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カボチャ頭のランタン  作者: mm
03.All That Glitters Is Not Gold
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 部屋には窓も換気扇もない。水道もガスコンロもない。あるのはただ雨風をしのぐための屋根と壁、そして身体を横たえるためのベッドがあるばかりだ。不便に思う事もあるが、ランタンはこの部屋をなかなか気に入っている。どうせ料理など滅多にしないのだから。

 しかしどうしても家で温かい料理が食べたい場合には市場で購入した料理が冷めないうちに急いで帰宅するか、部屋に臭いがつかないように扉を開けて、玄関と廊下の境目に探索用の携帯火精結晶コンロを用意してそれで料理をする。残念ながらランタンの住む部屋にはベランダやバルコニーと呼ばれる小洒落たスペースもないのだ。

 ふと指の冷たさが気になったのは、昨日の昼過ぎの事。

 太陽の暖かさがいやに身に染みて、すっかり良くなったと思っていた己の身体がまだ少し本調子から外れている事に気が付いた。

 身体を温める物が食べたい。だが朝っぱらから市場に買い出しに行くのは面倒である、と言うわけで久々に料理をすることとなった。

 飯盒(はんごう)に水と酒、玉葱は半玉、大蒜(にんにく)は一欠片、そして生姜を大量に刻んで入れる。塩は一つまみ。さらに内臓と皮を除いた鳥肉を入れたらば、火精結晶コンロで熱する。鳥肉の表面が次第に白み、灰汁が出たらそれを神経質に取り除き、沸騰したら蓋をしてコンロから外す。その鳥肉が入った飯盒を毛布でぐるぐるに巻き包みにした、次の日の朝。飯盒はまだ熱を残している。

 やはり身体が冷えているな、と起き抜けのランタンは改めて思う。

「これを食べるの?」

 飯盒の蓋を開けたリリオンが中身を覗き込みながら呟いた。それは薄く油膜の張った(ぬる)い鳥のスープというなんとも微妙な出来である。スープの中に浮かぶ白んだ鳥肉が心無し水死体のようにも見える。

 あまり大蒜の香りがしないが、問題は無い。

(あった)め直すよ。お米入れてお粥にするから」

 ランタンはスープの中から鳥肉を取り出して皿の上に除けた。廊下に広げたコンロに火を入れて飯盒を設置する。

「リリオンは肉を骨から外してほぐしといて。手、洗ってからね」

 何かとパサつきがちな鳥肉も余熱で火を入れる事でその肉はふっくらと炊きあがる。

 過去に調理途中に火精結晶の魔精を切らして、少しでも熱を逃すまいと苦し紛れに毛布にくるんだ事で偶然発見した調理法である。時間が掛かるのが難点だが、睡眠中に朝食の仕込みができると思えば悪くはない。

 苦し紛れに鳥肉に爆発を食らわさなくて良かったな、とランタンは飯盒の中にざらざらと乾燥米を注ぎながら昔を懐かしんだ。

 その当時、外食を改めて自炊しようと考えていたようも気がするがどんな理由でそう思ったのか、今では思い出せない。結局自炊しないのは、面倒くさかったからだろうが。

 半透明状の痩せた乾燥米がしだいにスープを吸っておおらかな楕円に太り、熱しながら底が焦げないようにかき混ぜていると次第にとろみが出てくる。出来上がりの直前にリリオンがほぐした鳥肉を戻して、肉が温まればそれで出来上がりである。

 スプーンの先に少しだけ掬い取って味見をする。薄味だがちょうど良い。満足気に頷くランタンの横でリリオンも味見をせがんだ。雛鳥のように口を開けて阿呆面を晒している。

 鳥肉を骨から外す際に少しつまみ食いをしていたようだが、意地悪をするのも可哀想なので食べさせてやった。

「うすい」

 リリオンには少しばかり薄味過ぎたのか、塩の小瓶に手を伸ばそうとしたのでそれを(たしな)め、自分の椀の中で味を調節するように伝えた。ランタンにはちょうど良いのだ。

 探索者家業は肉体労働なので濃い味が好きなのも仕方がないと言えば仕方がない。

「あんまり濃い味に慣れると舌が馬鹿になるよ」

「バカになったらどうなるの?」

「その頃にはそうだね――、例えば身体が浮腫んだり、高血圧、動脈硬化、心筋梗塞、あと腎臓の機能が」

「じんぞう! ランタンのじんぞうは大丈夫?」

 自分が尋ねたくせにつまらなそうな顔でランタンの垂れる適当な講釈を聞いていたリリオンが、腎臓の一言に反応してランタンの脇腹を掴んで擽った。

 リリオンはランタンの内臓でも透視しようかと言うように、じっとりと細めた瞳でランタンの胴体を睨み付けて唸っている。残念ながら腎臓の位置はリリオンの視線よりももう少し上で、更に言えば背中側でもあったがどこを見ようとも内臓を透視できるわけでもないので黙っておいた。

 先頃ランタンは毒に犯されて、その治療過程において内臓、特に腎臓肝臓の大切さをギルド医から耳にタコができるほどに聞かされた。

 ランタンはこの上なく不真面目な聴講生だったが、その時にランタンからくっついて離れようとしなかったオマケのリリオンは(しっか)りと腎臓肝臓の大切さを覚えて帰ってきたようだ。もっともそれらがどのように働くかは理解せず、ただ大切であるという一点のみにおいて心に刻んだようだったが。

「大丈夫だよ、腎臓って二個あるし。っていうか火傷するから触るな、擽るな。朝ご飯が無くなるよ」

 コンロから飯盒を外し、裾の中に手を引っ込めてそれを持ち上げたランタンは擽ったいのを耐えながらリリオンから逃げ出して、部屋の中に戻った。せっかく作った料理を危うく床に落とすところだった。

「コンロ回収、ドア閉めて。熱いから火傷するんじゃないよ」

「あつい!」

「……」

 コンロ回収の際に火傷したらしき人差し指を口に含みながらリリオンがすっかり意気消沈して戻ってきた。それでも、もう一方の手に言いつけ通りにコンロを回収している辺りは律儀である。リリオンはコンロをテーブルの脇に置いて、それからようやくランタンの傍に寄ると唇から指を抜き取って、唾液に濡れた患部を見せつけた。

 細く白い指の腹はコンロの縁を触った事で、蚯蚓腫れにも似た赤い火膨れをおこしている。だが大した怪我ではなく、まさに唾を付けておけば治る程度の火傷である。

 リリオンはしょんぼりとした顔で小さく、痛い、と呟いた。

 もっと酷い怪我でも平気な顔をできるのに、とランタンは柔らかく笑った。

「もうちょっと口の中に入れときな」

「うん」

 リリオンが言われたとおりに指を咥えながら、ランタンができあがった料理を椀に取るのを眺めている。その姿は妙に愛らしく、そして同時に早くしろと急かされているような感じもした。リリオンの口の中で、舌が動いて指先を舐めているのが頬の動きで分かった。じゅる、と唾液を飲んだ。

 生姜の香りが食欲をそそる。

 家で料理をするなど久しぶりだが、なかなか上手くできたと思う。とろとろに炊きあがった粥を椀に取りテーブルに並べる。大盛りの粥だけの朝食は、まるで修行中の僧侶の食事を思わせる質素さである。

「いい匂い」

 だがそんな事が気にならないほどに香り高く、料理から立ち上る湯気には料理の見た目を二倍にも三倍にも見せる奇妙な魔力が込められていた。米と鳥肉の白の中で、生姜の黄がまるで砂金のように光っている。

 リリオンが唇から指を抜いて服の裾で拭うより先に、ランタンが布で拭ってやった。視線が絡むとリリオンは照れたように笑い、スプーンを手に取った。

「いただきます」

「きます!」

 スプーンに掬った粥は本当に黄金ほども重い。ふぅふぅと冷ましたが、口の中に入れると飲み込めないほどに熱く、だがその熱さえもが旨味であるような気がした。ランタンは口の中で転がしながら粥を冷まして、はふはふと白い息を吐いた。その吐息の中に生姜の香りが混じる。

「うん」

 溶けて無くなってしまった玉葱の素朴な甘さに、少しだけぴりっとした生姜の優しい辛みが味を引き締めている。鳥出汁で炊いた米にも確りと旨味が染みこんでいて、鳥肉自体も柔らかく噛みしめると肉の味がはっきりと感じられる。大蒜は香りこそは出ていないが鳥独特の臭みを完全に消しているので、入れたのは正解だった。

「ランタンって、お料理もできるのね」

 リリオンの言葉に、ランタンは少しばかり首を傾げた。

「これを料理と言っていいかは迷いどころだけどね。米は戻すだけの乾燥米だし、野菜を切ってくれたのはリリオンだしね」

 市場で購入した鳥肉は首も落としてあり、内臓も抜いてある。羽根も毟られており、産毛も焼いて処理してあるちょっと割高な商品だ。

 魔精結晶を得る為に魔物の解体もするのでランタンに動物を捌く技術が無いわけではないが、肉を邪魔な物として見る解体と、肉自体を必要とする解体ではやはり勝手が違う。

「あとはぶち込んで炊くだけなんだから、誰だって出来るよ」

「……わたしも料理できるよ」

 リリオンは粥を口に運びながら、まるでランタンに尋ねるかのように呟いた。

「うん、前に聞いたよ」

 実際、玉葱を刻むリリオンの手つきは心配するランタンを拍子抜けさせるほど順調だった。包丁として使用した刃物が刀身が()の字に折れ曲がった狩猟刀だと言う事を加味すると、もしかしたら普通の包丁を持たせればそれなりの料理を作るのかもしれない。

 だが、そもそもとしてこの部屋には台所もなければ調理器具もない。ランタンの持つ調理器具はこの携帯用火精結晶コンロと飯盒だけだ。

 ランタンは冷まさなくても食べられる程度の熱さになった粥を、匙ごとがぶりと口の中に放り込み、少しだけ考えた。リリオンも増えた事だし、もう一つ火精結晶コンロを買っても良いかもしれない。ついでに携帯用の調理器具ももう一種類。飯盒は煮る、蒸すを可能にするので、やはりフライパン辺りが狙い目だろうか。

「あーあったかくなってきた」

 食後の満足感が(にじ)み出る、とろんとした声でランタンが呟く。

 すっかりと椀を空にする頃には生姜の辛みも相まって身体がぽかぽかとしてきた。指の先まで熱で満たされて、リリオンに至っては額に汗の粒さえもが浮き出ている。ランタンがそれをそっと拭ってやると、リリオンが目を細める。おっとりと吐き出した息が僅かに白んだ。ぱたぱたと襟元を扇ぐ。

 その表情を見ているとランタンもつられて眠たくなるが、眠っている暇はないのである。

「家でご飯作ると、これがめんどうなんだよね。ふあ……」

 大きな欠伸を一つ。口を押さえられなかったのは両手を使っているからだ。

 飯盒に椀、コップにスプーン。食事を終えたならば、速やかに洗い物をしなくてはならない。時間が経てば経つほどに面倒くささは増加してゆくし、米は食器に根を張るが如くこびり付く。

 洗濯物ならまだしも、食器を洗うのに風呂の残り湯を使う事はできない。コックを捻るだけで湯の出る蛇口はないので、洗い桶の中に水精結晶の水を張った。たとえ探索者であったとしても呆れるほどに高価な洗い水である。

 爆発で洗い桶の中の水を熱すると高確率で洗い桶自体が弾け、熱湯が飛散し、水の大半が水蒸気と化してしまうので、水の冷たさには我慢しなければならない。

 ランタンが洗い物をして、リリオンが綺麗になった食器を乾拭きする。

 洗ったスプーンをフォーク、ナイフと共に布に包み、それを飯盒の中に納めてから背嚢に詰め込む。その近くにはビスケットや乾燥米、干し肉などの探索食が数日分納められている。

「忘れ物は?」

「ないよ!」

 使った食器類はすべて背嚢に戻した。水筒も水精結晶を新しくした。

 服を着替えて、リリオンの髪をお下げに結った。布団は畳んだ。貴金属も、盗まれてはいけない物も置いてはいない。部屋の中に腐るような物も残してはない。

 先頃、一週間以上も部屋を空けた時は、前もって準備ができなかったので買い置きしていた果物が駄目になってしまっていた。そうすると部屋をきちんと施錠していたとしても虫が湧く。まったく奴らと来たら黴の中から生まれたのではないかと思うほどに神出鬼没で嫌になる。虫も、腐敗臭も全て消し去るのに一日以上掛かった。再びその愚を犯すような事はしない。

 部屋を出る最後に指差し確認を一つ。リリオンがそれを真似したが、一体何を指差しているのかランタンにはよく分からない。だが本人が楽しそうなので見なかった事にする。

「早く出てこないと閉じ込めるよ」

「やだ、もうっ、まって!」

 慌てて廊下に出てきたリリオンが最後に一つ指を差した。リリオンは火傷の事などすっかり忘れたように、火傷した人差し指でランタンの肩を突いて()の字を描いた。

「肩は大丈夫?」

「大丈夫だよ」

 施錠して階段を降りる。今日の背嚢はずいぶんと軽い。肩を怪我したランタンを気遣ってリリオンが多くを持ってくれているのだ。肩はすっかりと治って傷跡さえも残っていないが、心遣いはありがたく受け取っておく。

 下街の通りを通り過ぎながら横目に露天を眺める。何もかもが手に入ると噂の下街の目抜き通りの闇市だが、混沌としたそこでさえ需要と供給の市場法則からは逃れる事はできない。

 料理道具でも置いていないかと視線を彷徨わせるが、目につく金物と言えば刀剣類に始まる武器、そして防具の類いであり、並びで包丁こそ置いてあれどそれの需要は決して料理の為ばかりではない事は一目瞭然だった。

 目についた包丁は血に錆びていたり、まともな物は妙に禍々しい雰囲気があったりでとても手を伸ばす気にはなれない。鍋やフライパンも全くないわけではないが、それはどこかの店の払い下げかあるいは盗品なのか、個人で扱うには無駄に大きくて、迷宮へと持ち込むともなると盾や兜になるかもしれないと思わせるような品々なのである。

 ランタンは鍋の兜とフライパンの盾を装備したリリオンを想像してこっそりとほくそ笑んだ。

 そんな事とは露知らず、リリオンは相変わらずちょくちょくと買い食いをしている。ランタンに、買いに行くからちょっと待っててね、と心配そうに言うのも相変わらずだが、男の店主とのやり取りは前よりも堂々としていて、ランタンは何だか嬉しい気持ちになった。

 リリオンがお気に入りの羊肉串を手に持って喜色満面に戻ってきた。

「一番大きいの貰ってきたわ」

 それはまさしく戦利品と言えた。

「よかったね」

 目抜き通りを突っ切って下街からそのまま迷宮特区に入り、予約した迷宮のある区画まで行くと既に起重機(クレーン)がそこに駐まっていた。なじみの引き上げ屋であるミシャが起重機の座席に腰を下ろして、なにやら書類に目を落としている。今日、迷宮へ下ろす、あるいは迷宮から引き上げる探索者のリストだろうか。

 足音を殺したわけでもないが、駆け寄ったわけでもない。だがミシャはランタンたちが近づくと声を掛けるよりも先に、その気配を察したのか書類から顔を上げた。ランタンの姿を認めると、書類をしまって起重機から軽やかに飛び降りる。おかっぱの髪が、海面に姿を現す海月のようにふわりと広がった。

 引き上げの予約を頼みに行った時にはミシャは仕事で出払っていたので会うのは久しぶりである。ランタンよりも少し小さい身体におかっぱ頭は久しぶりに会っても変わらない。変わらないその姿にランタンは不思議とほっとして、それから少しぎょっとした。

「あー、……おはよう」

「おはようございます」

 挨拶と共にミシャは頭を下げて、その面を上げると少しばかり目が怖かった。リリオンには微笑みかけたその視線が、じろりとランタンの上から下までを舐め回す。ランタンは居心地が悪そうに、下唇を噛んだ。

「ランタンさん、ずいぶんとお痩せになられたようで」

「えっと、そう、かな?」

 もともと肉付きのいい方ではないので、痩せるほどの肉はなく、多少痩せたからと言ってもそれほど目立つものではないと思っていた。だが久しぶりに会ったミシャは、だからこそかもそしれないが、一目見て溜め息を吐き出した。

 肉を極薄く削いだように僅かにほっそりした頬を撫でさすって、ランタンは頬をミシャの視線から遮った。痩せた自覚が無かったわけではないが、いざ指摘されると少しばかり後ろめたい気持ちになる。

 それはミシャがランタンの事を心配してくれているのを知っているからだ。ミシャ以外の引き上げ屋の世話に掛かった事はないが、他の引き上げ屋がこうも親身になってはくれない事ぐらいは知っている。

 リリオンが大食漢なので、その影響でランタンも昔よりは食べる量が増えているとは思うのだが、なかなか体重は増えない。身長も伸びない。

 ぼろぼろになった服を買い換える際に、袖を詰めたり裾を上げたりする際に出る端布(はぎれ)は、様々な用途で役に立っている事には役に立っているのだが、やるせない気持ちにならないわけではない。

 四六時中、行動を共にしているリリオンはランタンの変化には気づいていなかったようでミシャの言葉にきょとんと小首を傾げて、ランタンの頬を突いてみせた。

「ランタン、んぐ、やせちゃったの?」

「口に物があるまま喋らない」

「うん」

 リリオンは頷きながらもランタンの頬から指を放さなかった。

「ねえ、ミシャさん。ランタン、やせたかな?」

 リリオンはようやく指を離したかと思うと、よく分からなかったようでミシャに意見を求めた。それはまるでミシャに、どうぞ触って確かめてみてください、と場所を譲ったかのようで、ミシャは一瞬戸惑って固まり、ぎこちなくランタンへ視線を寄越した。

 触られたからといって減るものでもない。ランタンが小さく頷くと、ミシャも頷いた。

「じゃあ失礼しまっす」

 変な敬語にランタンが身体を震わせて吹き出すの堪えると、ミシャは触れる寸前でもう一度ランタンに確認の視線を寄越した。ランタンはまるっきり無防備に目を伏せる。ミシャの指先がランタンの頬に触れた。今日はミシャの指に油汚れはない。

 ミシャの指も冷たいな、と思う。

 すべすべと言うよりはつるつるした感じの指の腹がランタンの頬を怖々(こわごわ)と擽った。頬骨の辺りから奥歯の方へと指先を動かして、頬の中心を触ったところでランタンはミシャの指先を頬の内側から舌で押し返してみた。

「……!」

「ふふっ」

 ミシャは大げさに自分の指を胸の前に抱きしめて、笑い声を漏らしたランタンをきっと睨んだ。ランタンはとっさに視線を外して空惚けてみたが、視線は千の針を押しつけられたように痛かった。大きな溜め息が聞こえてきて、ようやく痛みがなくなる。

「ランタンさんは、痩せたっすよ。あと性格も悪くなったっす」

「性格は変わらないよ」

「じゃあ前から性格が悪かったんっすね」

 それに関しては言い返す事ができないのでランタンは黙っておく。

「わたし、わからなかったわ……」

 リリオンがぽつりと呟く。それはどっちの意味で、とは聞かなかった。

 療養中は多少の食事制限はあったが絶食したわけでもないし、量的には普段通りに食べていたのでリリオンが気づけないのも無理はないだろう。カロリーの概念を解する人間は、おそらくこの世界にどれほどもいない。

「まあ、ちょっと色々忙しかったし、そうかもね」

「……やっぱりお休みになってたんじゃなかったっすね」

 まったくもう、と嘆息するミシャにランタンは困った顔になった。

「一体何をされてたんですか?」

 ミシャに聞かれて、ランタンは言葉に詰まった。毒に犯されていました、などと馬鹿正直に言うと迷宮に下ろしてもらえない可能性もある。ミシャにはその権利があった。

 引き上げ屋は契約した探索者を迷宮に下ろさない権利を有している。それは探索者ギルドから引き上げ屋業の承認を得ている正規の引き上げ屋と契約する時には、契約書に必ず記されている権利であり、同時に課せられた義務でもある。

 それは探索者を救う為の権利と義務だ。

 この権利は、例えば予約を受けた探索者が探索当日に、様々な理由で探索能力を減じている事を引き上げ屋が確認し、探索実行の可否に対する正常な判断を探索者本人が下せない場合に、その判断を引き上げ屋が代わりに下す事ができる言うものである。それにより自殺とも呼べる無謀な探索を水際で食い止める事ができ、探索者の生存率を向上させる事を期待されている。

 しかし期待は往々にして裏切られるものでもある。

 この権利は定められてまだ歴史が浅く、しばしば揉め事を引き起こす事がある。

 いざ探索をしようと意気込んでいるところに水を差されるのだから探索者としてはたまったものではないし、その水を差された探索者の判断能力は酷い有様なのだから、酔っ払いに道理を説くよりも高確率で暴力沙汰が起こる。今までの歴史の中で人死にが出ていないのは、ただ(ひとえ)に幸運と、その権利が真っ当な理由で行使された回数が少ないからである。

 つまるところ探索者が死のうとも、自己責任、の一言で権利は容易く放棄されるのだ。

 そしてまた真っ当な建前を振りかざし、この権利を悪用する引き上げ屋の存在もある。

 探索に送り出した探索者の帰還率の低い引き上げ屋は探索者に忌避(きひ)される傾向がある。

 未帰還者を多く出した引き上げ屋を縁起が悪いと感じてしまうのは、例えその未帰還が探索者の実力不足による物だったとしても、探索者にとっては自らの命が掛かっているのだからどうする事もできない感情だ。帰還率が七割を超えれば縁起が良く、五割を下回れば二の足を踏む。

 また引き上げ屋にとって自らが送り出した探索者が未帰還になる事はやはり不名誉な事であり、商売を行うにあたっての汚名そのものである。帰還率の低さを前面に出し、子供から老人まで、観光から自殺まで誰だって大歓迎、などと自虐的な広告を打つ引き上げ屋は極々稀な存在だ。

 帰還率の低い新人探索者などは引き上げ代が露骨に割高であり、そもそも新人の降下予約を受け付けていない引き上げ屋だって存在する。

 いざ予約を受けたものの迷宮口を目の前にして怖じ気づいた新人探索者に、己の店の帰還率が下がる可能性を嫌って権利を振りかざす引き上げ屋や、前金だけ受け取ってその権利によって降下作業を拒否する引き上げ屋の話だって聞かないわけではない。

 幾ら金を積もうとも探索者を迷宮へ下ろすか否かの判断は引き上げ屋に委ねられる。

 探索者に、特に新人の探索者にとって引き上げ屋は探索者人生の生殺与奪の権利を握る絶対的な存在とも言えた。

 無論ミシャは真っ当な引き上げ屋であるし、その店主であるアーニェも真っ当な経営者である。権利を悪用する事も、それを横暴に行使する事もない。だからこそミシャに、ダメ、と一言言われたらランタンはそれに抗う術を知らない。

 ミシャの言葉以上の正当性をランタンは己の中に持たない。

 ランタンは困った顔のまま笑って、ミシャの鋭い舌鋒をどうにか逸らして話題を変えようとした。だが逸らした先には脳天気な少女がいて、槍の穂先の如き舌鋒に突き刺された少女は苦い顔をするランタンなどお構いなしに馬鹿正直に口を割った。

「――へぇそうなんっすか、リリオンちゃん。へぇ、ふうん、大変だったみたいっすね」

 ミシャはリリオンとにこやかな会話を繰り広げながら、笑みに細めた瞳の奥でランタンを睨み付けた。

 ランタンの掌に穴が空いたという話を聞くとミシャは頬を浅く吊り上げて微笑み、肩にも穴が空いたと聞くと薄い唇が引き延ばされてより薄くなる。それは酷薄な笑みを(かたど)り、視線はいよいよ絶対零度となった。朝食で温かくなった指先が冷たくなった。

 そして毒に犯された、とリリオンの口から語られた時にはもう、ランタンはミシャの顔をまともに見る事ができなかった。足元でたまたま列を成す蟻の集団を見つけて、現実逃避を試みる。

 この蟻はどこへ行くのだろうか。例えば迷宮の中まで降りていくような事はあるのだろうか。

「――私、結構ランタンさんの事心配してるんだけどな。あーあ、私の言葉なんて何にも聞いてもらえないんだ」

 仕事用に取り繕っている語尾の跳ねる独特の敬語ではなく、ありのままの少女らしい年相応の軽い口調と、やるせなさそうな投げやりな声はランタンの良心を深く抉った。蟻の行列から視線を上げたランタンは眉毛を八の字にして情けない顔になった。

 リリオンがその顔をさも珍しそうに覗き込み、ランタンの痩せた二の腕を抓って引っ張った。ランタンはリリオンから顔を背けて、その抓った指先を払い落とした。

「……痛いよ」

「わたしも前に無茶しちゃダメって言ったのに、嫌だ、って言われたわ。わたしも心配したのに」

「……そんな言い方してない」

「でも言った事は事実なんっすね」

 リリオンへと向けたちょっとした反論は完全なる藪蛇だった。ランタンは抓られた二の腕を擦りながら、ミシャへの言い訳を重ねる。

「だって、ほら。無茶しないと探索者やっていけない、ですし、……ね」

 迷宮探索において無茶をしなければ打開できない場面は往々にしてある。だが、だからこそいかに無茶をせずに済むか、と考えるのが普通の探索者であり、この業界に身を置いているミシャは当然のようにそのことを知っているだろう。

 つまりランタンの言葉が完全なる開き直りである事は、口に出す傍からミシャにバレているという事だ。

 ますますもって目が怖い。

 ランタンは沈黙は金の教えに従って押し黙った。殊勝な態度でミシャに相対する。

「迷宮に降りて傷ついて、地上でも無茶をして。――本当に、いつか取り返しのつかない事になるっすよ、ランタンさん」

 その瞳の怖さは、それだけミシャが真剣である事の証明だ。ミシャはただ純粋にランタンの事を心配している。ミシャの見るランタンの姿の半分は、迷宮から帰還した姿であり、迷宮から帰還したランタンはいつだって傷ついている。

 ミシャの言葉をリリオンがいつの間にか(かしこ)まって聞いていた。

 ランタンがこれまでいかに傷ついて地上に戻ってきたか、そして傷が癒えるより先に迷宮へと再び戻ったか。それがようやく迷宮探索を長く休んで、ようやく自分の身体を大切にするようになったかと思えば、と言うような事を。

 リリオンは時に深く驚き、悲しみ、憤り、ミシャに心を重ねているようだった。

「――ランタン! これ、食べて!」

 リリオンがふいにランタンへと向き直り、食べかけの肉串を差し出した。まるで自分もランタンの心配している事を言外にアピールするように、大好物である羊肉串を差し出す様は健気であった。

 ランタンはミシャから自然と視線を外してリリオンの微笑みかけて、ありがとう、と一言伝えた。

 痩せた頬に浮かんだ微笑みには、うさんくさい自己犠牲の影がちらついている。

「僕はいいよ。リリオンが自分のお小遣いで買ったんだから、自分でお食べなさい」

 油でぎらぎら光っている羊の肉は、外側には確りと火が通っているが中心部はまだ生のようだった。塩の粒や香辛料がまぶされていて食欲をそそるいい香りもしているのだが、差し出されて感じたのは胃もたれしそうだなと言う拒否感だった。

 だがそんな雰囲気は微塵も感じさせず、いかにも大人ぶった優しい表情でランタンは告げ、リリオンがうっとりと頷いた。ミシャがそんな二人を呆れた視線で見つめていて、特にランタンへと向けた視線はその心の内を見透かしたように冷たい。

「ミシャさんも、食べる?」

「いいの、リリオンちゃん?」

 瞳の冷たさを一瞬で消してミシャが微笑む。リリオンはぜひにと言うように頷いた。

「ではお言葉に甘えて」

 そしてミシャは薄い唇に縁取られた小さな口を開いて肉に噛み付いた。鶏卵ほどもある羊肉一塊に噛み付いて串から一気に引き抜いたミシャは、まるで丸呑みにするように肉を塊のまま口腔にすっぽりと納めた。頬を膨らませたミシャは二度三度とそれを咀嚼しただけでゴクンと飲み込む。

 そして油に濡れた唇をちろりと舐めると、吃驚しているリリオンに笑いかけた。

「ごちそうさま。美味しいっすね」

「はー……」

「ぼうっとしてると、全部食べられちゃうよ」

 ミシャの豪快な食べっぷりに呆気にとられているリリオンに、ランタンが意地悪く呟いた。リリオンがはっとしてミシャを見つめると、ミシャはランタンを睨み付ける。

「そんな事しないから、ゆっくり食べるといいっすよ。よく噛んでね」

 リリオンはミシャとランタンと肉串に何度か視線を往復させて、それからようやく頷いて言いつけ通りに良く噛んで肉串を食べ始めた。肉の繊維が断ち切られる、ぎしぎしと軋む音が聞こえてくる。よく噛んではいるが、同時に取られないようにと早食いだ。

「ミシャ」

「なんっすか?」

「ありがとう、心配してくれて」

「そう思うなら――」

 ミシャは言いかけて、やめた。言葉の続きを言わなくともその先をランタンは知っているからで、言ったところでランタンが振る舞いを改めない事をミシャは知っているからだった。それでも懲りずに途中までを言いかけてしまった己を恥じるような、照れるような、悔しがるような。

 ミシャは恨めしそうにランタンを()めつけて、口を噤んだ。

「無茶も怪我もするけどね。死なずに帰ってくるから安心しててよ」

 ランタンの言葉にミシャが固く結んだ唇を緩めたかと思うと、大きく大きく溜め息を吐き出した。頓珍漢な事を言い出した幼子に、どう世の真実を伝えていいかと困る母親にも似た生温い慈しみの視線をランタンに寄越し、その視線を受けてランタンがきょとんとしたのを見て、とうとう堪えきれずに笑い出した。

「あの、……結構真面目に言ったんだけど……」

「ふ、ええ、分かってるっすよ。ふふっ、お気持ちは、確かに、あはは」

 ミシャはなおも笑って、ランタンはほとほと困り果てた。なぜ笑われているのかさっぱり分からないので視線を彷徨わせるとリリオンと目が合った。リリオンさえもランタンの何も分かっていない表情を見ると、呆れたように溜め息を吐き出した。

「あー、おっかしいんだ。ランタンさんって、ほんとランタンさんっすよね」

「ねー、ミシャさん。ランタンって、優しいのに、どうしてそうなっちゃったの?」

 少女二人は互いに分かり合ったように頷き合って、一人蚊帳の外のランタンは唇を突き出して拗ねたように蟻の行列を蹴り飛ばした。完全なる八つ当たりであった。

「僕、何か変なこと言った?」

 ランタンが情けない声で呟くと、ミシャが生温くランタンを見ながら優しく声を掛けた。

「真面目にあんなこと言っちゃう人には教えてあげない」

 ミシャは人差し指を立てて薄い唇に封をすると、ぱちりと片目を閉じて声なく笑った。


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