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「ランタンがそう言うのなら」
「ああ、これで手打ちにしよう」
ランタンの目の前で、そう宣言すると男たちが握手を交わした。
笑顔はないが、固い握手だ。
あまり納得した様子はなかったが、しかし男たちはどうやら和解したようだった。
彼らを応接室から見送ってランタンは大きく溜め息を吐いた。
ずるずると滑るように浅く椅子に腰掛け、だらしない様子で足を投げ出した。
「終わった?」
「終わったよ。無駄に時間食ったな」
リリオンがひょっこりと顔を出し、ランタンの様子に微笑んだ。とことこと小走りに側にやってくると、腋の下に手を入れてランタンを正しく座り直させ、労いの言葉をかける。
「お疲れさまでした」
「ほんとだよ、もう」
男たちは探索者で、簡単に言えば喧嘩の仲裁をランタンに頼みにやってきたのだった。
「こういうのはさ、ギデオンとか、ジャックさんとか、あのあたりに頼むべきでしょ。ほら、エドガーさまとかもいいじゃん。あの人、暇してるんだし。なんで僕の所に」
「それだけ頼りにされてるのよ」
ランタンは探索者の顔役の一人として認識されていた。
そのため探索者間で揉め事などが起こるとその相談を受けることがある。
仲裁を頼みにきた彼らの問題が完璧に解決されたわけではなかったが、それでも和解したのはランタンが間に入ったからだった。
そもそもが軽口に端を発する喧嘩だった。どちらが悪かったというものではない。強いて言えばどちらも悪く、もっといえば日が悪かった。たまたま軽口を聞き流せない日だったという感じだ。
軽口は日々の不満の暴露へと移行し、口喧嘩は殴り合いになり、どちらが先に手を出したかを知るものはもういない。それはやがて殺し合いに発展しただろう。
探索者の喧嘩とはそういうものだ。
ランタンはいかにもうんざりした様子だった。
「話し合いで決着か――、探索者なんだから腕力で決めりゃいいのに。それなら墓を掘る手間だけで済む」
「もー、すぐそういうこと言うんだから。本当はあの人たちだって喧嘩なんてしたくなかったのよ。でも引っ込みがつかなくて、だからランタンを頼ってきたんでしょ? 仲良くしたかったのよ」
「引っ込みをつけなさいよ。大人なんだから」
「大人だって子供っぽいところがあるものよ。しかたがないわ」
ランタンは返す言葉もなく手を上げた。
「リリオンは大人っぽくなったね」
「えへへ、あたしもう大人なのよ。ランタンが大人にしてくれたのよ」
「どういたしまして。まったく、お世辞まで言えるようになって」
「お世辞じゃないわ。ランタンは子供っぽくなったわね。出会った時は、しっかり者のお兄さんだったのに、今じゃこんなに小さくなって。このままじゃローサの弟になっちゃうわよ」
「お世辞だけじゃなくて嫌味まで。ああ、時の流れは残酷だ」
ランタンはリリオンを見上げて、いかにも悲劇だというように手で顔を覆った。自分が小さくなったのではなく、リリオンが大きくなったのだ。相対的には小さくなったとも言えたが。
リリオンはランタンの手首を掴んで、隠された表情を覗き込んだ。
ランタンは堪えきれぬというように笑っている。
「ほんと子供っぽくなって」
「リリオンのおかげだよ。ありがとう」
「どういたしまして。ほら、立って立って。お着替えでしょ」
ランタンを椅子から立たせて、その背中を押すようにして衣装部屋へ向かわせる。
この仲裁のためにランタンはわざわざ探索装束に着替えていた。腰に戦鎚まで提げている。普段着のランタンはあまりにも探索者らしくない。仲裁はあくまでも探索者ランタンを頼ってのことだった。
衣装部屋に入るなり戦鎚を外し、装束を脱いだ。それからすでに用意されていた服装に着替える。いい、といっているのにリリオンが手伝った。
「右足上げて、次は左足上げて」
言われるがままにズボンを穿かせてもらい、ベルトまで締めてもらう。ランタンはシャツのボタンを留めて、上衣に袖を通した。
リリオンもはみ出ることなく映せる鏡に映った自分の姿に、ランタンは何とも言えない表情となった。
あまり似合う格好ではない。
それは貴族の格好だった。
「どっちにする?」
「そっち」
いかにも見栄えのする長剣と、愛用の無骨な戦鎚を差し出されてランタンは戦鎚を選んだ。無造作にベルトにくくる。
上品な衣装と武器の取り合わせはどうにもよくないが、しかしそれでも身に着ければこころなしか決まるような気がした。
「せっかく造ってもらったのにね」
使われたことのない長剣をリリオンは大切そうに元の場所に戻した。それは見た目ばかりではなく、実用性もある。だが使われたことはなかったし、おそらくこれからもないはずだった。
「金ぴかの戦鎚でも造ってもらえばよかったな」
「あら、いいじゃない。金ってかなり重いんでしょ?」
「そうだよ。でもそのかわり柔らかい。人をぶっ叩くのには問題ないけど、ちょっともったいないな」
リリオンは三歩ほど離れて腰を屈め、ランタンと視線を合わせる。それから無言でまた近付いてきて、後ろから目隠しをするみたいに額に手をやった。そのまま大胆に髪を掻き上げる。
ランタンの肩口から鏡を覗き込む。
「なに?」
「おでこ出しましょ」
「ええ、いいよ。そんなことしなくても」
「おでこ出すと涼しげよ。それに可愛いわ」
「それは求めてないよ。せめて格好良くしてよ」
「いいから。その方が絶対にいいって。絶対よ」
素晴らしい閃きだというように、リリオンはさっそく実行に移した。掌に取った髪油を全体に広げると、ランタンの前に回って、前髪を後ろに撫でつける。
鏡を遮られたランタンはどこか不安げだった。
「あーべたべたする」
「すぐ慣れるわ」
「なんか頭重い気がする」
「気のせいよ。ほら、できた」
鏡に映った額の丸い自分の顔を見て、ランタンはそのまま視線をリリオンに向けた。髪型が違うだけで他人の顔のように思う。だが、それだけだった。それの善し悪しはよくわからない。
リリオンは満足気なので、変な風にはなっていないはずだ。
鏡に映ったランタンは確かに貴族に見えた。もともと有している清潔な雰囲気が、衣装に飾られて上品さへと昇華している。
それでいて腰に提げた戦鎚などはいかにも探索者に憧れを持つ貴族の子供のようだった。
「へへへ、ランタンのおでこ」
「へへへじゃないよ。ほんとにいいと思ってる? おでこだけじゃなくて全体を見てよ」
「他にどうしましょう。お化粧する? 香水もあるわ。あ、装飾品は?」
「いらないいらないいらない」
「三回も言った。三回も言わなくていいじゃない」
「いらない」
「四回目――!」
「そもそも化粧ってなんだよ。戦化粧か?」
本当にそう思っているみたいに鼻の頭に皺を寄せる。
リリオンは少しつまらなそうにして、けれど出来上がったランタンの姿にはやはり満足そうだった。
「迎えがもう来てるな。行くか」
「いい? 暴れたらダメよ。大人しくしてるんだからね」
「わかってるって。そこまで子供じゃない。レティに恥をかかせるようなまねはしないよ」
送迎の馬車に乗り込み、見送りのリリオンに片目を瞑ってみせる。
「せいぜい黙ってにこにこしてるさ」
「それがいいわ。ランタンは笑った顔がとっても可愛いんだから」
真面目にそう言ってくれるリリオンに、ランタンは曖昧に微笑む。
「出して」
ランタンが告げると、御者が馬車を走らせた。
ランタンとレティシアは名実ともに夫婦である。
社交界での地位はレティシアの方が圧倒的に高い。
貴族たちの視点ではランタンがレティシアを娶ったと言うよりは、レティシアがランタンを迎え入れた、もっと言えばネイリング家に婿入りしたという認識だった。
何しろレティシアは大貴族ネイリング家の血を継ぐ娘であるから当然の認識だろう。
レティシアはランタンに貴族のしがらみを負わせたくないと考えていた。
そもそも人付き合いを好む少年ではないのに、最近はもっぱら探索者たちとの交流に追われている。その上、更に貴族社会につき合わせるのは酷だろうと考えたのだ。
レティシアは日々多くの貴族に面会を求められるが、そのほとんどをネイリングの屋敷で済ませる徹底ぶりだった。
しかしそれはレティシアに悪評をもたらした。
社交界の場に夫が不在と言うだけで、貴族たちは様々に想像を巡らせる。
好奇心は容易く悪意と結びつき、陰口は社交界につきものだった。
実はあの二人は上手く行っていないのだとか、力を求めるネイリングらしく必要としたのは子種だけであるとか、あるいはランタンはすでに迷宮に果てており今見かけるそれは偽物であるとか、そんな噂まで立つほどだった。
夫の不在。
それは大貴族の娘であり、また探索者としての実力もあわせ持ち、そしてなにより美しいレティシアを攻撃することのできる僅かな隙だった。
いくら人付き合いが苦手だとは言え、それで黙っていられるランタンではない。
そのような噂は取るに足らないとレティシアは言うが、ランタンにとっては聞き流せない。
貴族の流儀はランタンにとって複雑怪奇なものも多いが、社交界に顔を出すだけでレティシアの助けになるのならば簡単な話だった。似合わぬ衣装に身を包むことだって厭わない。
ネイリングの屋敷に着き、大広間へ向かった。その途中リリララが出迎えてくれた。
ランタンは上衣の襟をぴんと引っ張る。
「似合う?」
「お似合いです」
「ははは、似合わない口調だ」
「お上品な方々には刺激が強いかもしれません。――あたしは好きだけど。いいよ、その髪型」
「それならよかった」
ちらりと覗かせた素顔を隠し、リリララは堂に入った臣下の礼をとる。
ランタンは大広間への扉を開いた。
着飾った人々が大勢、集まっていた。
ほとんどが貴族だが、大商人や宗教関係者、それらに連れて来られた騎士など、年齢も性別もさまざまな人々が交流していた。
グラスを手にしたり、料理をつまんだりしながら、それぞれいくつかの集団に分かれて立ち話をしている。世間話もあれば、商談もあり、悪巧みもあるだろう。
使用人たちも忙しく立ち回っており、広間への出入りは頻繁だった。
しかしたった一人の少年がそこに足を踏み入れた時、広間は奇妙に静まりかえった。
視線が向けられる。
ランタンはそれらの視線を受けて、いかにも育ちよさそうににっこりと笑ってみせる。
「こんにちは。みなさん楽しんでくださっているようで何よりです。どうぞ、僕に気になさらずにおしゃべりを続けてください」
それでも会話は戻ってこなかった。
ランタンの笑顔は確かに品のいい貴族の坊やといった感じだったが、薄皮の一枚下に探索者の顔があることは隠しようもなく明白だった。
広間の奧に集団があった。その真ん中にレティシアがいた。
人々の頭の中から竜角が突きだしているが、それがなくてもすぐに見つけられただろう。
ランタンは無人の野を行くように、ゆっくりとした足取りでそちらに近付いた。周りの人々が思わず道を開ける。鎖に繋がれぬ猛獣がふらりと部屋に入ってきたかのような、そんな様子だ。
猛獣は満腹かもしれないし、空腹かもしれない。
それを見極めようとするように視線を向ける。
得体の知れぬものへの緊張感が漂っている中で、レティシアだけが笑っている。彼女だけがランタンという少年をよく理解していた。
「ランタン、遅かったじゃないか」
綺麗に着飾ったレティシアが取り囲むものたちを押し退けるようにしてランタンを迎える。
やはりレティシアはとびきりに綺麗だ、と思う。いつにも増して華やかな雰囲気がある。
「これぐらいは大目に見てほしいな。探索者の喧嘩を仲裁してきたんだよ。血の一滴も流さずに。褒めてもらってもいいぐらいだよ」
ランタンは少し誇らしげに肩をそびやかした。
「そちらの方々はお友達?」
「ああ、紹介しよう」
レティシアを慕ううら若い貴族の娘たちだった。彼女たちは人族だったが、本物の獣や、あるいは作り物の付け耳や尻尾を身に付けていた。憧れのレティシアの真似らしい。
夫のランタンだ、と改めて紹介されて、ランタンは気恥ずかしそうに笑った。
娘たちもどことなくふわふわした様子で自己紹介をしてくれる。綺麗な娘たちだが、レティシアの前には霞んでしまう。今日が終われば顔も名前も忘れてしまうだろう。
そんな風にしていると、ぜひわたしたちもご挨拶を、とランタンの前に列ができた。
どうやら言葉を解さぬ猛獣ではないと理解したようだった。
心の中では、面倒だ、と思っているがそんなことはおくびにも出さずに、ランタンは丁寧に彼らの相手をする。
顔を出すだけで済むとは、さすがに思っていなかった。探索者であるから多少の不作法は許されるが、あまりにも粗野なことはできない。
下らない世辞に笑ってみせて、試すかのような皮肉を受け流す。飲み食いをする暇などは少しもなかった。
一通りに自己紹介が終わると、今度は少し深い話になった。
「それは慈善事業ですかな?」
「その側面もなくはないでしょう」
銀行家だという商人の男に問われ、ランタンは正直に答えた。ランタンの周りを取り囲む商人や貴族の男たちが、ぴくりと眉を動かす、それぐらいの反応を見せる。
大遠征。
変異者たちによる旧サラス伯爵領への遠征計画、それに対する出資の理由についてだった。
「しかし、あなたたちにとってもかなり魅力的なことだと思います」
「ほう。話に聞いたところによると、あれは大規模な地上の迷宮化だとか。しかしそれならばわざわざ遠い地へと行かずとも、このティルナバンの迷宮に潜ればよいのではないですか」
「今までと同じようなものを手に入れるのだけでいいのならそうですね」
「――つまりランタン殿は、迷宮では手に入らないものがそこにあると?」
「さて、明言は難しい。しかし確かに、迷宮探索では起きなかったことが起きているのは事実です」
ランタンは妻へ視線を向けた。
あの竜角、あの竜尾、あの見事なドレスの下にある肉体はうっすらと鱗の輪郭が透けている。
どれほど迷宮を探索しても、あのような変化は現れない。
「変異ですか」
「ええ、肉体へのそれもそうですが、しかしそれは肉体にのみ起きるわけではない。あなた方もご存じでしょう?」
「いえいえ、ランタン殿を前に知っているなどとは」
「そんな謙遜などしなくてもいいでしょう。ずいぶんと馬鹿な真似をしたと聞いております。思わず笑ってしまった。探索者顔負けの夢想家だ」
ランタンが口元を拳で隠すと、商人たちは怪訝そうな顔をした。何のことか、ぴんと来ていないようだった。
「迷宮に大量の武器防具を運び込んだことがあったでしょう。魔精の力を宿らせようとして」
「ああ、それは――」
商人が懐かしげに苦笑した。
「――なんとも古い話をご存じで。しかし失敗でした。用意した装備のほとんどは喪失し、上手くいったものもあったが、それを手に入れたのは幸運な探索者であり我々が雇った探索者ではなかった。丸損です」
「ええ、そう上手くはいかないでしょう。だがもしかしたら彼の地ではそういった試みが成功するかもしれない。まるで石ころを黄金に変えるように」
百戦錬磨の商人たちがごくりと唾を呑んだ。
ただの探索者の言葉ではなく、ランタンの言葉だったからこそだ。
「あそこは今、内から魔物が湧いて出てきています。それを防ぐために巨大な壁を建造している。僕の知り合いが手伝っているのですが、先日、手紙と一緒にこのようなものが届きました。ご覧になりますか?」
懐から取りだしたのは緑色をした楕円の板だった。ランタンの掌よりも一回り小さい。男に渡すと、眼鏡をかけてじっくりと観察する。
「これはエメラルドですか」
「そうとも言えますし、蜥蜴の鱗だとも言えます」
「つまり、宝石を纏った蜥蜴が出現したと」
「変異は今、この時も起こっています。魔精から湧く魔物もいますが、動植物が変異した魔物もいるようです。さてこれはどちらでしょう。もし変異ならば、蜥蜴そのものが変異したのか、それとも鱗という物体が変異したのか。なぜ変異したのか。蜥蜴がそれを願ったのか、それとも人の願いか。――行ってみなければわかりません」
商人の手からエメラルドを取り上げて、取れるものなら取ってみろ、と言うようにゆっくりと懐へしまった。
商人たちは、ううむ、と喉を唸らせる。
悩んでいる風にも、熱に浮かされている風でもあった。
彼らは最初ランタンを試していた。少年の立ち振る舞い、思考、発せられる言葉。そういったものを見て、ランタンがどれほどの人かというのを見定めるつもりだった。
しかし今はどうか。
逆に試されているようではないか。下手なことを言えば、ふいとそっぽを向かれるのではないか。どうしてかそれが不安だった。
男たちはどうしようもない熱を感じていた。
ランタンという、この少年はどうしてかひどく熱い。
内々から強烈な精気のようなものが発せられているようだった。
「ランタン、いいか?」
「レティ? うん、いいよ。では失礼。遠征隊は前に進もうというものを拒みはしない。いつでも出資をお待ちしております」
「――ランタン殿、最後に一つ。魔精とはなんだろうか?」
「迷宮の構成物質、万能の元素、あらゆるものの源、意思の溶媒にして願いを叶える力、――などと言われるが、そこまで都合よくないだろうと思います。だからこそもっと調べないと、今のところは人の手にあまる」
ランタンは男たちに告げ、レティシアの方へ向かう。
「呼んでくれてありがと。おじさんとの話は疲れるよ。それで何かご用?」
そこにはまだ若いご婦人方が集まっていた。
「みんなランタンの探索の話を聞きたいようだ。ぜひ話してやってはくれないか?」
「別にそれは構わないけど、レティいいの?」
「なにがだ?」
「僕が綺麗な女性の方々とお話をして妬いたりしない?」
「ふむ、妬くかもしれないな」
仲睦まじそうな夫婦のやり取りに、娘たちがきゃあきゃあと喜ぶ。
「しかし困まったな。最近はとんと迷宮からは遠ざかっているので、どの話をしましょうか?」
ふと視線を向けられた娘が頬を赤らめ、立ちくらみを起こしたようにふらりとした。
ランタンがそっとその手を取る。少年の思いがけぬ力強さに、娘はなお赤くなった。
華奢な手だな、とランタンは思う。
戦いとは無縁で、また労働にも無縁だろう。趣味の刺繍針より重いものは持ったことがない、と言われても信じてしまいそうな手だった。
「大丈夫ですか? 椅子を用意しましょう。さあ座って」
ランタンから発せられるその精気は、普段ならば迷宮探索で消耗されるものだったのかもしれない。
血の匂いさえ思わせる獰猛さや苛烈さも感じさせれば、全身を使って大泣きする赤ん坊のような屈託のない溌剌さも感じさせる。
娘が一向に手を離さないので、ランタンはそのまま握ったままにしてやった。
レティシアが竜尾を密かに使って、ランタンの爪先を叩いた。
かくれんぼをしているみたいに、リリオンが壁にぴったりと身を寄せている。
ミシャはその様子を見て息を殺した。ローサの遊びにつき合っているのだろう。
物音を立てて邪魔をしては悪い、と思ったのだ。忍び足でリリオンに近付き、まったく無防備な腰のあたりを人差し指でちょんと突いた。
「――っ!?」
リリオンは跳び上がって驚いた。
それでも声は発さずに、両手で口元を押さえている。着地の足音もなく、猫のような身のこなしだった。
「ごめんごめん。そんなに驚くとは思わなくって」
ミシャは声を落として謝る。
そんなミシャの口をリリオンが塞いだ。
「しー。ランタンに見つかっちゃう」
ミシャは目を丸く開く。ローサではなくランタンに見つかるとはどういうことだろう。ランタンが鬼役をしているのだろうか。
「ランタンくんとかくれんぼしてるの?」
「かくれんぼ? ちがうわ。ほら、見て。そっとよ」
曲がり角から少し顔を覗かせると、階段を下るランタンの姿が見えた。どういうことだろう。いつも通りのランタンに見えるが、と思っているといきなり襟首を引っ張られた。
「ちょっと――」
「しっ!」
唇に人差し指を当てる、その顔が妙に真剣なのでミシャは黙った。
「大丈夫みたい。もう少しで見つかっちゃうところだったわ」
「一体なんなの?」
「あのね。ランタンがなにかこそこそしてるから、ばれないように後をつけてるの」
「こそこそ? 普通に見えるけど」
「ううん、こそこそしてるのよ。ほらだって――」
リリオンは耳を澄ましてみせる。
「――足音がないわ」
「私にはちょっと、そもそも聞き取れないし」
しかしリリオンが言うのならばそうなのだろう。ちょっと嫉妬してしまうが、リリオンはランタンのことをよくわかっている。
「でもランタンくんが隠し事か。気になるね」
「でしょでしょ。気になるでしょ?」
「なにを隠しているのかしら」
「おいしいお菓子とか」
「それはきっとみんなに分けてくれるわよ。ランタンくんは男の子だから、やっぱりあれじゃないかしら」
「どれ?」
「ほら、ちょっといやらしいものとか」
「そんなの隠さなくてもいいじゃない」
「男の子は隠したいものらしいわよ。むしろ隠すことがいやらしいとか」
ランタンはいかにも興味ありませんといった顔をしているが、そうでないことはリリオンもミシャもよく知っている。
そしてランタンのそれを知ることは、また自身のそれを知られることでもあった。
「それか、私たちにはできないような、色んなことが書いてあるとか」
「そんなものがあるの?」
「そりゃあ――……、あるでしょ。私はよく知らないけど。レティさまが持ってる指南書の後ろの方とかめちゃくちゃだったじゃない」
「わたし読んでないわ。ふうん、奥深いのね。――一階まで降りたみたい。ミシャさんも来る?」
「いいの?」
「私の後ろについてきて。こっそりね」
ちょっとした迷宮探索のようだった。見事な身のこなしのリリオンの後ろを、見よう見まねでついていく。
リリオンは言葉を発さず、迷宮探索に用いる手信号でミシャに合図を送った。複雑なものは理解できないが、簡単な信号ならば仕事柄ミシャも知っていた。
一階に降りて床板に残された足跡を辿る。リリオンの方が体重は重いのに、ミシャが歩くときだけ床板が鳴った。
ランタンが向かったのは物置にしている部屋だった。捨てるわけでもなく、換金するわけでもなく、しかし使うわけでもないが、いつか使うかもしれない。そんな品が死蔵されている。
ランタンはそこに入り、少しして出てきた。不服そうな顔をしていた。
このままでは見つかってしまう。
そう思った時、リリオンがミシャを抱きしめた。リリオンの胸にミシャの顔が押しつけられて、声を出すどころか呼吸もできない。温かく柔らかな闇のようだった。
ふとリリオンの吐息が耳に触れる。
「このまま、動かないで」
囁きよりもなお小さな声にミシャは従った。
抱き合う二人というよりも、リリオンという一人になった気分だった。ランタンにさえ気づかせず、リリオンは完璧に気配を殺しきった。
「いったわ。ミシャさん大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと苦しかったけど」
頬を赤く、息を荒らげてミシャは答える。顔いっぱいにリリオンの感触が残っている。
「ランタン、やっぱりなにか隠してるわ。なんだかむつかしい顔をして出ていったもの。そうじゃなきゃ見つかってたわ」
「物置になにか隠してるってことよね。でも、いいのかしら。ランタンくんが隠したいものを、こんな風に見るのって」
ふいに湧いた罪悪感にミシャが呟く。
「いいわ」
ランタンの代わりに答えるみたいに、リリオンが答えた。
物置へ入ると、リリオンは他のものには目もくれず真っ直ぐに奥の柱へと向かった。床に埃は積もっていないが、しかしリリオンの目には足跡がよく見えるのだという。
リリオンは柱をぺたぺた触りながら首を傾げた。押したり引いたりしても隠し部屋が出てくるわけではない。
「リリオンちゃん、下見て。きっとこれよ」
ミシャの視線の真っ直ぐ先、リリオンからは見下ろさないといけない高さに傷ができていた。
それは身長を測ってできる柱傷に違いなかった。多少の上下はあるが誤差だろう、ほとんど同じ位置に傷が刻まれている。どれぐらいの期間を空けているのかわからないが、成長はしていないようだった。
「これって」
ランタンの身長だった。
ランタンは多くのものを手に入れた。
探索者としての実績と名声、そして人望。まだ衰えとは無縁な若く強靭な肉体。末代まで苦労しないだろうという富と、美しく魅力的な妻たち。
こんなものもう気にしなくてもいいのに、と思う。もうたくさんのものを手に入れたのだから。
身長のことは昔から気にしていたが、もう開き直ったように思えていた。しかし密かにずっと気にし続けていたのだ。
ランタンはどんな気持ちで柱に傷をつけて、それを見上げるのだろう。
リリオンは愛おしそうに柱の傷を撫でた。ランタンの頭を撫でるみたいに。
「わたしの大きさを分けてあげられたらいいのに」
「……ランタンくんでも手に入れられないものか。誰にでもそういったものがあるのね」
リリオンとミシャは顔を見合わせ、分かり合ったように頷く。
「見なかったことにしましょうか」
「そうね。それがいいわ」
外にランタンが居ないことを確認し、二人はそっと物置部屋を出た。
ランタンと次に顔を合わせた時、なんでもない顔をできるだろうか。
ミシャは頬を叩いた。




