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ルーに急かされるままに館に帰ってきた。
もし本当に嫌だったら、自分は逃げ出しているはずだ。ルー相手でもそれぐらいのことはできるし、きっとルーも見逃してくれるだろう。
だが帰ってきた。
ランタンと、リリオンと、レティシアと、ミシャがいる館へ。
リリララは落ち付かなげな様子で、だらりと垂れた兎耳だけをぴくりと動かした。
声が聞こえてきた。
聞こうとも思わずとも聞こえてくる声だ。
ああ、これはレティの声だ。今日もずいぶんと嬉しそうだ。
主であり、幼馴染みでもあるレティシアの声にどきりとした。
胸の高鳴りは、不道徳さや罪悪感を孕んでいるが、そればかりではない。
リリララはこれからのことを想像して頬を赤らめた。現実感は稀薄で、なんとなく幸福な妄想のようだった。いつもならば馬鹿馬鹿しいと打ち切るような妄想だ。
「――はぁ」
吐息を漏らし、ルーの顔を窺った。
緩く波打った緑の髪に、彼女も酔いのせいばかりではなく肌を色づかせている。夢見がちのする垂れ目がいつもよりも色っぽい。
ルーの耳にはまだこの嬌声は届いていないようだった。
「お部屋に居られるでしょうか」
「ああ、そろってる」
「うふふ、さてリリララさま、心の準備はよろしくて?」
「よろしくねえよ」
「さすがに緊張しますわね。わたくし、お酒臭くありませんか?」
「どこが緊張してるんだよ」
「あらあら」
ルーは男のような強引さで、リリララの腰に手をやった。
「細い腰ですこと」
「酔っ払いめ」
強い力でリリララの腰を支え、急かすように階段を上がった。
二階には寝室が集まっている。
奥の突き当たり、一番良い部屋がランタンの寝室で、その手前にリリオンとレティシアの寝室が向かい合っている。
ここまで来るとルーの耳にも声が漏れ聞こえてきたようだった。
ルーの歩幅が大きくなり、背を押されるリリララはぎくしゃくと歩幅が乱れた。
「――邪魔にならねえかな」
声は盛り上がっている。リリララはいつになく弱気だった。
「なりません。喜んでくださいますよ。可愛い可愛い兎さんが、自ら火の中に飛び込んでくださるのですから」
「だといいけど」
「ふふ、ヴィクトルさまならどうだったと思いますか?」
きっと単純に喜んだだろう。豪快で、あけすけな男だった。来る者は拒まない主義で、売られた喧嘩は買ったし、女の誘いも同様だった。
「意地悪なこと聞くなよ」
「あら、意地悪に思われますか?」
蓮っ葉に、慣れ親しんだ舌打ちをするとリリララは少し冷静になった。頭に思い浮かんだヴィクトルの顔を、成仏しろ、と追い払う。
「さすがにちょっと緊張しますわね」
「顔が笑ってるぞ」
ルーはノックもせずに扉を開けて、少し遠慮がちな足取りで部屋に入った。
「あら――」
「――は」
熱く、湿った空気が肌を撫でた。
肌の表面がじりじりとして、背骨が熱を持って、その熱が全身にじんわりと広がっていく。
日影から強烈な陽射しの下に飛びだしたみたいだった。
部屋の中には、耳をそばだてて想像するだけだった光景が、現実のものとして存在していた。
想像の中にあるだけのものを、実際に目にできることは喜びであったが、不安でもあった。
一人の男と、三人の女。
例えば貴族然とした快楽の宴は、暴食や淫蕩などの罪深いもの象徴とされた。
リリララの中の不安にはレティシアに対して、そういった印象を抱いてしまうことが含まれていた。
レティシアを主として尊敬していたし、実は密かに物知らずで可愛い妹のようにも思っていた。
勝手な期待を裏切られることがこうも不安だったとは、それこそなんと勝手なことだろう。
もちろんレティシアだけではない。ランタンも、リリオンも、ミシャも同様に失望はしたくない。
そしてリリララの目の前で繰り広げられる光景は、そういった不安がまったくの杞憂だったことを示している。
リリララはぼんやりと立ち尽くした。
その光景に既視感を憶えていた。
記憶が抗いようもなく過去に遡っていく。
まだ少女のリリララが、今よりももっと拗ねた顔つきで、一枚の絵画を見ている。
場所はネイリング家の倉だった。隣に若いヴィクトルがいて収蔵品を漁っていた。リリララは腕を見込まれ、ヴィクトルに命じられ倉の錠前を破らされたのだ。
ヴィクトルは貴族の跡継ぎとして教養も兼ね備えていたが、やはり武人だった。芸術品と言えばもっぱら刀剣類を好んで、この時も喧嘩でダメにしてしまった剣の代わりを探していた。
どうやら彼がまだ教養を深める前の記憶であるらしい。
リリララは無造作に収蔵された貴重品の数々に怖じけずいていた。どれもが自分よりも価値のあるものに違いなかった。
その中でもその絵画は背丈よりも大きな作品で、迫力があった。筆致は荒々しく、今にも飛びだしてきそうだった。無造作に壁に立て掛けられていて、最初は壁画かと思ったほどだ。
絵画の前で立ち竦んでいると、気に入ったのか、とヴィクトルが聞いてきた。
返事はしなかった。
額装の内側で一頭の雄竜が、一頭の雌竜の首に噛みついてのし掛かっている。
リリララはその時それを喧嘩の絵だと思った。二頭の竜種が喧嘩をして、その周囲を見物の竜種が囲んでいる。人の光景を、竜種に置き換えたような絵だった。
ヴィクトルは作品を興味なさそうに一瞥し、しかし面白がるようにリリララを見た。そして、一緒に楽しめばいいものを、と言った。
その言葉を思い出していた。
その絵は喧嘩の絵ではない、と今になって分かった。
神獣交合図だった。
絵の中の竜種がランタンや、レティシアや、リリオンや、ミシャに重なって、そしてリリララは過去から戻ってきた。
ベッドの上で四人、一人の少年に、三人の女が惜しげもなく肌を寄せている。
ランタンの裸身は汗に濡れていた。
青白く、一見華奢でありながら、よく鍛えられている探索者の裸身だった。身体を動かす度に、筋肉の筋が浮かび上がり絹糸を束ねたような輝きを見せた。
今、組み伏せられているのはレティシアだった。
腰のくびれをランタンの手が掴んでいる。
黒曜石を削り出したような裸身を、ランタンの動きに合わせて艶めかしく捩り、荒々しい呼吸とともに声を発している。堪えられないというようだった。表情は女の喜びに満ちている。
リリオンとミシャは左右からランタンに抱きついている。
リリオンは次の順番を待ち遠しく思うように甘えており、ミシャの方は盗み見るような遠慮と隠しきれない好奇心の視線をレティシアへ向けて顔を真っ赤にしている。本人は気づいているのか、ランタンの二の腕を甘く噛んでいた。
「レティ、レティシア、もっと?」
名前を呼ばれるだけでレティシアの身の内が、ぎゅうっと収縮するのが感じられた。
もっと、と請うように願い、ランタンがそれに応える。
淫らであるはずだったが、リリララはそれよりも神秘的なものを感じていた。
まるで、これは人ならざるものの宴だ。
ランタンが二人を振り解くようにして、レティシアにのし掛かった。首に噛みつきはしないが、唇を合わせた。
レティシアの手がランタンの背中に回り、これを強く抱きしめる。脚が黒蛇のようにランタンの腰に絡ぎ、自らの深くへ引きつける。
ランタンが身を起こした。
リリオンが少年の身体をレティシアから奪うように抱き寄せ、何度も口付けした。待ちわびたのかすっかり潤んだ瞳をしている。頬がぽっと赤い。
「ランタン、順番よ。わたしだからね、約束でしょ?」
「ああ、――リリララ」
二人の唇の間で、名前を呼ばれる。リリオンが身を離して、唇を尖らせる。
「わたしの名前、まちがえた」
「間違えてないよ。リリララ、ルーも。来てくれたんだ」
リリオンの顔を押し退けて、ランタンがこちらへ振り返った。
レティシアが気怠げに起き上がり髪を掻き上げ、リリオンは唇を尖らせたままこちらを向いた。
ミシャだけは驚いた様子だったが、それでも胸を隠すようなこともない。ちょっと目を丸くするぐらいだった。
ランタンに到っては喜びを隠そうともしなかった。これほどの女たちに愛されて、まだ求めるようだった。欲深さより、我が儘さを感じさせるのはその外見のおかげだろう。
行為を神聖にさえ感じさせた少年が、ひどく無邪気に微笑んだ。
「ランタンさま、わたくしたちも混ぜてくださいませ」
「来て」
まだ立ち竦んだままのリリララを置き去りに、ルーが小走りベッドへ駆け寄った。
それが礼儀であるように身に着けているものを脱ぎ、魔道式の刺青が彫り込まれた肌を晒し、しなやかにベッドに上がった。
ランタンは片腕にリリオンを抱えたまま、ルーへ手を伸ばした。その手を掴もうとするルーの手をさっと躱し、いたずらに胸の先をつまんで引っ張った。
「あん、ランタンさま。いたずらなさらないでくださいませ」
「あはは」
ランタンは笑って、それからあらためてルーの胸に手を添え、撫でるように背中へ回し、その身体を抱き寄せる。首のあたりに顔を寄せて、大きく息を吸った。
「ん、――酒の匂いがする。いい酒だな」
「ランタンさまからは甘い桃の香りがいたします」
「そう? まだ余ってるよ。冷やしてあるから、あとで剥いてあげる」
背中に回した手が滑り、桃のようなルーの尻を丸く撫でる。ルーのうっとりとした横顔を羨ましく思った。
そんなルーとは裏腹にリリオンがますます拗ねた顔つきになる。
「わたしもさわって」
尖らせた唇をむっとさせたかと思うとランタンを押し倒す。
「わっ」
驚きの声を上げたのはミシャだった。
ランタンの頭が太股の上に乗って、ついでにリリオンの頭も乗せて、二人の表情を見て頬を緩めた。彼女の血の繋がらぬ母であるアーニェを思わせる微笑みだった。
「仲良くしなさい」
それぞれの手で二人の髪を梳く。
「ほら、リリララ」
いつの間にかベッドを降りたレティシアが、リリララの手を取った。思わず肩を震わせて驚くと、レティシアは苦笑する。気恥ずかしげな感じのする笑みだった。
リリララがレティシアを思うように、レティシアもリリララを思っている。気心の知れた間柄だからこその恥ずかしさだろう。
それでもレティシアはリリララをベッドへと誘う。
ルーはすっかりその光景に馴染んでいた。その鍛えられた身体を惜しげもなくランタンへ捧げ、まさしく奉仕している。
ランタンは当たり前のようにそれを受け、そして一方でリリオンの嫉妬を慰めている。
リリオンの嫉妬は幼気な無邪気さの表れで嫌な感じはしなかった。ただ素直なだけの少女の振る舞いは愛らしく、この期に及んで性の匂いが稀薄だった。
あんな風になれたらと思う。
「なにを遠慮しているんだ。今さら、――うん、そうだな。ようやくか」
レティシアはそう言って、リリララの服を脱がせた。手伝ってもらいながら、リリララも自ら肌を晒す。そういうつもりじゃなかったから、服はずいぶんと脱ぎづらい。
「レティは、いいのか? あたしが、だって、目の前で」
「かまわん。だから言っただろう、今さらだって」
はっきりと断言した。
リリララは妙な気持ちになった。
清々しくもあるし、さみしくもある。
混乱していた。
自分はまだヴィクトルにとらわれている、とその時はっきりと自覚した。
心のすべてではないが、彼は片隅に居座っている。
レティシアも、血の繋がった実の兄であっても、確かに彼を愛したのではなかったか。もうすっかり忘れてしまったのか、とそんな風に思った。
ランタンがリリオンを纏わりつかせたまま身体を起こし、リリララへ視線を寄越した。
来て、と口に出さずに両腕を広げる。身体のあちこちに女たちの口付けの跡があった。
しかたがない、と言うようにレティシアがリリララの肩を抱き、一緒にベッドに上がった。そしてランタンの胸の中に押し込まれる。
ほんとうに桃の香りがする。リリララは汗に濡れた胸板に頬を押しつける。
鼻の奥がつんとした。目の裏側がじんと熱を帯びた。自分はもしかしたら泣くのだろうか。
ランタンが顔を近付けてくる。両手で顔を挟まれ、まず額が触れて、それから鼻の先がくっついた。
「僕のこと嫌いになった?」
「ううん」
「うれしい。だって最近、僕のこと避けていたでしょ?」
これほど多くの愛を受けながら、それでも自分如きの言葉に心底嬉しそうにするランタンが確かに愛おしかった。
しかしだからこそヴィクトルの存在が不義理のように思える。
「でもあたしはダメなんだ」
「ダメじゃないよ」
「だって、あたし」
泣き言のように声を震わせて、リリララは自分の中にヴィクトルがいることを告げる。懺悔のようだった。ランタンは黙ってそれを聞いた。
聞き終わると困ったように眉尻を下げ、それでいて唇の端に笑みを浮かべる。
「一人だけを愛することができない僕には耳が痛い」
「ランタンは、いいんだ。ランタンは特別だ。あたしは知ってるんだ、特別だって」
「特別じゃないよ。リリララ、――僕は今の話を聞いて嫉妬したよ」
冗談でもなく、ランタンはそう言った。意外な言葉だった。
焦茶色の瞳の奥に、微かな炎の色が見える。
それは確かに嫉妬の炎なのかも知れない。
「リリララだけじゃない。レティも、ルーも、ミシャや、リリオンだってそう。僕の知らないところで、それが昔のことだって、ほんの一時でも、――みんなの心が他の男にとらえられていたことがあると思うと僕は嫉妬する。ああ、どうしようもないな」
じっとリリララのことを見つめる視線が、確かな熱を持っている。
「でも、それもいいだろう? 嫉妬したり、させられたり。たぶん男女の関係って言うのは、そういうものなんだ。それでもいいんだよ」
ランタンはリリララを抱きすくめる。
ランタンの身体は熱く、炎のようだった。
リリララの心ごと、過去のあらゆる感情ごと抱え、包み込む。
ランタンは大器である、と言うその言葉が思い出された。
例えばヴィクトルならば、――という思いが形にならずにふわふわとしている。
自分の心から彼が消えたわけではない。だがランタンを愛するのに邪魔にはならなかった。
「それに、それはそれで燃える」
悪戯っぽい言葉に驚くリリララを、ランタンはベッドに押し倒した。
「ほら、みんなが見てるよ」
「え」
視線をみんなへ向けようとした瞬間に、ランタンに唇を奪われる。
リリララは目を閉じて、長い接吻に夢を見る。




