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靴下を脱ぐと、足の裏にぴりりとした痛みが走った。
ミシャは顔をしかめて、脱皮するような慎重さで靴下から爪先をそっと抜いた。
長椅子に腰掛け、足を組むようにして足裏を覗き込むと親指の付け根の辺りでべろんと皮が剥けている。
どうやらまめが潰れたようだ。剥けた皮は中途半端に繋がり、汗でふやけて白くなっている。
くっつくわけもないのにそれを足の裏に押し当てて、やっぱりくっつかないので勇気を出して千切り取る。
露わになった薄い皮膚は、いかにも頼りなさそうで血肉の淡い色を透けさせている。
「あ、ミシャさんひどいね、いー、痛そう」
リリオンがやってきて、どれどれと患部を覗き見る。
探索を終えたばかりだから誰一人例外なく汚れていたが、それでもミシャは恥じらいから足を下ろした。
「リリオンちゃんにそれを言われてもね」
浴室の脱衣所だった。
リリオンはすっかり裸になっている。
いつもは白い裸身も、今は戦いの傷が無数に刻まれている。腕や腹に浮かび上がった青痣は、白い肌の中で黒く見える。熟しすぎた果実みたいに、指で押せば途端に破れてしまいそうだった。
「だってわたし、なれてるもの」
痛みに慣れているのはリリオンだけではない。
探索に参加した女たちはほとんど全員、傷を負い、それを隠そうともしない。無傷なのは最終目標戦に参加しなかったリリララとローサぐらいのものだ。
だがそれは表向きの傷であって、道中に魔道を多用したリリララも、最初から最後まで仲間の荷物を運んだローサも同様に傷んでいる。
「リリオンちゃん、肩、ちょっと貸して」
リリオンの肩に手をやって、ミシャはよいしょと立ち上がった。
体重の分だけ痛みが走った。
傷つき帰ってきた探索者たちを、いや、リリオンやレティシアを目の前にして抱いてきた劣等感のような感情が薄らいだのはこの痛みのおかげだろう。
命を脅かやかすわけでもない、このちっぽけな痛みは、それでも探索を通じて共有した痛みに違いない。
「大丈夫?」
「なんとかね。迷宮は、しばらくは歩けそうにないけど」
リリオンの肩を借り、ちらりと見えたその背中にも痣がある。
攻撃を受けてできたものではない。彼女の持つ圧倒的な臂力によってできた痣だ。痣は影のようで、尖った肩甲骨がたたんだ翼に見える。
「抱っこしてあげようか?」
「そういうのはランタンくんにしてあげて」
「ランタンは嫌がるんだもの」
リリオンは冗談めかして言う。
歩くのは辛かったが、この痣の背中におぶさるほど無神経ではない。
浴室の濡れた床を踏むとぴりりと染みる。掛け湯をすると血が出ていないのが不思議なほどじんじんとした。
湯にすっかりと浸かると、ランタンがどうしてあれほど風呂が好きなのかよくわかった。
「あー、しみる……。これは……」
身体を支える力が抜けて、ずるずると尻が滑り、ミシャは沈むようにして顎先まで湯に潜る。
全身を包む温かさに、抗いようがなく気が緩む。それは迷宮から脱してなお探索の緊張が抜けていなかったことを意味している。
地上の空を見上げてほっとしたあの感覚がすべてだと思っていたが、自分でも気付けない緊張が残っていたのだ。
これでようやく。
ミシャは目を糸のようにして眠気に似た心地よさに身を任せる。
女たちが次々に湯に入り、体積の分だけ波が起きる。リリララの波が一番小さく、ローサの波が一番大きい。
「あー、疲れたー」
隣に並んだリリオンが長い足を投げ出して、大きく背筋を伸ばした。肩を揉みながら首を回し、欠伸をする。
「ランタンくん、お風呂に入れなくて可哀想ね」
「しかたないわよ。怪我しちゃったんだもの」
額を怪我したランタンは、しばらくは風呂には入れない。のぼせて再出血でもしたら目が当てられない。
「でも、そう言えば、出会った頃はそれが普通だったんだわ」
「そうなの?」
「うん、そうよ。だってランタン、いつも怪我してたもの。ちゃんと治る前にうーうー言いながら入ってたけど、帰ってきてすぐには――」
リリオンの横顔にミシャはちらりと視線をやった。
じゃぶじゃぶと顔を洗って、あたりを埋め尽くす湯気をぼんやり見つめている。ミシャもつられて視線を投げ出した。
「たしかにそうだったね。いつも傷だらけで。そうか、リリオンちゃんと出会ってから怪我は減ったわ」
ぞっとするような怪我を負って帰ってくるランタンの姿は、しばらく見ていない。
痛みも苦しみも、何もかもを一人で背負っていた単独探索者のランタンはもう、ずいぶんと前に姿を消したのだ。
「ありがとう、ランタンくんを助けてくれて」
リリオンはびっくりしたように肩を震わせて、それからあらためて誇らしげに頷いた。
「でもミシャさんもランタンを変えたのよ」
「そうかしら?」
「だってミシャさんと出会う前のランタンは、誰も知らないでしょ。ミシャさんが知ってるのは、ミシャさんと知り合って変わったランタンなんだもの」
なるほどそういう考えもあるのか、とミシャは俯いた。
くすぐったい気持ちになったかと思えば、急に目の奥がじんと熱くなった。あわてて湯を掬って顔を洗う。
「なんで……」
揺れる湯面に反射した自分の顔に呟きかけ、ミシャは顔を上げた。
「ねえミシャさん、ランタンのお話して」
「ランタンくんの?」
「うん、わたしの知らないランタンのお話」
リリオンがそんなことを言うと、レティシアやルーが鰐のように音もなく忍び寄ってくる。
「私も聞きたいな」
「わたくしにもぜひ」
離れたところで一人、タオルで目を覆っているリリララが聞き耳を立て、ローサは石鹸でしゃぼん玉を作るのに必死になっており、ガーランドは湯船の縁に身を預けて目を瞑っている。
「でも、ルーさんは知っているんじゃないですか?」
「わたくしは遠目に見ていただけですから。当時のランタンさまは、ねえ」
ミシャとルーだけが思わず笑った。
ねえ、の二音に集約されたランタンの姿は、今の姿からは想像もつかない。
「なになに、教えて」
「当時のランタンくんは、まずぜんぜん笑わなかったのよ。いつも怯えているみたいな、拗ねてるみたいな顔をして、喋る時だってぼそぼそ喋って、冗談なんか絶対に言わなかったな。大人しいって言うか、もう暗い男の子だった。迷宮特区で他の探索者さんに話しかけられると黙って俯いて、それが叱られてるみたいに見えて私、何度か助けてあげたのよ。――何か用事ですかって」
「へー!」
目を丸くするリリオンとは対照的にルーが懐かしそうにした。
迷宮特区だけでなく、探索者ギルドでも見られた光景なのだろう。
ランタンが単独探索者だと知られたのにきっかけがあったわけではない。
どこからともなく噂が立ち、次第に事実だと知れ渡っていった。
話しかける探索者は心配と、好奇心と、からかいがそれぞれ等分だったが、噂が広まるほどにからかいが増え、事実だとわかるほどに好奇心が増えていったように思う。
ミシャもよく、ランタンってのはどんな奴なんだ、だと尋ねられた。
「なんて答えたんだ?」
「それは、えーっとなんでしたっけ?」
レティシアがずいと顔を近付ける。ミシャは目を逸らし、言葉を濁した。
たしか当時もこうやって言葉を濁したように思う。いや、正直に答えて、しかし信じてもらえなかったから、曖昧に答えるようにした。
ランタンをたった一人で迷宮に送り出した張本人なのだから彼が単独探索者であることは、そして迷宮から引き上げた張本人として迷宮の単独攻略者であることは他の誰よりも知っていた。
だが、だからこそ人の口に語られる強い探索者の姿と、傷ついて戻ってくるランタンの姿に乖離を感じていた。
ランタンは矛盾した存在だった。弱い人間に迷宮の単独攻略は不可能だ。しかし地上のランタンははっきりと弱者だった。
「ルーさんはどうでした? ルーさんの目から見たランタンくんは」
「冗談だと、そう思いましたよ。あんな子供が迷宮を一人で攻略するなんてひどい吹かしだと。わたくしだけじゃなく、誰も信じていなかったと思います」
「それはそうだろう。私だって実際に目にした時はさすがにな」
レティシアが懐かしげに頷いた。
彼女がランタンを訪ねたのは占いで、ランタンが失った兄と再会するために必要な要素だと言われたからだ。
迷宮への同行を頼んだが実力は二の次で、幸運のお守りぐらいにしか思っていなかった。
「それが、もしかして、となったのは、ほらランタンさま探索者ギルドで喧嘩をなさったでしょう?」
「それ、私は知らないです」
「あら、そうなんですか? わたくしも直接、目にしたわけではありませんが、ずいぶんな噂になったんですよ。相手は四人で、ランタンさまはお一人」
「ランタンが勝ったの?」
「もちろん! それであれは本物だって。勝った喧嘩ですのに自慢なさらなかったんですね」
一番近くにいたつもりでも、知らないことがある。ミシャは自分の知らないランタンを想像した。それはいつも迷宮のランタンだったが、迷宮ではないところにも知らないランタンはいた。
「ランタンが喧嘩してるところ、わたし見たことない」
「リリオンさまが出会われた頃には、もう喧嘩が成り立つような存在ではありませんでしたから。命知らずが絡んでいって一蹴されるのは、あの頃はまだよく見ましたけれど」
「それは知ってるわ。一緒に歩いてたらよく変な人に声かけらたもの。――よお、金出しなって」
低い声を作ったリリオンに、ミシャは噴きだした。その時に脅してきた男たちよりよほど強いはずなのに、まったく迫力がない。
「それはなんとも命知らずというか、間抜けな話だな。ランタンとリリオンを相手にか」
「だってその時のランタンはまだ小っちゃくて可愛かったんだもの」
「あ、ランタンくんが聞いたらきっと怒るわよ」
「ないしょね」
リリオンは唇に指を当てる。
「そもそもランタンくんだけじゃないでしょ。リリオンちゃんだって、もっと細くて、ちょっと猫背だったよ」
「えー、うそ!」
「ほんとよ。ああ、あの時は小っちゃくて可愛かったな。もっとお行儀もよくて、わたしに挨拶してくれた時、緊張してたよね」
ミシャの言葉にリリオンは恥ずかしげに頬を押さえてそっぽを向いた。そのまま鼻先まで沈み、ぶくぶくと湯面に泡を立てる。
「おぼえてないわ」
リリオンはランタンみたいに惚けてみせるが、ランタンほど小憎らしくはない。
ランタンがリリオンと出会って変わったように、リリオンもランタンと出会って変わった。行儀のよかったリリオンは、どんどんランタンに似て物騒なことを言うようになり、それを叱ったような記憶がある。
リリオンはなんと言ったんだったか。
「うう、やめて。思い出さなくていいわ」
拗ねるリリオンが愛らしく、ミシャは意地悪な気持ちになってわざとらしくうんうん唸ってみせた。
「どっちもどっちだな」
レティシアが呆れたように言い、ルーが微笑んだ。
ミシャはリリオンと同じように湯に沈んだ。
しゃぼん玉遊びに飽きたローサがやってきて、湯の中で毛に覆われたその巨体を洗ってやった。
ローサは大あくびをする。
もうあがる、とそのひと言が合図になった。
探索の汗を流す程度の予定だったが、思いがけず長風呂になってしまっていた。
風呂から上がり寝室へ向かう。
「おにーちゃん! ……もうねちゃった?」
ベッドの上に、たいした膨らみも作らない布団の盛り上がりがある。
ローサは慌てて口を押さえ、虎の足取りで忍び寄った。そっと布団を捲り、リリオンとミシャも身を乗り出して覗き込む。
「寝てるね」
「ローサ、静かにするのよ」
「うん、ローサしずかにするよ」
ランタンはすうすうと寝息を立てていた。
着替えはしているが、身体は濡らしたタオルで拭っただけだろう。ベッドの周りには探索服が脱ぎ散らかしてある。ミシャはそれを拾って、片隅に寄せる。
リリオンが黒髪に触れると、枕に砂粒のようなものが散らばった。それは乾いた血の欠片だった。包帯は巻きっぱなしで取り替えてはいないようだ。
ローサがすっとベッドに上がり、ランタンの顔を覗き込む。枕元でとぐろを巻くように身体を丸めた。目を閉じると、すぐに寝息を立て始める。
リリオンとミシャはランタンの左右に並んだ。
「まだ迷宮の匂いがするね」
「うん、そうね」
二人して顔を近付け、すんすんと鼻を鳴らす。ランタンは起きる気配がない。そっと触ったり、耳に息を吹きかけたりしても、小さく呻くぐらいしか反応がない。
「よく寝てるわ。よっぽど疲れたのね」
「だってランタン、すごく頑張ったんだもの」
「うん」
「ミシャさんにいいところ見せたくて、張り切ってたのよ」
ランタンを挟んで向こう側で、リリオンがそっと口元を隠した。
「気づいてなかったの? わたしが言ったって、ランタンには内緒ね。恥ずかしがるから」
目を丸くしたミシャとは対照的に、リリオンはすっと瞼を閉じた。ランタンの肩に額を預けて、もう話しかけても口を利いてくれそうにない。
頬が熱い。
ミシャは控えめにランタンに寄り添い、目を瞑った。
疲れているのに、しばらく寝付けなかった。
その夜、やけに色のない迷宮の夢を見た。




