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静かにベッドから下りて、ミシャはゆっくりと振り向いた。
カーテンの隙間から微かな光が差し込む。まだ夜へと戻れそうな朝焼けの光に、ランタンとリリオンの寝顔が照らされている。
ぴくぴくと目蓋が震えた。髪が紗のように顔に掛かっている。
カーテンをしっかり引いて、光を遮った。髪を払ってやる。
水差しから一杯の水を飲む。
二人とも穏やかな寝顔をしている。寝息が静かさを際立たせている。
このところよく変異者たちの世話をしていたが、ようやく一段落して肩の荷が下りたのだろう。
館の庭を開放することで、危ないこともあったようだ。
ミシャはあまり聞かされていないが、リリララやガーランドが剣呑な目つきをしていたり、急にどこかへ向かったりするのを何度か目にした。
そんな家に嫁いだのだから、いつまでも驚いてもいられないが、なかなか慣れるものではない。
まだランタンを頼ってくる変異者たちもいるが、その数もずいぶんと少なくなった。
最近、特に街の中で変異者の姿が目立つようになったのは、ただその姿が異様だからではなく、彼らが姿をあまり隠さなくなったからに違いない。
彼らはランタンの手に掴まって立ち上がり、それから仲間の肩を借り、時には貸して、そうやって支え合いながら歩き始めた。
それによる諍いもある。変異者の被害妄想というだけでなく、やはりその姿を好まないものもいるからだ。
だがその諍いも悪い面ばかりではない。
今までは変異者たちは自らを隠し、ただ問題を内に抱えるばかりだった。乱暴な手段であるが、言い争いや殴り合いは、そういった問題の表面化だった。
殺し合いにまで発展してしまえば事であるが、今のところは乱暴な手段による意見の交流程度で済むことが多かった。
ランタンは苦労を背負い込むような所がある。
優しさは美点だが、時には自分を省みないという欠点にもなる。
ランタンが忙しくしているとき、もう満たされている自分が彼を求めることを、ミシャは少し遠慮してしまう。
昨晩はそんな遠慮を取り戻すかのようだった。
色々と頑張っていたランタンへの労いもあるが、そればかりではない。
自分がそうしたかったから、それをした。
身体に心地良い怠さがあった。炎の後に灰が残るように、快楽の名残に違いないだろう。
ミシャは下着だけを身に着けて、昨晩、脱ぎ捨てたものを拾い集めた。
自分のもの、ランタンのもの、リリオンのもの。たたまれることもなく、床に散らばっている。
「すご」
リリオンのスカートを拾って、ミシャは腕を伸ばした。腕は肩の高さにあり、スカートは腰の部分を握っているのに、その裾が床に触れ、折り重なっている。
ミシャはまたベッドを振り返る。
二人仲良く眠っている布団の膨らみが小さく見えるのは、リリオンの中にランタンがすっぽり覆われているからだ。リリオンは膝を抱えるみたいに、丸くなっている。
だがその足を伸ばせば、これだ。
ミシャはしばらく息を殺し、じっと二人を見つめ、しっかり眠っていることを確認すると、恐る恐るリリオンのスカートに足を通した。
「……うわあ」
思わず声が漏れる。
あれほどの長身で、身体だって鍛えられている。
だと言うのに何という腰の細さだろう。もちろん身長差があるのでミシャの方が細いが、それが身長差の分だけではないのは明らかだった。
腰を通り過ぎて胸の所までスカートを上げても、裾は床を引きずったままだ。
子供が大人の服を着たも同然だった。部屋には鏡があったが、姿を確かめようとは思わなかった。
比べる前から明らかだったことだが、現実は残酷であるように思えた。問題が表面化するのはいいことばかりではない。殺し合いになるのも納得だ。
ミシャは何となく落ち込んだ。
床に引きずった裾の長さは、生物としての違いだった。
リリオンはなんて綺麗な生き物なんだろうか。
ミシャはのろのろとスカートを脱いで、折りたたんで机の上に二人の服を並べた。
一瞬、ランタンのズボンも確かめてみようかと思ったが、これが自分より細かったらさらに落ち込むのでやめておいた。
ランタンは自分の背が低いことを気にしている。
ミシャはそれを微笑ましく思ったものだが、まさか自分も同じ悩みを持つとは思わなかった。
自分の腰に手を当てて、絞るように骨盤を押さえる。それから爪先立ちになってみた。それぐらいではあの余った裾はどうにもならないだろう。
ミシャは諦めて踵をつけ、部屋を出た。
浴室へ向かい夜の汗を流し、それから仕事へ向かう。
今日もまた一日が始まる。
「あっ!」
ローサは思わず声を上げて、踏んづけた裾から恐る恐る足を退かした。
リリオンのスカートを黙って借りていた
四つ足の構造上、それはスカートと言うよりもただ覆いのようだった。頭から被るように身につける。
前足は裾を踏むほどだが、後ろは足どころか尻尾も丸見えで、生地はただ背中に乗っかっているだけだった。
ローサはたまにこうやって色んなものを試している。
肉球と爪のある足に靴を履いてみようとしたこともあるし、耳を抜く穴のない帽子を被ったこともある。ランタンの戦鎚を持ち出そうとしたこともあるし、レティシアの高価そうな指輪を嵌めて抜けなくなったこともある。
その時は鬱血して、どんどん冷たく痺れる指が怖くて大泣きしてしまった。
また泣くかもしれなかった。
踏んだまま進もうとしたせいで、スカートが破れていた。割れた硝子をくっつけるみたいに、慌てて破れを重ねてみるが、もちろん直るわけがない。
頭に乗っけたウーリィを降ろし、慌ててスカートを脱ぐが、慌てすぎてまたびりと嫌な音がする。それにまた急かされる。
脱いだスカートをあらためて確認する。破れが見つからない。
もしかしたら気のせいだったのかも知れない、とそんなわけないのに考える。もちろんそんなことはなくてスカートは破れている。
破れを重ねて、掌で上下から押さえつけて、息さえ止めて十秒数える。ウーリィが他人事のようにぴいぴい鳴いた。
そーっと手をどかした。
引き千切ったみたいに破れている。
「……どうしよう。ローサおこられるかもしれない」
小さく、しかし切迫した様子で呟く。落ち着かない様子で何度も足踏みをして、助けを求めてきょろきょろ見渡す。
しかしウーリィしかいない。
この子は空を飛ぶことができるが、スカートを直すことはできない。
怒られるのが嫌だったわけではない。もちろんそれも嫌だけど、姉にがっかりされるのが嫌だった。
最近、モーラという蠍人族の妹分ができて、ローサはお姉さんの気分だった。兄と姉を差し置いて最終目標に止めも刺した。ローサは探索者のお姉さんだ。
それがこの失敗である。
隠れてスカートを穿いて、そのあげくに破ってしまうなんて。
頭の中で姉が溜め息を吐く。そして言うのだ。
「ローサはお姉さんじゃなかったのね。また見習いからやり直しね」
「やだやだ」
ローサは頭の中の姉に駄々をこねる。
スカートを抱えて自分の部屋に戻った。ウーリィが羽ばたいて止まり木に移った。スカートを丸めベッドの下に放り込んで証拠の隠滅を計り、しかし良心の呵責に耐えられずすぐに引っ張り出す。
「わあ、ほこりだらけ!」
ベッドの下の埃にまみれたスカートを、窓を開けてばたばたとはたいた。埃がきらきらと光に反射した。
「ローサ」
「わ! あ、おねーちゃん! ローサなにもしてないよ!」
窓の下にリリオンがいた。剣を振っていたのだろう。銀の髪を後ろで束ね、大剣を手に提げている。ひらひらと手を振ってくれたので、ローサもスカートをばさばさと振ってから、慌ててそれを引っ込める。
「お掃除してたの?」
きらきら舞う埃に気が付いたのか、リリオンが尋ねる。
「――うん! そう!」
「えらいわね」
「うん、じゃあローサ、おそうじするから」
逃げるように顔を引っ込めて、ベッドに飛び乗って胸の前にスカートを抱く。
ローサは嘘に嘘を重ねたことに落ち込んで、自分にがっかりしていた。
ローサはおねえさんじゃなかったかもしれない。
そんな風に思いながらも、棚から裁縫道具を取り出す。
これも姉に教えたもらったことだ。探索者なら針仕事ぐらいはできないといけない。
鞄が破れることあるだろうし、皮膚が破れることもある。
針に色糸を通し、スカートをちくちくと繕っていく。
しかし生地は縒れて、縫い目は歪んで、直しているはずなのにむしろ破れていたことが明確になっていくみたいだった。
涙がぽろぽろと溢れた。
針を置き、ごしごしと目をこする。
涙が止まるまでそうして、ふと顔を上げるとガーランドが幽霊のようにいつの間にか現れていた。
「ローサ、泣いていたのか。どうしたんだ?」
素っ気ない声の中に優しさが感じられた。
「ゆーれー。これ……」
まだ破れたスカートを見せるとガーランドは眉根を寄せた。
「ローサがふんで、やぶっちゃった。うまくなおせなくて、……ゆーれーなおせる?」
ガーランドはちらりと針に視線をやって、それから首を横に振った。
赤くなった目を閉じてローサが眠っている。
ガーランドをともなって目の前に現れ、急に謝られたときは驚いてしまった。
元気いっぱい、大胆不敵な妹だが、時に妙な繊細さを見せるときがある。
リリオンはその傍らに腰掛け、破れたスカートを手慣れた様子で繕っていた。
懐かしさを思い出す。
母のスカートを破ったことはなかったが、身体に巻き付けてドレスのようにしたり、大きな靴を履いてみたりしたことはあった。
あの時の高揚感と恥ずかしさが今でもはっきりと思い出せる。甘い思い出だ。ローサには少し苦い思い出になってしまったかもしれない。
「ふふ」
誰でもみんなそんなことをするのだろうか。
生まれたところや姿形は違っても、誰にだって共通するところはあるのだろう。
リリオンは最後の一針を通すと、糸をくるくると玉留めして、歯でぷつんと切った。
布を継いで繕ったスカートを広げ、満足気に口角を上げた。
なかなか上手くできた。
直したそれを眠っているローサの腰に当ててやる。まず少女としての腰に、それから炎虎としての腰に当てて、悩むように首を傾げる。
虎の下半身は、その毛皮に包まれているだけで衣服を身に着けてはいない。
探索の時も何も身に着けないのは、炎虎の毛皮が強靭だからだ。
「ローサはスカートをはきたいのかしら?」
穿かせるとしたら少女としての腰だろう。炎虎の身体を覆うような形がもっとも自然だろうか。だが少し野暮ったいように思う。二着のスカートを同時に穿かせる。さすがにそれは変だ。
「うーん」
リリオンはふかふかした妹の身体を撫でてやる。生半な刃なら防いでしまう強靭な毛皮だが、すっぽりと指が沈み込む柔らかさを持っている。
スカートを作ってやろうと思っても、この見事な毛皮に優るものはきっと作れないだろう。
炎の色に黒い筋が縦に並んでいる。後ろ足の付け根ではその筋が絡まるみたいに丸まって、ローサのその名前の由来となった薔薇に似た模様になっている。
リリオンはしばらくその毛並みを楽しんで立ち上がった。
自分の腰にスカートを当てて、鏡で姿を確かめ、試しに足を通してみた。
「あら、太ったかしら?」
少し腰のあたりがきつかった。苦しいと言うほどではないが、締め付け感がある。再び鏡に映る自分を見てみると、裾が短いのがわかった。
「また、大きくなったのね」
リリオンは溜め息時混じりに呟いた。
一時期のような成長痛はもうほとんどない。だが成長は止まっていなかった。ふと気が付くことがある。見下ろすランタンの頭が以前より遠くにあることに。
こればかりはしかたがない。
自分が母の娘だという証明のようで、この身体を誇りに思っている。
でもね、と唇を尖らせた。
今はまだ大丈夫だが、いずれランタンと手を繋いで歩けなくなるかもしれない。その未来は少しばかり寂しい。
純粋な巨人族ならば、例えばランタンを肩に乗せるなんて事もできるだろうが、四分の一しか巨人族の血が流れていないリリオンでは大きく成長しても肩車ぐらいが関の山だ。
ランタンはそんなこと嫌がるだろう。
スカートの裾から、足首が覗いている。
ランタンが好いてくれるから、リリオンは自分の足が好きだった。
まだランタンとそう言う関係になる前に、少年がこっそり自分の足を見ていることにリリオンは気づいていた。
ランタンが見てくれるから、ただの足が、お気に入りの足になったのだった。
「でも、もうちょっと短くてもいいのに」
誰かに聞かれたら怒られそうな愚痴を呟いて、リリオンはその格好のまま棚を開いた。
そこには裁縫道具や、色取り取りの布や糸がしまわれている。
刺繍はリリオンの趣味の一つだ。刺繍をすることより、例えば探索で空いた穴やほつれを繕うことの方が多かったが。
布にはもう着れなくなった衣服を解いたものもある。
穿いているスカートに色布をいくつか重ねて色を確かめる。布を継いで、裾を伸ばせばまだしばらくは穿けるだろう。
それとも、もう夏が来る。いっそ大胆に短く切ってしまおうか。
リリオンはスカートの裾から自分の足が伸びている姿を想像した。それを横目にこっそりと盗み見るランタンの姿を。
「――いいかもしれないわ」
ランタンだけが、それを好きに触っていいのに、ただ見ているだけの姿はなんともいじましく思える。
リリオンはうっとりする。しかしすぐにその顔をしかめた。
「でも、はしたないって思われないかしら」
ううん、とリリオンは鏡の前で悩みはじめる。
「そんなの持ってたっけ?」
ランタンがリリオンに言った。
リリオンは何も持っていない手を広げ、首を傾げる。
「スカートのことだよ。花が咲いてるみたいだ」
淡い色のスカートの裾の一部に明るい色布が使われている。
火がついたみたいだ、と言いかけた言葉を言い改めるとリリオンは満足そうに笑った。
貴族の娘が挨拶するみたいにスカートを広げて、お直ししたの、と言う。
「へえ、上手にできてる。探索者辞めたら仕立屋でも開くか」
「あら、いいわね。仕立屋さんでランタンは何するの?」
「僕はだらだらするよ。リリオンに養ってもらうんだ」
「しょうがないわね」
冗談で言った言葉を、冗談に聞こえない声音で返されてランタンは肩を竦める。
自分は探索者以外に何ができるだろうか。
客商売はたぶん無理だな、と早々に諦める。
「あれ、……なんにもできなさそうだな」
リリオンに聞こえないように小さく呟き、ランタンは考えることをやめた。
コップについだ牛乳をごくごく飲み干し、もう一杯つぐ。
「ランタンって、けっこう牛乳好きなのね」
「……いや、別に好きと言うほどでは」
この辺りではあまり牛乳を飲む習慣がない。牛乳はだいたいバターやチーズに加工されて消費される。この牛乳はレティシア経由で、どこぞの商店から取り寄せた由緒正しいものだった。
「二杯も飲んでるじゃない」
「早く消費しないと悪くなるし。それにまだ一杯だよ」
「どうせそれ、飲むんでしょ?」
「飲むけども」
ランタンは言い訳がましくそれらしいことを言って、コップを満たした牛乳をまたごくごく飲んだ。
「ぷはあ」
「おいしい?」
「乳臭い」
「でも二杯も飲むのね」
「いいだろ別に」
ええもちろん、とリリオンは大人びた微笑みを口元にたたえる。
「ねえ知ってる? 牛乳を飲むと背が伸びるかもしれないんだって」
「知らない」
ランタンはぷいと顔を背けた。ぐいと乱暴に唇を拭う。
「うそ」
リリオンが後ろからランタンに抱きついた。顔を寄せ、耳元に囁く。
内心ぎくりとしたが、おくびにも出さない。
「なんだよ」
「知ってるでしょ」
「知らないったら」
「うそよ。だってわたし、ランタンが知ってること知ってるんだもの」
ランタンが逃げ出そうとするのを強い力で抱きとめる。
「ランタンは今のままでもいいのに」
「牛乳を飲むのが今の僕だよ」
「じゃあ三杯目いる?」
「いらない。お腹痛くなるかもしれないし」
「ふうん」
「逆に聞くけどリリオンは飲まないの? 取り寄せ始めの頃はよく飲んでたじゃないか。牛乳嫌いじゃないだろ」
開き直ったランタンが尋ねると、リリオンはうっと黙り込んだ。
「……だってこれ以上、背が伸びたら困るじゃない」
「困らないよ。ちっとも。それに牛乳飲んだからって、背が伸びるとは限らないし」
「じゃあランタンは、好きでもない牛乳をどうして?」
「どうしてって」
返答に詰まるランタンにリリオンは、あっ、と何かに気が付いた。
少女の脳裏には昨晩の記憶が蘇っていた。
「わかった。おっぱいが好きだからでしょう」
ランタンは頭を抱えて沈黙した。




