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カボチャ頭のランタン  作者: mm
02.Some Day My Prince Will Come
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 すん、とリリオンが鼻を鳴らした音を聞いた。

 そうするとランタンは気にも止めていなかった様々な臭いを不意に知覚した。

 最も濃く香る生臭さと鉄の混じり合った血の臭いに始まり、腐敗した食べ物、アルコール、香水、油、黴や埃、人自体の有機的な臭い、爆発に焦げた大気の臭い、死の冷たい臭い。

 最も近くにある自分の汗の臭いは、ほんの少し。意識しなければ気づけないほどだ。

 突如現れた緑髪の女は獲物を見つけた空腹の肉食獣のように、今まさに襲いかからんと身体を前傾させた。女は声にならず唇を動かし、再び呟く。ランタンを見つめながら、次第に胸で息をするように呼吸を荒く。

 それは薬物の禁断症状にも似ている。溺れた者が空気を求めるような必死さが見え隠れした。

 背後でランタンが作り出した爆炎の壁が失われる。

 まだほんの僅かに残った炎の残滓を吹き散らして、蜥蜴が突っ込んできた。リリオンが迎え撃つ。

 猫背が回り込んでランタンを狙った。避ければリリオンを貫くようないやらしい位置取りにランタンは舌打ちをする。

「遅いぞっ!!」

 刺突は高速である。

 刺突をどうにか捌くランタンをよそにバラクロフが女に怒鳴ったのだ。

 そう言えば踏み込んだ時に同じ台詞を聞いたな、と思いつつもバラクロフの援護射撃がないことは幸運だった。戦槌の柄を滑る刺突剣が火花を散らした。そして矢の代わりに女が向かってきている。

 バラクロフの台詞から察するに、緑髪のこの女はバラクロフが戦闘に備えて呼んだ女である。

 探索者の中には迷宮に潜る前に娼婦を抱く者もいるために、バラクロフの戦闘への興奮を鎮める為この女が呼ばれたという可能性もないわけではない。

 だがそんなことに傭兵探索者を雇うような者はいないし、雇われる者の話も聞いたことはない。それに同衾するには女は少し薄汚れている。もしかしたらそう言った行為をするに多少の汚れは気にならないものなのかもしれないが、ランタンにはよく判らない。

 判ることと言えば傭兵の使い道は戦闘にあり、つまり緑髪の女は敵であるだろうと言うことだけだ。

 だが女はランタンと猫背の間に割って入るように、獣じみた跳躍を以て飛びかかってきた。

 あまりに直線的なその動きはランタンが戸惑うほどに無防備だった。伸ばされた手が抱きつくかのように広げられているし、猫背がランタンに突き出した攻撃の身代わりになってくれたのかと勘違いするほどに身を躍らせているし、猫背が女の事などお構いなしに打ち込んだ回避不可能と思われたその攻撃を素手で逸らしている。手の甲が僅かに裂けて、赤い血が滲んだ。

 女の意図が何一つ読めなかった。その所為で、ランタンは女を打ち落とそうとしたが、攻撃の出が僅かに遅れた。

「やあっ!」

 そんな中で最も早く反応したのはリリオンだった。蜥蜴の攻撃を盾で受けたかと思うと、そのまま盾で蜥蜴を殴りつけ更に蹴り飛ばした。吹き飛んだ蜥蜴から視線を切って、反転と同時に大剣を薙ぎ払い女に斬りかかった。

 女が腕を鞭のように振るいその大剣をギルド証で受け止め、弾き飛ばされた。そして回転しながら体勢を立て直して、ふわりと()()着地した。あの時と同じ、何も不思議はないというように平然と。

 やはり、とランタンは出遅れた攻撃を咄嗟に方向転換して猫背を強襲した。猫背を退かせると、混乱を吐き出すように肺の空気を入れ換えた。

貫衣(ローブ)か……」

 小さく呟いた声はバラクロフの怒声に掻き消された。

「おいっ、何をやっているっ! お――」

 だが脳を掻き回すようなヒステリックな怒声は女の耳には入ってはいないようだった。それどころから今し方、大剣で斬りかかったリリオンのことすら目に入っていない。まるで気にも止めていないと言うよりは、女の世界にはランタンしか存在しないのではないかと思わせる視線を寄越した。

 その妄執にも似た熱烈な視線にランタンは少しばかりぞっとして頬を引きつらせる。あまり好ましい視線ではない。単純な敵意や憎しみの方がまだマシだ。

 女が壁を蹴って再び跳躍した。再び目一杯腕を伸ばして、攫われたお姫様が助けに来た勇者の胸に飛び込むように。

「ランタンにっ――」

 リリオンが吠えた。ぶん回した大剣を女が避ける。だがリリオンは裏拳を放つように盾を嵌めた腕を大きく薙いだ。しかしそれさえも、まるで巻き上がった風に身体を預けたように女は避けた。だがすり抜けようとした女の足首を、ついにリリオンは掴まえた。骨の軋む音が聞こえそうなほど強く握りしめる。

「――さわらないでっ!!」

 女の伸ばした腕の、反るほど張った指の、最も長い中指の、その爪の先っぽがランタンの頬に一瞬触れて離れていった。女の垂れ目が触れたその瞬間に本当に溶けたように緩むのを、あっという間に遠ざかるまでの一瞬にランタンは見た。目が合った。

 リリオンは女の足首を引っ掴んで人形のように振り回し、その場でぐりんと一回転して加速を付けると壁に叩きつけるようにぶん投げた。女は錐もみに回転して、しかし驚くべき身のこなしで空中で体勢を立て直した。空中で顔を上げる、その瞳にランタンは映らない。女の目の前には銀の壁が、高速で迫る鋼鉄の盾があった。

 女を投げ飛ばして同時にそれを追ったリリオンが体当たりをかました。直撃を知らせる鈍い音が響く。更に女が吹っ飛び、また追った。だが直撃を食らったはずの女が、今度は音も無く着地して両手で盾を受け止めた。

 疾走したリリオンの勢いを完全に殺して、互いに押し合いせめぎ合った。

 体格はリリオンが圧倒的に勝る。だが女の足は根を張ったように微動だにしない。体格差により斜め上から押え込むようになっているリリオンの身体が沈んだ。根を引き抜く為に。

「負けっ、ないんっ、だからあっ!!」

 気合い一声(いっせい)

 ばきんとリリオンの足元の床が砕けて膝が伸びると、鈍い音を立てて女を()ち上げた。そして女の腹に肩から突っ込んで、まるで躓いて転げたように一塊となって倉庫の外側へ飛び出していった。

「くそっ、いかれ女めっ!!」

 罵倒したバラクロフの言葉が耳を通りすぎ、ランタンの耳にはテスの言葉が思い出された。

 ――過保護だな。

 わかってるよ、言われなくても。

 ランタンは視界の中に見失った少女を取り戻したい衝動に駆られたが、その衝動に抗うようにべた足でどっしりと戦槌を構え、三人の男の猛攻を捌ききって誰一人としてリリオンを追わせるような真似をさせなかった。

「いい年して女の子のお尻を追っかけるなんて」

 笑う。

「恥というものを知らないのですか?」

 嘲笑う。

「あ、知ってたらこんな状況にはなりませんよね」

 哀れみを込めて。

「同情しますよ。あなたにも、彼らにも、心底」

 バラクロフの血管が爆ぜる音が聞こえた。

「ああああああああっ!」

 叫びながらバラクロフが立て続けに弓を三度引いた。

 どこでもいいから当たれとでも言うような乱雑な射撃は、それでもきちんとランタンの頭部を正確に捉えている。さすがだな、と思いつつもそれを顔には出さず何でもないように三つの矢を払った。狙いが正確すぎるのも考え物だ。

「殺せっ、さっさとそのガキをっ、殺せぇっ!」

 頭の中からすこんとリリオンの存在を抜き取られたかのように、バラクロフが噛み殺さんとばかりにランタンを睨み付け、口角に泡を滲ませて声が割れるほどに叫んだ。その怒りに共振するように猫背と蜥蜴がさらなる苛烈さを以て襲いかかった。

 ランタンがバラクロフに怒鳴る。

「お前が来いっ!」

「黙れえっ!!」

 狙いは完全にランタン一人に絞られた。

 戦場に一人増え、二人減った。

 取り敢えず戦場の均衡は傾いた。はたしてどちらに、と考えながら攻撃を同時に捌く。

 蜥蜴の大鉈は射程こそ短いが一撃は重く、また筋肉の塊である尻尾は第三の手足であった。硬い鱗に覆われているが柔軟に動き、おろし金を鞭にしたかのような物騒さがある。また身体的頑強さも兼ね備えて、生半可な攻撃では受け止め、あるいは弾き返されてしまう。

 猫背の刺突剣は大鉈とは打って変わり、蜥蜴の背中越しにランタンを狙うほどに射程が長く、また紙一重で躱すと途端に先端が撓って襲いかかる変幻自在さがあった。まるで蝶の羽ばたきのように、手首の微細な動きが先端で予想もつかない動きを生み出した。そして猫背はその動きを完全に操作(コントロール)している。

 リリオンが失われた事で、二人に定められた役割が明確に浮かび上がった。

 ランタンと打ち合いその足を止める役の蜥蜴と、ランタンの死角へと縦横無尽に動きとどめを刺す役の猫背。だが猫背の攻撃ばかりに気を取られていると、不意に蜥蜴がその牙を剥く。そしてバラクロフへと向かえば、二人揃って盾となる。

 探索者に比肩しうる膂力と、それによって操られる技術。ランタンは肩で息をして、直撃を避けながら考える。

 どうするのが最良であろうか、と。

 それはランタンに急に慈悲の心が芽生えて、この哀れな操られた戦闘兵二人を殺さずに無効化し、バラクロフの操り糸から救い出し、その力と技術を生かして探索者として再出発させよう、などと考えているわけではない。どのような事情があろうとも殺しにきている相手を殺すことに躊躇いはない。それに狙って殺さないというのは面倒である。相手が強ければ強いほどに。

 悩みはやはりそこにある。

 バラクロフがリリオンを狙う理由は貴族に奴隷として売る為だが、それ以外は何一つ判明していない。その貴族がどこの何奴なのか、いつ目を付けたのか、リリオンである理由はどこにあるのか。

 また今は煽り挑発してしまったのでそう言った視線を向けられる理由も分かるが、それ以前にランタンに向けた憎悪の由来は。

 死んだ者は生き返らない。殺してしまってはもう口を利くことは出来ない。

 情報は日々の買い出しから迷宮探索に至るまで少ないよりは多い方が良いことは誰だって知っている。その為には一人より二人、二人より三人。木っ端の構成員共ではなく、幹部級だと思われる蜥蜴と猫背ならなおさらだ。もっとも口をきけるかどうか、と言う問題もあるが。

「あー、もうっ」

 思考は纏まらず雑念となり、うんざりとして吐き出された。そこに混ざった弱音のような音を耳敏く聞いたバラクロフが怒りに剥いた瞳を嘲りに歪めて笑った。防戦一方であるランタンを指差して唾を飛ばす。

「はっはっはあっ! 生意気な口を利いてその様か! 手も足も出ないじゃないか!」

 バラクロフは三人がかりで未だに仕留めきれていないという事実を完全に無視して、演説するかのように手を振り回した。ランタンはそれを苛つきながら見つめ、溜め息を吐いた。

 何だかんだで少し疲れた。阿呆を相手にするのも、悪党を百人近くぶち殺した後に、いちいち殺さないように戦うのも。

 爆発は生け捕りに向かない。ならば切るべき手札は。

 ランタンが戦槌を跳ね上げて刺突剣を弾いた。

 刺突剣と大鉈の二つを捌かなければいけないので、細かく払うか逸らすかにとどめていた戦槌を大きく跳ね上げたことで、ランタンの右の脇腹が露わになった。あからさまな隙に、だが蜥蜴はランタンの望み通りきちんと反応して大鉈をそこに目がけて切り上げた。

 ランタンは一歩前に出て、刃を避けて蜥蜴の前腕を脇腹に受けた。筋肉を固めたが肋骨が割れたような気がする。吐き出される息を喉の奥で止める。ランタンはそれを飲み込んで、自らの額を蜥蜴の鼻頭に叩き付けた。目の中で星が散った。

「頭は出るけど、ねっ」

 鼻血を吹いて後退った蜥蜴を蹴っ飛ばし、猫背の刺突を左の掌に受け止めた。

 ちくりとした痛みがあり、その後にあったのは冷たさだった。刺突剣が人差し指と中指の中手骨の隙間を通して掌を貫通して、甲から鋒が突きでた。氷の細い針を突き入れられたような幻想は、血に濡れた銀の鋒を見ることで現実に上書きされた。冷たさが火箸を突き入れたような熱に変わった。なぜか耳鳴りがする。うるさい。

 ランタンはぐっと目を開いて、痛みに歪んだ唇を無理矢理笑むように奥歯を噛んだ。視線の交ざった猫背の瞳が僅かに揺らいだ。

 肩は捻るだけで位置を変えず、肘と手首を折り曲げることで高速に引き戻されるべき刺突剣を猫背は肩を大きく引っ込めるようにして引き抜こうとした。釣り人が水面に浮かんだ魚影に不吉さを感じ糸を切るように、慌てて。

「いっ――」

 だがランタンは刺突剣が引き抜かれるのに合わせて、そしてそれよりも素早く猫背に近づき、剣の根元まで掌を押し込んだ。猫背は柄を放そうとしたが、ランタンは小さな手を目一杯広げて噛み付くように刺突剣の鍔ごと握りしめた。

「どっらぁっ!」

 そして力任せにぶん回した。ランタンの手の中で爆発が起こり、振り回された猫背の手首が爆風により引き千切れて、切り離された猫背は遠心力に従って吹き飛んで蜥蜴を巻き込んだ。

「はっ――、ふう。……まったく、そんな嬉しそうな顔するなよ」

 バラクロフは笑ったまま言葉を失い凍り付いた。その笑顔はランタンの掌が突き刺された瞬間を映した化石である。バラクロフの思考が現在に追いついていないのだ。あるいはランタンの狂気を理解する事ができないのか。

 ランタンが掌を下に向けて指を広げると、まるで見えない腕でもあるかのように、猫背の手に握りしめられたままの刺突剣が重力に引っ張られて掌から抜け落ちた。抜ける時の方が倍痛いな、と思いながらランタンは強がって表情を変えなかった。ただゆっくりと、長く息を吐いた。

「知ってるよ、毒付きなんだろ」

 ランタンが拳を握りしめると傷口から血を噴いた。

 毒付きではあるが致死性の猛毒ではない。

 猫背はリリオンを狙うときに致命傷を与えることを避けた。ランタンの頭や喉や、心臓を無遠慮に狙うその突きが、リリオンへ向けられる場合には四肢へと向いた。それはバラクロフはまだリリオンを生きたまま捕らえようとしていると言う事の証明だ。それならば使用する毒は行動を阻害する麻痺毒あたりだろう。

 だからこそ肉を切らせて骨を断った。

「僕には効かないけどね」

 これは完全に(ブラフ)だが、はったりは大事だ。例えばこんな小胆な男の相手をするのには。

 耐毒薬のおかげで全く動けなくなるよう事はないが、時間が経てば手足に痺れや拘束感が出てくるかもしれない。時間を掛けるのは得策ではない。例えばテスがカルレロに勝利して助けにくるのを待つような、情けない行いはランタンの矜恃が許さない。三人全てを生け捕りにするのは、少し欲張りすぎだった。

「身の程は弁えるべきだな」

 誰に向けるでもなく、小さく囁いた。

 バラクロフの表情が溶けることなくひび割れた。ランタンに向けられる瞳は完全に恐怖に染まっている。唇が震えて、猫背や蜥蜴に指示を出すことすら出来ない。だが二人は何も言われずともランタンの前に立ちはだかった。

 蜥蜴は鼻から、猫背は手首から、紫の血を流しながら。

「……紫の血(パープルブラッド)

 ランタンは蜥蜴に叩きつけた自分の額を擦って、掌を見た。そこには蜥蜴の血が付着している。酸化して色を濃くした紫の血が、自ら流した赤い血と混じって掌を汚した。

 魔精中毒には二種類ある。一つは急性魔精中毒。例えば迷宮に降りた時に感じる魔精酔いは短期間で大量の魔精を得ることで発症する急性魔精中毒の自覚症状の一つである。

 もう一つは慢性魔精中毒。長期間に渡り一定量以上の魔精を摂取することで起こる魔精への依存症状であり、紫の血は慢性魔精中毒の者に現れる特徴の一つである。

 仙人が霞だけを食らうように、魔精のみを食らい生きる迷宮の魔物はその血が青い。血液は魔精を溶かす溶媒として最も優秀な物の一つであるために、人間であっても長期間に渡り一定以上の魔精を摂取し続けると血の色が変わるのだ。血の赤と、魔精の青が交ざり紫色に。

 とは言えそうなるには相当量の時間と魔精を必要とする。ハイペースで迷宮攻略するランタンでもギルド医に注意を促されたことはあるが血の色が変わる予兆すらない。カルレロ・ファミリーが魔精薬を取り扱っているからと言って、そうそう出る症状ではない。

「へぇ……そーなんだ」

 慢性魔精中毒の患者にはいくつかの傾向が見られる、とランタンに注意を促したギルド医は語った。

 例えば凶暴性や攻撃性の増加であったり思考の単純化であったりだが、その時のありがたいお言葉の殆どは、迷宮から帰還したばかりのランタンは疲れていたので聞き流してしまった。そのため子細を覚えているわけではないが、そんなランタンにギルド医は少しばかり怖い顔で言った言葉は覚えている。

 ――魔精を取り過ぎるといつか君自身が魔物になるわよ、と。

 それはただの脅し文句だ。だが慢性魔精中毒者が魔物じみていると言うのは聞いたことがある。

 魔物じみて生命力が強く、生半可なことでは死にはしないと。

 無駄な時間と手間を掛けさせやがって、とランタンは乱暴に吐き捨てた。目の前の、探索者の相手にふさわしい魔物共に向かって。

 ランタンは手に持った戦槌をまるで死に神の鎌のように優雅に翻し、瞳をらんらんと輝かせて躍りかかった。

 振り下ろされた戦槌を蜥蜴が受け止めるが、その衝撃に蜥蜴の足元が砕けた。正面からでも見ることが出来るほど盛り上がった背筋がぶるぶると震えて、けれどランタンの小躯によってその巨躯が押さえ込まれた。戦槌の先に爆発を巻き起こすと爆炎が蜥蜴の顔面を焼き、蜥蜴は切り裂くような絶叫を上げた。闇雲に大鉈を振ってよろめく。顔面は焦げ、眼球が白く濁った。

 猫背は失った右手もそのままに、床に転がっていた適当な剣を左に構えて斬りかかってきた。水中に漂うように、手首から零れた紫の血が(くう)に流れる。

 ランタンは軽く剣を払った。適当な剣はそれでぽっきりと折れる。折れた剣で猫背は身体ごと突っ込んでくる。感情の無い瞳が今は目一杯押し広げられている。

 ランタンは戦槌を切り返して猫背の左腕さえもへし折り、そのまま止めることなく胴体へと鶴嘴をねじ込んだ。肋骨の間を通したが、衝撃で骨が砕け、鶴嘴の先端が肺に穴を空ける。普通の人間なら死んでいるが、魔精によって強化された生命力ならおそらく平気だろう。もっともこのまま爆発させてしまえば、たとえ魔物じみた生命力を持っていても死んでしまうが。

 残りは二人――

 首筋がぞわりとした。

 視界の端に影が見えた。猫背が手を失った左手で殴りつけてきたのか、と思ったがそうではなかった。

 それは勾玉に似ている。だが色はくすんで、顔ほどの大きさもある。

 鶴嘴が筋肉に締め付けられて抜くことが出来ない。ランタンは咄嗟に手を離して、襲いかかるそれを受け止めた。

 猫背の曲がった背に沿うように隠されていたのか、現れたそれは硬く節だった蠍の尻尾だ。尾の先端には鉤爪状の濡れた毒針があった。ランタンは咄嗟にそれを爆破して切り取ったが、切り取られて尚その尻尾はぐにゃりと動きランタンの右肩を突き刺した。

「くっ――!」

 何かが注入される感覚があった。判っている。毒だ。

「はっ――ははははははっ」

 バラクロフが快哉を叫んだ。

「よくやった、ベルムドっ! これで貴様も終わりだっ!」

 ランタンは肩に刺さったそれを抜き取ってバラクロフに向かって投げつけた。ランタンの瞳は警戒色の如き赤に染まった。

「――ひっ」

 尻尾はバラクロフの肩に当たり、男をよろめかせた。

 猫背、――ベルムドはついに白目を剥いて崩れ落ちた。ランタンは弛緩したその身体から戦槌を抜き取り、刺された右の肩をぐるりと回した。骨には到達していない。

 だが中心に激痛と高熱、周囲は凍ったように冷たく、筋肉が重くなった錯覚がある。バラクロフの声音から察するに、麻痺毒などと言う生やさしいものではないだろう。

「怯えていただけの屑がやかましい」

 蜥蜴が走って向かってくる。ランタンは戦槌でそれを打ち、爆発を巻き起こした。蜥蜴の皮鎧が燃え崩れ、腹部を焼き、内臓を沸騰させ、灰に変えた。蜥蜴は背骨と背側の鱗板だけで上半身と下半身を繋ぐばかりになり、魔物のごとき生命力は一瞬で燃やされ尽くした。

 ランタンは死を恐れない魔物に舌打ちを吐いた。あるいはバラクロフへの侮蔑として。

「効かないって言っただろ。根性だけじゃなくて、記憶力も悪いのか」

 ランタンは一音一音はっきりと口に出して、背筋に鉄柱を入れように身を伸ばして、バラクロフへとゆっくりと歩いて向かった。視界が少し揺れる。

 身体の中で耐毒薬により強化された免疫機能が解毒しようと働き、体中のエネルギーを貪っているような気がした。

 一歩一歩くごとに身体が重くなった。

 一歩一歩近づくごとにバラクロフの腰が引けた。

 六十幾つあった男を守る盾は全てが屍と化して、次いで用意した牛頭の盾は剥ぎ取られ、乱入してきた緑髪は盾の体裁すら成さず、最後まで残った二つの盾は一つ隠していた棘を失い、最後の一つさえも燃え落ちた。

 バラクロフを守るものがなくなった。そこには剥き出しの恐怖があった。

 憎悪は、恐怖を隠す為の盾だったのかもしれない。

 思えばこの男はずっとそうであった。ランタンの見ることの出来ない遠くから、前後不覚の薬物中毒者の背後から、紫の血をした魔物の影から。近づけば遠ざかり、どうしようもなくなれば野犬でも追い払うように剣を振り回して逃げ出した。

 ランタンを恐れて。

「お前が……」

 何かを言いかけて、ふとリリオンの事を思った。

 あの子は無事だろうか。頑張っているだろうか。

 リリオンはきっと頑張っている。ランタンの見ていないところでも、あの子は頑張れる子だ。痛みにだって、魔物にだって、男にだって、怖い物は沢山あるがリリオンにはそれに立ち向かう精神力がある。

 少しばかり危なっかしいのでランタンは自分のことを棚に上げて心配しなければならないこともあるが。

 あの子は、いい子だ。

 バラクロフの手が震えて、弓に矢を番えることを失敗した。中途半端に弾かれた矢がぽろんとランタンの足元に転がって踏み折られた。バラクロフは顔面蒼白になって、折られた矢とランタンの顔を見比べた。

 ランタンの額にはうっすらと汗が滲んでいる。強がっています、と顔に書いてあったがバラクロフはそれでも後ずさり、自分の足につまずいて尻餅をついた。

 ランタンは床に置かれた弓を握ったままの左の手を踏み潰して、消し炭に変えた。そして傍らに落っこちている蠍の尻尾を拾い上げてバラクロフの右の手の甲に突き立てて床に縫い付けた。そこに毒が残っているのかどうかは判らないが、バラクロフの顔は引きつった。そして叫んだバラクロフの顔面に靴底を叩き込んで黙らせる。

 赤い鼻血を吹いた男の顔をランタンは覗き込んだ。

「さて、両手が使えないようだが、――どうする?」

 ふっと蝋燭を吹き消したようにランタンの瞳の色が焦茶に戻った。

 今すぐにでも八つ裂きにしてやりたい衝動は、今までの行いを無駄にする悪魔の誘惑である。ランタンは自分を誤魔化すように衝動を押し殺し、それ故の無表情でバラクロフに尋ねた。

 バラクロフは大きく喉を上下させて口の中に入り込んだ鼻血を飲み下し、何かを言おうとして喉を振るわせた。だがひゅうひゅうと掠れた音が漏れるだけで、言葉にはならない。ランタンは戦槌をバラクロフの顎に当て、重たげに項垂れる顔を持ち上げてやった。

「しゃべる事ができない口なんて、必要ないよね」

 小胆なこの男が持っていないはずはないのだ。自らの使う道具が、万が一己に牙を剥いた時の備え、ベルムドの毒の解毒薬を。

 ランタンはふぅふぅと喉で息をして汗を拭った。バラクロフは冷や汗を拭うことが出来ない。まるで秒針が時を刻むようにカチカチと音を立ててバラクロフの歯が鳴った。

 これは我慢比べで、毒を食らったのはランタンの方が先だったが、ランタンは当然のようにその勝負に勝った。


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