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薄暗がりの部屋に一人の探索者がいる。
かつてはティルナバンでそれなりに名を馳せた有望な若い探索者だ。人望もあった。
しかし今は人と会うことを拒み、孤独を望んでいる。
薄暗がりは、彼が自分の肉体を隠すためにまとった分厚い鎧のようなものだった。
彼もまた肉体の変異に苦しむものの一人だった。
ランタンは扉を背にして部屋で彼と二人きりだった。
彼の身体付きはランタンよりも一回りも二回りも逞しい。人との交流だけでなく、迷宮からも離れて久しいというのに肉体の衰えは感じられないのは、その肉体が戦うために変異したからに違いない。
「いつまで?」
男が低い声で呟いた。投げやりな様子だった。
「終わりを教えてくれるのか?」
「いや」
「じゃあ、終わらせてくれるのか?」
ランタンは首を振る。
「いいや」
「だがお前はしただろう。あいつを終わらせたじゃないか」
それは花街での出来事を指していた。
娼婦殺しの変異者をランタンは確かにこの手で葬った。
誰も抱きしめることができない鎌のように変異した腕ごと灰も残さずに焼いた。この世に残されたのは、変異前から変わらない顔だけだった。
それはその男に望まれたからだった。そしてそれぐらいしかしてやれることがなかったからだ。
今でも正しいことをしたとは思わない。
ただできることをするしかなかったと感じている。
「もうしないと思うよ」
ランタンの声には苦しむような響きがあった。それを自覚して喉を緩める。
「でも、もうそろそろいいんじゃないか。このままじゃあ埒があかない」
「……」
「トライフェイスは変異者を受け入れているし、彼ら以外にも活躍してる変異探索者はいるよ。ゼインって知ってるだろ? あなたのことも彼から聞いた。心配してたよ」
顔も知らなかった男になぜこんなことをしているのかと、ランタンは自問する。
「だから」
「寄るなっ!」
一歩踏み出す、その寸前の気配に男が鋭く声を発した。
ランタンは氷鬼に繋がれたように身動き一つしない。ゆっくりとした呼吸に、肩が静かに下がる。
ランタンはその場に留まったまま語りかけた。
「……だけど機会がある。またあの場所へ戻る機会が」
薄暗がりの中で男の目がランタンを見上げる。冷たい視線だった。軽蔑するような視線にも思える。
「あの場所、だと?」
「そう、サラス伯爵領に」
男は視線を忌々しげに細める。視線はランタン通り過ぎて、自分の姿が変わるきっかけとなったあの戦場へと向けられていた。
旧サラス伯爵領は今や地上の迷宮と化していた。
伯爵領に集まった膨大な魔精はそこで争う人々だけでなく、あらゆるものに影響を及ぼした。魔物も出現するが、それは獣が変異したものだけでなく、迷宮のようにどこからともなく湧いたものいる。
「そうか。からかっているんだな。落ちぶれた俺を見て笑っているんだな。この姿を見て」
それは怒りではなく、諦めだった。変異した姿を見られて、他者に蔑まれることを当たり前のことだと受け入れている。
だが開き直ることはできない。
だから蔑まれぬようにこうして部屋の中に隠れて息を潜めている。
「ちがう。それは違うよ。取り戻せるかもしれないと、そう思ったんだ。あなたたちが失ったものを」
「お前に何がわかる。何もかもを手に入れたお前に」
彼へ向けた哀れみとも優しさともわからない自分自身の感情に、小さな苛立ちを感じた。
せっかく手を差し伸べてやっているのに、なんでこんなことを言われないといけないんだ、と思う。
しかし思いながらもランタンは立ち去ろうとはしなかった。
「あの場所にはあなたたちをそうした魔精がまだ残っている。戻れるかわからない。だがまた変われる可能性がある」
「……行きたいんならお前一人で行け。行って一人でぐちゃぐちゃに変わってしまえ。俺のことはもう放っておいてくれ」
「その姿が今のあなたの姿だ」
ランタンは声をぶつけるように言った。
「なんのためにその姿になったんだ。戦うためじゃないのか。なんのために戦ったんだ。誰かを守ろうとしたんじゃないのか。その心まで変わってしまったのか」
魔精は意思の溶媒であり、伯爵領に満ちた膨大な魔精は戦場に渦巻く人々の願いを叶えた。肉体は魂の形を現し、魂は肉体の形に随った。
戦場で生き残るためにより強く、悪に立ち向かうためにより険しく。その源にあるのは、肩を並べて戦う仲間を守るためであり、伯爵領で苦しむ人々を救うためだったはずだ。
「わかった風な口を利くな!」
男の声がランタンの肌を叩いた。怒りの声はむしろ心地良かった。それはかつて迷宮で魔物に向けられたものに似ているだろう。歪みのない真っ直ぐな感情だった。
「どこの誰ともわからない奴のせいでこんな風になったんだ。後悔してるよ」
感情とは裏腹な言葉は歪んでいると感じる。
「僕は一人ではそこに行かない。声を掛けたのは、ただあなたたちと探索をしたいと思ったからだ」
ランタンは真っ直ぐ前に手を差し伸べる。
だが彼はそれを見もしない。
ゆっくりと手を引き戻し後頭部をぐしゃぐしゃと掻いた。
「まあ、こんなことを言ったはいいものの、まだ時期は定まってないんだ。夏になるか、冬になるか。でも行くから、後から追いかけてくれてもいい」
ランタンは少し戯けるようにして告げた。
「気が向いたらでもいい。トライフェイスの所でも、ゼインの所でも、それこそ僕の所でも顔を出してくれたら。――じゃあ、また」
ランタンは後ろ手に扉を開き、獣と一緒に閉じ込められていた檻から脱するように部屋を出た。
部屋のすぐ側には一人の老いた女がいた。
男の母親だった。
ランタンは女に深々と頭を下げる。
「突然お邪魔して申し訳ありませんでした」
顔をあげると、女は皺だらけの顔に更なる皺を刻んでランタンを凝視する。瞳は微かに白く濁っている。
なんだろう、と思っていると女はランタンの手を取った。
骨張って、しわくちゃの皮膚を張り付けたような手だった。それが思いがけず強い力でランタンの手を握り締め、引き寄せた。
どうしてか踏ん張りが利かずランタンは引き寄せられる。
女はランタンの手を自分の額に押し当てた。
「もう、あの子に構わんでください」
しわがれた声は祈るような拒絶だった。
ランタンは息を飲む。
「家を飛び出して探索者になった、――迷宮で死ぬはずだった息子が戻ってきた。あんな姿だけども、私にはそれが嬉しい。あの子をまた迷宮に連れてかんでください」
髪の白くなった、老いた女の頭をランタンは黙って見下ろす。
「私はまたあの子を産んではやれんのよ」
ランタンは唾を飲み込んだ。大きくて角張ったものを無理矢理に飲み込むみたいに、喉が痙攣するように上下した。
ランタンは老いた女の手をそっと外した。手の甲に赤く指の跡が浮かんでいる。
懐から一枚の紙を取りだして女に渡した。
「これを、息子さんに渡してください。紹介状です」
ランタンは目を伏せ、踵を返した。
「お邪魔しました」
家を出て、ふらつくように数歩進んで振り返る。
古い石造りの家々が肩を寄せ合うように並んでいる。雨風に晒され続けてすり減った石壁に、傾いた屋根。かつては濃緑をしていたのだろう瓦屋根は、うすらぼんやりした緑青に褪せている。
あまり裕福ではない、古い住宅地だった。
家々の背が低いせいか空が高く感じるのに開放感はない。
真っ青な空に白い雲が千切れている。太陽も白く、光はむしろ冷たい。
だだっ広い空間にぽんと投げ出されたような孤独感を感じた。
先程の家から小さな物音が聞こえて、ランタンは逃げるように駆けだした。
旧サラス伯爵領探索の話が持ち上がっていた。
未だ膨大な魔精の渦巻く伯爵領は魔物の跋扈する未開の地と化している。魔物が湧くだけならばたいした問題ではないが、地形も絶えず変化しているという話がある。
これを封じる壁を建造中だが、完成にはまだほど遠い。
伯爵領の実情がどうなっているか確認するために各地の有力な探索者たちへ声が掛けられている。ランタンはそういった探索者の一人だった。
どれだけ走ったのか、肌にうっすらと汗が浮いている。
ランタンは速度を緩め、立ち止まった。風が身体の熱をさらっていく。
「――失ったものは取り返さないといけない」
ランタンは自分に言い聞かせるように口に出した。
どうして自分が変異者たちにこれほど構うのかを、ランタンは未だに正しく答えられない。
哀れみや同情かもしれないし、優しさとかいうものかもしれない。
頑なだった自分にミシャが手を伸ばしてくれたように、自分もそうしたいと思ったのかもしれない。
薄暗がりに蹲っているあの姿は、きっとかつての自分の姿に似ている。
ランタンは来た道を振り返った。
こんな風に変異者に声をかけるのはこれが初めてではない。
上手くいったこともあるし、いかないこともある。やる気になったと思った変異者が、やはり現実に打ちのめされて元通りになることもある。
感謝されたことも、罵倒されたことも。
殴り合いになったことだってある。
「……さすがに堪えたな」
――また産んではやれんのよ。
老女の言葉が耳にこびり付いている。彼女にしてみれば、ランタンは息子の命を奪いにやってきた死神に等しい。伯爵領はきっと迷宮よりも酷いところだろうから、大きなお世話どころの話ではない。
ずんと胸にのし掛かる重みを大きく吐き出し、ぱんと両頬を張って、顔をあげて歩き出す。
「――ただいまぁ」
ランタンが館に戻ると、リリオンがぱたぱたと足音をたててやってきた。
「おかえりランタン。お客さん来てるよ」
リリオンは慣れた手つきでランタンの外套を預かり、応接間の方へ顔を向けた。
「客?」
「うん、待ってもらってるからすぐに。あ、ちょっと待って」
リリオンはランタンの髪を手櫛で梳かす。指の腹が形のいい頭を撫でる。それから掌を使って、もう引いたはずの汗を拭って満足そうに頷いた。
「これでよし。ほら、行って。お茶、すぐに持っていくね」
うながされてランタンは応接室へ向かった。
ランタンが入室すると三人の客たちが座って待っていた。
室内でもフードをかぶっているその姿は、彼らが何ものであるかをあからさまに示していた。
一人が立ち上がると、残り二人もつられるように立ち上がった。
「いらっしゃい」
客人は微かに震える指でフードを外した。
そこには三者三様の異形の姿がある。
ランタンが以前に声をかけた変異者の若者たちだ。
「ランタン、俺たちをあの地へ連れて行ってくれないか」
「――ああ、行こうか」
「また変わることができるかな?」
「きっとできるよ」
ランタンは軽く肩を竦める。
「変わる必要があるかはわからないけど。だってもういい顔してるし」
ランタンの軽口に、変異者たちは恐ろしい牙を剥いて笑った。




