423
423
「し、死んでる……」
「死んでないから、あっ、――痛たた」
ミシャは身体を起こそうとした途端、全身に走った痛みに悶えた。
「芋虫みたいだ」
「せめて蛇みたいって言って」
それは今まで感じたことのないひどい筋肉痛だった。肉という肉が針金に変わったみたいだった。
「だいじょうぶ?」
「あ、ローサちゃん、やめ、さわらないで」
眠たげな欠伸をしながらつんつんと突くローサに、ひいひい言いながらミシャは懇願する。
硬く強張った筋肉が敏感になっている。関節を折り曲げようとすると、柔軟性を失った靱帯が軋むようだった。
「あんなに長風呂してたのに、身体揉まなかったの? 何してたんだ?」
そんなミシャを見つめながら、ランタンは怪訝そうな顔をした。
女たちはずいぶんな長風呂だった。
朝目覚めた時はリリオンもミシャも隣にいたが、おかげで寝る時は一人だった。疲れていたからすぐに眠ってしまったが、一人であることに少しばかりの物足りなさを感じていたのも事実だった。贅沢になれてしまっているらしい。
「ん-、へへ」
リリオンは半端に笑って言葉を誤魔化した。
ランタンは溜め息をつく。
「僕の悪口言ってたんだな。あーあ、傷ついた。これより痛い」
そう言ってベッドから下りると、額の包帯を取り替える。
窓の外はまだ薄暗い。
いつもの探索帰りならばだらだらと眠り続けているような時間帯だったが、ミシャはもう仕事があった。
アーニェとミシャ、二人だけで切り盛りしている引き上げ屋はそう長く休めない。
引き上げ屋同士、横の繋がりがあるので人員を借りることもできるがそれも無給ではないのだ。
ランタンは大きく背伸びをする。もちろん疲れはまだ残っている。大きく背伸びをして、硬くなった筋肉を緩める。
それからベッドの上に戻り、ミシャの足を取った。
「動けるようにしてあげる。リリオンは上半身をやってあげて」
「はーい」
返事を聞くよりも先にミシャを裏返し、ランタンは迷宮を歩いたその足を、リリオンは背中を揉んでいる。
「ローサは?」
「ローサは腰。踏んでやって」
肉球の足で腰を踏まれると、ミシャは気持ちいいのか苦しいのか、ともかく呻いた。次第に呻き声は喘ぐようになり、またひっくり返して仰向けにされると股関節のあたりを揉みほぐされた。ミシャの顔が赤くなる。
「ほら」
ランタンが差し伸べた手を頼りに、ミシャはぎこちなく上体を起こした。
確かに動くようになっている。
「なんでみんなは平気なの?」
「慣れてるからね」
「慣れる前は?」
「そりゃあ――」
ランタンは口籠もった。
「昔、私が心配した時は平気だって言ってたけど、その時はもう慣れていたのよね」
「昔話ばっかり。昔の僕は僕じゃない。別の人です」
小言の気配を敏感に感じ取って、あからさまに開き直ったランタンの横顔にミシャは苦笑する。リリオンと目配せを交わすと、少女は曖昧に小首を傾げる。
「ミシャだって今日は仕事に出るんだろ? お互い様じゃないか」
「それもそうね」
「一応動けるようにしたけど、本当に大丈夫か? 操縦ミスで探索者を迷宮に落っことしたりしたら目も当てられないぞ」
「それは平気よ。飛んだり跳ねたりするわけじゃないんだから。今回の件で、座り仕事だったってことがよくわかったわ。私も少しは鍛えようかしら?」
「まためいきゅういく?」
ローサの無垢な問い掛けに、ミシャは迷う素振りを見せた。
歩いただけでこの身体の痛みである。すぐには頷けない。迷宮に感じた恐怖も忘れがたいものだ。だが迷宮にあった興味深さは、なるほど探索者が飽くことなくそれに挑む理由になるだろうとも思う。
ゆえに自分が探索者ではないことも、自覚ができた。
「今はまだ行かなくていいかな」
迷宮に行くに当たって探索者としての登録をした。腕輪型の探索者証が、目に見える探索者としての証明だ。
だが登録したからといって、誰も彼もが迷宮に挑み続けるわけではない。ちんぴらや破落戸が箔をつけるために登録をすることも多い。迷宮に挑み、これを攻略したとしても、たった一度の探索で足を洗うこともある。
探索者であると言うことは、その人の心の形であるように思えた。
ミシャは自分の口元がにやつくのがわかった。欠伸を押さえる振りをして、口元を隠した。
二度と探索しない、と言わなかったのは、もしかしたらほんの僅かぐらいは探索者の心の形を持っているのかもしれない。
「ずーっとランタンくんに仕事の送り迎えをしてもらうのも悪いし」
「遠慮しなくてもいいよ」
「そうじゃないよ。体力作りも兼ねて店まで歩いていくのもいいわね。自分の足で歩くのは大事なことよ」
ふうん、と呟くランタンは少しつまらなそうだ。
手伝いはあるか、と尋ねて、ない、と返された子供のようだった。
「でも今日はさすがにね。あっ、痛たた」
初めて一人で着替えるみたいに、のろのろと寝衣から着替えてミシャは振り返った。
リリオンはもうすっかり目が覚めてしまったようでてきぱきと身嗜みを整えている。
ランタンの部屋に用意された鏡台を使うのは部屋の主ではなく、同じ夜を過ごした女たちばかりだ。
リリオンは長い髪を丁寧に梳かして、項のあたりで軽く一つに結ぶ。
ローサはウーリィの様子を確かめに自室へ戻り、まだ眠っていたらしくすぐに帰ってきた。リリオンの脇から同じように鏡を覗き込み、真似をするように髪を梳かしている。
だがリリオンのそれが女の所作であるのに対して、ローサのそれはどことなく猫の毛繕いじみている。
髪ごと虎耳を撫でつけて、その度に耳がぴょこぴょこと立ち上がるさまは愛らしい。
ランタンはというとベッドで横になっている。
眠るでもなく浅く瞼を下ろして、薄目に天井を見上げている。
「済んだ?」
人形のように起き上がったランタンに頷きかける。
「じゃあ、行こうか」
「うん、でも」
やっぱりランタンは疲れている。あらためてミシャはその事実に気づいた。
ランタンに近付いて、包帯に覆われた額に手をあてる。
「え、なに?」
「いいから」
そのままたいした力も入れず、ランタンを押し倒した。きょとんとするランタンに笑いかけ、自分は一人で陶馬に乗れるだろうか、と考える。きっと無理だ。じゃあ歩いて行こうか。無理ではないがきっとどうしようもないほど遅刻するだろう。
ローサが軽やかにベッドに飛び乗った。髪を梳かし、着替えも済ませて目もぱっちり開いている。
「ねえ、ローサちゃん。私をお店まで乗せていってくれない?」
「いいよ!」
「え」
快諾するローサと困惑するランタン。頭の近くで跳ね回るローサにランタンは頭を揺さぶられる。
「今日はゆっくり寝ていて。リリオンちゃん、よろしく。ローサちゃん、行きましょ」
起き上がれないランタンをリリオンに託して、ミシャはローサに背中を押されながら部屋を出る。
「ごめんね。ローサちゃんは疲れてない?」
「ううん、へーきだよ。ほら、のってのって」
「背中にそのまま?」
「うん!」
まだ外にも出ていないのに催促するローサに負けて、ミシャはよじ登るみたいに虎の背中に跨がった。陶馬よりも幅があり、揉みほぐしてもらった股関節に痺れるような痛みを感じる。
「ちゃんとつかまってて」
「う、うん」
ミシャがしがみつくと、ローサは勢いよく走り出した。広い廊下が途端に狭く感じる。
身体の近くを壁が通り過ぎ、階段を真っ直ぐ切り立った崖のように飛び下りる。
「いってきまーす!」
まだ眠っているだろうレティシアたちを叩き起こすような声で叫び、ローサは館を飛びだした。
肌寒く、澄んだ朝の空気。
しがみつくローサの身体が温かい。
「ローサちゃん、もうちょっとゆっくり。そんなに急がなくてもいいから、ね」
落ち着かせるように身体を撫でると、ローサはようやく足を緩めた。
「ねえ私、重たくない?」
「へーき。ローサ、のってもらうのすき」
「そうなの?」
「うん!」
「どうして?」
「わかんない!」
あまりにもいさぎのいい答えだったので、ミシャはそれ以上聞くのをやめた。ただ好ましく思う。それにあれやこれや理由をつけるのは無粋なことなのかも知れない。
「あさはあさのにおいがする」
「そうね。同じ街なのに、朝と夜でどうして違う匂いがするのか不思議ね」
「ふしぎ。おひさまと、おつきさまのにおいのちがいなのかもしれない」
「なるほどねえ」
のしのしと歩く背中に揺られる。ローサは頻繁に後ろを振り返ってミシャの顔を見る。
その度によれよれと蛇行するので、ミシャが代わりに前を見て、ぶつかりそうになる度に注意を促す。
「あ、そうだローサちゃん」
「なあに?」
「お母さんに、私が迷宮に行ったっていうの内緒にしてね」
「え!」
ミシャのお願いにローサは驚いた声を上げ、すぐには頷かなかった。
思いがけない反応にミシャは戸惑う。自分の心の中にある罪悪感じみたものを、ローサは読み取っているのだろうか。
「だめ?」
「うーん、だって、うそはついちゃだめだって、おにーちゃんもおねーちゃんもいってたよ」
「ああ、そっか。でも大丈夫よ」
「だいじょうぶ?」
「うん、だって嘘をつくっていうのは、間違ったことを言うことでしょう? お皿を割ったのに割ってないとか、おやつを食べたのに食べてないとか」
例え話に身に覚えがあるのかローサは眉を八の字にして頷いた。店が近くなり、ミシャはローサから降りる。隣に並んで手を繋いだ。
「迷宮に行ったのに、行ってないって言うのは嘘よ。でも黙っているっていうのは嘘をつくことじゃないわ。迷宮のことを言わなければいいの」
ローサに言い聞かせながら、ミシャは自分が悪い女になっているような気がした。
「わかった」
ローサは腑に落ちない顔をしながらも頷いた。ごめんね、と心の中で呟く。自分の隠し事に、ローサをつき合わせてしまった。
あまり母に隠し事をしなかったな、と思う。一人で抱える悩みはもちろんあったが、血の繋がらぬ負い目もあってか、ミシャはアーニェにとって良い娘だった。
今さら反抗期みたいだと口元に笑みが浮かんだのは、もう店を目前にして湧いてきた緊張を誤魔化すためだ。
車庫の鎧戸はすでに開け放ってあった。いつもは受付で開店の準備をしているはずのアーニェがどうしてか車庫で待っていた。
「あら、ローサちゃん? おはよう、めずらしいわね。ランタンくんは?」
「おはよーございます! おにーちゃんねてる、きのうめいきゅうにいったから、つかれてるの。あ!」
ローサは口を押さえた。ミシャは信じられないものを見るようにローサを見て、それから表情を取り繕った。
自分は何も聞いてない。だからきっと母も何も聞いてないはずだ。
そんな都合のいいことが起こるはずもないのに、アーニェは、そうなの、と言っただけだった。
「おはよう、お母さん。お母さんこそ珍しいね」
「あなたが遅刻するからよ。ミシャは時間にはきっちりしてるから、ちょっと心配したのよ」
「ああ、ごめんなさい。気をつけます」
半分は母に、半分は店主に対するような態度で頭を下げる。腰が張っているので、会釈をするみたいだった。
アーニェは小さく微笑んだ。
見透かされているのかもしれない。そう考えた瞬間に、じわじわと恥ずかしさが湧いてきた。
「はい、気をつけてね。あなたはこれから手本にならなくちゃいけないんだから」
「――手本?」
「ええ」
アーニェはその六本の腕を開いて、振り返った。
「おいで、モーラ」
起重機の影から招き出されたのは、七つか八つぐらいの痩せた子供だった。
たぶん女の子。
砂漠の色をした髪と肌をして、虹彩も日に焼けたような淡い色をしている。恥ずかしがるように、怯えるように目を俯かせる。
足に寄り添うようなその子供の肩をアーニェは抱き寄せた。
「ほら、自己紹介なさい」
「……モーラ」
声は小さいが、震えてはいない。態度の割りに落ち着いて聞こえるのは、声に独特の掠れがあるからだろうか。
「ローサはね、ローサだよ! よろしくね!」
ローサは太陽みたいな笑顔を浮かべてモーラに近付く。
「ローサとにているね。モーラ。ローサ、モーラ。ほら!」
モーラは眩しそうに顔上げた。笑顔を作ろうとして失敗したみたいに、口元が微かに動く。
ローサがモーラの手を取った。ゆったりした服の袖がずり下がって、腕が露わになった。
子供の細腕、その手首には継ぎ目に似た特徴的な節がある。モーラは反射的にそれを隠そうとした。ローサは構わずに握手をする。
ミシャはモーラに近寄る。痛みを無視して、腰を屈めて視線を合わせる。モーラはすぐに逸らした。ちらり、ちらりと視線を合わして外すを繰り返す。
「はじめまして。私はミシャ。見ての通り蛇人族」
そう言って襟元を開き、肌に混じる鱗を見せてやる。
「あなた蠍人族ね」
モーラは頷いた。
ティルナバンでも珍しい少数種族だった。蛇人族と同じで毒を有することもあり、それが元で差別的な目で見られることもしばしばある。それになりより昆虫じみた特徴的な関節構造は他のどの種族にもない固有のものだ。
「そして毒を持っている」
ミシャが言うとモーラはびくりと身体を震わせた。ミシャは大きく口を開き、上顎に隠してある毒牙を露わにする。口の中で鋭く立ち上がった毒牙からは、大粒の真珠みたいな毒液が玉となって滴った。
「おそろいね」
腰に巻いていた帯が解けるように、モーラの足元に蠍の尾が垂れた。
「わあ」
「見せてくれるのね」
小さな頷き。
肌よりも少し濃い色をした蠍の尾は、磨いた珠を連ねたようで古の巨人族の装飾品のようだった。その先端には勾玉に似て毒針がある。
「ローサのしっぽとちがうねえ。かちかちだ」
ローサは物怖じせず尻尾に触れる。尻尾が緊張して痙攣する。微かに毒液が滲んで床を濡らした。お漏らししたみたいに、モーラの頬が赤らむ。
アーニェが砂漠色の髪を撫でる。
「この子を預かることにしたわ。家に住み込みで働いてもらうから、ミシャの部屋はもうないわよ」
寂しさをおぼえながら頷いた。
蜘蛛人族、蛇人族、蠍人族。どれもが有毒種族だった。その人種のすべてが毒を有するわけではないが、みんな同じような目で見られる。
だからこその共同体があり、アーニェはそこと深い繋がりを持っていた。ミシャもそうやってアーニェの所にやってきた。
「つまり私の弟子になるのね。なるほどお手本ね」
「その通り。あなたはもう一人前なんだから、ちゃんと教えるのよ」
「うん。頑張るわ」
はてさて自分はどうやって、アーニェから引き上げ屋のなんたるかを教えてもらったんだったか。
思い出は沢山あっても技術はすでに血肉となり、咀嚼前のものがどうだったかを思い出すのが大変だ。
「それにしても事前に言ってくれたらいいじゃない。驚いたわ」
「言ったわよ。新しい子を入れるかもって、弟か妹ができるかもしれないって。忘れたの?」
「それは世間話でしょ。決定は聞いてないわ」
ちらりとモーラに目を向けた。ローサがさっそく構っているが、モーラはあからさまに戸惑っている。ローサは誰もが怖れる尻尾を平気で引っ張っている。
その気持ちはよくわかる。有毒種族は受け入れられることに慣れていない。なんの衒いもなく向けられる視線は、生まれて初めてのものかもしれない。
「それはお互い様でしょう」
アーニェが苦笑する。え、とミシャは娘の顔で母を見る。
「私に黙って迷宮になんか行っちゃって。嫁入りした途端に隠し事をするようになるなんてね」
「なんでわかったの?」
それは母というものがなせる技なのだろうか。それとも引き上げ屋の繋がりから情報を得たのだろうか。
ミシャは驚きのあまり、幼子のように尋ねる。
「ランタンくんがわざわざ来てくれたのよ。あなたを迷宮に連れて行くって。怪我一つさせないから許してくださいって。どうなの、本当に怪我一つない?」
アーニェに尋ねられて、ミシャは頷く。
「怪我一つないわ。私、大切にしてもらってるから」
「それは素敵なことね」
何度も頷いた。自分がいかに大切にされているかを伝えるように。
「あ、もうかえらないと! モーラ、またね。いっしょにあそぼうね。ローサのせなかにのせてあげるからね。ミシャさん、ゆうがたにむかえにくるからね! アーニェさんまたね!」
ローサがぶんぶんと手を振って帰っていく。太陽の笑みのまま、嵐のように去っていった。
その背中にモーラはまだ手を振り返すことができない。
なんだか昔の自分を見ているようだ。ローサぐらい素敵な子はいなかったけれど。
「さてモーラ、これから起重機がちゃんと整備されてるか確認するわ。まずは見てるだけでいいからこっちにいらっしゃい」
ミシャははきはきした声でモーラを呼び寄せる。モーラはとことこと側にやってきた。
「確認が済んだら、迷宮特区へ、そして探索者さんたちを迷宮へ送ったり、地上に引き上げたりする。初めはわからないことも沢山あると思うけど、一から教えてあげるからね」
「はい」
不安そうなか細い返事にミシャは優しく笑いかけた。
ぽん、と軽く頭に手を置いてやる。
「今日からよろしくね」
砂漠の色をした髪は細く、乾いた砂粒のようにさらさらしている。
はい、とモーラは返事をする。




