙にいい香りがするので何だろうと思うと、ローサが泡まみれになっていた。
「いい香りの石鹸だね」
「ローサのあわ、あげようか」
ローサはそう言って身体のあわをこそげ取り、こちらに寄越してきた。もう受け取らないわけにもいかないのでその泡で身体を洗った。
「ほんとうにいい香り。高いんじゃない?」
「ランタンがくれたのよ」
「気の利く男だこと」
リリオンは自分が褒められたみたいに嬉しそうに笑った。
洗い終えて再び湯へと戻る。少しにぬるくなっていたので、ローサが炎を身に纏って湯へと飛び込んだ。
「リリオンとルーはさ、喧嘩になんないの?」
「どうして?」
「ランタンを取り合ってよ。女が二人いて、男が一人でしょ? 勘定が合わないじゃない」
「ならないわ。ねえ」
「ええ、ありがたいことに」
「ふうん。よっぽどリリオンの心が広いのか、ランタンの具合がいいのかどっちかしらね」
考えても埒があかないので、我関せずと言った様子のガーランドへ視線を向けた。
「ガーランド、あんたはランタンのお手つきじゃないのかい?」
そんなことを問い掛けるとガーランドは珍しく、はっきりと表情を曇らせた。
「馬鹿なことを言うな」
「馬鹿ってあんたね。でもそうか、経験なさそうな顔してるものね」
「――そういうお前たちはあるのか?」
呆れた様子で言い返したガーランドだが、女たちは思わず噴き出して笑った。
「あっはっはっ、そりゃあるでしょうよ。女の探索者なんだから」
探索者には男が多く、女は少ない。
探索中は何日も一緒に行動するし、危険もともにする。前衛後衛、守ったり守られたり、そういった役割を男女間の感情と混同することも珍しくはない。いつ死ぬかわからない命の危険に晒された肉体が、異性を欲することもある。
置いてけぼりのガーランドがむっとした顔になった。
「ああ、おっかしい。笑いすぎたよ、悪かった。なんだあんたかわいいところがあるじゃないか」
ガーランドはますます心を閉ざし、もう口を利かなくなった。
「――まあいい男だけど、ちょっと子供過ぎる。それにランタンはリリオンのだろ。手は出せないよ。出してもくれないだろうし」
「ハーディは? あれは一番だろ」
「顔も身体も腕っ節も良いね。あの髭も素敵じゃない」
「確かにいい。でもあれは自分が一番って男だろ。困ってりゃ手を貸してくれるだろうけど、自分の望みが目の前に現れたら絶対そっちを優先するね。女のことなんてほっぽらかして。絶対に苦労するよ、あの手の男は」
「あ、それあんたの昔の男のことじゃない? まだひきずってんの? じゃあゼインは?」
「生真面目すぎ」
「フィン」
「顔が好みじゃない。っていうかデイジーの彼氏でしょ?」
「違うよ。あたしは面食いなの」
ぎゅうぎゅうになった風呂でも、デイジーの周りには空間があった。彼女が嫌われているからではなく、彼女の硝子質の肌がそうさせるのだった。
「あーあ、リリオンが羨ましいわ。この肌じゃ、いい男だって切り刻んじゃう」
「デイジーさんだって綺麗よ」
「どこが?」
「朝日を浴びると、肌がきらきらして宝石みたい」
「なぐさめはやめて」
「本当よ」
デイジーは拗ねたように唇を曲げる。
「――じゃあさ、リリオンは自分の嫌いなところは?」
黙り込んだリリオンを見て、ほらね、と曲がった口を開いた。
「大きいところ」
「え」
「わたし、もっと大きくなるかもしれない。もしそうなったらランタンと手を繋いで歩けなくなるわ」
「なんだ、それぐらい?」
「もっと大きくなったら、一緒に寝られなくなるかもしれない。ランタンのこと潰しちゃうかもしれないから」
遠征を見送ってくれたトールズを思い出した。リリオンのその悩みが生々しく思えた。
「リリオン、ごめん。悪かったよ」
「考えると不安だけど、でも、わたしはわたしを嫌いじゃないわ。ランタンがわたしのこと好きって言ってくれるもの」
「――そう言ってくれる人がいるんならね」
「わたし、みんなのこと好きよ」
リリオンが真面目な顔でそう言うので、デイジーは思わず天を仰いだ。
天幕の上部にたまった蒸気が結露し、ぽたぽたと垂れて肌を叩いた。




