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朝一番にミシャと顔を合わせて、ランタンは傍目にわかるほど頬を綻ばせた。
「どうしたの?」
嬉しそうなその顔を見るだけで、ミシャも嬉しくなる。
理由を尋ねるとランタンは眠気の残った目をことさら細める。
「朝起きて、すぐにミシャの顔が見れて嬉しいんだ」
恥ずかしがり屋のくせに、ランタンは時折ひどく素直に言葉を発する。
ミシャは嬉しさよりも驚きに言葉を失い、身体が急に火照るのを感じた。恥ずかしさが湧いたのはそれからだった。
「もう、なに言うのよ」
思わず目を向けてもう一度、もう、と溜め息のようなひと言。
ランタンが背中を押した。ミシャは歩き出す。そんなミシャに、ありがとう、とランタンは言った。
寝ぼけているのか、酔っ払っているのか。
そんな風に思うのは照れ隠しに過ぎない。
もしかしたら恥ずかしがらせようとしているのかもしれない。それが照れ隠しの思考だとわかっていても、ミシャはそう思うことでどうにか心を落ち着けようとする。
いつもの朝と同じように陶馬ガランに相乗りして、仕事場へ運んでもらった。
「私も、ランタンくんと一緒になれて嬉しいわ」
別れ際にそれだけをやっと伝えて、ランタンと別れる。
馬首を返したランタンがかっぽかっぽと去っていく。
ガランのその足取りがスキップしているように見えた。
館に戻ったランタンはいつものように朝を過ごす。
朝食を摂ってレティシアとリリララを見送り、残された女たちが家事に精を出している間にランタンは攻略する迷宮の選定を進めた。
冬が終わる前にあと一つぐらいは迷宮を攻略したい。
家族は増えても収入面に不安はない。
探索者の稼ぎの他に、商工ギルドのエーリカに預けてある資金の運用もそれなりに上手く行っている。素人があれこれ口出しせずに、任せっぱなしにしているのが功を奏しているのかも知れない。
それなのに迷宮探索を望むのは、ランタンが探索者であるからという以外に理由はない。
冬ももうすぐ終わる。そうなると攻略するべき迷宮は小迷宮で、閉鎖型が望ましい。高位探索者が低難易度迷宮を探索するのは面子にかかわるので、難易度は中か高難易度。出現する魔物の傾向はどれがいいだろうか。
「いや、でも低難易度にするか」
ランタンは思わず独り言ちた。
一瞬、ミシャを迷宮に誘ってしまおうかと思ったのは、戦っている自分の姿を見せたいからだった。
ミシャは迷宮のランタンを知らない。この間の負傷で最も心配をしたのはミシャかもしれない。
ランタンが戦いの中でどれほど強く、いつもそしてどれほど傷ついているのかを目にしたことがないからだ。ミシャが知るのは結果だけだ。
戦っている姿を見せたら、ミシャの心配は減るだろうか。
それとも増えるだろうか。
ランタンは尖らせた唇と鼻の間にペンを挟んで、うんうんと唸った。
ランタンがそうしているとローサがやってきた。耳を出す穴の開いたほっかむりをして、手には箒とちりとりを持っている。
「おにーちゃん、おそうじするよ」
「うん」
箒をぐるぐると回す。長い柄さえついていれば、槍も箒も区別はなかった。部屋の隅から床を掃いて、ローサが近付くとランタンは椅子に座ったまま胡座を掻いて足を浮かせる。
「なにみてるの?」
「んー、迷宮の情報」
文字しかない資料を一瞥し、ローサはふうんと鼻を鳴らした。
「ローサは寒い迷宮と暖かい迷宮ならどっちがいい?」
「あったかいほう」
「なるほどね」
「つぎのめいきゅうはあったかい?」
「たぶんね」
「ローサもつれてってくれる?」
「いいよ」
「やったー!」
ローサは調子に乗ってぐるんぐるんと箒を回転させた。腰だめにびしっと構えて、箒の先をランタンの方へと向ける。
「ちゃんと掃除したらな」
ランタンがそう告げると、いけないいけない、とローサは掃き掃除に戻った。箒の柄を短く持って窮屈そうにちりとりで埃を集めると、ちゃんとそうじしたからね、と宣言をして部屋を出て行った。
「――あったかい迷宮はあったかな?」
ランタンは気温の低い迷宮の資料を避けて、残ったものを並べた。
「あったかい、あったかい。――砂漠は暑すぎるな。海はこの前行ったし。大迷宮は暖かくてもなし」
ランタンがぶつぶつ言いながら迷宮を選択していると、今度はリリオンが顔を覗かせた。
「ランタン一人?」
「一人だよ。なんで?」
「だってぶつぶつ聞こえたから、誰かとおしゃべりしているのかと思ったの」
「透明になったガーランドはいないよ」
「じゃあ一人でおしゃべりしてたのね」
「独り言って言ってよ。一人でおしゃべりじゃ、頭がおかしいみたいだ」
リリオンは部屋に入ってきて、ローサと同じように資料を覗き込んだ。
「次の迷宮、どこに行くかもう決めた?」
「まだ。行きたいところある?」
「ランタンが行きたいところがわたしの行きたいところよ」
リリオンが後ろから腕を回し、ランタンに頬ずりをした。さらさらした肌触りがくすぐったく、髪からは少女の甘い香りがした。
「――ミシャを、誘おうかと思うんだ」
「ミシャさん? 迷宮に?」
ランタンが言うと、リリオンは不思議そうに聞き返した。
「どうして?」
「僕が迷宮でどんな風に戦ってるか知ってたほうが安心するかなって」
「うーん、そうねえ」
リリオンはランタンの胸の前で腕を組み、悩ましげな声を上げる。
「わたし、一人でランタンを待ってる時はいつも心配してたわ」
「そうか」
「うん。でもママを待ってる時も心配だった」
「……」
「どっちでも同じくらいよ。でも、ランタンが見て欲しいのなら、誘ってみればいいわ」
「僕が誘うと、ミシャは来ちゃうよ」
「来ちゃうの?」
「だってみんな優しいもん。リリオンもレティも、ミシャもリリララもルーも、みんな僕の願いを叶えてくれる」
どこか拗ねるような口調のランタンに、リリオンはんふふと鼻の奥を揺らして笑う。
「そうね。ランタンにお願いされたら、なんでもしてあげちゃうわ」
困ったな、と言うようにランタンは目を瞑った。
「わたしが代わりに言ってあげようか?」
甘やかすようにリリオンが告げると、ランタンはしばらく答えなかった。迷っているのかもしれない。リリオンは頬をくっつけながら、その無言の時間を堪能する。
「……いい。自分で誘う」
「うん、そうね。それがいいわ」
リリオンは抱擁を解き、背伸びするみたいに身体を起こした。
それからわざとらしく、あ、そうだ、と呟いた。
「どうかした?」
「――ん、これ」
「どれ?」
「これみて」
リリオンはスカートのポケットをごそごそ探ると、何かを握って取りだした。
「なに?」
ランタンは怪訝そうな顔をして、それに視線を向ける。
珍しい昆虫でも捕まえたみたいにリリオンは握り拳を作っている。ちょっと指を緩めるだけで、ランタンは椅子に座ったまま覗き込むみたいに視線を上げる。
背筋を伸ばして、顎を持ち上げ、白い首筋に青い静脈が色濃く浮き出る。
よほど大事なものを隠しているのか、もどかしいほど僅かにしか指を緩めない。
目を凝らし、眉根がよると唇が尖る。
リリオンは取り上げるように手を上げて、開けたランタンの視界に少女の顔がいっぱいに広がった。
ちゅ、と音を立ててリリオンは唇をついばんだ。
「えーへへ」
リリオンは変な笑い声を上げて、ぱたぱた走って扉まで下がった。
「わたし、素直なランタン好きよ」
そう言って手を開き、なにも握っていないことを見せつけるようにひらひらと振って部屋を出て行った。
ランタンは椅子に深く腰掛け、奪われた唇を指で触れる。
ローサに誘われて時折、孤児院を訪れる。
もう顔なじみになった年長組はほとんどいない。働き口を見つけて自立していた。
少女の中には修道女となったり、いい人を見つけて嫁いだりしたものもいる。少年たちは商人や職人の見習いとしてティルナバンに残ったり、行商人に弟子入りして旅立ったりしたものと様々だ。
もちろん探索者になった子たちもいて、もうすでに行方が知れない子もいるのが現実だった。
「みんな、しっかりしてるよな」
ランタンがそんなことを言うと、年長になったかつての少年たちが胡乱げな視線を向ける。
彼らにとってランタンは不思議な存在だった。
頼りになる兄貴分と言えばよく顔を出してくれるベリレのことで、ランタンは何となく軽薄な感じがする。
きっといつも女連れだったからだ。
女受けのいいランタンは、彼らにとって嫉妬の対象だった。
ランタンのそばで屈託なく笑うリリオンに淡い恋心を抱いていた少年も中にはいる。リリオンだけではない。ランタンが孤児院を訪れれば少女たちはその話題で盛り上がる。
女と遊ぶやつは女になるぞ、なんて妙な連帯意識を持っていた少年たちも、しかし思春期になればその呪いに苦しむのだった。ランタンがきゃあきゃあ言われるのは腹立たしい。
「そりゃ、もう世話してくれる兄貴たちはいないんだし、しっかりもするよ」
「いいことだな。んで、お前ら仕事は?」
「今日は休み」
「なんの仕事してるんだ?」
ランタンが尋ねると、色々と答えが返ってくるが要は雑用だった。
孤児院に併設された探索者の宿泊施設はいつも大入りで、職人ギルドや商人ギルドが店を出している。彼らはそこで小遣い稼ぎをしながら、技術を身に付け、また自身を売り込んでいる。
「ランタン、さんは?」
かつては呼び捨てにしていた彼らも、大人になって礼儀を身に付けたようだった。宿泊施設で探索者たち相手に仕事をしているので、それなりにランタンの評判も知っているのだろう。
「僕が探索者やってるの、知らない?」
「いや、知ってるよ。馬鹿にするな。わざわざ来て、俺らとおしゃべりなんてあんたらしくないじゃん」
一番大人っぽい少年が、しかしまだ子供らしく鼻を擦りながら言う。
「赤ん坊苦手なんだよ」
ランタンは苦々しい表情になった。
孤児院では赤子を預かっている。
それはいわゆる捨て子であり、また一時的な預かり子だった。
例えば預かっている赤子の中には、宿泊施設が併設されていることもあり、探索者の子が少なからずいた。
いくら向こう見ずな探索者でも、我が子を抱きながら迷宮探索などはできるはずもない。できたとしてもすることはない。それが親の愛情だった。
ローサは孤児院に訪れると、親友であるクロエとフルームと一緒に、そういった子の世話をするのが常だった。リリオンも赤子の相手をするのは苦にならないようで、天井に届きそうな高い高いは泣く子も黙る必殺技だった。
「へえ、意外だ」
「得意そうか?」
「得意そう。だってあんた、女の子たちとよろしくやってるじゃんか」
「赤ん坊に男も女もないだろ」
「ひっでー言い方」
「じゃあお前らはどうなんだよ。世話してるか?」
「しねーよ、面倒くせえ。赤ん坊の世話は女の子の役目だろ」
ランタンは何も言わず肩を竦めた。
しかたのない考え方だったし、それは子育てへの無関心を意味しなかった。女は子の世話をし、男は外で働く。そうでもしなければ生活は成り立たない。もう少し世界が平和で豊かならば選択肢も多いのだろうが。
なんだか物憂げなランタンに、少年はまさかと思う。
「子供、できたのか?」
「いや」
首を横に振るとどうしてかほっとする。そして舌打ちを付け加えた。
「いちいち意味深なんだよ。紛らわしい」
「さっきちょっと相手したんだよ。すぐ泣くし、漏らすし、なんでもかんでも涎塗れにするし、すぐ物凄く泣き喚くし。意味不明すぎる。そのへんの石ころの方が無口な分だけ相手にしやすい」
一時間もその場にいられなかった。面倒くささよりも、恐ろしさにランタンは逃げだしてきた。抱っこしてやっても、落っことしたらどうしようかとそんなことばかり思う。何故、泣いているのかと心配しても、彼らは答えてくれない。
「こう、手に取ったらぐしゃってなりそうで怖い」
「いくら赤ん坊でも握りつぶせはしないだろ。自信過剰だよ。――なんだ」
ランタンが手招きをすると、少年は素直に顔を近付ける。ランタンはさして大きくない手を目一杯に広げ、そばかすの浮く顔を鷲掴みにした。
力を込める
「あーっ、あーっ、割れるっ、割れるって!」
少年の頭蓋骨がきしきしと軋む。
ぱっと手を離してやると、少年は椅子から落っこちるように身を引いて、命からがら助かったというように顔を真っ青にした。その顔には指の跡がくっきりと浮いている。
「こえー」
「これぐらいの歳になると物分かりがよくていいな」
少年の顔からはすっかりと侮りが失せている。
ランタンはふと自分の手を見つめた。抱きしめるのが恐ろしい。そう言ったのは花街で娼婦を殺した男ではなかったか。
「やっぱりあんたって、怖いぐらい強いんだな。なあなあ、それなら俺らに稽古つけてくれよ。赤ん坊の相手よりはましだろ。ベリレさまは剣を教えてくれたぜ」
「――いいけど。ベリレよりは厳しいかもよ」
「いいぜ。痛いのには慣れてる」
ランタンは数人の少年を引き連れて外に出た。
「ベリレはどんなことを教えてくれるんだ?」
「型と精神訓。喧嘩のやり方はぜんぜん」
「いい先生じゃないか」
ランタンがそう言っても少年たちはぴんとこないようで首を捻った。
「だって俺らどうせ騎士にはなれないよ。でも探索者ならなれるかもしれないだろ。そしたら金も稼げるし、さっさと孤児院を出られてシスターの迷惑にもならないじゃないか」
「お前らが探索者になったらあの人に一生心配かけることになるな。――ま、でも喧嘩が強くて困ることはないだろ。ベリレに精神訓を教えてもらってるなら、悪さに使うこともないだろうし」
少年たちは目を輝かせた。
「でも僕は実践派だ。こういう風にしか教えられない。――かかってきな」
ランタンは挑発するように手招きをした。
一人、また一人と少年がランタンに挑み、そして負けてゆく。
「ほら、反応遅い。防御下がってるよ。腰引けてる。目線、足運び、どこが打ち込めそうかよく見て。無理なら待ち。自分にできることを自覚して。犬みたいに呼吸するな。大技狙いはいい鴨だぞ」
人形のように転がされて、それでも少年は立ち上がる。
「そう、そう。一歩一歩、確実に。戦いは狩りだよ。お、よくなった。それで、どうする。次は何をする、その次は」
ランタンの足運びを見る。その視線の狙いがわかりやすいが、ランタンはあえてそれに乗ってやる。
ついと差し出した出足を少年は踏み付ける。探索者相手には威力不足だが、街の喧嘩ならば十分に相手の足を止められるだろう。少年はそのまま身体ごと突っ込んでくる。
「悪くない」
そう言いながら、ランタンは少年の胸に撞掌を打ち込んだ。
衝撃。
転ばされるのではなく、少年ははっきりと吹き飛んだ。
まさしく鐘突の撞木で突き飛ばされたように、地面と平行にすっ飛んでぐるんぐるんと三回転する。
痛みは転がった地面のそれだけで、身体に浸透したのは妙に清々しい衝撃だった。
ランタンはぷらぷら足先を揺らした。
「この先をもっと考えておくべきだったな」
「うん、――はいっ」
少年は起き上がり、すっきりと目覚めたような表情で頷いた。
それからしばらく少年たちの相手をしているといつの間にか数が増え、やがて探索者たちもそれに参加し始める。
探索者にとって力は商売道具だ。金を取って手合わせをする探索者も、それに金を払う探索者もどちらも存在している。
無料で高位探索者と手合わせできることなんてそうないし、ましてやそれがランタンであるならばなおさらだ。
「ほら、お前ら子供が前だ。場所を空けろ、大人気ない」
ランタンは今まで封印していた戦鎚を手に取った。
少年たちはみんなランタンの後ろ側にいる。今や羨望の眼差しである。
「相手してもいいけど、大人には容赦しないぞ」
「こんな機会に手加減なんて要るかぁ!」
ずいと進み出たのは大男だった。牛人族らしい太い角を額に有し、短い毛に覆われた肩が黒々として広い。手には六角棒を握っており、それを巧みに振り回して中段に構える。
その迫力たるや、見守っている少年たちが震えた。
いつも接客している探索者の姿ではない。乱暴だが豪快で、剣呑だがどこか気さくな彼らがまったく別の気配を纏っている。
ランタンは振り返った。
「探索者というものを見せてやる」
「勝負、勝負ぅ!」
先を取った男の踏み込みに、ランタンが即応した。
容赦などまるでなく出足の爪先を踏み抜いて、男はそれでも角棒を中段に突き込む。ランタンは踏んだ爪先を磨り潰すように身体を捻り角棒を空かし、そのまま斜めに振り上げた戦鎚が牛角に絡んだ。自らの倍はありそうなその巨体を、そのまま投げ飛ばした。
どしん、と地面が揺れる。角から外れた戦鎚を首元に突き付ける。
ランタンは振り返りもしない。
「次っ!」
二人目の挑戦者が名乗り出て、それからしばらくランタンは勝ち続け、次の挑戦者はリリオンだった。
夕暮れに銀の髪を赤く染めて、もうすでに揺籃の大剣をすらりと抜いている。
「なんでリリオンが?」
「いいじゃない」
「まあ、それもそうか」
円状に取り囲んだ観客たちの、少年たちを押し退けて一番前にローサが陣取っている。
左右にクロエとフルーム、頭の上にウーリィを乗せて、腕に双子のような赤子を抱いている。赤子はよく眠っていた。
「いくわよ!」
ランタンとリリオンが得物を交える。
その時、その場にいたものたち全てがまさしく探索者の戦いを見た。




