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カボチャ頭のランタン  作者: mm
02.Some Day My Prince Will Come
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045 L

045


 ランタンに迷宮に連れて行ってもらい、初めて本格的な迷宮に潜り、攻略して、とっても美味しいご飯を食べて、ふかふかのベッドで眠って起きた、その帰り道。

 なんだか動死体(ゾンビ)のような男の人たちに襲われた。

 最初はこれっぽっちも怖くはなかった。

 道を歩いていて襲われるなんてよくある出来事だし、治安の良し悪しなんて凄く悪いか少し悪いかの二つしかない事ぐらい誰だって知っている。

 男の人たちは皆がりがりに痩せていて、迷宮で戦った大きな熊に比べれば枯れ木のようだったのだけれども、リリオンはそれを不意に恐ろしいと思ってしまった。平気だ、と頭では考えていても恐怖は全身の細胞から染み出したみたいに止める事ができず、遂には身体が言う事を聞かなくなった。

 途端に指先が冷たくなった。

 死者のようなその姿。それでいて獣のような血走った目。刃こぼれをおこしてぎざぎざした剣。(うろ)を吹くような奇妙な叫び。

 その全てが。

 いや、ちがう。ただ男という存在が怖かった。それを思い出したのだ。痛みを。

 リリオンはランタンと出会う前に恒常的な暴力の嵐に晒されていた。

 何かをしても、何もしなくても、行動を共にしていた男たちはリリオンを殴った。殴られる事の理由をリリオンは知らなかったが、それでも。

 リリオンは平手で頬を張られ、拳を落とされ、足蹴にされた。それらはまだ良い方だった。空の酒瓶や、鞘に収められたままだったが剣で打たれた時は、とても痛かったのを覚えている。

 痛くて、怖くて、だけど声を出すともっと酷い目に遭うから、ただ口を噤んで我慢していた。

 暴力を振るっていた男たちは死んでしまって、目の前の男たちは別の存在なのだけれども、それでも痛みと恐怖を思い出してしまった。魔物に殴られるのも、男に殴られるのも同じ痛みであるはずなのに、血管を流れる血が次第に凍り付くように、身体が冷たく重たくなった。

 動けない、とそう思ったのだけれども、そんな事にはならなかった。

 目の前には背中があった。

 ランタンの背中はちょっと女の子みたいに小さいのに、太陽みたいに大きな暖かさがあった。手を伸ばせば触れる事も、ぎゅっと抱きしめる事もできる小さな太陽。

 凍った血が途端に溶けて、かっと全身が熱くなった。

 勇気だとか意気地だとかそういったものが腹の底で煮えたぎり、そしてこのままではランタンに呆れられてしまうのではないかと思うと、目の前の痩せっぽちな男たちなんて恐怖でも何でもなかった。

 うそ。やっぱりちょっと怖い。隠していたつもりだけど、たぶんバレてた。

 自分がどんな風に戦ったのかをリリオンは覚えていない。

 ただがむしゃらに身体を動かした。荒い息遣いや、筋肉と骨の軋み、大剣が切り裂いた恐怖の妙にあっけない手応えだけは朧気に思い出せる。

 戦いが終わって、二人並んで歩く。一緒に帰る。

 繋いだ手の温かさは、宝物のように胸の中にしまってある。



 宝物がいっぱい増えた。

 探索者になろう、と家を出た時に持ち出した大切なものは気が付けば掌から零れ落ちて何も無くなってしまった。それはとても悲しい出来事で、一つ失うごとに途方に暮れてしまったが、ただ一つ探索者になりたいという気持ちだけはちゃんと握りしめていた。

 探索者にしてやる、と言われてこの街に連れて来られた。それは藁にも縋る思いだったし、もしかしたら騙されているのかもしれない、とも思っていた。

 でもその疑いには目を瞑っていた。きっとそうやって疑いだしてしまったら、今度こそ本当に胸の一番奥にしまった大切な気持ちを失ってしまうような、そんな予感がしていたから。

 そうやって自分を騙してよかった、と今となっては思う。

 リリオンをこの都市に連れてきた男たちの真意は既に失われて知る術はない。

 だけれどもリリオンは探索者となる事ができた。探索者ランタンの庇護によって。

 リリオンが男たちの言葉の通りに探索者になれた理由は、偏にランタンの優しさ故に他ならない。

 ランタンは優しい。

 この都市へと辿り着くまでの道中に男たちの残飯を食いつないで過ごしてきたリリオンに、革の水筒に入った生温い水なんかとは比べものにならない口当たりの優しい、変な匂いや味もしない水を飲ませてくれて、温かくて柔らかくてとても美味しい料理を食べさせてくれた。

 それもお腹いっぱいに。時には自分の分も分けてくれて。

 その前には汚れた身体を風呂に入れて洗ってくれさえもした。

 旅の道中で死ぬほど汚れたリリオンには、男たちだって暴力を振るう時ぐらいしか近寄らなかったのに、ランタンは頭の先から爪の先までぴかぴかに磨いてくれた。

 まるで自力で生まれる事のできない雛鳥の、卵の殻をそっと剥がすように。こびりついた悲しみや痛みを洗い流すように。

 爪の隙間の黒い汚れまでを綺麗に洗われて、投げて寄越された寝衣代わりの簡素な貫頭衣(チェニック)はちょっとだけ丈が短かったけれど、とても気に入っている。露わになったリリオンの足をランタンが見つめてくれて、リリオンはそれがとても嬉しい。

 どうしたの、って聞くとなんでか分からないけど、耳の先っぽをちょっと赤くして目を逸らしちゃうから、見られても気づかないふりをしている。

 寝衣だけではない。ランタンがくれた物はみんな大切にしている。

 お揃いの戦闘服に戦闘靴(ブーツ)。ひらひらの外套(マント)。沢山の物を詰め込む事ができる背嚢。大きな盾に大きな剣。とても見事な狩猟刀。髪を纏める飾り紐。手首に巻き付けてもらった薄青い深度計。

 そして探索者の(あかし)であるギルド証。

 ランタンのギルド証は細かな傷がついていて銀色が黒ずんでいて何だか格好良いが、リリオンの手首に嵌まるそれはまだキラキラの銀色で、大切にしたいと思う反面、ランタンみたいにしたいとも思うのだ。

 こんな風に些細な事で悩める事、この時間もきっと。

 それはもしかしたら探索者になれた事よりも、望外の喜びであるのかもしれない。



 狙われているのはリリオンかもしれません、とランタンは言った。

 リリオンにではなく知り合ったばかりのテス・マーカムに向かって。

 テスは困っている自分たちに手を差し伸べてくれて、そこで隠し事をするなんて思いやりを踏み付けにするようなものだから、きっとランタンは口に出したのだと思う。

 それにリリオンだって薄々は自分の中に流れている血のせいじゃないかって思っていたので、それを口に出す勇気はなかったから黙っていたけど、ランタンが急にそんな事を言い出してもあまり驚くような事はなかった。

 ただ少し怖かった。

 ランタンがそれを口に出す事によって、もしかしたら、が本当の事になってしまうのではないかと思った。ランタンに迷惑がられていたのかもしれない、と寒気は一瞬。

 ランタンがその自らの考えをリリオンに伝えなかったのは、リリオンの不安を(おもんばか)っての事だとすぐに分かった。テスに向けたしれっとした顔が、ちょっとだけ小憎らしい。

 嬉しいと思う反面、悔しいと思う。もしかしたら寂しさだったのかもしれないが、それを明確に表す言葉をリリオンは知らない。

 後ろには司書がいて、目の前にはテスが向かい合わせに座っていたので頬を膨らませて拗ねるなんて事はたぶんしなかったと思うけど、その代わりにぎゅっとランタンの手を握りしめた。

 わたしは大丈夫だよって。口には出さなかったけど、そう伝えたくて。

 ランタンは少しばかり困ったような表情をしていて、リリオンに向けた視線はきょとんしていて、結局二人になった時に直接言葉にしてしまった。

 どうして私に隠してたの、って始まり、それから堰を切ったみたいに色々な事を。

 そうしたら、ごめんね、だって。

 その時のリリオンの言葉は、自分でも思い返せないぐらいに不明瞭だった。まだ言葉を話せない幼児が駄々をこねて噛み付くみたいに気持ちを伝えて、ただそれは本当に我が儘だったのにランタンはちゃんと聞いてくれた。

 そんなランタンの大人みたいな態度にリリオンはだんだんと冷静になって、そして恥ずかしくなってしまった。でも口に出した言葉を引っ込める事はできないので、そのままランタンの優しさにちょっと甘えてしまった。

 大人みたいな態度のランタンが途端に苦手な食べ物を前にした子供みたいに嫌そうな顔をして、けれど結局リリオンを甘えさせてくれた。

 いっしょにお風呂に入って、お湯の中で溶け合うみたいに身体をくっつけて、ランタンは恥ずかしがっていたけれど、身体の芯まで暖かくなるまでちゃんと一緒にいてくれた。

 その暖かさをベッドの中まで持って行って、その日は抱きついて眠った。

 もしかしたら、その日も、だったのかもしれない。



 緑の髪に黄金の瞳。ランタンを見つめるその瞳に何だかむかむかとした。

 その時はその気持ちで頭がいっぱいだった。

 それが一度負けた相手だと言う事は後で知った。

 初めて戦った時、女の腕が首に絡みつき、痛みなんかなくって、ただ眠りに落ちるみたいに気持ち良くなった事を覚えている。ランタンに助けてもらって、息を吸う事によって自分が苦しかったのだと言う事をようやく知った。

 自分が負けた事も。

 負けた事は悔しかった。できるよ、なんてランタンに言ったばかりだったのに口先だけだったのだ。ランタンにその悔しさを伝えた事はなかったけれど、ランタンにはお見通しだったのだと思う。

 いずれ再戦する事も、もしかしたら。

 組み付かれた時の腕の外し方や、後ろから首を絞められた時の対処法をランタンが教えてくれた。

 リリオンがランタンに抱きつこうとすると、ランタンはたまに嫌がって抵抗する。

 暑いとか、重いとか、苦しいとかそんな不満を呟いたかと思うと、あっと言う間にリリオンの腕の中からすり抜けてしまう。どうやったのか分からない時もあるし、ちゃんと分かるように抜けてくれる事もある。

 分かる時は、腕の中からすり抜けていったランタンが今度はリリオンを押さえ込むのだ。さあ抜け出してみろと言うように不敵にリリオンを見下ろして、リリオンの中にある負けん気を凄く上手に擽ってくる。

 ランタンはリリオンに色んな手段を教えてくれた。

 絡みつく瞬間に首の隙間に腕を入れる。肘を使って相手の脇を持ち上げる。腕が首に差し込まれるのに合わせて首を回す、そうして拘束の間に隙間を作る。

 頭を抜いてもいいし、そこに腕を差し込んで力任せにこじ開けてもいい。

 それからランタンは怖い顔を作って笑った。

 後頭部を相手に叩きつける。相手の太股を(むし)る。髪を引っ張る。耳を千切る。目に指を突き入れる。

 僕にはしないでね、なんてそんな事言わなくてもいいのに。ランタンに抱きしめられてリリオンはとても嬉しい。それじゃあ練習にならないと怒られるから、抜け出してこちらから抱きしめてやるのだ。

 ランタンを胸の中に抱きしめていると、何でもできるような万能感がある。

 でも現実はなかなか厳しい。

 胸の中にランタンはいない。緑髪の視線を遠ざける為に倉庫を飛び出してしまったので、視界の中にすらランタンはいない。一人で戦わなければいけない。だけど不安を自覚する暇はなかった。

 緑髪の女はリリオンの事など見ていなくて、ランタンに向かって一直線だった。女のランタンへの執着は別に不思議だと思わなかった。ランタンは暖かくて、いい匂いがして、優しいからリリオンだって回れ右してランタンの下へと行きたいと思っていた。

 だがそれはさせないし、しない。

 女はようやくリリオンを見た。まるで道端に転がっていた大きな石ころのように。

 ちょっとだけ苛々。思わず大振りになってしまった。

 大剣の一撃を避けられて殴りつけられ、でもリリオンは即座に反撃した。内側に入られてしまった以上、方楯も大剣も邪魔だった。それらは関節の曲がらない腕同然だ。なので女に向かって投げつけるように手放して、拳を固めて振り抜いた。

 殴られて殴り返し、頭突きを食らわせて、蹴っ飛ばされて。組み合う事はランタンの教えに身体が動いてどうにか避ける事はできたけど、女はとても強かった。女の意識はランタンに向いていたけれど、それでもどうにかこうにか捌くのがやっとだった。

 鼻から息を吸って、ゆっくりと吐き出す。それから牙を剥くように笑う。ランタンの真似。

 女の蹴りはとても重たい。軸足が地面に根を張ったようにびくともせず、脚の付け根から爪先まで骨がなくなったみたいに撓る。受けた右の手から嫌な音がしたけど、痛みなんて感じなかった。

 女に一瞬の隙ができた。

 左腕を伸ばし女の首にフックする。そこを支点にして一気に位置を変えるように背後を取ると、飛びついて脚を絡めて引き倒す。受け身を取れず背中から落ちたけど、そのまま締める。

 やるからには徹底的に、これもランタンの真似。

 やがてランタンがやって来て、勝利を告げてくれた。

 折れた腕がじんじん痛んできたけどそれでも平気な顔をする。

 痛くないのって聞かれたから、平気って答えようと思ったけれど、思わず我慢しているって言ってしまった。だって凄く痛い。

 ランタンの真似は難しい。

 ランタンは肩と掌に穴が空いているのに笑っている。リリオンにはまだちょっと無理だ。

 後で聞いたら毒も食らっているんだって。

 頭がおかしいんじゃないか、とほんの少しだけ思ったのはリリオンだけの秘密。



 十二戦零勝十二敗。その七敗目の後に修練場の隅で休憩した。

 一度さえ掠る事のなかった練習用の木剣をテーブルに立てかける。修練場に誘ってくれたテス・マーカムがタオルも貸してくれた。顔を拭いて、椅子に座ると汗に濡れた下着がお尻に張り付いて変な感覚だった。

 気が付かない振りをして、水筒から水を飲み、テスにどうぞと差し出す。テスは一口飲んで、やっぱり良い水精結晶を使ってるな、と中身を揺らした。ランタンの持たせてくれる水はとても美味しい。

 テスは色々な事を教えてくれた。

 踏み込みが大きすぎて体重が後ろに残っているとか、がちがちに柄を握らずもっと手首を柔らかく使った方がいいとか、目線でどこを狙っているか丸見えだとか、人を殺すには鋒でちょっと斬ればそれで済むとか、魔物相手ではそうはいかないとか、そう言う事を。

 それから気が付けばランタンの話になっていた。

 どちらから話を振ったのではないと思う。自然とそうなったのだ。

 テスがリリオンの知るランタンの話を聞いて、リリオンはテスの知るランタンの話を聞いた。

 結果としてはよく分からない人だ、と言う事が分かった。

 出身地や人種は不明。口にする共通言語には少し辿々しさがあるけれど、どこの国の訛りというわけではなくまるで幼子のような甘ったるい響きがある。ギルドに提出する際の署名に使われる文字は、まるで見た事がないと言う。名乗りでランタンと言っているからそう登録してあるが、それが本当にランタンと書かれているかは分からない。

 金属の棒を一本持って、迷宮に降りた記録が残っている。

 ギルドの認識はそこで一度変わる。多くいる新人探索者の内の一人から、多くいる頭のおかしい奴の内の一人へと認識が変わった。それが次第に、とテスの語るランタンの変遷は、そんじょそこらの英雄譚よりもよっぽど胸が躍った。

 そう感じたのはリリオンばかりではなく、ランタンが多くの探索者の口に上るのにそれほど時間はかからなかった。

 曰く伝説的探索者の秘蔵っ子だとか、貴族と女探索者の間に生まれた私生児だとか、探索者ギルドが密かに作り上げた人造人間だとか、迷宮から遣わされた地上侵略の尖兵だとか、性別を偽ったどこかの姫君だとか、俺の運命の人だとか、いいえ私の王子様よとか、探索者の間で好き勝手に噂には上っているらしいけど、ただの一つも真実はなく、どれもちょっとした娯楽に過ぎない。

 情報屋もこれは金になるかもしれないと探りを入れているけれど、確信に至る情報は未だに掴めていないらしい。ギルドでもちょっとね、とテスはぽつりと言ってそれで口を濁した。

 よくわからないけど、ランタンが優しい人だって事は知っている。

 だからテスにランタンの優しいところを教えてあげた。

 テスは微笑みながらその話を聞いてくれて、それから後半戦に突入した。

 結局木剣は一度でさえテスの身体を打つ事はなかった。



 寝る直前にランタンはベッドの上にちょこんと座り、お話があります、と勿体ぶって言った。なのでリリオンもベッドの上にぺたりと座って、ランタンの話を聞いた。

 それはリリオンが襲われた理由についてだった。

 薄々分かっていた事だったので驚きはしなかった、と思う。だけれども、うん、と一つ頷いたら何だか急に身体が震えた。リリオンの中に流れる巨人族の血は、どんな事をしても失われる事はない。それは影のように足元に付きまとって、これからも面倒な出来事を引き起こし続けるのかもしれない、と漠然と思った。

 ランタンは優しい。

 リリオンに事実を告げた時の声は、とても穏やかだった。この事については別に何とも思っていないよ、ってそう言ってくれていた。

 ランタンはとても優しい。

 だけれどもそれが永遠に続くかはリリオンには分からない。リリオンがこれからもこの血のせいでランタンに迷惑をかけ続けたら、いずれランタンの優しさの限界を超えてしまったら、と思うと身体が震えた。

 指の冷たくなった手をランタンは握ってくれる。

 それから一つ名前を言った。

 ランタンは、なんていったかな、なんて(おど)けるように前置きした。

 それから、僕はね、と続く。

 ランタンは自分の事を語らない。リリオンも聞かれたくない過去があるので、ランタンにも聞いた事はない。だけど少し気になっていたのは、もしかしたらテスとの会話で好奇心が擽られたからかもしれない。それを見透かされたようで心苦しかったけど、リリオンは黙って聞いた。

 ランタンのちょっとだけ昔の話を。

 ランタンは昔、奴隷だった。誰かに買われたわけではなかったけど、奴隷として教育されて売り物になっていた時期があった。嘘か本当か分からなかった。ランタンが大人しく売り物にされている姿なんて想像できない。それにランタンが売りに出されていたら、きっとリリオンは一も二もなくランタンを買い取るだろう。売れ残っている姿も想像できない。

 買い手がついた事もある、と言った。その買い手が件の貴族である。色々あって本当に買われる事はなかったけど、とランタンは言葉を濁したが、その表情は悪戯を成功させた子供の顔だ。きっとランタンお得意の意地悪な事を色々したのだろう。

 あやすようなその表情に泣きたくなった。

 ランタンは握った手を引いて、リリオンを胸の中に抱きしめてくれる。頭を撫でてくれて、耳を食むようにしてそっと呟いた。

 もし僕がそのまま売られちゃって、その貴族の元で奴隷をやっていても、リリオンとは出会えてたんだね。

 胸の中からはっと顔を上げる。ランタンの指先が視界に掛かった前髪をそっと後ろに流した。そのくすぐったさ。こつんと合わせたおでこの暖かさ。真っ直ぐ見つめた薄茶の瞳の透明さ。

 笑みを作った唇のその隙間から漏れた息が、まるで口付けるように唇に触れた。

 囁きは甘い。とても。

 もしかしたら運命だったのかもね、僕とリリオンが出会ったのは。

 そんなのずるい。

 ランタンはとってもずるい。

 リリオンの中にある不安な気持ちなんてまるっきり無視して、そんな事を言うなんて。

 ありがとうも、ごめんなさいも言わせてくれない。

 泣きたかったのに、思わず頬がにやけてしまった。

 いつもはリリオンが一方的に抱きしめるのだけど、その日はぎゅっと抱きしめてくれた。

 そのまま眠りについて、夢の中でもランタンは優しかった。



 結局目覚めるまで、ランタンはリリオンの事を抱きしめてくれた。

 目覚めたと言ってもまだ意識は夢と現の狭間にあり、口から漏れる息は寝息と変わらず、瞼は目やにによって糊を付けたように中途半端に持ち上がらなかった。

 夢の中でもランタンはリリオンの事を抱きしめてくれていたので、目覚めた当初はそれがまだ夢の続きなんだと思った。

 鼻から息を吸うと、濃厚なランタンの匂いがした。それそもの筈、リリオンはランタンの胸に顔を押しつけていた。いい匂いがするので何度も何度も鼻を鳴らすと、ランタンが小さく呻いた。匂いを嗅ぐとランタンは恥ずかしがって怒るので慌てて息を潜める。

 ランタンは眠ったままだった。そしてリリオンは起きている。目覚めをようやく自覚した。

 ほっと胸を撫でおろしランタンをもう一嗅ぎして、リリオンはそろそろと顔を上げた。瞼を擦って目やにを取って、大きな欠伸を一つ零す。視界を滲ませる涙を指で払うと、そこにはランタンの寝顔があった。

 ランタン。

 眠る少年の名前を口の中で小さく転がす。口の中で舌が跳ねるように動き、舌先が前歯を擽る。だからだろうかリリオンは小さく笑みを零した。

 リリオンよりもずっと早起きのランタンの寝顔を見られるのは珍しい。起こさないように気をつけて、リリオンはゆっくり、ゆっくりとランタンの前髪に指を這わせた。

 濡れたように艶のある黒い髪がさらさらしている。それを額から耳の方へと流して、その寝顔を覗き込む。

 そっと閉じられた瞼を縁取る睫毛が長く、なだらか鼻梁から膨らむ鼻は小さい。横たわった頬が柔らかそうに潰れて、ほんの僅かに開いた小さい唇から漏れる寝息が子守歌みたいに穏やかだ。

 真白い寝顔には、男とも女ともつかぬ幼子にも似た無垢さがあった。

 ランタンは起きている時は妙に大人びた顔をしているし年相応に見せる顔はいつも意地悪な感じなので、ただ純粋に表情をぬぐい去られた剥き出しの顔はとても珍しい。それは決して無表情ではなく、それこそが少年の本質であるかのように優しさを湛えている。

 自分よりも年下にも見えるその寝顔をリリオンは飽く事なく見つめた。

 見つめ、見つめ、穴の空くほど見つめて、堪えきれなくなって抱きついた。

 足を絡げて、腕を回し、顔を押しつけ匂いを嗅いだ。体臭がやっぱり甘い。暖かい。

 だがそれも一瞬の事。

「あつい、おもい、どけ」

 覚醒に時間は要せず、声には一片(ひとひら)の眠気もない。

 あっという間に絡げた足を蹴飛ばされ、回した腕を外されて、首筋に押しつけた顔は小さな掌に覆われて押し返された。抵抗する暇もなく、ただすごいと思う。蛇の如き身のこなしは、筋肉と関節の柔らかさのなせる技だろうか。

 爪は立てず、柔らかな指の腹が頭蓋を掴み、けれどもランタンが本気になればリリオンの顔面は文字通り剥ぎ取られてしまう。ランタンにはそれだけの力があり、時と場合によりそれは容赦なく行使される事をリリオンは知っている。

 優しさも。

 でも、それに甘えてばかりはいられない。リリオンは頷いて、まだ抱きつきたかったけど、どうにか堪えた。ランタンが頭を撫でてくれる。寝癖を押さえつけるように、絡まった髪を解くように。

「おはよう」

「おはようっ」

 挨拶を交わすと、ランタンが髪を撫でていた手を(うなじ)まで滑らせて、ひょいと首根っこを掴まえた。そして、邪魔、の一言共に退かされてしまった。

 それからようやくランタンが起き上がって、口を押さえて欠伸をして、目を擦って背伸びをした。まるで寝起き直後の微睡みが遅れて尋ねてきたとでもいうように。

 リリオンは退かされて、ベッドの脇にぺたんと座ってその姿を眺める。

 眠る姿も珍しければ、寝起き直後の姿も珍しい。

 肉付きが薄く、背伸びをすると弓なりに反る身体はいっそ少女めいているが、乱暴に髪を掻くその姿はやはり男の子だなと思わせる乱暴さがあった。

 にやにやして見ていたら嫌な顔をされた。にやける顔を指を差して、目やに、と一言。

 ランタンは優しいけど、意地悪だ。

 ベッドの脇に転がる小さな時計を手にとって時間を確かめる。そしてランタンはリリオンに視線を向けた。

「今日はずいぶん早起きだね」

「うん、目が覚めちゃったの」

「ふうん」

 気のない返事をして水筒から水を飲むランタンの横顔を見つめる。ランタンが喉を潤すと、水筒を寄越してくれた。物欲しそうな顔をしていたのかもしれない。今日も水は美味しい。

「……特に予定はないんだよねぇ。どうしよっか?」

 ランタンは困ったように笑った。

 何でもない幸せな日を、ランタンはくれる。

 わたしは何をランタンに返せるだろうか、とリリオンは思った。


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