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ミシャが鰻を土産に帰ってきた。
何事かと聞けば、迷宮帰りの探索者から貰ったという。
どうやら結婚祝いであるらしい。
正確に言えば、それは迷宮で捕らえた鰻のような魔物である。厚手の麻袋に生け捕りにされており、帰ってきた時もまだ元気いっぱいに動いていた。
下手に指でも出せば骨ごといかれるが、それは魔物でなくても同じことだ。魔物であってもそれほど怖れることはない。
リリオンがさばいて夕食になった。
頭を落として腹を開き、串に打って炭火で火を通す。魚醤に砂糖と酒を加えたたれに絡めて蒲焼きにしてくれた。
焦げた皮目は香ばしく、身はふっくらとしてよく脂が乗っている。肝もそのたれで甘辛く味付けて、ほろ苦さは大人の味だった。
魔物かそうでないかというだけで、鰻とまったく遜色ない。
だがやはり魔物である。
それは鰻そのものが持つ滋養強壮作用よりよほどに濃く、夜も深くなるほどに目は冴えた。
その夜、ランタンとミシャは肌を重ねた。
一段落ついて、それでもまだ身体の芯が火照っている。
「ここ、冷たくて気持ちいい」
蒸し暑い日に日陰を見つけたように、ランタンはミシャの鱗に顔を寄せた。
ミシャは蛇人族だから鱗が生えている。それは身体の所々に、継ぎ接ぎしたように散在していた。その中でも豊かな胸を支えるように生えた鱗は、鳩尾の辺りから肋骨沿いに広範囲に広がっている。
耳を押しつけると鱗を透かしてとくとくと心音が聞こえた。
そうしているランタンの汗に濡れた髪に、ミシャは繰り返し指を通した。
「ミシャ、……今の生活にはもう慣れた?」
「うん。うーん、そうね。どうかしら」
ミシャは曖昧に答えるが、否定ではなかった。
「びっくりすることも、やっぱりまだあるよ。夕飯に急に魔物が出てきたり」
「貰ってきたのはミシャだろう」
「んふふ、そうなんだけどね」
ミシャの身体をよじ登るように、ランタンは枕に頭を並べる。丸い目と見つめ合い、汗ばんだ頬を撫で、前髪を後ろへ払った。丸い額が愛しい。
ミシャは背中に手を回して、肌を寄せる。
汗に濡れた肌は少しぬるぬるして、互いにぴったりと吸い付くようだった。
「どうして裸になって抱き合うだけで、こんなに気持ちがいいのかしら?」
「女の子も?」
「どういうこと?」
「女の子もそうなんだ。だってミシャは柔らかくて、すべすべして、だから僕は触って気持ちがいいけど、――でも僕はそんなに柔らかくないし、男を触っても気持ちがいいとは思わないよ。だから僕だけが得してるのかと思った」
ランタンは何を想像したのか、さも不愉快そうに眉根を寄せる。
ベリレと組み手をして寝技をかけられたことを思いだしたのか、それとも敵と殴り合いでもしたことを思い出したのか。
手に蘇った感触を掻き消すように、ミシャの柔らかいところを指いっぱいに堪能する。
ミシャはくすぐったそうに頬を緩めた。
「そう? ランタンくんだって柔らかいところは沢山あるでしょう。こことか、ここも。あ、ここもそうね」
ミシャはそう言って二の腕や脇腹を抓む。
たっぷりと抓めるほどの贅肉はついていないが、それでも頼りない脂肪の柔らかさだった。
ランタンは不服そうに身体に力を込める。
すると途端にその柔らかさが失せて、探索者の硬質な肉体が露わになった。
薄皮一枚下にあった脂肪が押し退けられ、迫り上がった筋肉が抓む指先を弾く。
「あら、それはずるいんじゃない?」
「ずるくないよ。僕の身体だもん」
筋肉の形が浮き上がった二の腕をミシャは撫でる。たしかに自分が力を込めても、こうはならない。
ランタン愛用の戦鎚をミシャも持たせて貰ったことがある。ずしりと重く、驚いたものだ。あれを枯れ枝のように振り回すのだから、か弱いはずがない。丸く盛り上がった二頭筋は鋼のようだ。
「硬いとか柔らかいとか、関係ないのよ。もしかしたら男とか、女とかも」
ミシャはそれに触れながら言った。
蓼食う虫も好き好き。あばたもえくぼの例えの通り結局、好意を持ってしまえば、それがどのようなものであろうとも関係なく好ましく思えるのだろう。
「ランタンくんは、私がぜんぜん違う姿になっちゃったら私のこと嫌いになる?」
「ならない。絶対にならないよ」
「うれしい」
ランタンの身体が硬さを失った。
鋼のようだった二頭筋が柔らかくなり、抓んだ指の跡が赤くうっすらと浮かび上がった。
ランタンには二面性がある。
自分の全てを預けてしまいたくなるよう頼もしさを感じるときもあれば、どうしようもなく母性をくすぐられるほど儚く見えるときもある。
けれどそれはどちらともランタンの本質に違いなかったし、そのどちらもミシャは愛している。
ランタンの一番柔らかいところはきっと心なのだろう。
「かたくても、やわらかくても、どっちも好きよ」
「……それ、わざと?」
含みを持たせたミシャに聞き返すが、ミシャは意味深に微笑むばかりだ。
ランタンは身体に尋ねるようにミシャを弄って、覆い被さった。ミシャはそれを受け入れる。指を絡めて手を繋いで、二人で一つになって呼吸を合わせる。
ランタンの舌がミシャの上顎をくすぐった。そこに隠された鋭い牙が痙攣し、毒液が滲んだ。舌先はいつも優しい。毒牙があることを隠してきたミシャに、それがあることの意味を教えるようだった。
唾液と混じって、毒がミシャの舌に溢れる。それは甘みを感じさせる。
ランタンの身体は再び硬く、熱くなっている。
ランタンには人を温める力がある、とミシャは思う。
そしてそれは日溜まりのようにただ温めるだけでなく、焚きつけるような熱量を持っている。
ミシャの中に熱が溢れる。
「ミシャ、この前、言ったことを考えてくれた?」
見上げるミシャは胸を大きく上下させる。
ランタンの腕を引いて、胸に抱きしめ、その重さをたっぷりと感じる。
ランタンはまだ自分の中にいる。硬いままで、快楽の余韻に押し引きを繰り返している。じっとしていられない子供のようだ。
ミシャは迷宮探索に誘われた。
最初は戸惑ったが、理由を聞けばなるほどと思う。家族の中でミシャだけが唯一、迷宮でのランタンを知らない。
そして知らないことは恐ろしい。
客である全ての探索者に対して、ミシャは未帰還の恐怖を抱いている。
そこに優劣をつけたくないが、やはりランタンは特別だった。
特別だからこそ、想像は際限なく膨らんでゆく。
地上で待っている時、想像する迷宮は地獄に等しい。
過酷で、残酷で、容赦などまるでない。
家族の一員としてだけでなく、引き上げ屋としても、迷宮を知ることはいいことかもしれない。
だがランタンを繋ぎ止める重さを、ミシャは考えずにはいられない。
母であるアーニェから言われたことを。
引き上げ屋の女は重い、重い、待つ女でなければならない。でなければ自らの命を軽んじる探索者を繋ぎ止めることはできない。
しかしランタンからの誘いについて相談をしたのはリリオンやレティシアであって、アーニェには相談をしなかった。
その理由はなんだろうか。
余計な心配をかけないためか、それとも引き止められると思ったからか、いや、自分がもう家を出たのだという自覚からだろうか。
きっと迷宮に行ってしまう自分を確信しているからだった。
リリオンたちも迷宮に行くことには賛成だった。
ミシャは知りたい。もっとランタンのことを、深く知りたいと思っている。
「ずっと考えてるよ」
ミシャはランタンを抱きしめたまま、その耳元に答える。
「ランタンくんのことばかり私、考えてるの。知ってる?」
ランタンはなぜ、こんなにも熱いのか。
炎を抱きしめているようだと、ミシャは思う。
引き上げ屋は探索者が向かう迷宮の情報をあらかじめ調べておく。
すべての引き上げ屋がそうではないが、少なくともミシャはそうしている。
だがその情報もすべては資料によるものだ。実体験はほとんどない。
だからリリオンたちに混じって、ランタンの口から迷宮情報を説明されると、それはひどく生々しいもののように思えた。想像でしなかったものの輪郭がはっきりする。
迷宮探索のその日が待ち遠しいような、恐ろしいような。
「大丈夫だよ、怖いことなんてないよ」
迷宮への降下を前に、ミシャは緊張を隠すように深呼吸を繰り返す。
ランタンが悪戯するように脇腹をくすぐったが、少しもくすぐったくなかった。
「それとも、やっぱりやめる?」
ランタンの提案に、ミシャは即答できなかった。
迷宮が身近にあるティルナバンに暮らし、引き上げ屋となり、探索者の伴侶となっても、やはり迷宮への恐怖は拭えない。
気遣わしげなランタンの表情に、ミシャは無理して笑みを浮かべる。それは今、見せられるせめてもの意地だった。
「行くわ」
決心してそう宣言すると、ランタンは頷いた。
ミシャは自分の胸をさする。着ている探索装束はランタンのものだ。胸のところがかなり苦しいが、なんとなく安心感もある。
「お、びびってるな。大丈夫だって」
リリララが無遠慮に背中を叩いた。
安全を期して迷宮口からは距離を取っているのに、落っこちるんじゃないかと思って腰が引ける。そんなミシャをリリララはさらに笑い飛ばした。
「安心なさってください、ミシャさま。これだけの戦力ですもの、どのような魔物もミシャさまに触れることはかないませんわ」
そんなミシャの腰を支え、ルーが肩を揉みほぐした。
「そうよ、ミシャさん。そんなに難しい迷宮じゃないし、みんないるわ」
リリオンが笑いかけ、手を握った。リリオンの手の温かさが、自分の手の冷たさを気づかせる。
「そうだな。私の初探索よりもよっぽど戦力が充実してるんじゃないか? これでも私は箱入りなのだが」
レティシアが妹にするように頭を撫でた。
子供扱いも甚だしかったが、今のミシャはそれを恥ずかしがることもできない。ただありがたかった。
「ローサからはなれたらダメだからね。ゆーれーがきっとまもってくれるよ」
ローサが屈託なく自慢するように告げ、ミシャの周囲をぐるぐると回った。ガーランドは迷宮口の縁に立ち、底を覗き込んでいる。
探索者以外が迷宮へ行くことはそう珍しくない。
探索、攻略などはもっての外だが、迷宮資源の採掘、採集するためには戦闘能力よりもまず人の数が多い方がいい。
そのために探索者を雇うのでは金がかかりすぎるので、大抵は日雇いの人足が用いられる。
その仕事はもちろん安全ではない。基本的に魔物は討伐されているが、再出現の可能性もゼロではない。
貴族などが物見遊山的に迷宮探索に同行することもある。その時には腕の立つ探索者が雇われる。その際、雇用費をケチることは少ない。金額と実力は比例するものだ。
今回のミシャはそれに近い立場だった。
そして同行の探索者はランタン、リリオン、レティシア、リリララ、ルー、ローサ、ガーランドという一大戦力だった。貴族でさえこれほどの戦力は集められないだろう。
「今日のミシャはお姫さまだからね」
ランタンは恥ずかしげもなくそういうことを言う。
「どういうこと?」
足手まといという意味だろうか。
ミシャが困惑するとランタンはわざわざ跪いて、手の甲にキスをした。
「一緒にいてくれるだけで嬉しいってこと」
ミシャは顔を赤らめる。
自分たちを迷宮に送ってくれるのは、ミシャが知り合いの引き上げ屋だった。
姉御肌の年上の女性で、すでに起重機の座席に着いている。
面白がるような、冷やかすような視線に耐えられずミシャは彼女から背を向ける。きっと迷宮から戻ってくる頃には、引き上げ屋仲間たちの間で噂になっているだろう。
しかたがない。
家族を迷宮へ送る苦しさを知っているから、アーニェにはとても頼めなかった。それどころかミシャは今日のことをアーニェに内緒にしている。
「よおし、じゃあ準備はすんでるね。時間はちょっと早いけど、まあいいだろう。さあさあランタンさまご一行を迷宮送りにするよ」
啖呵を切るように威勢よく引き上げ屋が呼びかける。
探索者の気持ちを鼓舞する名調子だ。
こちらの立場になって、ミシャは引き上げ屋の声の力をあらためて実感した。
明るい声はそれだけで勇気づけられる。
「ミシャよりは下手っぴかもしれないけど、それはご愛敬ってことでご容赦願います。それじゃあ、行ってらっしゃいませ」
巻き上げ機が回転を始め、ロープが伸ばされる。
がくん、と一つ揺れる。
自分たちが下がると言うよりは、地面が迫り上がるような感覚があった。
籠の中では探索者たちが周りを囲み、ミシャはランタンの腕にしがみついて空を見上げる。青空がどんどんと遠く、狭くなっていく。
迷宮は初めてではない。大物の迷宮資源を引き上げる時、アーニェが操縦して、ミシャが荷崩れせぬように資源にロープを掛けることもある。その時は迷宮に降り立つ。
だがそれは迷宮探索ではない。
先程もらったばかりの勇気が、見る間に萎んでいくのがわかった。
「ミシャ、口開けて。あーん」
ランタンが急に言った。
迷宮ではランタンに絶対服従だ。
疑うこと知らない子供のように口を開けた。舌の上に粒状のものを乗せられた。ミシャはまだ口を開けたままにしている。
「閉じていいよ。でも、まだ噛まないで。迷宮に辿り着いたら噛み潰して」
ミシャは口を閉じて、舌の上の粒を奥歯の方へ転がした。なぜだが周りのみんなが笑ったような気がした。なにか作法を間違えただろうか、と不安になる。
足元から白く、魔精の霧に飲み込まれていく。
抱きついたランタンの顔さえ見えない白い霧は、ミシャをより不安にさせた。それを察してかランタンが抱き寄せてくれる。
「ローサ、歩くな。揺れてミシャが怖がる」
「はーい」
「ミシャさん大丈夫?」
「んー。んー」
リリオンが気を使ってくれるが、口を閉じているので返事ができない。
「大丈夫だって」
ランタンが代弁してくれた。
ランタンの身体や体温、気負うことのないいつもの声がミシャの不安を薄めてくれる。
顔を押しつけるといい匂いがする。戦いのための服装から、石鹸の香りがするのが奇妙に思えた。
「そろそろ抜けるよ。大丈夫。怖いことなんてないよ」
ひそひそ声でランタンが告げる。
自分が操縦している時は、どの位置にどれだけの範囲で霧があるかを見ずともわかるが、こちら側だとまったくわからない。
ここから迷宮の本番だと思うと、しがみつく腕に力がこもる。
冷静になろうと、迷宮情報を反芻する。
閉鎖型、中難易度、小迷宮。出現する魔物傾向は不死系。
不死系迷宮はそもそも発生が珍しく、人気もあまりない。
不死系の魔物は物理攻撃が無効化されることもあるし、相手の攻撃に嫌らしい副次効果がついていることもある。いわゆる精神攻撃だ。
どうしてあえて不死系迷宮を選んだのだろうと思うが、きっとランタンなりに理由があるのだろう。
「ほら、もうすぐ、もうすぐ」
ランタンの言う通りに霧が薄くなり、すぐに視界が開けた。
不思議な感覚だった。
閉鎖型迷宮なのに空は広く、黄昏に染まっている。
黄金のようにも、燃えるようにも見える。光の色が複雑に溶け合って、たなびく雲に陰影を浮かび上がらせている。
「わあ、綺麗な迷宮ね」
リリオンが歓声を上げる。ローサが身を乗り出すように端によって籠が傾きかける。引き上げ屋がロープを操作し、水平を保つ。
「なかなか雰囲気があるな」
空は黄昏、左右に立ち並ぶ石柱や敷き詰められた石畳は大理石のように白い。所々で石柱は折れ、石畳は剥がれたり浮いたりしているが遠目にもわかる。
いつかに滅びた遺跡のようだった。
「ここには朝も夜も来ないよ」
探索者たちを乗せる籠が迷宮の地面を踏んだ。
がたん、と揺れてロープが僅かに緩む。
みんなが先に降りて、最後にミシャがランタンに手を引かれる。
あれほど開放的に見えた迷宮が、なるほど閉鎖型迷宮であると思い知らされるほどの息苦しさを感じた。
石畳の道は広いが、左右の石柱は太く、高く、威圧感がある。隙間無く並んで、迷宮を一直線に切り取っている。
進むべき方向に黄昏の源泉があり、迷宮の果ては山吹色の光の中に隠されている。
ミシャは感動か、それとも恐怖か、湧き上がる感情に圧倒される。
世界が揺れた気がした。
いや、確かに揺れている。
鼓動が早くなり、背筋に寒気。
ぐるりと視界が回った。
助けを求めてランタンに視線を向ける。伸ばした手を掴んでくれる。
「ミシャ、噛んで」
手本を見せるようにランタンは奥歯を噛み鳴らす。
ミシャは思いっきり奥歯で粒を噛み潰した。
その瞬間に、これが魔精酔いだと思い出した。探索者でなくとも、引き上げ屋ならみんな知っている。
だから迷宮へ降ろしたあと、すぐにロープを巻き上げてはいけない。
奥歯のこれは気付け薬だ。
物凄い味がした。
「あー!」
感動も恐怖も、魔精酔いさえすっ飛んでいった。
ミシャは腹の底から悲鳴を上げた。
知っているはずだったのに、説明も受けていたのに、この時まで思い出すこともできなかった。
ランタンが膝を叩いて笑う。
「迷宮へようこそ」
リリオンも受けた迷宮探索の洗礼だった。




