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甘い匂いがする。
ランタンはすんすんと鼻を鳴らした。
リリオンとローサが菓子を作っている。その香りだろう。
もう寒い日も稀になり、季節はすっかり春になった。
春になってミシャにモーラという名の妹分ができた。
モーラは蠍人族で、今はアーニェとともに暮らしている。
だが養子になったわけではなく、引き上げ屋見習いとして住み込みで働いている。
ランタンももう何度か顔を合わせたが、まだ笑ったところを見たことがない。
無口で表情に乏しいが、素直で真面目だというのがミシャの評だった。
ローサが持ち前の強引さで仲良くしているが、喜んでいるようにも、煩わしそうにしているようにも見える。
だが強引さが持ち前なのでローサはまったく気にしていない。強引さが持ち前なのに、繊細なところもあるからモーラが嫌がっていないこともわかっているのだろう。
あの無表情は困惑だと、ランタンは思う。自分がそうだったからだ。
そんなモーラは自ら志願して、アーニェの所に来たわけではない。
アーニェが誰かいい子はいないかと共同体に尋ね、それで寄越された子だった。
しかしこれはモーラにとっては幸運だった。継ぐべき仕事持たない子供も、やがては職を手にしなければならない。だが蠍人族、それも有毒の蠍人族がまともな職を得ることは難しい。
犯罪に手を染めるか、迷宮に挑むか。その二択が迫られるというのも冗談ではない。
アーニェはしっかりした人だし、善人だ。引き上げ屋の主として、生活基盤もしっかりしている。
商人にしろ職人にしろ住み込みの徒弟、見習いをていよく扱える奴隷ぐらいにしか思っていないような人もいる。
アーニェならばそのようなことは絶対にしない。
そんなアーニェの所に、毒の尾を持つ蠍人族のモーラが来たのはある種の必然だった。
彼女が蠍人族に差別をしないから、ではない。
アーニェは間違いのない人である。
だが、どれだけ望んでも普通の子供を迎えることはできない。可能性があっても、かなり難しい。
それは蜘蛛人族で六腕を有するからだった。
アーニェの引き上げ屋は、今でこそそれなりに繁盛しているが、ランタンがミシャと出会った当初は馴染みの客ばかりの知る人ぞ知るというような引き上げ屋だった。
時折訪れる新客も、どれ六本腕を見てやろう、というような醜悪な好奇心が先に立つようなものばかり。
それが変わり始めたのはランタンの活躍が知れ渡るようになってからだ。
ランタンが必ず迷宮から帰ってくる。
その事実は異形の六腕の印象を変化させた。
探索成功の理由はあの六本腕がロープを握っているからだとか、しっかりと探索者を抱きかかえているからだとか、縁起物のように扱われるようになったのだ。
その変化は軽薄な掌返しに他ならないが、それでもランタンは自分自身の評判に意味があると思えたことの一つだった。
蠍人族の尾はあまりにも剥き出しだ。
それは抜き身の刃物を手にしているに等しい。
所有者がいくら安全だと言い張っても、簡単に納得することはできない。その刃物に毒が塗られているのならばなおのことだ。
有毒人種への偏見は強い。
彼らが危うい毒を持っていることや、それが時に事故を起こし、あるいは悪意を以て用いられることもまた事実だからだ。
偏見があるから社会に馴染めず、ゆえに生活基盤を築けずに犯罪に走り、またそれが事実として偏見を強める悪循環だった。
モーラはすでにミシャにくっついて引き上げ屋の仕事を手伝っている。
今はまだ近くをうろうろしたり、ミシャの仕事を見たりするぐらいだが、現場に出て探索者たちと顔を合わせている。
ミシャの仕事着であるつなぎはその身にある鱗を隠す鎧だった。モーラは普段尻尾を腰に巻き付けて、ゆったりしたスカートを穿いてそれを隠している。
それでも蠍人族の特徴的な節だった間接部はよく目立った。そしてそうだと分かれば、尻尾は見えていようがいまいが関係なかった。
警戒でもって毒の有無を問い質されたり、露骨に嫌な顔をされたりすることはしばしばあるようだ。暴力こそないが、近付くな、と警告されることもあったらしい。
ミシャの目下の悩みの種だ。
探索者に対して注意をするべきだとも思う。だが長く探索者とつき合って、そして迷宮を体験した今、彼らが験を担ぐ気持ちもわかる。なにせ命が掛かっている。
探索直前の今、注意を言うべきかという悩みもある。帰ってきた時はへろへろでモーラに構ってなどいられない。
モーラは偏見に慣れている。警戒の視線も、しかめられる眉も、追い払われることにも。
引き上げ屋の手伝いよりも、そういった相手に対してそっと身を退く仕草の方がよほど堂に入っている。
モーラをはっきりと守ることは、間接的にあなたは可哀想な存在だと告げるようなものだ。
それはそれで辛いことを、口内に毒牙を隠し持っているミシャは知っていた。
答えは出ない悩みだが、ランタンは楽観的だった。
ミシャが面倒を見ている、というのはランタンにとってはそういうことだった。
「ふわぁ――」
春の陽気に欠伸が出た。
大きく開いた口を隠すこともない。
ランタンは箒とちりとりを持って、館を掃除して回っていた。廊下の隅や、部屋の中に積もった何かを掃き取っている。
千切った羊毛に似たふわふわの正体は羽毛だった。
鳥のものではない。
春になってウーリィの羽が急激に生え替わりはじめたのだ。
名付けの由来となった羊毛に似た羽毛は幼さの証明だった。
早く大人になりたいというように、ウーリィは全身を使って羽ばたき、館中を滅茶苦茶に飛び回った。
まだたいして飛ぶこともできないはずなのに捕まえるのはなかなか大変で、そのせいでどれだけ掃除をしても翌日にはどこからともなく抜け落ちた羽毛が現れている。
ウーリィの換毛はどこか病的に見えた。自ら毛を毟るような激しさはローサを心配させるのに充分だった。
竜種に最も詳しいレティシアが、これはこういうものだ、と教えてもなかなか心配はなくならなかった。
レティシアの言葉が正しいとも限らない。経験による推測に過ぎないからだ。
迷宮由来、つまり魔物は基本的に個としての存在である。
一つの迷宮に同種の魔物が複数出現したとしても、それらはただ個の集まりに過ぎない。
同種だと人類側が分類したとしてもそれは外見的特徴によるものだったし、きっと親子に違いないと思ったとしても想像でしかない。
迷宮の魔物に血の連なりや、進化の過程は存在しない。
世界中に迷宮はあり、管理外迷宮の多くは発見さえされずに崩壊し、今この時も地上に魔物を解き放ち続けている。
だがそれでも地上に定着した魔物の数はそれほど多くない。
人よりも、獣よりも圧倒的に強いはずの魔物はしかし人知れず滅んでいる。
もちろん人類に発見され次第、討伐対象になるからでもあるが、もっとも致命的な理由は個であるがゆえに子孫を残せないからだ。
同じ迷宮から地上に放たれた同種の雄と雌でもそれは難しい。交尾はしても、受精は滅多にしない。獣と交雑する種もあるが、それもひどく稀なことだ。
魔物との交雑種である大鼠は都市部でもよく見られるがその実、長い年月の中で現れた一握りの奇跡のような存在だった。
人工交配の末に産み出された軍用の魔馬などは偏に人間の努力の賜だ。
ランタンは掃き集めた羽毛を一つ拾って、窓から差し込む陽射しに透かした。
中空の羽軸はいかにも軽そうで、癖毛の羽枝が生えそろっている。ウーリィがあまり飛ぶのが上手ではなかったのは、この癖毛のせいだろう。
生物の頂点の一つでもある竜種にしては、換毛のしかたも含めて、なんとも不完全なことだった。
だがそれが愛らしくもある。
溺れるようにふらふらと飛ぶウーリィはなんだか応援してやりたくなる存在だった。
今はもうすっかり換毛も済み、丸まった癖毛はほとんどなくなって、白く柔らかな羽毛が全身を覆っている。
小さかったウーリィも気が付けば子犬ほどの大きさになっていて、それでもまだ甘えるようにローサの頭を定位置にしている。
おかげでローサが老人のように、肩がこったと言っては、困ったように首を回している。
館に来た時の鳥籠も今は小さい。ローサの頭もそう遠くないうちに狭くなるだろう。
「どこから来てどこへ行くのか――」
呟きは誰に対してのものだろうか。
ランタンは館中のようやく羽毛を掃き集めて、掃除道具をしまった。
甘い香りは、今も館中に広がっている。
香りに誘われて春の蝶のようにふらふらと厨房へ向かった。
「いい香りがするね」
厨房にはリリオンとローサがいた。身に付けた揃いのエプロンを同じように白い粉で汚している。
「あ、ランタン。ちょうどいいところに来たわね」
「ちょうど?」
「もう焼き上がるわ」
「まだ焼き上がってなかったんだ」
ローサはパン焼き窯を覗き込んでいる。虎の尻尾が立ち上がって、右に左にゆらゆらと揺れている。焦れる気持ちが素直に表れている。
「何焼いてるの? パンじゃないよな」
「クッキーを焼いていたの。ローサ、どう?」
「もうちょっと」
「ですって」
尻尾を撫でてやり、尻を叩いてやると白い粉が舞った。何度も叩いても、何度でも粉が舞う。
「どんな作り方したらこんなことに? 叩けば叩くほど埃が出てくる」
「埃じゃなくて小麦粉よ」
「そりゃそうだろ。埃が出るのは僕かな。さっきまで掃除してた」
「あら、ウーリィの?」
「そう。たぶん全部やったよ」
「えらいわね。褒めてあげましょう」
「もう全部掃除したよ」
ランタンは戯けて胸を張った。リリオンは小首を傾げる。
「昨日もそう言ってたよ」
「昨日のことは昨日のこと」
「一昨日も」
「三度目の正直だよ。これでまた出たらもう知らん。無から生成されてるってことにする」
「また変なこと言っている」
ランタンは適当な椅子を引き寄せて腰掛ける。
作業台の上には菓子作りの道具が散乱しており、リリオンがそれを片付けていた。焼いていないクッキーの生地を隠れて口に含んだりもする。
「もーいーよ!」
ローサが急に叫んで、かまどの中からクッキーを取りだした。
丸や四角の生地に、木の実や果実が乗せられたり、練り込まれたりしている。甘くこうばしい香りが一気に広がった。
「お、よくできてるな」
さっそくランタンが手を伸ばすと、リリオンがその手を叩いた。
「これはお土産よ」
「一個くらいいいじゃん。味見だよ」
ずいぶんと多く作ってあるので、一個ぐらい食べても問題は無さそうだった。
ランタンがいかにもいじましい視線を送ると、リリオンは頬を緩めるがすぐに気を引き締める。
「そんな顔してもダメよ」
「どうしても?」
「う――、はっ、ダメダメ。そんな顔してもダメ」
「けち」
「味見がしたかったら、わたしじゃなくてローサにお願いしたら?」
「ローサに?」
ランタンはローサを振り返る。
ローサは色々な形のクッキーを重ならないように広げていた。
「ねえローサ。一個、味見していい?」
「いいよ」
「あ、いいんだ。じゃあ、失礼」
手を伸ばすと、リリオンとまったく同じようにその手を叩いた。
「――なんて姉妹だ!」
「ローサがえらんであげるの。えっとねえ、あった! これ、これたべて」
「なんか普通だ」
「いいからたべて。とくべつなんだから。おいしい?」
「まだ食べてないよ」
ローサから手渡されたクッキーは他のものより少しだけ大きく、木の実も果物も練り込んでなかった。まだほのかに熱を持っており、手にしただけでさくさくしているのが伝わってくる。
ローサに見つめられる中でランタンはそれを口に放り込んだ。
軽い歯ごたえにバターの風味、微かな塩味にふわりと蜂蜜の甘さが広がった。
「あ、美味しい。こくがあって、あったかいクッキーも美味いな。へえ、中に蜂蜜が入ってるのか」
「蜂蜜? 蜂蜜なんて入れたかしら?」
ランタンの感想にリリオンが首を傾げる。
蜂蜜の風味をたしかに感じたランタンもまた首を傾げ、ローサは美味しいと言われて喜んでいる。
残ったクッキーをさっそく小分けにして包んでいる。
これは泊まりに行くアーニェへの手土産だ。クロエとフルームも誘って、モーラと四人でお泊まり会をする。
「アーニェさんの所に行く前にいっぺん風呂入りな」
叩けば叩くほどローサから小麦粉が舞う。




