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迷宮都市ティルナバンを東に行くと森が広がっている。
不帰の森と呼ばれており、地上にあって魔精の濃い特別な場所だ。
その魔精を利用する研究施設が森の中にあり、正式なものに混じって、秘密結社黒い卵の研究施設さえもかつては存在した。
不帰と冠する名前の通り、立ち入ったものが時折、行方不明になることで知られている。
それは研究を秘するために広められた人払いの噂であり、魔精の濃さゆえに歪んだ空間のせいであり、掠われた挙げ句に研究材料にされることがあるからだった。
もちろんただ森に迷ったり、獣や魔物に遭遇したりして帰れなくなることもある。
都市外に遊びに出かけることもあるローサには近付くなと言い聞かせてある。
そういう森にやってきたものだから、ローサは好奇心でいっぱいの顔をして今にも走り出しそうだった。跳ねるような足取りからうずうずしているのが見て取れる。
「はぐれたらもう二度と会えないぞ」
ランタンが脅かす。ローサはちゃんと怖がって、リリオンの手をぎゅっと握った。
「こうしていれば大丈夫ね」
「ローサのこと、はなしたらだめだからね」
森の中は静かで、緑色の光が降り注いでいるようだった。
ランタンとリリオンとローサ、それから魔馬ガランの三人と一頭で森の中を歩いている。背中に荷物を載せたガランの足音が、りんりんといやに涼しげに鳴っている。
「この地図は本当に役に立つのかな」
手書きの地図と方位磁石を見比べながらランタンが先導する。時折、首を傾げ、振り返り、頭上の枝葉から覗く太陽の位置を確認する。
「リリララ連れてくればよかったな」
立ち止まって地面に耳を付けた。ローサがそれを真似しようとするが、耳が頭の側面ではなく頭上にある少女は上手くできない。リリオンと片手を結んだまま、肩の外れそうなでんぐり返しをする。
「ローサ、うるさいぞ」
「なにがきこえるの?」
「水の音」
「ローサもききたい」
リリオンが手を引いて、地べたに座り込むローサを起き上がらせる。土で汚れた身体を払ってやる。
「ねえ、ローサもみずのおとききたい」
「そうだなあ……耳の位置を変えるわけにはいかないし」
「ほら、ローサ、こっちでも聞こえるわよ」
リリオンにうながされ、ローサは木の幹に耳を押しつけた。ゆっくりと目を瞑り、その内側を流れる水の音色に耳を澄ませる。
ランタンとリリオンは視線を合わせて微笑みあったが、ガランは早くしろと急かすみたいにローサを頭で押した。
「ガランもしたいの?」
ローサはそう言って場所を空けるが、ガランはそれに見向きもしない。
「もう、かわってあげたのに」
憤慨するローサを宥めて、地下に走る水脈を辿った。
地図はだいたい合っていたが、目的の場所は東の方に少しずれている。最新の地図という触れ込みだったが、不帰の森ではしかたのないことだった。
ようやく辿り着いたのは小川だった。
さらさら音を立てて森の中を流れている。流れは穏やかで、水深は深いところでも膝ほどしかない。
「よーし、獲るぞー!」
「おー!」
ランタンの声に合わせて、リリオンとローサが拳を突き上げる。さっそくローサが川の中に入っていき、残った二人は靴を脱ぎ、裾を膝までめくり上げた。
「ローサ、あんまりばしゃばしゃするなよ。魚が逃げる」
「わかったあ! あ、いた! まてー!」
言ったそばからローサは水を蹴り上げ、魚影に駆け寄った。
「しょうがないやつだな」
「ほら、わたしたちもいきましょ」
リリオンの白く、ほっそりとした脛に見惚れる。足首がきゅっと細い。
足はランタンよりも当たり前に大きい。第二指が長く、菱形になっていた。踵の皮膚が薄そうで、綺麗な桃色が透けている。
踏みしだかれた苔が、濡らされたように色を濃くして、足跡を浮かび上がらせている。その隣につけた自分の足跡が小さくて、大人と子供のようだとランタンは思う。
リリオンがそっと川に入った。びくりとして振り返る。
「あ、冷たい。ランタン、転ばないでね」
「僕じゃなくてローサに言ってやれよ」
「もう、遅いわ」
転んだわけでもないのにすでに髪まで濡れているローサを見て、リリオンは苦笑する。
川の水は冷たく、足の裏に丸まった石のつるつるした感触と苔のぬめりがくすぐったい。
「どうだ、ローサ。捕まえられたか?」
「もうちょっと!」
ローサは闇雲に川面に手を突っ込んだり、虎の前脚で魚影を踏み付けたりしようとする。楽しそうにはしているが、捕まえるのはまだ時間がかかりそうだった。
「さて僕らもやるか」
そう言ったもののローサが暴れた所為か魚は見る影もなかった。リリオンも腰を折り曲げて、川面を覗き込んでいる。川底の大きな石をひっくり返す。外れ。もう一つをひっくり返すと、小さな沢蟹が出てきた。だが食べようもないので逃がしてやる。
川縁の積み重なった岩の隙間を、リリオンが長い腕を活かして探る。何かを握った。開いた手をローサが覗き込む。背中が黒いイモリが掌から飛び下りる。
「あ、いっちゃった!」
「なかなか難しいな」
「ローサもなにかつかまえたい!」
「よし、わかった。じゃあこうしよう」
ローサが一度川から上がって、岩の上で待機をする。ランタンとリリオンが二人がかりで、一人では動かしようもない大きな岩をごろんと転がす。
細長い魚影が飛び出す。
目を皿のようにしていたローサが、更に大きく目を見開き、虎の身のこなしで跳躍した。
着水は驚くほど静かで、水柱も立たない。声さえ上げない。少女は本能的な狩猟者だった。
水中で行儀よく揃えられた爪先。手を突っ込んで、その下から何かを引きずり出した。
「つかまえた! わわわ、すべる、にげちゃう!」
ローサの手から、にょろにょろと逃げ出そうとするのは鰻だった。よく育って、黒々として如何にも活きがいい。空へ逃げようとするみたいに上へ上へ抜けようとする鰻を、ローサは左右の手を交互に上下に交代させる。
「ほら、ここに入れて。そう、上手よ」
リリオンが魚籠を差し出す。ローサはどうにかその中に鰻を押し込み、物珍しげに覗き込む。
「へびとはちがう?」
「蛇は魚じゃないけど、これは魚」
「ふうん」
「ほら蛇には鰓がないだろ?」
「うん」
「その代わり蛇は鱗がある。けどこいつは鱗がない」
「ぬるぬるしてる」
「こうやって指一本で掴むと捕まえやすいよ」
「ほんとだ!」
人差し指を鉤型に鰻を掴んだローサは尊敬の眼差しをランタンに向けた。
「おにーちゃんはなんでもしってるね」
「まあな」
ランタンは胸を張った。そんなランタンを茶化すみたいに、リリオンが濡れて冷たい手で頬に触れる。
ひぃ、とランタンは情けない声を上げた。リリオンがけたけた笑う。振り返って睨みつけると、バシャバシャと逃げていく。
「やったな!」
「きゃあ。やだあ、もう、ひどいんだから!」
「ローサもやるー!」
ランタンがリリオンに水をかけ、リリオンがそれにやり返し、ローサが第三勢力として参戦する。水辺でガランが水を食むように飲んでいる。
誰も彼もびしょ濡れになって、リリオンが用意した弁当を食べて、また魚取りを再開する。
七匹の鰻と一匹のスッポンを捕らえて帰路につく。
帰り道に兎を三匹捕らえ、これは晩飯になった。
七匹の鰻とスッポンを手土産にエドガーの下を訪れた。
今日はネイリングの屋敷にいることはレティシアから教えてもらっていた。
彼が騎士団へ稽古をつけに行くのは月に片手で数える程度しかない。彼の教えを請いに来るものは後を絶たないが、ほとんどが門前払いされている。
生きたままの鰻がしまわれた麻袋を覗き込み、エドガーは礼を言ったが、少しばかり困惑したようだった。
「お嫌いでしたか? 鰻」
「いや、好物だ。ネイリングでもよく食べたものだ」
ベリレが心配していたので様子を見に来たのだが、エドガーは元気そうだった。白髪白髭は綺麗に整えられて、左腕の義手もぴかぴかに磨かれている。背筋もぴんと伸びていていた。
「先日もベリレが肉だのなんだのと買ってきたんだ。何事かと聞けば、給金が入ったからだと抜かしたが――」
エドガーは髭を撫でながら苦笑する。
「――俺もあいつも給金が入る日は同じだろうに。まったく嘘が下手で困る。ああも下手だと、追求するこちらが悪いような気がしてくる。何か企んでいるのか?」
ランタンはベリレの様子を想像して思わず笑った。ベリレからしてみれば心配でしょうがないのだろうが、きっとひどい芝居をしたのだろう。
「企みだなんて滅相もない」
ランタンは少しの動揺もなく、純真無垢な顔をしてエドガーを見上げた。非の打ち所のない芝居だったがエドガーはすでに呆れている。
「これから暑い日も多くなりますからね。エドガーさまももうお年ですから、精のつくものをと思いまして」
「なるほどな。まあ、よい。俺が年寄りなのは事実だからな。ありがたくもらっておこう」
一緒についてきたローサがエドガーの袖を引っ張った。
「みて、これ、ローサがつかまえたんだよ」
「おお、そうか。捕らえるのは難しかったか」
「そう! ぬるぬるして、にげていくの。だからローサはこうやってつかまえたんだ。こうやって、こう! それからこう! おにーちゃんとおねーちゃんがいしをごろんってすると、うなぎが――」
そうかそうか、とエドガーは好々爺のような顔をしてローサの要領の得ない話を聞いてやる。ローサはお構いなしにぐいぐいと袖を引っ張るが、エドガーはびくともしない。
ベリレの心配は勘違いだったのではないかと思えてくる。
「苦労をかけたようだ。リリオンもな。今日はこちらで夕飯を摂っていったらどうだ?」
「ありがとうございます、エドガーさま。お言葉に甘えましょうか、ね、ランタン」
「うん、そうだね。そうさせて貰おうか」
「エドガーさま、じゃあわたし調理場の方へ持っていきますね。ローサも来る?」
「どうしようかな」
ローサはリリオンとエドガーを見比べる。エドガーに剣の稽古をつけてもらいたいが、リリオンの側も離れたくないようだった。
「剣の相手は後でしてやろう」
「やった。おねーちゃんといっしょにいく。ローサがもつよ」
ローサは跳び上がって喜び、それからすぐにリリオンの所へ駆け寄った。鰻の袋を奪うように握り締めた。
「元気なことだな」
「そうですね。失礼をおかけしました」
「はっはっ、子供はそれでいい。礼を知らないわけでもないしな」
「元気すぎてこの間はついに最終目標を仕留めましたよ」
「ほう、思ったより早かったな」
エドガーは懐かしげな視線をローサの、そしてリリオンの背中にも向ける。
「しかし俺のような枯れた老人に精のつくものを食わしてどうする。お前こそが必要じゃないのか?」
「ご心配どうも。若いので間に合っております」
「は、こいつめ。――焦ることもないか」
エドガーは一気に探索者の顔になって、獰猛に笑った。しかしその奥底に、微かな気遣いも感じられた。
エドガーは英雄である。結婚はしなかったが、数々の浮き名を流している。だが子はいない。あるいはだから結婚しなかったのかも知れない。
子供は授かりものだ。
「ローサの前にお前の相手をしてやろう。身体を動かした方が飯も美味いからな」
「お手柔らかに」
庭に出てエドガーに相手をしてもらった。
相も変わらず二刀を巧みに操る。その技量に衰えなど少しも感じさせない。
真剣勝負ではないので、両者ともに全力ではないが危うい瞬間もいくつかあった。
ランタンは勝負の場で誰にも負けるつもりはないが、しかし未だに確実に勝てるとも思えない。
容赦なく眼帯に覆われた左目の死角に回り込むが、むしろそちらへ誘われているような錯覚がある。それに左腕の義手もそうだ。
生身で戦鎚は受けられないが、しかし義手はそれ自体が鎧も同然だった。普通ならば受けようもない一撃を、その義手に受けられる。
「さすがにやりますね。生身以上だ」
「まあな。この年だ。こうならずとも、どうせ身体の使い方は変えなければならん。それが早まっただけだな。人はいずれ老いる。それもまた変異のようなものだ」
やがてリリオンとローサが庭にやってきて、エドガーに稽古をつけてもらった。そうしているとレティシアたちも帰ってきて、ベリレも一緒だった。
「よう」
ベリレはランタンの姿に驚いていた。ランタンはベリレを呼び寄せ、中腰にさせ、顔を抱え込むように肩を組んだ。
「何しに来たんだ」
「見てわかるだろ。ベリレがエドガーさまの調子が悪いって言ってたから、様子を見に来たんじゃないか」
「とてもそうは見えないが」
「稽古は僕が誘ったんじゃなくて、エドガーさまが誘ってくれたんだからな。元気そうじゃないか。あやうくなますにされかけたぞ。ベリレの杞憂だったんじゃないか」
ベリレはエドガーを振り返った。
「悪巧みは済んだか?」
「いえ、悪巧みなんてしておりません」
ベリレが敬礼するみたいに背筋を伸ばすものだから、ランタンは振り解かれてしまった。
「そう言えば二人は最近やってるか?」
「いえ」
「一勝負してみたらどうだ?」
ランタンとベリレは顔を見合わせて、二人とも急に目に炎を宿らせる。
若い男同士、あまり熱くなりすぎると危ないので素手で決着をつけることになった。
地面に手をついたり、描いた円から出たりしても負けである。魔道は禁止で、後はあらゆることが許される。
二人とも上半身を裸になって、睨み合っている。
エドガーを心配させまいとするベリレの気持ちはわかるが、ランタンは手を抜く気がなかった。
二人の対比は大人と子供である。
単純な力比べではランタンの分が悪いくらいだった。
「よおい、どん!」
ローサの出した合図に、まずベリレが先手を打った。
体格差の分だけ有利な間合いから、拳を突き出してくる。風が唸る。ランタンは右に回り込みながら、それを巧みに躱していく。
上下に打ち分けられる拳を、上は仰け反り、下は足運びでこれを回避していく。
なかなか近付けない。
「う――ひ」
一瞬の隙を突いて踏み込もうとしたら、鉈のような上段蹴りが頭上をかすめた。体勢を低くしたランタンの顔を下から引っぱたくみたいに、拳が振り上げられる。
即座に腕を交差させてこれを防ぎ、ランタンは撞木で撞かれたように吹き飛ばされる。円のぎりぎりで踏み留まり、突っ込んでくるベリレと視線を合わせた。
思考の読み合いだった。
円からは出られない。手をつくのも負けである。受ければ押し出される。
右か左か、それとも上か。
ランタンは巨人みたいな踏み込みの股下をかいくぐった。
即座に反転。
ベリレもまったく同様に振り返っている。読まれていた。しかしそこは間合いの内で、ベリレは円の縁を背負っている。
出足と後足が入れ替わり、ランタンはその脛を蹴り払った。手応えがない。軽く足を浮かせて、ベリレは衝撃を受け流す。後足の膝がかくんと抜け、途端に彼の圧力が増大する。
それはまさに熊だ。
拳を固めず、掌底を選んだのはベリレの慈悲だろう。ランタンはその優しさにつけ込んだ。眼前に迫り来る掌、繋がる五指、先端は獣爪だ。
彼の小指を握った。
そして投げ、――ることができない。
一本の鋼の棒のようだった。
ベリレは小指一本で逆にランタンを投げ飛ばした。
夕焼けの空を見上げるランタンは、丸く口を開けて驚いていた。
「いよーしっ! 俺の勝ち、勝ったあ!」
ベリレが握った拳を空に突き上げる。
ランタンはのろのろ身体を起こして、座ったまま悔しそうにベリレを睨んだ。手加減はしていない。ただ単純に負けた。それも力比べではなく、読み負けだった。
あの掌底は誘い水だ。
ベリレはまったく子供っぽく勝利を喜び、それから思いだしたようにランタンに手を差し出した。
ランタンはそれに掴まり、立ち上がった。
「負けた。僕よりも性格が悪くなったな。くそう、嵌められた」
「あっはっはっ、人聞きが悪い。ランタンのまねさ」
「ぜんぜん似てない。体重半分になってからまねしてくれ。ああ、悔しい。すごく悔しいんだけど。ちょっともう一戦しようよ。いや、二戦しよう。二連勝するから。ね、いいだろ?」
「もう飯ができるってよ」
ランタンはあからさまに悔しそうにふて腐れた。リリオンが駆け寄ってきて慰めてくれる。しかし慰めながらも、悔しがるランタンを珍しそうに愛おしんでいる。
ベリレはと言うとエドガーに褒められていた。
「いい勝負だったな」
「ありがとうございます。ですが条件が違ったら、わかりませんでした」
「それが戦いというものだろう。勝ちは勝ちだ。それもランタンからのな。ほら、胸を張れ」
「はい!」
素直に胸を張ったベリレを、エドガーもまた胸を張るようにして見上げる。
ベリレを弟子として迎えたとき、彼はまだ子熊も同然だった。それは今でも昨日のことのように思い出せる。
「ベリレ、また大きくなったんじゃないか?」
「そう、ですか? 確かに鎧がきついような気がしなくもないですが……」
「子供の成長はなんとも早いものだな」
エドガーは眩しそうに目を細め、ベリレは戸惑ったように頭を押さえる。
「――ほら、やっぱりベリレが大きくなっただけじゃん。おかしいと思ったんだよ」
そんな光景にランタンは呆れたように呟く。
来月はたぶん3回更新です。
再来月は未定です。




