443
443
麦わら帽子を一度外し、額の汗を拭う。
なんていい天気なんだろう。
桃を冷やす氷が溶け、荷台からぽたぽたと水が垂れている。
ガーランドは涼しげな顔をしていた。過ぎゆく探索者や起重機の姿をぼんやりと眺めている。彼らもこちらを横目にちらりと一瞥する。お互い様だ。
迷宮特区に張り巡らされた壁に背もたれて、ローサは青空を見上げる。
まだかな、もう少しかな。
こっそり壁の向こうを覗き込むと、今まさに探索者たちが迷宮へ送られていくところだった。
起重機を操縦する引き上げ屋はミシャである。
探索者たちの姿がすっかり穴の中に隠れてしまうと、それまでは安心感を与える笑みを浮かべていた表情が途端にきりりと引き締まり、真一文字に結ばれた口元が声をかけられない雰囲気を醸し出す。
仕事中は邪魔してはいけない。
起重機の傍らでミシャの弟子であるモーラがその様子を見学している。
巨大な起重機と並ぶと、その小ささが、そして小さな身体には不釣り合いなほどの蠍の尾を一層に際立たせる。
ミシャがモーラを呼ぶと、見習い少女は無限軌道をよじ登って操縦席に上がった。
どうやら探索者が無事に迷宮へ到着したらしい。
ミシャが座席を半分与え、モーラに操縦桿を握らせた。小さな手を支える。
探索者が昇降板から降りる微妙な感覚を教えているようだった。
探索者は迷宮に降りたからといって、必ず探索を始めるとは限らない。怪我や病気、あるいは急な弱気や、根拠のない直感、やる気の消失によって探索を中止することがある。
ミシャたちは五分ほどそうやって操縦桿を握ったまま釣り人のようにじっとして、ようやく全員が昇降板から降りたのだろう、垂らしたロープを巻き取り始めた。
練習とは言え、実際に操縦しているのはモーラだった。幼い顔が緊張している。
ただロープを巻き上げるだけなのに、機械任せに巻き上げるだけだと無人の昇降板は迷宮口の横壁にぶつかってしまう。
ロープを揺らす微かな風や、巻き取り機そのものの振動の影響によるものだった。その揺れを繊細な操縦桿さばきで打ち消すのだ。
表情に乏しいモーラも、この時ばかりは表情を変える。操縦桿ごしに失敗が伝わっている。ぶつかる度に目を丸くしたり、瞑ったりする。
ロープが巻き取られると削り取った横壁の破片を載せた昇降板が姿を現す。傾きもしている。もし探索者が乗っていたら転落していたかもしれない。
しょぼんとするモーラにミシャが何事が告げている。練習なのだから気にするな、と言っているに違いない。
ローサはたまらず顔を出した。
「モーラ、ローサがきたよ」
「――あら、ローサちゃん。ガーランドさんも」
「モーラすごいよ。もううんてんしてるんだ! ローサびっくり!」
モーラは落ち込んだ顔を上げて、唇をきゅっと結んだ。幼いながらに自分が慰められているのだと分かっているのだろう。
「うん」
ただそれだけ呟き、頷く。
「ローサちゃん、あとちょっとだから少し離れててね」
「うん!」
ロープを巻き取り、昇降板を綺麗に片付ける。起重機を後退させ迷宮口から離し、ミシャはようやく一段落ついたというように大きく伸びをした。
これで午前中の仕事は終わりだ。朝から五組もの探索者を迷宮へ送った。午後からは送るばかりではなく、引き上げもある。
「おべんとうもってきたよ」
ローサは荷車から弁当を取りだし、ミシャとモーラ、ガーランドにも渡した。冷たい飲み物もある。
壁と起重機が作り出す影の中に四人で腰を下ろし、一緒にそれを食べる。
「もももあるよ。モーラ、ももすき?」
「もも、すきです」
「じゃあモーラにローサがももむいてあげるね」
「ふふ、なんだか早口言葉みたい」
弁当を食べ終えると、冷えた桃を二つ剥いて四人で分けた。
「たくさんあるのね」
「おにーちゃんがかってきた。ミシャさんをおくってー、そのかえりに」
「そうなの? 市場中の桃を買ってきたのかしら。ああ、モーラ、こぼしてるわ」
顎まで垂れた桃の汁を拭ってやるとモーラは小さく、ありがとうございます、と言った。
ローサはそれを見て自分の口元が汚れていないか確かめる。べたべたになっていた。慌てて拭う。
昼食を終えると、ミシャは腹ごなしもなく立ち上がった。
「ありがと。お弁当、おいしかったわ。桃もおいしかった」
「アーニェさんにもあげてきたよ」
「お母さんにも? ありがと、ローサちゃん。じゃあ、ありがとうついでに、モーラのことよろしくね」
「まかせて! あ、そうだ。きょうははやくかえってくる?」
「うーん、どうかしらね。探索者さんが無事に帰ってこられたら、夕方くらいには帰れそうだけど」
「おにーちゃんが、はやくかえってきてほしそうだったよ」
「――そう。うん、そうね。わかった、ありがと」
ミシャはほのかに頬を染めて、むしろ素っ気なく頷いてみせる。そしてちらりとガーランドに視線を向けた。
聞こえない振りをしたような、いつもの表情だった。
「二人のことよろしくお願いしますね」
「ああ」
今日は孤児院に泊まりに行く日だった。
ミシャはモーラの頭を撫でてやる。
「楽しんでいらっしゃい」
「はい」
午後からの仕事へ向かうミシャを見送り、モーラを荷台に乗せる。
「あ、そうだ! きょうはひざしがつよいからね」
ローサは麦わら帽子を脱いで、モーラの頭にかぶせた。少し大きいようで目元まで隠れてしまう。鍔の前を上げるように角度を整え、ローサは満足気に笑った。
「じゃあ、しゅっぱーつ!」
青空に拳を突き上げる。
「……」
「しゅっぱつって言って」
モーラは戸惑ったように、同じく荷台に乗るガーランドの顔を見上げた。ガーランドは涼しい目をして頷いた。
「……しゅっぱつ」
モーラは胸の前で小さく拳を握る。
「おー!」
ローサが勢いよく走り出した。
途端に風に煽られて麦わら帽子が外れ、はっとして振り返るとガーランドがそれを掴んでいた。
ほら、と頭に被せられ、モーラは両手で鍔を掴み、自分の頭をぎゅっと押し込む。
子供たちの楽しげな声を聞きながら、ガーランドは木の幹に寄り掛かっている。
木の枝に鳥籠が吊されその中ではウーリィも夏の暑さから逃れて眠っていた。
先程まで子供たちに撫でられたり、木の実や昆虫を、それだけではなく小石なども、口元にあてがわれたりしてさすがの竜種も疲れてしまったようだ。
目の前で男も女も関係なく、子供たちが裸になって泳いでいた。幼い子たちは上も下もなにも身に着けず、年齢が上がるにつれて下着を穿いている姿が増えていった。
ガーランドの生み出した巨大な水塊が孤児院の庭に空中に浮かんでいる。
「いくぞー! それー!」
裸足の子供が助走をつけて水塊の側面に飛び込むと、真横に立った水柱が崩れて地面を濡らした。その一度だけならばたいした影響はないが、孤児院中の幼子が似たようなことをするので、ガーランドはその度に水を補充しなければならない。
「いくよー!」
ローサは背中に何人もの子供を乗せて、まさしく水中の獲物を狩る虎のように水塊に飛び込む。内部から破裂したみたいな巨大な水柱は真っ白で、崩れると言うより霧のようになって虹を作る。
もう何度目のことか掌を上に、スイカほどの水球を生み出す。すると子供が集まってくる。
「ガーランドさま、ガーランドさま」
舌っ足らずな口調で手を差し出してくるので彼らに水球を渡してやると、子供たちは宝石でももらったみたいに瞳を輝かせ、落とさないように慎重にそれを水塊まで運ぶ。
そして供物を捧げるようにして水球を水塊の中に沈めた。
「お前はいいのか?」
ガーランドは視線を足元に落とした。
そこにはローサの親友である、犬人族のクロエが寄り添っている。
身体を覆う毛を濡らしたまま、幼い裸身もそのままに休憩している。ローサやもう一人の親友である猫人族のフルーム、モーラはまだ泳いでいた。
「はい、クロエはガーランドさまと一緒にいます」
どことなくうっとりした視線でガーランドを見上げるクロエは子供から少女へと成長しつつある。ガーランドはその姿を知らないが、年少組だった頃の幼さはすでに微かだ。
ローサの向けてくる純真無垢な視線とも、子供たちの無邪気さとも違う。恋にも似た憧れの視線にガーランドは困惑の表情を作った。
クロエはおしゃべりをするわけでもなく、ただ同じ木陰の中にいるだけで満足だというような感じだった。
ガーランドは肩に羽織っていた外套を脱ぎ、少女の肩にかけてやった。わあ、とクロエは感激する。
「……泳ぎは苦手か?」
「泳ぐのは楽しいです。でも潜るのは難しいです。どうしても浮かんじゃうの」
「そうか」
クロエは獣の血の濃い犬人族だった。ほとんど二足歩行の子犬といった感じで、鳩尾から臍のあたりだけ僅かに毛が短く白い人肌が覗いているぐらいだった。
身体を覆う毛は緩く波打っており、空気をよく含みそうだ。湖に飛び込み鴨を回収する猟犬に似ているかもしれない。
「ガーランドさまは、泳ぐの好きですか?」
「好きでも嫌いでもない」
「?」
クロエが首を傾げる。
不思議な感覚だった。相手が子供でなければ無視していただろう。返答をしなければならない、と言うような必然性が胸の中に浮かんだ。
「もともと海で暮らしていた。泳ぐのはお前たちにとって、歩いたり走ったりするのと同じだ」
「でも、――なんでもないです」
「いい。言え」
「はい。でもローちゃんは走るの好きだって。歩くのも、飛んだり跳ねたり、あ、ほら泳ぐのも好きみたいです」
ローサが青い水塊の中を移動する。
靴下を履いたみたいに先端の白い四つ足で水を掻いている。
黄金の被毛がゆらゆらと揺らめき、その毛や尻尾を掴んだ子供たちを引き連れている。
背中にはフルームを乗せ、胸にモーラを抱えている。ぎゅっと閉じた口がどうしても笑みの形になってしまうので、唇の端から小さな気泡が溢れている。
ローサにとっては歩くのも走るのも、当然のことではなかったと言うことだ。
「ああ、そのようだ。だが私はそれに喜びを感じたことはない」
「……そうですか」
どことなく寂しげにクロエが呟いた。もし好きだと言ったら、ガーランドを誘ってあの水塊に飛び込んだのかもしれない。
「しかし、あのように楽しんでいるのなら水塊をつくった甲斐があったと思う」
クロエがガーランドを見上げた。ガーランドはその頭にぎこちなく手を伸ばし、しかし思いとどまって引っ込めた。上手に頭を撫でられそうになかった。
ランタンのように誰彼に構わず手を出せるのも、それはそれで才能なのかもしれないと思う。
「ローサは、今日を楽しみにしていた。お前たちと遊べるのをずいぶんと心待ちにしていたようだ」
クロエが振り向くと、不思議とローサと目があった。ローサは水塊の上部から顔を出し、ぴゅっと水をはき出した。
「クーちゃん! きもちいーよ!」
太陽みたいな笑顔で、千切れそうなぐらいに手を降っている。背中からフルームも手招きをしてくれていた。
「一緒に水遊びをして、桃やスイカを食べる」
「え?」
「一緒に夕飯を作り、食後にはすごろく遊びをするそうだ。夜になったら星を見て、火を吐いたりして驚かせてやるのだと。それからおしゃべりをしながら一緒に寝るのだと言っていた」
クロエは肩に羽織った外套をガーランドに返した。
「遊んできます」
頷いたガーランドに笑いかけて、クロエは尻尾を左右にぶんぶん振りながら走って行った。
少女は地面と浮いた水塊の隙間へ中腰になって入り込み、空を見上げる。
水面が揺らめき、光は滲み、屈折する。太陽が丸く、白い。
揺れる水の影が幻想的だった。迷宮の空はもしかしたらこんな空かも知れないとクロエは思った。
水塊の上の水面に浮かぶローサが大きく息を吸い込んで潜り、水底の下にいるクロエを迎えに行く。
ローサは空を飛ぶようだ。
クロエを掴んで水中に引きずり込むと、波打つ子犬の毛はたくさんの気泡を孕んでローサごとその身体を水上へと押し上げた。
もうこちらの方を見ずに少女たちが遊びはじめる。
ガーランドはそれを見ながら魔精薬を服用した。これほどの大きさの水塊の維持には、かなりの魔精を消耗する。
「おつかれさま。いやあ、さすがにすごい」
孤児院の関係者がやってきて、ガーランドを労った。責任者であるシスタークレアに援助をしている探索者の女だった。
名をイゾルテという。ほとんど裸のような格好をしているが、それは夏の暑さのせいばかりではなく、冬でも似たような格好をしていた。
稼ぎの多くを孤児院に寄付しているせいで着るものもままならないという行き過ぎた善人だった。
「魔精薬まで使って。おかげで子供たちが大喜びだ」
「気にするな。ランタンの金だ」
「ランタンの?」
「子供の遊びにつき合うのは体力がいるからと、むりやり渡された」
「彼らしい心遣いね」
「さてな」
渡された魔精薬は間違ってローサが途中で家に帰ってこないようにするための念押しだったのではないかと、ガーランドは勘ぐっている。
ランタンは変な少年で、ガーランドには理解できないことが多い。
大切なものに優しくするのはわかるが、彼はそうでないものたちにも手を差し伸べる。
感謝されることもあるが、逆に恨みを買うこともある。ガーランドが闇に葬った侵入者の数は両手でも数え切れない。
本人も優しくすることを多少、面倒に思っている節がある。
だがランタンはそれをやめない。
探索者はまともな人間でもなれるが、長く続けられるような奴は一人残らずどこかおかしい。それだけのことと言えばそうなのだが、それでもランタンは変だった。
ガーランドと並んで、イゾルテは子供たちへ慈愛の眼差しを向けている。
「いやー、しかし今日は暑い。私も楽しませてもらっていいかな?」
「好きにしろ」
「ではお言葉に甘えて。魔精薬はランタンのものでも、この景色を生み出したのはあなただよ。――あっはっはっ、私が行くぞー! 投げられたい子はいるか?」
イゾルテが号令をかけると、子供たちは我先にとその前に列を作った。
子供といえども一人の人間を、イゾルテは小石のようにぽんぽんと放り投げ、少年少女たちは笑ったり悲鳴を上げたりしながら水塊に飛び込んでいく。
その列にローサまで並んでいる。手を繋がれているモーラは若干怯えているようだが、ローサはその事に気づいていない。すでにわくわくしていた。
後ろに並んだ少年がローサの白い背中を遠慮がちに突いた。
「ローサ、なんかランタンの話してくれよ」
こういった少年は多い。
ほとんどがランタンの武勇伝を聞きたがるが、中には秘密、特に弱みを聞き出そうとするものもいる。悪意ではなく対抗意識からだ。
ランタンはたまにふらりと孤児院に現れて、稽古をつけてくれるがベリレのように優しくはない。気になっている女の子や、あるいはリリオンの目の前で軽くあしらわれる。それは何とも悔しいことだ。
「おにーちゃんのひみつ? おにーちゃんはじつはひとりではねられないんだよ。さみしがりやさんなの。でも、ないしょだよ。おねーちゃんとか、レティとか、ミシャさんとかと、いつもいっしょにねてるの。ローサにないしょでたのしいことしてるんだ。わっしょいわっしょいってたのしそうだから、ローサがおへやにいくと、ねたふりするんだよ」
話しかけた少年は、ふうん、と鼻を鳴らす。盗み聞きをしていた他の子供たちも似たような反応だが、なかには頬を赤らめるものもいる。
「あ、ローサたちのばんだよ。いっしょにいいですか?」
ローサはイゾルテに、繋いだ手を見せる。
「――もちろん」
「モーラこわくないよ。きっとたのしいよ」
ローサはモーラを抱え、モーラは他者に触れさせることを自ら禁じていたその毒針を持つ尾をローサの身体に巻き付け、しがみつく。
「っいよいしょっとぉ。さあ、いくよ! そおれっ!」
さすがに重たそうに、それでも丸太のように頭上まで持ち上げてイゾルテはローサとモーラを水塊に投げ込んだ。
「あーはははは!」
「きゃー!」
ローサの笑い声、初めて聞いたモーラの大きな声は悲鳴だった。
水塊に飛び込んだモーラは、水を飲んでしまったらしい。溺れるように、いや、まさしく溺れて手足をばたばたさせる。
ガーランドは水流を操作して、二人を救い出してやった。
ローサが謝りながらあたふたしていると、子供たちがモーラの背中を叩いたり、なでたりして水を吐かせる。モーラの青洟を年長の少女が拭ってやった。
もちろん子供たちの中には喧嘩や意地悪がある。仲の善し悪しも好き嫌いもある。
今のモーラを見て指差して笑っている少年もいるが、彼はきっとモーラ以外が同じ目にあっても笑うだろう。本当に困った状態になったら、手助けをするだろう。
モーラの隠しようもなく節だった身体や蠍の尾は、ガーランドの触手髪とよく似ている。
「いちばん最初に、石を投げつけてきたのは誰だったか……」
ガーランドは人間たちに追われてきた日々を思い出す。向かってきたからこそ斬って、斬ったからこそ向かってきた。
最初の最初は、もう記憶から失われている。
あるいは最初は自分だったかも知れない。
もしも最初に手を伸ばしたり、差し伸べられたりしたら、なにが変わっていただろうか。
落ち着いたモーラが自分の脚でイゾルテの列に、再び並んだ。
「モーラ、だいじょうぶ?」
ローサは心配気に尋ねる。
「……たのしかった」
モーラは恥ずかしげに答える。
「きゃー!!」
さっきよりも大きな悲鳴を上げて、モーラが青空に舞う。
「ただいまー!」
翌日の夕方、まだ楽しげな声のローサが帰ってきた。
「おう、おかえり。なんだ、モーラも連れてきたのか」
出迎えてくれたのはランタンだった。上半身裸で、濡れた黒髪を乾かしている。風呂上がりなのだろうさっぱりとした顔をしていた。
ローサに手を引かれるモーラに顔を向けてにっと笑った。
「たのしかったか? ローサに泣かされたりはしなかったか?」
くしゃりと髪を撫でて尋ねるとモーラは、はい、といつもより大きな声で頷いた。悲鳴は上げたが泣いてはいないので嘘はついていない。
ランタンは、そうか、と言う。それからローサの頭をもっと乱暴に撫でてやる。
「よくやった」
「えへへ、ローサ。おねーさんだもん」
すっかり幼い顔でローサが照れる。恥ずかしくなって落ち着かないのか、兄の身体に浮かんだ虫刺されのような赤い点々を指で突いた。
「これなに? たくさんある」
「さあ、なんだろな? 虫にでも喰われたかな。くすぐったいよ」
点々に混じって歯形もあって、こんな大きな虫が出たのかとローサは驚いた。兄の背中には引っ掻き傷もあった。まるで迷宮を攻略してきたみたいだ。
しかしそういった疲れは少しも感じさせなかった。
「ガーランドもご苦労さま。疲れただろう、休んでいいよ」
「ああ、そうさせてもらおう」
「食事は用意しておくから、食べたくなったら好きに食べてくれ」
子供たちはよほど強敵だったようで、ガーランドにしては珍しく疲労を隠さなかった。ローサとモーラの二人に軽く視線を送ると、寝不足みたいな足取りで部屋へ戻っていく。
「モーラはうちで夕飯を食べていくのか?」
「うん、いいでしょ」
「ああ、問題ない。なんなら泊まっていきな」
少しだけ腰を屈め視線を合わせる。モーラはさっと視線を床に向けた。
「でも、お仕事があります」
「朝は僕が送るよ。せっかくだからアーニェさんもお誘いしようか。一緒に泊まっていけばいい。それならいいだろう?」
「それがいいよ!」
素晴らしい考えだというようにローサが同意した。
孤児院のお泊まり会の楽しさの余韻が、まだたっぷりと続いているようだった。
「おねーちゃんたちは?」
「リリたちは風呂。一緒に入るか?」
「うーん、もうちょっといい」
「そうか」
「うん、きょうもね、みずあそびしたから。ゆびがね、おばあちゃんみたいにしわしわになったよ」
「楽しんだようで何よりだ」
「うん。すごーくたのしかった! おにーちゃんは?」
「僕? うーん、そうだな」
ランタンはわざとらしく悩むような素振りを見せる。ローサはいちいち不安がった。
「楽しかったよ。僕ばっかり楽しんじゃったかもしれないけど」
なかば本気で反省するようにランタンは苦笑する。
ローサがいない間、兄たちはどうしていたんだろう。わっしょいわっしょいと、ローサには秘密のなにかを楽しんだのだろうか。
ローサは首を傾げる。
「じゃあ僕はガランでひとっ走りしてアーニェさんの所行ってくるよ」
「うん」
「リリオンにその事を伝えといてくれる?」
「まかせて!」
ランタンは着替えに自室へ向かい、ローサはモーラに館の案内をしつつ浴室へ向かう。
みんなが入っているはずなのに、浴室は奇妙に静かだった。
二人して、そおっと中を覗き込む。
白い湯気の中に影があった。開けた扉から湯気が逃げていき、姉たちの姿があった。みんな眠るみたいに肩まで湯に浸かっている。
「おねーちゃん」
「ん、ああ、ローサ帰ってきたのね。あら、モーラも。ふわあ――」
リリオンは隠しもせずに大きな欠伸をした。
「ただいま。おねーちゃん、あのね、おにーちゃんがアーニェさんむかえにいったよ」
「お母さんを?」
やはり眠たげな声で尋ねたのはミシャだった。
「あのね」
ローサは兄からの伝言を姉に伝える。
「なるほど、そういうことね。わかったわ。ありがとう」
「どういたしまして。おねーちゃんたち、みんなねむいの?」
「眠いって言うか。そうね」
リリオンたちはそれぞれ目配せをする。そしてまた欠伸をした。
ローサもつられて欠伸をする。今日の朝は寝坊してしまった。夜遅くまでおしゃべりをしていたからだ。姉たちもそうに違いない。
「わっしょいわっしょいしたから?」
「え、なにローサ?」
リリオンが首を傾げるのでローサは、なんでもないと誤魔化した。
「おぼれたらだめだからね」
「はいはい、ありがとうローサ。もうすぐ出るからね」
「うん。ローサたちもういくね。いこ、モーラ」
ローサはモーラを自分の部屋に案内した。
「お風呂、すごく大きかった」
「あとでいっしょにはいろうね」
少なからずの期待を込めた頷きにローサは満足そうに微笑む。
それから夕食の時にどんなことをして過ごしたのか兄たちに聞こうと思った。
あんなに疲れてしまうなんて、きっと自分の知らない楽しいことをしたに違いない。
絶対に聞こうと心に誓った。




