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迷宮の総延長、構造の複雑さ、出現する魔物の強さ、その数、頻度。
複合的な要素で、迷宮の難易度は認定される。
この迷宮は魔物の出現頻度とその数によって高難易度と認定されているようだった。あまり当てにならないと噂の探索者ギルドの難易度基準もなかなか馬鹿にできない。
連戦に次ぐ連戦だった。
最後の方には、出現機会を逃した魔物たちが慌てて飛び出てきたみたいに探索者たちに殺到した。
樹上からは猿や鳥の獣系魔物が、桟橋の下を流れる川からは水棲系の魔物がひっきりなしに襲いかかってくる。
息つく暇もなかった。
戦闘に積極的なデイジーとジェイドはもちろん、消極的なフィンもいつまでも後ろに引っ込んではいられなかった。
ここまで来るまでに変異者たちは次第に迷宮での勘を取り戻しつつあった。
「ほら、まだまだっ!」
デイジーが咆える。
手にした戦棍を的確に魔物に叩き込んでいく。彼女の腕力では大猿の頭蓋骨は砕けない。狙いは肘や膝、頭部を狙うなら背後から、あるいは頸椎を選択した。
しかしそれでも負けん気の強い戦い方だ。
体格に劣りながらも避けることをよしとしない。
左手の小盾で相手の攻撃をさばき、強引にでも一撃を狙う。そうやって行動力を削いでから、相手を滅多打ちにする。
魔物の生命力は凄まじいが、やり過ぎなほどに追い打ちをするのが気がかりだった。
身体の大きさは、そのまま体力の容量だ。肩で息をする彼女は、その負けん気によって運動しているように見える。
ジェイドは敵陣の中にあって冷静だ。
かなり視野が広く、やや突出、あるいは孤立しがちなデイジーをよく助けている。彼女が仕留め損なった魔物に的確な一撃を入れて止めを刺す。
数に囲まれたとき、どうしてもさっさと数を減らしたくなるのが人の心理だ。数の利は確実にあり、だからこそその利を減らしていくのは正しい。
だがそれは難しいことだ。
ジェイドは無理をしない。その時に与えられる傷を与え、深追いをしない。手負いの魔物が増えていく。出血により魔物は弱っていく。数は減らなくとも、探索者の利が増えていく。
上手く行っているが、狙ってのことだろうか。
魔物を切るときの、あの不満げな顔はなんだろう。
フィンはその消極性とは裏腹に、デイジーやフィンよりもその力にはっきりと差があった。
鎧のいらぬその頑強な肉体に相応しい暴力を彼は有している。
怒った牛のような踏み込みは桟橋の床板を容易く砕き、背後から引っこ抜いたような大斧の一撃は咄嗟に身を丸めた大猿を両断した。断ち切ったと言うよりは、無理矢理に引き千切ったようだった。血が溢れた。
「フィン、てめえ!」
大猿の血を被ったジェイドが罵倒する。
血を被ったこと、それ自体にではない。彼が場所を移動しなかったら、ジェイドはフィンの斧に殺されていただろう。
フィンは謝るでもなく、ぎょろついた視線を周囲に向けた。血に酔っている。いや、血に怯えている。
臆病な狂戦士と言った感じだった。
間合いに入ったものに反応しているに過ぎない。
死角の怪魚がフィンの腰に噛みついた。生身の人間ならば容易く食い破られただろう鋭い牙が、フィンの硬質な皮膚に食い込んで抜けなくなった。生木に釘を刺したように。
怪魚がばたばたと尾びれを動かし、だがびくともしない。
「ぐぁあ!」
それでもやはり痛みは感じるようだった。
フィンが叫んだ。怪魚を引き剥がそうとするが、まるで尻尾を追いかける犬のように上手くいかない。
「フィン、止まれ!」
ランタンの呼びかけが、頭上から降ってきた。
それは呪言のように狂戦士を縛り付けた。
その瞬間に後方から見えざる力の塊が怪魚を破壊した。兄弟の魔道使いパークとウェイルによるものだ。
威力はかなりのもので、不可視の特性を持っている。
強力だが、二人で一つの魔道のようだった。この二人は繋がっている。兄の魔精を消費して弟が、弟の魔精を消費して兄が魔道を行使する。
今のは兄が魔道を放ったようだった。弟ウェイルの顔色が青くなっていた。
人は自分を守るために力を無意識的に制限している。力の源泉が自分以外の所にあるせいで、それが働いていないようだった。
ローサは乱戦の中を駆け回っている。血に濡れた毛皮は重たそうで、しかしその足を止めることがない。運び屋ではない、探索者としての戦いだった。
槍を振り回し、囲もうとする大猿を牽制する。深く刺すと穂先を取られてしまうので、叩くことを意識する。
背後に近付いてくる大猿を、馬のように後ろ足で蹴り飛ばす。尻尾を掴まれた。悲鳴の代わりの炎が出る。大猿が手を離した。即座に振り返り、切り裂いたのは虎の前爪だ。
「だいじょうぶ!」
自分に言い聞かせる。
兄と姉はいつものように目を配ってくれているが、しかしいつものように助けてはくれない。
魔物たちはリリオンを最大の脅威と認識しているようで、少女の撃破に数を注いでいた。
大剣一閃。
腰斬された猿が上半身だけでリリオンの足に組み付き、時に歯を立てる。
前に立つ仲間を盾にして、あるいは自ら盾となって肉薄する。
足を魔物に食いつかせたまま、リリオンは腰を据えて揺籃の大剣を大振りした。
銀の弧が瞬く間に青い血に染まる。
重なり合う大猿を容赦なく斬り捨てる。足を蹴っ飛ばして、噛みついた大猿を振り解く。
ざらざらと音を立て頭上の枝が揺れ、緑の葉が花びらのように舞った。
そして、どしん、と果実が降ってくる。
それは人の形をしている。
「痛――って、無事か?」
「ランタンこそ!」
果実かと思ったものはランタンだった。尻を押さえながら立ち上がり、枝に覆われた空を見上げる。
リリオンの手を取って、抱き寄せる。
その場に太い枝さえ折って、更に大きな何かが降ってきた。
それは魔物だった。馬の下半身に鷲の上半身を持った大型の魔物だ。
前脚の鉤爪は鎌のようで、後ろ脚の蹄は大鎚のようだった。頭部と白く大きな翼の片方は消失している。今まで樹上でこれと格闘していたらしい。
「みんな無事か!」
声変わり前の少年の声は、戦場で不思議とよく通った。
顔を濡らす血を掌で拭い、打ちかかってくる大猿にむしろ歩み寄って懐の内に入る。ぬっと手を伸ばして顔を鷲掴みにした。
爆炎が赤く、猿の頭部が失われる。
「もうあと一息だ! 気合いを入れろ!」
おおう、と声が上がる。
誰一人として無傷ではないし、疲れ切っていた。
しかし誰もが無我夢中で戦い抜いた。
戦いが終わった後の迷宮はあまりにも無惨な有様だった。
どんな魔物が出現したのか、その区別もつかないような有様だった。
フィンが吐いた。四つん這いになって桟橋から身を乗り出し、胃の中身を川へとぶちまけた。その背中をローサがさすっている。怪魚の咬傷からは、じくじくと血が滲んでいる。
「だいじょうぶ、へいき?」
「……ああ、ありが――うぅ」
ローサも顔色が悪い。
少し刺激が強すぎたようだ。
あたりには死の匂いが充満している。生暖かく湿気った空気がよどんでいる。切り開かれた魔物の肉体から立ち上った、生命の残滓とも言える熱量だった。
そういう迷宮だとは知っていたが、まさかこれほどの数の魔物が出現するとは思わなかった。
ランタンもリリオンも胸が悪くなっていた。
食べ過ぎたみたいに胃のあたりを擦り、ランタンは魔精結晶の回収を、リリオンは仲間の傷の手当てをしている。
二人ともそれなりに攻撃を受けているが、それでもまだ動ける方だった。
朦朧としているパークとウェイルに魔精薬を渡し、デイジーに近付く。
「いい、私に触らないで。放っておいて」
デイジーは男の目も関係なく、上を脱ぎ、傷の手当てをする。致命傷は避けているが、打撲も裂傷もある。
「でも背中の傷はどうするの?」
「どうしようもないわ。私に触ったら怪我するよ」
ふいと顔を背けて口を噤むデイジーの背中に、リリオンは血止めの傷薬を塗ってやった。
いつもならば指で塗るが、彼女の身体はそれを許さなかった。血で汚れると、さして濃くもない彼女の硝子化した産毛がきらきらと目立った。
布に薬を塗り込んで、それで傷を撫でてやる。傷に薬を塗り込むと、布は使い古しのようにぼろぼろになっている。
「……ありがと」
「どういたしまして」
小さな呟きを聞き逃さず、リリオンが返事をするとデイジーは今度こそ本当に黙り込んだ。
ジェイドは川に入り、身体を洗っていた。肩と腕の境がはっきりしている。猿の腕に染みこんだ血がなかなか取れないようで、ひどく乱暴にしている。洗っていると言うよりも、掻き毟っているみたいだった。
「怪我は大丈夫?」
「平気だよ。俺よりあっちに行ってやれよ」
ジェイドは川下のフィンに視線を向ける。リリオンは頷いて、彼の着替えの側に傷薬を置いてやった。
フィンはその身体が傷だらけだった。
最も深いのが腰の傷だが、身体の表面は無数に傷ついている。リリオンが触れても彼は一瞬気が付かなかった。ぶ厚い皮膚が感覚を鈍らせているのだ。
「薬、塗るね。大丈夫、ランタンが毒はないって」
嘔吐くように頷いたフィンはリリオンに身を任せる。四つん這いになっていると、そういう形の岩のようだった。
「悪い」
「いいのよ。――ローサ、ローサも身体洗っちゃいなさい」
ローサはフィンの顔を覗き込み、それからこの傷ついた大男を姉に任せて、川に飛び込んだ。
濃い橙と黒の縞模様の毛皮が、青い血で汚れて元の色がわからなくなっている。ローサは毛皮を洗うよりまず顔を洗った。
「悪い。――思い出してしまったんだ。戦いを」
思い出したのはフィンばかりではなく、変異者たち全員だった。
「大変だったのね」
水の流れがどうしてか凪いで、川面が鏡面のようにフィンの顔を映した。
変異があって、鏡を見られなくなった。
そういう変異者は多い。
角の生えた恐ろしい顔が惨めに歪んでいる。人間だった頃の気弱の大男の顔とは似ても似つかないのに、その表情は確かに自分のものだとフィンは思った。
気は弱いが身体ばかりが大きくて、それに見合った力があった。
喧嘩をしたことはなかったが、一方的に殴られても屁でもなかった。
探索者になったのはそもそも気弱な自分を変えるためだった。
その事を思い出した。
途端に涙が滲んだ。
「うう」
リリオンが背中を撫で、そっと離れていった。
フィンは蹲って子供のように泣いた。
最下層がそこにある。
魔精の霧の前で夕食を摂った。
あれほどの血生臭さに囲まれたというのに、探索者たちはよく食べた。
やけくそだったのかもしれない。明日の朝に最終目標攻略戦がある。腹が減っては戦ができない。
怪魚を三枚下ろしにして塩焼きにして、鷲と馬の合いの子の魔物を煮込んだ。どちらも癖のない味だった。
「ランタンは小さいのによく食うな」
「そう?」
ジェイドの言葉にランタンはどこか誇らしげに答える。
「故郷の味だからよく食べるの?」
デイジーが半分笑いながら尋ねた。
ランタンは迷宮で生まれた。
それはランタン自らが吹聴している噂話だ。なかば真実として語られているが、本気で信じているものはどれほどいるのか。
おそらくあんまりいない。
だがそんなことはあり得ない、と本気で否定するものもあまりいない
このランタンという少年には謎が多く、もしかすると、と思わせるような何かがあった。
「リリオンの作ってくれたものはなんでも美味しいから」
「――げっぷでそう」
デイジーは一転、うんざりとして肩を竦める。
「惚気ないでくれる?」
「事実を言っただけ」
「ふうん。あんた、そんな奴だったのね。昔、もっといじけてたじゃない」
「昔?」
「ランタンが目立ちはじめた頃には私はもう探索者だったから。あんたはこっちを知らないでしょうけど、こっちの全員、ランタンを知ってるわ」
デイジーが線を引いた。ランタンとリリオンとローサ、それから変異者たちの間に。
「ランタンはどんな子だったの?」
リリオンはその線を乗り越えてデイジーに尋ねる。
「そりゃ物凄く暗いガキよ。話しかけても、ぼそぼそ返事して、いつもいじけてるみたいな」
「みんなそう言うわ。そうなの?」
「毎回、僕に確認しないで」
「そうよ。単独探索者なんだから自慢すればいいのに。誰も信じてなかったんだから。あんた張り込まれてたの知ってる?」
「知ってるよ」
「本当に単独探索したのか疑ってた奴らが、迷宮に入ってから出てくるまで、ずっと迷宮口の所で寝泊まりしてたのよ」
「暇な奴」
ランタンが軽蔑するように吐き捨てた。
「それがこいつ」
デイジーがジェイドを指差した。ジェイドは驚いている。
「してねえよ。俺は本当なら凄えなって思って見てたぐらいだよ」
「嘘が下手ね。どうせ妬んでたんじゃない? あの頃ランタンに嫉妬してる探索者って沢山いたからね」
「どうして?」
「単独探索は栄誉なことだからよ。それなのに変に卑屈だから、逆に反感を買ったのよ。自分たちが価値を感じているものを、まるで無価値みたいに。ううん、恥ずかしいことみたいに。それにいい子ちゃんだったからね」
「だった?」
「だんだん生意気になっていったじゃない。いろんな探索者から誘われたのに、全部無視して。手を出されたら倍返しにしたりして。でも、それが探索者らしくて――」
口調に懐かしさが混ざりだした途端にデイジーは口籠もった。
変異者たちは戦いが終わる度に、時折こうやって意識を過去へ飛ばした。
自分自身を思い出すみたいに。
ランタンは肉体を失うことを考えた。
それはかなり恐ろしいことではないかと思う。
自分とは何だろう。
デイジーの話は、自分が変わっていく様子を語っていた。
それなのに自分は自分だ。意識は連続しているわけではない。眠っているとき、気絶したとき、意識はない。少なくとも自覚はできない。
目覚めたとき、連続しているのは自分の肉体だけだ。
「ランタン、変なこと考えてる?」
リリオンが顔を覗き込んできた。綺麗な淡褐色の瞳が頬に赤い傷が刻まれた顔を映している。
「考えてる」
ランタンは変異者たちを見た。
「僕さ、記憶がないんだ。まあ嘘なんだけど。それで迷宮出身って言ってるんだ」
「……まあ嘘なんだけどは、どっちに掛かるわけ?」
デイジーの追求をランタンは無視した。
かつてランタンは、ここではないどこかの世界から来た、と思っていたが今は、どこから来たのかわからない、と言うのが本音だったし、それもどうでもいいとも思っていた。
「ここは違うって思ったんだよね。目覚めたときに、ここは僕の知っている場所と違うって」
「――それが、なんだよ」
ジェイドがぎこちなく続きをうながす。
「それは元の場所を知ってるから、きっとそう思ったんだ」
「そりゃあ、そうだろう」
「でも僕は自分の顔を見たとき、何も思わなかったよ。それは元と同じ顔だから? それとも元の自分を知らなかったから?」
「……知らねえよ」
答えを探すように黙り込み、ジェイドが絞り出すように呟いた。
「僕も未だにそれを知らない。それなのに明日は来るし、最終目標と戦わないといけない。困ったものだね」
ランタンは自分の太ももを枕に眠るローサの髪を撫でてやる。
この子も硝子の容器の中に浮かんでいる頃の記憶を持っていたら、ただの虎人族の少女であり、ただの炎虎であったときの記憶を持っていたら、この変異者たちのように苦しんだのだろうか。
「ランタン、あんたまさか自分探しに迷宮に?」
「まさか。探しに行くまでもない」
今まさにリリオンの隣にいる自分の姿を、ランタンはありありと思い浮かべることができる。
「あの頃の自分は、どうかしらないけど」
ランタンは他人事のように言った。




