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救援に向かえば、ランタンは最低でも半日は帰ってこない。
一日がかりになることもざらにある。
迷宮で誰かを助けるということは、それだけ難しいことだったし、報われることの方が少ない。
あのランタンをもってすら助けられないことがある。そんな時、ランタンは傷ついて帰ってくる。
リリオンはランタンが出て行ってからずっと落ち着かない気持ちでいた。
館中をうろうろと歩き回り、少しでも物音があれば玄関まで出ていった。
帰りを待っている時はいつだって不安だが、今日は特に不安だった。
どうしてだろう。
リリオンはいても立ってもいられなくなって、部屋着のまま通りまで出て左右を確認する。
陽が沈み行く。
夕焼けの赤がいやに眩しくて、リリオンは目を細める。
ランタンの瞳の色だ。
いつもの焦茶色の落ち着いた色も好きだったが、感情の昂ぶりによって浮き上がる炎の色の瞳も魅力的だった。夕焼けのような深い色合いから、眩しいほどに鮮やかな色合いを帯びる時もある。
胸のざわめきが治まらない。
根拠はないがどうしても落ち着かず、ランタンに何か悪いことが起こるんじゃないかと、不安な想像ばかりが膨らんでいく。その不安は母を失った思い出と容易に結びついた。
「決めた」
遅いぐらいだった。
リリオンはひと言呟くと、館に戻って探索の用意を始めた。
あっという間に着替えを済ませて、鞄に食糧と水、包帯や薬、魔道結晶を詰め込んでこれを背負う。
絶対に帰ってくる。その約束を信じて待つのもいいだろう。ランタンはどんな迷宮からだって絶対に帰ってくるし、危険も不運にも負けることはない。
だがリリオンは迎えに行くことにした。
待っているのは性に合わない。
ガーランドとウーリィをお供に遊びに出かけたローサはそろそろ帰ってくるだろう。だけれども妹を待っている時間さえ惜しかった。館に帰ってきた時、自分がいなかったら驚くだろう。でも迎えに行く。
リリオンは簡単な単語だけを使って、ローサに書き置きを残した。
それからレティシアを始めとする大人たちに、ランタンが迷宮へ救援に向かったこと、いやな予感がすること、だから自分が迎えに行くことを、別の紙に書き残した。
揺籃の大剣を腰に吊す。
玄関の鍵を閉めて、家族だけが知っている秘密の場所にそれを隠した。
行く先は迷宮特区ではなく、探索者ギルドだった。
命金制度は探索者ギルドの制度だから、どこの誰から、どの迷宮から救援を求められているかを、そしてどの探索者が救援に向かったのかを彼らは把握しているはずだった。
そして自分をその迷宮へ送り込んでもらう。ダメだったらミシャに頼もう。
どの迷宮かを教えてもらえなかったら、教えてもらえるように何度もお願いしよう。
それでもダメだと言われたらどうしようか。
ランタンみたいに脅かして、聞き出してやろう。
それぐらいのことをわたしはする、とリリオンは思う。
風はまだ冷たい。
寒さに赤くなった頬をぴしゃりと叩き、リリオンは顔をあげて、向かい風をものともせずに駆けだした。
敵は黒い卵の三人と、変異者の男。
そして迷宮に出現する魔物たちだ。
ランタンは木の影に潜み、気配を殺していた。
探索者の力の源たる魔精を封じられているが、技術は肉体の一部も同然だった。
鳥が空を飛ぶように、魚が水中を泳ぐように、迷宮探索に必要なあらゆる技術はランタンの血肉となっている。
ランタンの視線の先には猿の魔物の群がいた。
行き掛けに蹴散らした猿と同じ種類の魔物だった。
大きさはランタンの半分ほど、手足が蜘蛛のように細く長い。
群は十三頭で、それぞれが手に武器を持っている。
落ち葉をがさがさ踏み付けながら、西へ向かって歩いている。
閉鎖型迷宮に出現する魔物は縄張りを持っていた。探索者を捕捉し、これを追跡していれば別だが、基本的にある一定の範囲からはみ出ることはない。
対して開放型迷宮の魔物も縄張りを持っていると言われているが、その範囲が広がったため、探索者からしてみれば縄張りはないも同然だった。
猿たちはどこへ行くのだろうか。
ランタンは静かに、深い呼吸を繰り返す。
通常ならばまったく問題にならない相手だが、今のランタンに十三頭を同時に相手する力はない。
見つかった時点で終わりだった。
地形は利点も欠点もある。立ち並ぶ木々や積もった落ち葉は身を隠すには持って来いだが、深いところで膝まで積もった落ち葉は隠密行動を阻害する。
「だいじょうぶ」
ランタンは自分に言い聞かせて、拾い集めた小石を一つ、猿の群に向かって投げ付ける。
それは落ち葉の上に落ちて。かさ、と小さな音を立てた。猿の数頭が反応するが、すぐに興味を失った。止まぬ雪のように絶え間なく落ち続ける枯れ葉に小石は隠された。
ランタンはもう一度、小石を投げる。
それは緩やかな放物線を描き、一頭の猿の背に当たった。
その一頭は肩を叩かれたみたいに振り返り左右に首を巡らせると、なんだ勘違いか、というように群の最後尾について行く。
ランタンはその様子を隠れてじっと観察する。
暗色の外套は鮮やかな紅葉の森の中にあって、不思議と目立たずに埋もれていた。
ランタンは更に投げる。今度はもう少し強く。
猿は尾を掴まれたみたいに振り返り、かなり警戒心を高めて、何度も視線を巡らせる。しばらくすると後ろ髪引かれる感じで躊躇いながら視線を戻し、きぃきぃと鳴き喚いた。
何か伝達したようだが、しかし仲間の猿はこれを取り合わない。
群の一番後ろを少し離れて、とぼとぼ付いていく。その哀愁ある背中にランタンは再び小石をぶつける。
猿はついに確信を込めて立ち止まり、それでいてどこか不安の透ける仕草でゆっくりと振り返り、群を離れて辺りをうろつき始める。
猿は確実にランタンに近付きつつあった。
ランタンはその辺りに小石を放り投げる。猿はそちらに駆け寄る。ランタンはその隙に、別の木の影へと移動した。猿はいよいよ疑心暗鬼になった。
手には短刀を持っている。硝子板を割ったような、鋭くも歪な刀身をしている。
それを器用に使って、足元の落ち葉を斬り払っている。風が吹き、枝から落ちた葉が背に触れると大げさに振り返って短刀が空を切る。何もないことを確認して地団駄を踏む。
その姿は迷宮の狂気に取り付かれた探索者の姿によく似ている。
ランタンは腰の狩猟刀を鞘から抜いた。こういった時は鈍器よりも役に立つ。
戦鎚は高く放り投げた。
それはくるくると回りながら頂点に達し、重力に引かれて落っこちる。
小石よりも遙かに重い。ぐしゃり、とはっきりと音を立てて落ち葉が踏み砕かれる。
猿はその音の発生源に飛び掛かった。まさに獣面。牙を剥き出しに、握った拳を叩き付けるように地面に短剣を何度も突き刺す。だがそこには戦鎚があるばかりで、猿は発狂するように天を仰ぐ。
喉が震える。その猿叫は迷宮に響き、この異常を仲間に伝えるもののはずだった。
しかし声は音にならず、喉に突き入れられた狩猟刀の刃に掻き消される。
背後からランタンが息さえ殺して襲いかかった。
逆手に握った狩猟刀を思いっきり喉に突き刺して、そのまま体重を浴びせるように押し倒す。ごわごわした毛に覆われた後頭部を鷲掴みにし、窒息させるみたいに落ち葉に顔を押しつける。そして首を狙って何度も狩猟刀を突き立てる。
そこに洗練された技術はなかった。
ランタンの姿もまた狂気に侵された探索者のようだった。
馬乗りになった背中。猿は思いがけぬ力で振り落とそうと身体を揺する。蜘蛛のような四肢が落ち葉を掻く。溺れ、水面を叩くように。
ランタンはついに動かなくなった猿から狩猟刀を引き抜いた。猿の首は半ば切断されている。滅多刺しだった。
「ふーっ、ふーっ!」
荒い呼吸を落ち着けながら、べったりと血の付いた刃を毛皮で拭う。
たった一頭殺すだけで必死だった。
よく研いだ狩猟刀であっても獣の皮は硬く、角度が悪いとその上を滑った。狩猟刀を握り締めた手も、猿の胴を挟み込んだ脚も、力を込めすぎて全身が震えるほどだった。
そうだ。
探索とはこういうものだった。
状況が状況でなければ、感慨に浸りたいほど懐かしい。
魔物を一頭殺すことがどれほど大変なことだったか。
だがそんな余裕はない。すぐにこの場を離れなければ。
しかしその前にやることがある。
ランタンは猿の手から短刀を奪い、その青い血に指をすくう。
黒い卵の三人は乱暴な足取りで迷宮を駆け回っていた。
迷宮を行動するにはいささか無神経の歩き方だった。これでは魔物に気づいてくださいと言っているようなものだ。
探索者は仮の姿ではあるが、迷宮探索の経験がないわけではない。
魔物は彼らにとって主要な研究対象だからだ。
魔精をよく含み、多種多様な姿形と特性を持っている。
似たようなもので探索者がいるが、魔物は探索者よりも研究がしやすい。
最近は変異者という与しやすい探索者もいるが、このところ彼らも徒党を組むようになって、孤独につけ込むのも楽ではなくなっている。
未だに孤独のままのものたちは、孤独の狂気に侵されつつある。
仲間に引き入れたあの変異者もそうだ。迷宮で仲間割れを起こし、一人殺している。仲間にしたがあくまでも使い捨ての仲間にしかならない。重要なことは任せられない。
「まだ遠くまでは行っていないはずだ! どこかに隠れているはずだ!」
声を荒らげて焦ったように指示を飛ばす。
実際に焦っていた。まさか逃げられるとは思っていなかった。魔精封じの腕輪を装備させた時点で、作戦は成功したも同然だった。
それがまさかこんなことになるとは。
ランタンは彼個人にとっても、そして黒い卵という秘密結社にとっても最重要の研究対象だった。
あれはどう考えてもおかしい。
人の理から外れているように思う。
人間の、生命の超越。それは黒い卵の命題だった。
まさに魔物。いやもっと純粋な存在だ。魔精そのものが意思を持ったかのような。
それが目の前で逃げていった。あともう少しだったのに。あともう少しで、自分のものになるはずだったのに。
そう思うと悔しくて堪らない。
「よく捜せ!」
怒鳴った声ががらがらと掠れている。
それは雷精結晶の影響だった。たいした威力の魔道結晶だ。店売りのものならば金貨五枚はくだるまい。
ランタンを相手するために、装備はそれなりに整えてあった。魔精薬を服用して、肉体そのものの魔道に対する耐性も高めている。それでなお一瞬意識を失うほどの威力だった。装備に込められた魔道抵抗は焼き切れている。
回復薬を服用しても、まだ全身が痛む。
この威力をランタンは至近距離で食らった。自爆攻撃だった。少年の装備は一級品だ。
だがそれでもあの距離でまともに雷を浴びて、即座に立ち上がって、走って見せた。魔精を封じられてなお。
もはや人ではない。
推測でしかなかったランタンは魔物であるという考えに、男は確信を抱いていた。
「ランタンどこだ! 諦めて出てこい!」
もっと人を用意すればよかった。
しかしそれをすると探索者ギルドに作戦がばれる可能性も高かった。
黒い卵は大規模な組織だったが、一枚岩の組織ではない。基本的には少数や個人の集まりでしかない。それらがたまたま同じ目的と狂気を持っており、時折その研究内容や技術を交換し、協力し合うというような。
趣味人の社交界のようなものだ。
それでもあちこちに呼びかければ、大人数を動員することもできたかもしれない。ランタンの魔精結晶を取れるのならば、探索者ギルドなど怖れる必要はなかったのではないか。
そんな風にさえ思う。
ランタン一人の価値は、探索者ギルドを敵に回して余りある。
逃がした魚は大きいと見誤っているのかもしれないが、もうその判断をつけることができなかった。
「くそっ!」
思わず悪態を吐く。
「コール、あれを!」
仲間の一人が叫んで指をさした。
そこには積もった落ち葉の上に、暗色の外套が広がっている。それはランタンの着ていたもののように思われた。
思わず駆け寄りそうになるのを、コールと呼ばれた男は鋼の自制心で堪えた。
人の気配はない。魔物の気配もない。
だが冷静になってよく見れば、戦闘の痕跡が残されている。木の幹を魔物の青い血が汚しており、落ち葉も踏み潰されているように見える。
しかし赤い血の汚れはない。
紅葉に隠されているからか。目に見えるのは青い血ばかりだ。
その現実がコールを怖れさせた。
腕輪を外したのだろうか。いや、そんなことはない。それならば今頃、自分たちは殺されている。
魔精を封じられた上で、一方的に魔物を殺した。
まさかそんなことができるはずはない。
逃げられたとは言え、まだ優位を保っているはずの自分に浮かんだ恐怖心がどうしても許せなくて、コールはかぶりを振った。
いくらランタンとはいえ、一方的なはずがない。その証拠が、あの外套だ。
「――気を付けろ」
「大丈夫だ。気配はない――」
仲間の一人がそれを拾い上げようと近付いていく。落ち葉の上、木々の間にそれは不自然なほど広げられている。外套を上に積もった落ち葉の量からも、まだ十分と経っていないだろう。
その時。
「――ぎゃあ!」
近付いていた仲間が、悲鳴を上げてもんどり打って倒れた。
血飛沫のように枯れ葉が舞った。
「なんだ、どうした!」
いったい何が起こったのか、まったくわからない。
周囲を警戒しながら仲間に目をやると、その太ももに深く短剣が突き刺さっている。
コールの頬が引きつった。
仲間を襲ったのはひどく単純な罠だった。
太い枝と、その先端にくくられた短刀。落ち葉の中に隠してあったのだろう。外套を木々の間に置くことで動線を制限し、仕掛けに触れさせたのだ。
獣狩りの罠だった。
曲げられた枝が解き放たれてしなり、太ももに短刀を突き立てた。
「ふざけやがって、大丈夫か!」
もう一人の仲間が近付いていくと、今度は猿の死体が降ってきた。それを頭から被り、青い血塗れになってしまう。
「くそくそくそっ、なんだこれ!」
短剣と違い、嫌がらせの要素が強い。
コールはいっそう神経質に、目を凝らして周囲を窺う。
木々の間に糸が張り巡らせてあるのがわかった。それは自らの血で染めたのだろうか、赤い縫合糸だった。
気が付けば罠の森にいつの間にか入り込んでいた。
いや誘い込まれたのか。
「ふざけるな! ランタンどこだ、出てこい! こんなもの!」
コールは魔道使いである。
発動体である剣を構え、怒りにまかせて炎の魔道を四方へ放った。
怒りに底上げされたなかなかの威力だった。糸はもちろん、周囲の落ち葉や木々が焼き払われている。
だがここは迷宮である。
敵はランタン一人ではない。
「魔物だ! おい、コール。どうする」
魔物が集まってきていた。
「殺す。殺すに決まっている」
コールは魔精薬をあおり、再び魔道を放つ準備を始める。
「炙り出してやる! 森の全てを灰に変えてでも!」
コールは狂ってしまった。
部下だった男は、彼が出会った時にはすでに狂っていたことを知っている。
だが今は更に狂ってしまった。
原因はランタンだ。あの眩いほどの少年は人をおかしくする何かを持っているのかもしれない。
コールはそれを自分たち三人の中でもっとも近くで見てしまったから、少年の持つ妖気に当てられたのだろう。
自分もコールの狂気に当てられて非人道的な実験に協力してきた。それは抗いがたいものだ。
不死というものは、どんな宝石よりも美しく思えた。それは偏に死が恐ろしいからだ。
実験を繰り返し、その度に対象が死ぬほどに、死への恐怖はより純化されていく。そして不死の魅力は増大していく。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
男は猿の魔物に追われて逃げていた。
魔物の血を被ったからだろう。ひどく目の仇にされている。
死にたくない。
「くそっ」
振り返って魔道を放つ。
風の刃が森の中を駆けて、猿の数匹を切り裂いた。恐怖が魔道の威力を底上げしている。
逃げて、魔道を放ち、また逃げる。
その繰り返しだった。
逃げ切った男は木の幹に背を預け、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。
体力的にも精神的にすり減っていた。
そして、それは樹精の仕業のように思われた。
「――?」
男は一瞬、なにが起こったのかわからなかった。
樹皮が剥がれて、それが自分の首に巻きついたのかと思った。
そうではなかった。
首に刃が突き立てられていた。
刃が引き抜かれると、自分でも驚くほどの血が溢れる。
声は出なかった。
出血は胸を濡らし、股ぐらに落ち、見る間に広がった。
身体が傾ぎ、自らの流した血溜まりに身体を横たえる。血溜まりはひどく温かい。
視界が狭まっていく。
ランタンだった。
狩猟刀を鞘に収め、しゃがんで死相を覗き込むように顔を近付ける。
男は目蓋を開いた。血が流れすぎていて、もうそれぐらいしか身体が動かなかった。
ランタンの顔は血で汚れている。
赤い血と青い血、それから二つが混じった紫色の虎模様の迷彩が施されている。
爪の間まで血に染まった指が男の瞼を下ろした。
それが最期に見たものだ。
子供の姿を借りた死神だと男は思った。
死神の指は温かいのか、とそう思った。




