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それからしばらくの日々を上街で過ごした。
毒の治療の為に入院をして、退院を許可されてからは事の顛末を探索者ギルドへと報告する為に連日ギルドへと通い詰める事となったからだ。
それは休日に騒ぎを起こしたテスの正当性を確固たるものにする為でもあるし、またバラクロフへと魔精薬を流していた組織がちょっとした一大麻薬カルテルだった為でもある。ランタンの知る情報などたかが知れていたが、情報は多い方が良いと言うのは本当にどこの現場であれ不変の法則であるらしい。
ともあれ麻薬カルテルの撲滅ともなると、それはもう探索者が首を突っ込む範疇からは大幅に外れる。
後はもう衛士隊やら騎士団やら探索者ギルド治安維持局やらの仕事である。ランタンに出来ることは嘘偽りなく、テスと口裏を合わせたりもしたが、見聞きした事実を報告することだけであった。バラクロフの証言と食い違いが出るかもしれないが、立ち位置によってものの見方は変わるものなのでそんなものはランタンの知ったことではない。リリオンからの報告は強権を発動したテスが聞き取りを行ったので何も問題も起こらなかった。
「でも、ずいぶんと良くしてくださるんですね」
探索者ギルドの個室でランタンは司書と二人っきりになっていた。司書は相変わらず全身を隠していて、不思議な声音でランタンの疑問に答える。
「テスがお前らを捜査協力者として申請したからな。今回が特別で、普通は怪我をしようと治療費は自分持ちだ。おそらく探索者としての査定にも多少点数が加算されているはずだし、甲種探索者になる日も近そうだな」
ランタンやリリオンの怪我の治療費は四半銅貨の一枚すら請求される事はなかった。高価な解毒薬や治癒促進剤など魔道薬でさえ無料であるし、それどころか調書を取る為の上街での滞在費用さえも、驚くべき事に宿泊手当と言う形で支給された。
さすがに高級宿に泊まれるほどの金額ではなかったが、ランタンは手当に自分の金を足して高級宿で過ごした。
ベルムドに注入された毒はなかなか厄介なものだったらしく倦怠感が三日ほど抜けなかった。その事について薬物の専門家であるギルド医に物凄く怒られるし、そのせいでリリオンが過剰に心配してしまって大変だった。しばらく風呂には入れず食事制限もあったのだから、それぐらいの贅沢は許されてもいいはずである。
それに臨時収入もあったのだから。
それはカルレロに掛けられていた懸賞金であり、あの現場に残った大量の装備品や薬品などの価値のある物品である。装備品などはざらりと検品して幾つかを手元に残したが、大半はギルドに買い取ってもらった。
特にカルレロの三日月斧やベルムドの刺突剣、蜥蜴の大鉈は特に高値がついた。バラクロフの弓を踏み折ってしまった事が、今では少し悔やまれる。
また罪を犯した探索者を捕まえたことによっての特別報奨金が支払われることなり、全てを合わせると中々の金額となった。迷宮探索で得ることの出来る収入には、さすがに届きはしなかったが。
ランタンはそれらを以てテスへの礼としようと思ったが、彼女はそれを三等分にすることを望んだ。結局話し合いの末にランタンとリリオンで四割、残りをテスが受け取ることとなって落ち着いた。テスの取り分には、目の前にいる司書や道案内をしてくれたジャックやフリオへの謝礼も含まれている、と言うことでランタンはテスを言いくるめたのだ。
「なるほど、それならばテスに集ってやらねば。ふふふ」
司書が口元に手をやって喉を震わせて笑った。その姿は不思議と嫋やかさを感じさせる。ひらひらとした服の揺らめきがそう思わせたのかもしれない。
「僕に集ってくださっても構いませんよ。なんだかたくさん探索者が紛れていたようですし」
賞金首探索者であるカルレロを除いても、それでもあの場には探索者が六名存在した。弓男ことエイン・バラクロフ、猫背ことベルムド・ドマ、蜥蜴ことスヴェア・アウロフ、そして有象無象の中に二人と、貫衣、あるいは緑髪の女ことルー・ルゥである。
だがルー・ルゥに関しては報奨金の対象とはならなかった。
ルー・ルゥはあの中にあって、最も場違いな人間であったのかもしれない。
彼女はカルレロ・ファミリーの一員ではなかったし、またバラクロフの顧客の一人ではあったが雇われた傭兵ではなかった。彼女はある症状により前後不覚となることがあり、それによってバラクロフにいいように使われていた。
その症状とは魔精欠乏症と呼ばれるものである。体質にもよるが魔道使いに多く見られる症状で、それは体内にある魔精を大きく失うことによって引き起こされる。身体機能の低下、意識や記憶の混濁、場合によっては衰弱して死に至ることもあるが、欠乏症の全ての人間に共通することは魔精への狂おしいほどの飢餓感と、それによる抗いきれぬ衝動的な執着心である。
ルー・ルゥは己の身体が魔精を失いやすい体質であることを自覚していた。
彼女が傭兵探索者である理由は、特定の探索班に所属する事では実現できない、ランタンに匹敵するとも劣らないハイペースの探索を行う為であった。複数の探索班を掛け持ちし多く迷宮に潜ることで魔精を取り込み、彼女は自らの欠乏症を押さえ込んでいた。
傭兵探索者としては格安の賃金と、それに見合わぬ働きぶりで彼女は売れっ子傭兵探索者だったようだ。
にもかかわらずバラクロフの顧客となったのは、時間と共に体内から失われる魔精の量に探索で吸収できる魔精の量が追いつかなくなってしまったからだ。彼女は奈落へ落ちるように迷宮へと潜り、それだけでは足りない魔精をバラクロフから薬の形で購入することとなった。
ルー・ルゥがランタンたちを襲った理由が、例えば魔精薬を販売するにあたりバラクロフにランタンの首を所望された、と言うのならば同情することは出来ない。
だが彼女には初襲撃時の記憶が無かった。また先の戦闘の記憶も。
初襲撃時、バラクロフは魔精薬と偽って偽薬をルー・ルゥに投与し、意図的に欠乏症を発症させてランタンたちを襲わせたのである。最終目標を攻略したばかりのランタンたちは欠乏症を発症させたルー・ルゥにとって魔精を詰めた肉の袋同然であった。
そして先の戦闘ではバラクロフから倉庫に呼び出されたことは事実であったが、バラクロフに図られるより先にただ普通に欠乏症を起こしたのだそうだ。
それを聞いた時にランタンとテスは顔を見合わせて笑い、リリオンはよく分かっていないようだったがやはり笑った。あの場には現役の探索者二名と慢性魔精中毒者三名、また魔精薬の在庫もあった為にルー・ルゥは自然と引き寄せられたのかもしれない。
慢性魔精中毒者もいたのに、なぜランタンを狙ったかは依然不明ではあったが。
「それはいい匂いがしたからだろう、ふふふ。テスが言ってたぞ、なかなか美味そうだ、と。せいぜい食われんように気をつけることだな。あいつ何でもいける口だから」
「それは怖いような、楽しみであるような話ですね」
ルー・ルゥも被害者である、とは多少の実害を被っているのでさすがに言わぬが、けれどそれに近い立場であることは間違いないとランタンは思った。
戦闘から四日後にランタンはルー・ルゥと対面して謝罪を受けた。
欠乏症というどうにも出来ぬ病に責任を転嫁することなど一切無く、ただ己を強く恥じ深く頭を下げた彼女は、変な女だ、と思った出会った当初の印象を忘れさせるような真摯さがある。肩の辺りで揺れていた緑の髪が少年のように短く刈り込まれていたのが印象的だった。
同情を覚えなかったと言えば嘘になる。腕を折られ鼻を折られたリリオンも、なんだか大人びた表情でその謝罪を受け入れていた。無論ランタンも。
ルー・ルゥには情状酌量の余地があったが、それでも探索者ギルド法を破ったことにより処罰が与えられることとなった。
それは当初、乙種探索者から丙種探索者への降格処分と七日間の禁固刑及び一四〇日間のギルドへの奉仕活動であった。だが彼女と探索を行ったことのある幾つかの探索班が連名で減刑嘆願書を提出したのだ。ルー・ルゥは低賃金だからと言うだけで求められた傭兵探索者ではなかったのだ。
ランタンとリリオンも減刑嘆願に同意した為に、降格処分と七日間の禁固刑こそは変わらなかったが、奉仕活動が九〇日間へと減刑された。働きぶりによっては更に短縮されることもあるのだと言うが、それについてランタンは一切不満はない。また被験者と言う立場であったが、魔精欠乏症の治療も受けられるのだと言う。
ルー・ルゥとの確執はもう既に過去のことである。
「人間的には悪い奴ではないのだろう。他の探索者からの評判も良いようだし、探索実績も充分ある。ギルドとしても有用で、真面目な探索者は貴重だからな」
だが残りの三人は、やはりと言うべきか死刑相当刑が宣告された。
バラクロフにより内部から蚕食されたかと思われたカルレロ・ファミリーだったが、ファミリーを掌握していたのはバラクロフではなくカルレロ本人であった。
カルレロの性格は豪放磊落であり、また情に厚く、身内とした者に甘い。部下たちはカルレロを親父と慕い、カルレロは部下を息子と呼んだ。
そんな中でカルレロにとってバラクロフはどうしようもなく我が儘な末の息子だったのだ。バラクロフはカルレロを薬物によって支配していると思っていたようが、カルレロにとってはその内にある感情さえも見え透いた子供の駄々でしかなかったようである。
もっとも薬物に犯されたカルレロの思考が、どれほど理性的であるのかは疑問ではあったが。
ランタンは呆れてしまった。そんなものただの親バカであり、子供の我が儘を聞くことを度量と勘違いしたダメ親父ではないかとしか思えない。
だが立場が変われば見方が変わり、ベルムド・ドマにとって探索者として落後した己を拾い上げてくれたカルレロは、生みの親以上の真に尊敬すべき父親であった。魔精薬のみならず多くの薬物群を摂取しベルムドの意識は狂気により混濁していたが、カルレロへの尊敬だけは変わらずに彼の中にあった。
だが最後までベルムドの証言の中にバラクロフへ言及はなかった。彼の中で彼が最後まで守ったものが何だったのかは不明である。
フィデル・カルレロ、ベルムド・ドマは探索者ギルド医務局と魔道ギルドの連名で運営される研究機関へと、慢性魔精中毒者の検体として運ばれていった。
生きたまま、あるいは生かされたままと言うべきか。
特にカルレロは慢性魔精中毒であるのにも関わらず比較的意識が明瞭である為に研究員が貴重な検体として嬉々として受け取りに来たのだという。その研究機関がどのような働きをするのかはランタンはこれっぽっちも知らないし、知りたいと思わなかった。
ただ戦いの中で死んだスヴェア・アウロフは最も幸運であるような、そんな想像が頭を過ぎった。
人の人生など分からないものだな、とランタンは老人のように茶を啜った。特に達観しているわけではなくただの格好つけである。それを見抜いたのか司書がベールの奥で目を細めたような気がした。
主犯格であり、重要参考人であるバラクロフに課せられた処罰は無期限の強制労働刑であった。取引相手である顧客や麻薬カルテルの情報を全て搾り取った後に、その刑は執行される。
カルレロらに比べれば軽い刑のように思えるが、その内実は炭鉱の金糸雀と同じ事をさせられる。魔物の跳梁跋扈する危険地帯であったり、それこそがバラクロフの本職であるとも言えるが、迷宮探索への尖兵として派遣されるのだ。バラクロフが薬物中毒者にしたのと同じように幾らでも代えの効く使い捨ての兵士として、時には薬物によって恐怖を誤魔化され、死ぬまで。
黙秘に黙秘を重ねたバラクロフはまるで処罰の予行演習を済ませるかのように自白剤を投与された。彼の自白した内容全てがランタンたちに伝えられたわけではないが、規則破り上等の正義の使者であるテスにより概要を横流しにしてもらった。
そのテスは今はここに居らずリリオンを誘って修練場に汗を流しに行っている。おそらくランタンからリリオンを引き離す為に。
司書がばさりと裾を翻して足を組み替え、溜め息にもならぬ微かな吐息を漏らした。ランタンはことりと茶をテーブルにおいて座り姿をあらためた。
「テスから話は聞いているな」
「はい」
「それについていくつかの補足をしようと思う。互いにな」
リリオンを巡るあれこれについて、その始まりはランタンが少女と出会ったその時、あるいはそれ以前から既に始まっていた。
リリオンがこの街に来た、あの三人の襲撃者崩れによって連れてこられた理由はそもそもリリオンを奴隷として取引をする為であった。リリオン自体はその事を知らず、少女はこの街でついに探索者としての第一歩を踏み出せるのだとそう思わされていたようである。
取引先は貴族であり仲介役がバラクロフであった。
ならばなぜ大切な商品であるリリオンに男たちは暴力を振るっていたのかという話になるが、それは単純にリリオンが商品ではなくなったからだった。貴族が土壇場で購入の意思を翻したわけでも、バラクロフが急に値段を値切ったわけでもなく、男たちの方から一方的にその取引の意思を翻したのである。
もっとも男たちはランタンの手にかかってしまっている為、その真意は不明であったが。
司書がランタンに問うた。
「なぜ男たちはあの子を手放さなかったのだと思う? バラクロフの話によればリリオンの取引はなかなか悪い話ではないようだが」
「……それだけ、リリオンが魅力的だったのだと思いますよ」
ランタンの想像でしかないが男たちはリリオンの身体に黄金を見たのだと、そう思った。
リリオンの身体能力はずば抜けている。はっきり言って丙種探索者を戦闘能力順に並べれば、最上位と言わずともリリオンの順番は上から数えた方が早い位置にいる。まだたった二度しか本格的な探索をしたことがない少女が、である。それは恐ろしいことだ。
「リリオンはそれほどか」
「僕なんかあっという間に追い抜かれそうですよ」
「……なるほど。お前よりも稼げるとなれば、それは黄金を産む鵞鳥どころの話ではないな」
襲撃者崩れが取引をすっぽかして別の街へと逃亡しなかったのは、この都市が迷宮探索の発祥地であるためだろう。探索者として一旗揚げるには、これ以上の都市はそうそうない。皮肉な事だがもしかしたら男たちにもリリオンと同じように、ちゃんとした探索者になりたい、と言うような願望があったのかも知れない。
だが取引が破棄されて怒り狂ったのが貴族であり、困ったのがバラクロフだった。
なにせ相手が探索者崩れの破落戸から、いつの間にやら飛ぶ鳥を落とす勢いの新鋭の単独探索者ランタンへと様変わりしていたのである。はっきり言って詐欺どころの話ではない。だがそんなことはランタンの知った事ではないので向かってきた男たちは全員ぶちのめす運びとなった。
だがリリオンを欲した貴族を裁くことはできなかった。
曲がりなりも権力者である貴族をたかがバラクロフ一人の自白だけで追い詰めることは到底できず、用意周到と言うべきか物的証拠は何一つとして現れなかった。もしかしたらと思って背嚢の底にしまっていた、奴隷首輪と命令指輪のセットを提出してみたものの、それらの入手経路を辿る事ができずに証拠とはならなかった。だが万が一の事もあるので、その二点は探索者ギルドに捜査資料として無償で提供した。
結局バラクロフの自白内容は探索者ギルドによって政治の場で、貴族派への牽制材料として使われることとなった。政治の場にとって黒い噂は証拠はなくとも武器になるのだ、とテスと司書は悪い笑い声を漏らしていたが、ランタンは曖昧に笑う事しかできなかった。
けれど何かと目立つ存在であるランタンの傍らにあることと、探索者ギルドの後ろ盾を得たことによって貴族が再びリリオンへ食指を伸ばすことが難しくなったのは間違いはないだろう。それで一先ずは手打ちとなったのである。
「リリオンは、あの子は良い子だな」
司書はぼそっと呟いた。顔はランタンの方を向いていたが、視線はどこか別を見つめているようだった。そうと分かっていてもランタンは頷いた。そして破顔する。そこには呆れと、羨望が綯い交ぜとなっている。
「あの子は何にも考えていないだけですよ」
言い換えれば脇目も振らず真っ直ぐ前を見ている、とも言えたがランタンは黙っておいた。
テスの口から顛末が語られた際にリリオンは貴族の名前を問うことも、自らが貴族に目を付けられた理由を聞くこともなかった。ランタンが嘯いたように本当に何も考えていないのかもしれないが、テスが意図的に口を噤んだことに気が付いていたのかもしれない。
「その分お前が悩めばいいさ、私は知らん」
司書が意地悪く笑いランタンに告げた。ランタンが唇を突き出して司書を睨むが、司書は余裕を見せつけるように片肘をついてランタンの視線を受け止めた。司書は苦笑して、しかしそれは物憂げな溜め息へと変わった
「さて悩ましいお前に頭の中に、悩みの種を一つ埋めねばならん」
司書は勿体ぶった前置きをして一つ名前を呟いた。その名前をランタンは知っていた。
ロベール・ベルトラン・サラス。
それは上街の最北、貴族の館が軒を連ねるきらびやかな区画に館を構える有力な貴族の名前であり、そしてリリオンを欲した貴族の名前でもある。
名前を聞いてランタンは表情を変えることはなかったが、それは表情を意識的に凍り付かせているだけであった。
司書がのそりと身体を起こし、男性的に股を開いて座り、やや視線を下げたランタンの視界へと手を伸ばした。意識を確かめるように目の前で揺れる手袋に包まれた指先に、ランタンは小さく息を飲んでゆっくりと表情を溶かした。
「知っているのか?」
「ええ、とても、よく」
それでもランタンの声は底冷えしていた。
サラスはいわゆる友愛派と呼ばれる貴族である。
人族と亜人族の間にある差別問題の解決に積極的に取り組み、自らの屋敷の使用人や騎士団へ大勢の亜人族を雇用している。そして亜人族のみならずサラスは弱者に手を差し伸べるのだ。例えば教会への多額の寄付であったり、孤児院や傷痍軍人の療養所の運営、また先天的に身体的、精神的に不虞のある者を手厚く保護するというような活動に私財を投じている。
まるで手を差し伸べて、そのまま掌に包み込むかのように。
「サラスはリリオンを欲している――」
「――そこに流れる血を、ですか?」
司書の言葉をランタンが繋いだ。
司書は一瞬間をおいて、ゆっくりと頷いた。ギルド内でリリオンの事がどれほど広まっているのだろうかと不安になったが、そのランタンの不安を感じ取ったのか司書は、心配しなくていい、と柔らかく呟いた。
「隠し通せる物ではないが、知っているのは一部の上級職員だけだ」
ロベール・ベルトラン・サラスは友愛派として名高く、彼のことを聖人だと褒め称える者も多いが、同時に異常なほど毛嫌いしている者も多い。
サラスが慈愛を以て弱者を助けているのではなく、ただ物珍しい生き物を収集しているだけなのだと、そう気が付いている者も大勢いる。
ランタンがそれを知ったのはこの世界に来て一ヶ月と少し、ようやく言葉を解するようになった明くる日だった。ランタンの目の前でそれを語った男は、おそらくランタンがその言葉をしっかりと理解できるとは思っていなかったのだろう。
だがランタンは理解できた。たどたどしく聞き取ったその内容の醜悪さを。
ランタンが一ヶ月ちょっとで知ったことを、この世界には知らぬ人間も多いのだと思うと、誰にともなく不満がこみ上げてきた。だがそれを吐き出すことはせず、知らぬ事が多いのは誰も彼も変わらない、とランタンは粘つく口内を茶で濯ぎ、飲み干した。のそりと鎌首を擡げた激情と共に。
「うん、いい子だ」
優しい声音がランタンの時を一瞬止めた。
その言葉が己に向けられたものだとランタンが気づくと、表情をぽかんとさせて次第に顔を赤くした。
「今からサラスの館へと殴り込みに行く、と言い出したらどうしようかと思った。さすがにお前でも貴族の館を一人で落とすのは無茶だよ」
「……それほど向こう見ずではありません」
「くっくっく、さて、それはどうかな」
司書は手を伸ばしてランタンの顎に指を掛けて面を持ち上げさせた。奴隷の買い付けに来た悪趣味な貴族が品定めをするように、赤くなったランタンの顔をじろじろと眺め回した。そこにある羞恥が面白くてたまらないとでも言いたげに、顎の下を指先で撫でさえもした。
手袋越しに触れる指が細く、その腹は痩せている。中身はやはり女か。
顔の赤みは取れずとも、頭の熱を冷ましたランタンがされるがままにしていると司書は不意に指を噛まれたかの如く手を引いた。鋭いな、とランタンがはにかんで微笑むと、司書は手袋の皺を伸ばしながら乱暴に舌打ちをした。
「油断ならんな。ふん、まあいい。取り敢えず貴族のことは伝えた。それをリリオンに言うかどうかはお前に任せる」
「任されました」
「――おや、ずいぶんとあっさり請け負ったな」
「あの子も薄々は気が付いていますよ」
「……そうかもしれない、と。そうである、は別物だよ」
「大丈夫ですよ」
すっかり顔を白くしたランタンが涼しげに言うと、司書はもうそれ以上何も言わなかった。
「あ」
不意に降りた沈黙を紛らわせる為かランタンが再び茶に手を伸ばしかけて、一つ声を漏らし、けれど何もなかったように茶を手に取り啜った。声など漏らしていませんよ、と素知らぬ素振りで茶を啜ってみせていたが、その一音は司書の鼓膜を揺らした。
「あ、の続きを言え」
「いえ、バラクロフに聞きたいことがあったのを今、思い出したのです」
喉元過ぎれば何とやらですっかり忘れていたが、結局バラクロフが自分へと向けていた憎悪は何だったのだろうか、とランタンは司書に尋ねた。答えを司書に求めていたわけではなく、ただ聞かれたので、あ、の続きを口に出しただけだ。
だが司書は断言するように答えた。
「嫉妬だな」
「嫉妬?」
思わずランタンが鸚鵡返しにした。司書が笑った。
「迷宮探索に際して麻薬を摂取する者は少なくない。うちの医務局でも取り扱いがあるしな。なぜだと思う?」
「……景気付けのためですか」
「ああそうだ。勢いを付けなければ、――恐怖を紛らわせなければ迷宮に潜れない者は多い」
バラクロフはどこに行ったのだろう、と不安げな顔をしたランタンに構わず司書は言葉を続けた。
「迷宮は怖いものだ。お前は単独探索者だったわけだが、例えばテスが探索者になったとしよう。アレの戦闘能力は、自分と比べてどうだ?」
「上だと思います、かなり」
治安維持局第三部隊隊長の名は伊達ではなく、それが何番隊まであるのかは知らないが、テスと同格の人間が複数名いるとなるとギルド内で悪さをする気も起きない。それぐらいテスの底は知れない。
「かなり、と言うのは自己評価が低すぎる気もするが、……まあいい。さて、そんなお前よりも強いテスだが、だがそれでもテスは単独探索者にはならない。なぜか?」
「色々リスクが多いですからね。怪我のこととか、所持重量とか。引き上げ代も割高ですし……」
ランタンが自らの経験を元に言葉を重ねると、司書は肩を竦めて、いっそ小馬鹿にしたかのように笑った。ランタンがむっと睨むと、悪いな、と悪びれず言った。そして続ける。
「そんなに細かいことではない。理由は一つ、恐怖だ。テスに限らず、誰も彼もが一人で迷宮に潜る、そこに一人で居ることが、どうしようもなく怖いんだ」
それは、とランタンは何か言おうとしたが、結局沈黙した。司書の言葉には不思議と真剣さが含まれていた。
「迷宮は異界だ。あそこは本来、人の居るべき場所ではないのだと、私は思う」
ランタンは少し眉を下げる。真剣な響きのある言葉だがランタンにはよく分からなかった。ランタンも迷宮を怖いと思う。だが司書の言う怖いと、自分の感じる怖いは別の物のような気がした。
司書は構わず続ける。
「だからこそ単独探索者であったお前は、多くの探索者から注目を集めた。それが勇気であるのか、それともただのいかれか、とね」
「……それでは失望させてしまったかもしれませんね。今はもう、ただの探索者ですし」
たぶん後者ですし、と言わなかったのはそれが冗談にならないような気がしたからだ。
「お前が単独で迷宮に潜り、幾つもそれを攻略した事実は消えんよ。多くの探索者はお前の中に勇気を見て、それに憧れたのさ。――そして同時に嫉妬も」
それは静かな言葉だった。だが不意に意地悪く、大人気ない稚気を込めて司書は呟く。
「知ってるか? 嫉妬」
「知ってますよ、それぐらい」
ランタンがその稚気に対抗するように子供っぽく唇を震わせた。そして寝物語の続きをせがむように司書を急かした。
「それがどのようにバラクロフへ関係するのですか?」
「くっくっく、やはり知らないんじゃないか。――バラクロフはお前に嫉妬していた。バラクロフが迷宮に潜らなくなったのは迷宮が怖くなったからだ。愛用した弓を失ったことも、仲間との確執も、恐怖に付随した出来事に過ぎない。だからこそ恐れを知らぬお前を妬んだのだろう」
司書はそう言って言葉を結んでしまった。ランタンはその言葉をかみ砕いて飲み込み、胃もたれを起こしたようなうんざりした表情を作った。
「……僕、関係なくない? 八つ当たりですよね?」
「ああ、そうだ。特にバラクロフは扱う武器の性質上、他者が居てこそと言うところもあるからな。そう言ったことも関係していたのかもしれない」
「そんなん知らんよ……」
ランタンはどっと疲れを感じて、投げやりな溜め息を吐き出すとがっくりと俯いた。司書がそんなランタンの頭に手を伸ばしてぐしゃりと撫る。
「碌でもないが、人間なんてそんなものさ」
頭上に降った言葉は慰めにしてはひどく素っ気なく冷淡である。ランタンが視線だけで上げて上目遣いに司書を見つめると、司書は肩を竦めた。ランタンの頭をぽんと叩いて手を引っ込める。
司書が手を引いたのと、ほとんど同時に扉が爆発したよう開いた。ランタンが驚いて顔を上げ、そちらに目を向ける。
「ランタンっ、ただいま!」
そこにはリリオンが、そしてその後ろにはテスが居る。リリオンは鼻や腕の骨折もすっかり治って、元気が有り余っているように頬に少し赤みがあった。後頭部の高いところで髪を一つに結んで、テスと同じ髪型にしている。ずいぶんとご機嫌な様子で笑っている。
「おかえり。テスさんもお世話をお掛けしました」
「いやいや、私もなかなか楽しかったよ」
リリオンが子犬のようにランタンに駆け寄って、ソファの隣に尻を押し込んでくっついて座る。その身体からは熱気と汗の匂いがした。
「どうだった?」
「十二回負けたわ!」
「勝ちは?」
「ゼロよ!」
リリオンはテスに誘われて修練場へと行っていた。
テスは報告書の作成等々の事務仕事で、リリオンは怪我の療養で鈍った身体を鍛え直すという名目である。零勝十二敗というさんざんな結果だったようだが、リリオンは悔しさなど微塵も感じさせず満足気である。勝負と言うよりはただ遊ばれただけのようだ。それだけ彼我の実力差が隔絶していたと言うことなのだろう。
リリオンは興奮した様子でいかにテスが凄かったかをランタンに伝えようとしているが、その説明は擬音まみれで何も伝わらなかった。それでもリリオンが楽しそうなので水を差すのも可哀想だと、取り敢えず微笑みながら聞き流していた。早口で捲し立てていたリリオンが、不意に言葉を途切れさせる。
ただでさえ近い顔を、ぐっと近づけてランタンに尋ねた。
「そう言えば、ランタンはお姉さまと何を話していたの?」
「うーん、そうだね――」
ランタンはリリオンの頭をがしがしと撫で回す。
「――世の無情さについて、かな」
とは言え世の全てがそうと言うわけではない。
きょとん、と小首を傾げるリリオンを見ているとランタンはそう思うのだった。




