431
431
迷宮へ降りてきた。
谷間の迷宮である。
左右の壁は岩と樹木が複雑に入り交じっており、水が染み出すように流れている。所々でそれは滝のように激しい水の流れになっていた。
また頭上には曲がりくねった枝が迫り出している。枝に生えた葉は緑が濃く、夏を先取りしたようだった。どこからともなく鳥や獣のような鳴き声も聞こえる。
不思議なのは足元だった。
染み出した水が集まり、迷宮の最奥へ向かって川の流れになっている。その流れの上に板が張られている。
桟橋だった。岸を繋ぐものではなく、川を行くための桟橋だ。
幅は馬車がすれ違うことができるほど広く、板の厚みもかなりのもの。まるで探索のために整備されているようだった。
完全武装の探索者がぞろぞろ歩いても板が抜けることはないだろう。だが、しかし激しい戦闘には耐えられはしない。これには注意が必要だ。
「空気がひんやりしているわ」
「すーはー、ほんとだ。おむねがすーすーするよ」
リリオンが大きく深呼吸すると、ローサがそれを真似する。
今回のローサは運び屋ではない。
革の鎧を身に纏い、造りの厚い笹穂槍を背負っている。濡れた空気にローサの虎模様が色を濃くする。
たった一泊二日の探索だ。探索者はそれぞれが背嚢を背負い、自分の食糧は自分で運ぶことになっている。
ランタンも久し振りに自分の食糧の重みを肩に感じていた。変異者たちも同様だろう。迷宮それ自体が久し振りなのだから。
「どう、もう行ける?」
ランタンは変異者たちを振り返った。
サラス伯爵領での戦いから生還した彼らは、もともと腕の立つ探索者だ。探索経験も豊富で、誰もがランタンよりも先に探索者になっている。
「どれくらい振りなんだっけ。二年かそれぐらい?」
変異者たちは地上では決して外そうとしなかったフードを脱いで、どことなくぼんやりとした顔で迷宮を見上げていた。
懐かしさを噛み締めているわけではない。
ぽかんとして、それから笑うのを失敗したみたいな表情になった。
ランタンが口にした空白の時間が突如、目の前に表れたように。
「たぶん、もっと」
女探索者のデイジーは軽戦士で、勝ち気な性格だった。
取り回しのよさそうな戦棍を腰に下げており、左腕に小さい盾をくくっている。
彼女の変異は体毛の硝子化だった。それは割れた硝子で、触れたものを容赦なく切り裂く。今は髪を短く刈っているが、それでも額や耳、うなじに切り傷が絶えない。
「ああ、もう大丈夫だ。魔精酔いが軽いな」
ジェイドは大小の二振りを用いる剣士である。探索者としては平均以上の腕があるし、口ぶりも落ち着きを感じさせるが、どこかいじけたような雰囲気がある。
彼の変異は肩から腕にかけての獣化だ。だらんと腕を下げたとき、指先が膝のあたりまで来る。焦茶色の獣毛に覆われた腕は猿のようで、変異がその一部であるがゆえに悪目立ちしていた。
「……」
無言で頷いたフィンは寡黙な男である。重戦士であり、大斧を肩に背負っている。遠目に見れば重装鎧を身に纏っているように見えるが、それは硬質化した皮膚だった。
暗灰色のぶ厚い皮膚に覆われて、それは探索者ギルド長の象人族ジョージ・スルスを思わせる。だが彼のような長い鼻はなく、代わりに額に牛の角と、口元に猪のような牙がある。控えめに言っても恐ろしい鬼のような姿だった。
パークとウェイルは兄弟の魔道使いだった。彼らもまた寡黙であるが、それは性格によるものではない。こういう変異もあるのか、とランタンは驚いたが彼らは発声機能を失っている。揃って目の下に濃い隈があり、頬も痩けている。しかしそれでも姿形は一般社会にも馴染めるはずなのに、彼らも変異者の例に漏れず社会に馴染めずにいる。
変異は大きく二つに分けられる。
強化と獲得だ。
前者は亜人族に多い。もともと持っていた角や爪がより鋭くなったり、鱗や毛皮がより厚くなったりする。
後者は人族に多い。もとが持たざるものである人族に、亜人族のような、あるいは魔物のような特徴が肉体に表れる。
どちらの変異がましかという話ではないが、亜人族の方が自分の変異を受け入れている。
それは亜人族が被差別者であった歴史や、強化という変異が比較的好意的に考えられているからだろう。
彼らの角や爪の大きさや鋭さは、子供から大人になるにつれての当然の変化であったし、社会的地位に関係するものだったからだ。
反面、人族は自分たちとは違う肉体的特徴を持つ亜人族たちを差別してきた歴史がある。
二次成長によって子供から大人への肉体的な変化はあっても、亜人族ほど顕著ではない。自分が変わること、あるいは他者が変わることを受け入れる土壌が亜人族ほど育ってはいない。
この五人には全員が人族だったし、ランタンの庭に集まった変異者たちのほとんどがそうだった。
きっと彼らの多くは自分を見失っていた。
変わることは彼らにとって自己の喪失だった。
「先頭は僕とリリオンとローサ。真ん中にパークとウェイル、一列後ろにデイジー、尻にジェイドとフィン」
ランタンが言うとデイジーが肩をいからせた。
「私が女だから?」
どうやら集団の中に押し込められるのが気に障ったようだ。
「この並び、私が女だから守ってやろうってこと?」
ランタンは肩を竦め、ちらりとリリオンとローサへ視線をやった。
「いや」
「じゃあ、どういうことよ」
「勘違いがあるようだけど」
ランタンは戦鎚を抜いて、桟橋を撫でる。濡れた桟橋がじゅうじゅうと音を立てて、焦げついた。そうやって一本の線が引かれる。
「境界はここ」
こちらにはランタンとリリオンとローサが、向こう側に変異者の五人がいる。
同じ探索者であっても、同じではなかった。男女の区別でも変異者だからでもない。実戦から離れた時間がそこに横たわっている。
「やる気があるのはいいけど、まずは様子見。どうせ戦ってもらうことにはなるんだから。だってここは迷宮だからね。――そんなことも忘れてる?」
「ランタン、冷たい言い方しないで」
ランタンの口調をリリオンが嗜める。
デイジーは眉に皺を寄せる。
「いい、惨めになるから庇わないで。わかったわ、そうね。あのランタンが迷宮でどうやって戦うか見られるんだもの、せいぜい見物させてもらうわ」
引き下がったデイジーとランタンの顔を、ローサが少し不安げに見比べる。
「けんかしてるの?」
「まさか」
ランタンは肩を竦めて、ローサの頭を撫でてやった。
「握手するところでも見せようか?」
「やめて。私に触ると怪我するよ」
デイジーがその傷だらけの手を振った。
デイジーのそれは焦りだろう。
ランタンは迷宮探索が彼らのためになると思っている。
迷宮は、これと向き合うことが不思議と自分と向き合うことになるからだ。
積極的なのはいいことだが、しかし迷宮での焦りは死にわざわざ近付くようなものだ。
迷宮の空気を吸ったからといって、途端にかつての自分に戻れるわけではない。
黙々と迷宮を進んでいく。
桟橋の足場は確かだが時折、濡れて滑ったり、痛んで危うげな音を立てるような場所がある。
四つ足のローサは体重が分散されるので大丈夫だが、重戦士フィンは迂闊に歩くと板を踏み抜きかねなかった。
「気をつけて」
最低限の注意を告げて、しかしそれだけで探索は順調だった。
さすがに探索には慣れている。いや、迷宮の歩き方が染みついている。
周囲への警戒、足音の殺し方、呼吸の速度。それぞれに独自の作法があり、それぞれが迷宮で育ててきたやり方だとわかる。
ランタンは振り向きもせず立ち止まり、片手を挙げる。
ローサだけが止まり損ねて一歩踏み出すが、変異者たちは石になったように立ち止まった。視線を先の方へ向けさせ、それを川の中へと沈める。
「大きな影、……あれは鮫? それとも鰐?」
この迷宮に出現する魔物の一種だった。川には水棲の魔物が、樹上からは猿や鳥の魔物が出現する。
「どっちでも変わらないよ」
隊列を一列縦隊に変更する。
「ローサもできる? やっつけられる?」
「上手くやればな。鼻が出たら叩け」
「うん」
「わたしには?」
「わたしはお好きにどうぞ。――パークとウェイルは万に一つのために魔道の用意。デイジーとジェイドは僕らの予備、フィンはパークとウェイルの護衛」
「ずいぶんと慎重ね」
「お手並み拝見」
デイジーは戦棍を好戦的に揺らしながら、ジェイドは剣を鞘に収めたまま、腕組みをしてそう言った。長い腕で窮屈そうな腕組みは、口調とは裏腹に身を守るようだ。
ランタンは戦鎚を抜いて、ちろりと唇を舐める。
魚影は三つ。だが数はその倍は潜んでいるだろう。水面に浮かび上がる流れが、そこだけ不自然に歪んでいる。
「遅れてついておいで」
ランタンはその場で軽く跳び上がった。両足で踏み切って、両足で着地したのに誰も足音を聞けなかった。そして滑るように駆けだして、魚影の近くで突如、足を踏み鳴らした。
どん、と足音が鳴ると同時に、水面が恐ろしい形に盛り上がった。
それは鰐であり、鮫である。獰猛な顔立ちをした怪魚が桟橋の左右から一斉に飛び掛かってくる。
「ほい!」
飛び出るのが一番遅かった怪魚の鼻先に、ローサが言いつけの通りに槍を思いっきり叩き付ける。
怪魚の頭部が弾け飛ぶ。
「えいっ!」
鋒を水面につくほど沈めた揺籃の大剣が正円を描くように丸く振り抜かれる。
桟橋の左から飛び掛かる四匹の怪魚をリリオンが一刀で切り裂く。頭部も胴体も関係ない。その太刀筋はまるで素振りのようだった。
「ふっ!」
飛び掛かる怪魚をからかうみたいに躱し、ランタンは戦鎚を返す。淀みない足運びが、適切な位置を選択する。
リリオンの半分程度の間合いだというのに、鋭い鶴嘴が、まさしく大鳥の嘴のように怪魚に襲いかかった。たった一振りで二刀の怪魚の頭部の付け根を抉り取る。
ランタンの二匹は桟橋の上で絶命し、残りの五匹が川に流れていく。
その血の臭いを嗅ぎつけたのか、怪魚が群れをなして遡上してくる。その勢いに川が白く泡立った。獣臭とは違う、生臭さにも似た不快な臭いが迫ってくる。
「ランタン!」
背後でデイジーが呼びかける。
「いらん!」
振り返りもせずに、ランタンは応えた。視線をローサに向ける。
「下がってもいいぞ」
「やーっ」
「よし頑張れ」
「うんっ!」
「わたしには?」
「数でローサに負けないように」
「じゃあ頑張らないと。ランタンはどうするの?」
「最初に数を減らす」
そう言ってランタンはまた先行した。
足音を立てて魚群に向かうと、怪魚の群は同じように飛び掛かってきた。
だが数が違う。十を超える怪魚が一斉にランタンに襲いかかる。
一匹一匹が一メートル以上もあり、胴体は丸太のようだ。大きな鱗に覆われて、背びれは短く、胸びれが発達している。頭部はやはり鮫や鰐のようで、大きく開いた口は人の頭程度ならば容易に噛み砕くだろう。
怪魚の群にランタンの姿がすっかりと隠されてしまう。
その時、爆発が巻き起こった。
怪魚の牙が皮膚に触れるほど引きつけての爆発は、その群を効果的に鏖殺する。それでいて桟橋が無事なのは、破壊の力に一定の指向性があったからだ。
水面を叩いた衝撃に川中の怪魚が一気に混乱した。水面が白く泡立つ。
それをリリオンとローサが次々に突き殺していく。
「これでよし。いいよ」
息のあった連携に変異者たちは出る幕がなかった。
魔物の個としての強さはそれなりだ。だが川中からの奇襲や数の暴力は、この迷宮が高難易度に定められるに足るものだった。
しかしたった三人で、これを一蹴した。
変異者は怪魚が死屍累々となる桟橋に近付いた。川も澱むほどの死体が浮いている。上向きになった腹の白さが不気味ですらある。
実戦から長く離れていてもわかる。
ランタンとリリオン、この二人は突出している。
庭での訓練で、ランタンの物理的な強さは知っていた。
ランタンの小躯のどこにこんな力があるのかと不思議に思うほどだった。だが違う。庭でのランタンは片手落ちだ。この爆発の魔道が合わさったランタンは、もしかしたら無敵ではないかと思う。
デイジーが思わず掻き上げる必要もない短い髪を掻き上げようとして、危ういところで思いとどまった。
溜め息を吐く。
「ランタン、普通はさあ」
「ん?」
「ちょっとは危なくなって、それで私たちが助けに入って、ランタンを助けた私たち! みたいな感じで私たちは自信を取り戻しました、めでたしめでたしってのが筋じゃないの? なによこれ。やりたいほうだいじゃないの!」
変異者たちが同意を示すようにそれぞれ頷く。
「これじゃあ私たちのやることがないじゃない」
「あるよ」
ランタンは間髪容れずに答える。
「魔精結晶の回収」
それはよくある新人探索者の仕事だった。
デイジーは目を丸くする。
「ほらほら早くやらないと流れてっちゃうよ。魔精結晶の質が下がるよ。時間との勝負なんだから、回収、回収!」
ランタンがせっつくように手を叩いた。
昔、やっと仲間に入れてもらった探索班の下っ端だった頃、年長の探索者に小突かれ、尻を蹴っ飛ばされるように魔精結晶を回収させられた。
仲間たちが戦う中で戦闘に参加せずに、転がる死体に飛び付いて結晶を掘りだしていた。まごついていたら戦闘終了後に本当に蹴っ飛ばされた。
一分一秒の差が結晶の質に、買い取り価格に影響すると教えられた。
流されていく死体を集めたり、川から引き上げたり、死体から結晶を回収したりする。
怪魚の死体はぬるぬるとして、冷たく、生臭く、鱗は下手に触れると指が切れそうだった。
戦闘の高揚感も爽快感もない、地味な仕事だったが、変異者たちは黙々とそれをこなした。
結晶は喉の奥にあった。噛み千切った肉を、更に磨り潰すための歯が変化したものだ。魚の魔物にはよく見られる結晶化部位だ。
一人が大きく口を開き、もう一人が喉奥に刃物を滑り込ませる。
黙々と回収を続ける。
懐かしいと思った。
変わってしまった肉体の中にも、変わらない思い出があった。
そう思ったものもあれば、ぞっとしたものもある。
彼我の力の差はあの時の自分と年長探索者以上の、計り知れない差がある。
ひどく優しい顔をして、ローサに怪魚の解体を教えるランタンやリリオンはどうしてこれほど強くなったのだろう。
迷宮が彼を育てたのだろうか、とそう思う。




