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「わっぷ」
熱く白い湯気がミシャの顔を叩く。
ミシャは濡れた顔を拭い、天井を仰ぎ見る。
いつ訪れても圧倒される浴室だった。ランタンのこだわりの浴室だ。
天井が高く、広々としている。
迷宮から切り出したという封星石の湯船は湯を湛えると、まさに星を封じているように黒い石肌にきらきらとした輝きが生まれた。
それは湯面の揺らぎによって瞬いているように見える。
滔々と流れ続ける湯が溢れて床を浸している。水面を歩いているような、非現実的な感覚がある。
しかしそんな豪勢な浴室よりも圧倒されるのは、やはり探索者たちの鍛えられた肉体だった。
昼に見たばかりだというのにリリオンの身体は濡れてまた違った色合いを帯びるようだった。
子供と大人の間にある肉体は、一瞬一瞬に揺らぎをみせる。
まだ幼い少女のように見えることもあれば、すっかり成熟した女性のように見えることもある。
触れるだけで壊れてしまいそうな華奢さと、迷宮を幾度も戦い抜いた強靭さが一つの身体に収まっている。
柔らかな肌にはいくつかの傷跡が残っていて、温められた肌が血色を良くすると、色が抜けて白い筋が浮かび上がる。しかしそれは少女の美しさを損なうものではない。人の手の加わらない自然の美しさが際立つようだった。
銀の髪が濡れていよいよ金属めいた光沢を帯びる。それを手慣れた様子で結わう、そんな何気のない仕草にミシャは同性ながら色気を感じてしまった。
後れ毛のうなじ。
背が高くて、脚が長くて、それが羨ましい。爪先が湯面を割って、身体が湯に沈む。
はあ、と息を漏らして目を細める。
緩んだ顔さえ綺麗だった。
「今日も寒いな。雪が降るかもしれないな」
レティシアは皆で囲む夕食の途中に帰ってきた。
黒曜石のような肌は、封星石に負けず劣らず艶やかだった。湯の底に沈む星々の燦めきが彼女の肌に反射するようだ。
リリオンと同じで引き締まった身体をしているが、レティシアにはもう少女には戻れない、はっきりと大人の色気がある。
丸い肩にくびれた腰。起伏に富んだ身体付きは精巧な彫刻のように豪華だった。後天的に生えた竜角や竜尾さえ、生まれ持ったものであるかのように馴染んでいる。
いや、気にならないというのが正しいだろうか。
竜角に結露した水滴が滴り、顔を濡らした。ただそれを拭うだけなのに、獲物に食らいついた竜種が舌舐めずりするような迫力があった。だが何をしても下品にならない。
そういったものに負けぬ美貌と気品が彼女にはある。
「もっとか? 今日は特に丁寧だな」
「うん。おそとであそんだから」
ガーランドが、ローサの身体を洗うのを手伝っている。
ローサは全身を泡だらけにして、耳の裏や尾の付け根、足指の間まで余すところなく身体を磨いている。潔癖さを感じさせるほど丁寧だった。
彼女たちだって、探索者だ。
ローサは下半身の立派な虎体に目を奪われがちだが、少女である上半身もこの頃はしっかりとしてきた。背中を洗おうと背後に回された、その二の腕にまだ柔らかそうな力こぶがある。
「ローサはなぜそんなに丁寧に洗うんだ?」
ガーランドの身体は研ぎ澄まされている。半透明の異形の髪よりも、余分なものが一つもないその身体にミシャは驚く。
ランタンの身体に少し似ているかもしれない。一見すると線が細く見えるが、抜き身の刀のような物騒さがある。
「ローサにはね、おねえちゃんがいたんだよ。おねえちゃんはね、ローサのことをたいせつにまもってくれたんだって。おにーちゃんがいってたよ。だからローサも、ローサのことをたいせつにするんだよ」
全身をすっかり泡だらけにして、その下半身を羊のようにしたローサは鏡に映った自分の姿を見て満足気に笑った。親指と人差し指をくっつけて円を作ると、しゃぼん玉を膨らませる。
「だからゆーれーを、あらったげる。ローサがあらったげるね」
「だから?」
自分の身体から泡をたっぷりこそぎ取って、それをガーランドの背中にぬりたくった。
ガーランドは戸惑っている。
ミシャは掛け湯だけ済ませると、隠れるみたいに湯に浸かった。
湯の温度は熱めで、指先がじんじんと痺れた。水辺に潜む蛇のように顔だけ出して、ミシャは溜め息のような息を漏らした。
すぐ隣にリリララがやってきた。
湯の中で肌が触れ合う。ずいぶんと親密な距離だった。
「わかるぜ、その気持ち」
垂れた兎耳ごと髪を掻き上げて、リリララはうんうんと頷きながら、見透かしたように言った。
「そんなんじゃないわよ」
「そうか? あたしはどんな気持ちか言ってねーけど、思い当たる節でも?」
にやりと笑ったリリララをミシャは半目に睨みつける。
「意地悪ね」
「ははは、ご主人さまに似たかな」
自分の抱えているものは劣等感だった。
ミシャは湯で肌を洗う。自分の身体を撫でると、掌には皮膚と鱗の二つの肌触りが交互に感じられた。
有毒種の蛇人族。
かつてはこれが劣等感の源だった。公衆浴場も行けないぐらいに隠したいものだったが、今ではもう自分の一部だと受け入れている。
しかし一つ受け入れると、また別に気になるところが生まれる。この感情が一生なくならないのかと思うとうんざりしてしまう。
ミシャはじゃぶじゃぶと顔を洗う。
「どーん!」
「こら、ローサ!」
ローサが湯に飛び込んで、天井まで届く盛大な水柱が立ち上がった。
リリオンが叱ると、ローサは笑い混じりの悲鳴を上げながら鰐のように泳いで逃げる。
湯面が波立った。大きな波に煽られてミシャの身体が流され、リリララとぶつかってしまう。
「ごめん」
「いいってことよ」
リリララは背も同じぐらいで、下半身は兎人族らしく肉付きがいいが、上半身は肋が浮くように華奢だった。
上下の対比で痩せすぎているように見えるし、ミシャよりも薄っぺらいのは見間違いではない。
だが大波にも平然としている。
さっとミシャの肩を抱いて支える。
力強さを感じた。
「男だったら役得なんだけどな。――いや、女でもこれはなかなか。御利益がありそうだ」
ミシャの豊かな胸が、リリララに触れて柔らかく形を変えた。
身体を離そうとするがリリララは肩を抱いて放さない。わざとらしく身体を揺すって、その膨らみを堪能するようだった。
「や、め、て! ああん、もうっ!」
「へへへ、いいじゃねえか減るもんじゃないし」
たちの悪い酔っ払い、いや、まさしくたちの悪い探索者のように絡んでくる。
ミシャは力尽くでどうにかリリララを引き剥がし、守るように自分の身体を抱きしめた。
「自信持ちなって。負けちゃいないぜ」
リリララは屁とも思っていないようで、ミシャの背中をばんばんと叩いた。
「だから、そんなんじゃないって」
「――なんだ、喧嘩か? どうせリリララが吹っ掛けたんだろう」
「え、喧嘩はだめよ」
そんな風にじゃれているのを聞きつけて、リリオンとレティシアが近寄ってくる。
「ローサもいーれーてー」
四人で集まっているともちろんローサもやってきて、そうするとガーランドだって付いてくる。
広々とした風呂の片隅に六人が密談するように肩を寄せ合った。
「それで喧嘩の理由はなんなの?」
「喧嘩じゃないからリリオンちゃん」
小首を傾げるリリオンの、淡褐色の瞳は透き通っていて気遣わしげだ。
「いやあ、聞いてくれよリリオン。ミシャったらこんな立派なもんを持ってるのに自分の身体が不満なんだって」
「不満?」
「そうだ、お嬢たちに劣等感を抱いてるんだ」
「そうなのか?」
レティシアも不思議そうに首を傾げた。
他意のない視線にミシャは少し自分が惨めに思える。おかしいな、と思うのだが、気持ちが上手に整理できない。
「そりゃそうだろう。こんなもん持ってるのに他の誰に気後れするんだよ。ああ、やだやだ。自分が特別美人だって自覚がないのかよ」
「あるぞ。私はどこから見たって美人だろう」
レティシアは胸を張るわけでもなく、当然のことのように言った。そしてその上で首を捻る。
「だがミシャだって美しいだろう」
レティシアは、なあ、とリリオンに同意を促し、視線を再びミシャへと向ける。
緑柱石の視線を真っ正面から受けると、ずいぶんと仲良くさせてもらっているが、それでもミシャは微かな緊張を憶えた。蛇に睨まれた蛙のように動くこともできない。
「私はこの髪が羨ましいな」
レティシアがミシャの髪に触れる。
「リリララと違って胸はあるから」
「うるせえ」
ミシャは驚いてしまう。
濡れた黒髪は重たげになお黒くなり、丸い頭の形のままにぺたんと張り付いている。普通で、地味で、とても羨ましがられるものではないと思う。
「そんなこと、初めて言われました」
「真っ直ぐで綺麗な黒髪じゃないか」
仕事柄、邪魔にならないように首が隠れるぐらいの長さで短く切っている。ずいぶんと子供っぽい髪型だ。
反面、レティシアの紅髪は長く伸ばされ、緩く波打っていかにも女らしい。濡れて色を濃くすると、咲き乱れる薔薇のような華やかさがある。
「わたしはお目々がいいな」
リリオンがすぐ近くまで顔を近付ける。
「丸くて、大きくて、可愛い」
リリオンの瞳だって羨ましいぐらい綺麗だ。色が薄くて宝石のように見える。
「ローサはうんてんするのがかっこういいとおもう」
「ガーランド、お前は?」
「……牙か。いや、毒だな」
「らしいな。あたしはもちろんこれだ。そりゃランタンも夢中になるはずだ」
ランタンの名前を出されて、ミシャはどきりとした。
そうだ。結局ランタンのせいだ。
なんて罪な男の子なんだと、少しばかり腹立たしくもなる。
「ミシャ、おいで」
レティシアが招きながら、むしろ強引にミシャを引き寄せた。
膝の上に乗せられて、幼子のように抱きかかえられる。
「レティさま――!」
「私たちはもう姉妹も当然だよ。ミシャはリリオンよりはお姉さんだが、私にとっては妹だ」
心の底を見透かされているようだった。
劣等感は、彼女たちの美しさに対して感じたのではない。
探索者ではない自分は、はたしてランタンの隣に並ぶに足る存在だろうかと、そんな考えがふと頭を過ぎって以來、ずっと消えないのだ。
「その不安、私もわかるよ。ほんの少しの先輩だがな。嫁入りとはそういうものさ。よしよし、いい子だ」
レティシアの身体はすべすべして、柔らかいのにしっかりしていて温かかった。
遠い懐かしさが肌に思い出された。
あれは母の、アーニェの胸の中に記憶だろうか。
「今は姉の胸で我慢しておくれ。まったく、我々の夫はどこでなにをしているのか」
「……ううん、いいんです。それがランタンくんだから」
今頃、ランタンはルーと寒空の下にいるはずだった。
花街の夜は明るい。
大通りに連なる大店はこれ見よがしに看板を照らし、酔客たちが一夜の温もりを求めて虫のようにふらふらと光に誘われる。
ランタンは屋根の上に潜んでいた。大通りの二つ向こうの通りだった。たったそれだけ離れただけで、大通りの明るさも喧噪も他人事のように遠くなる。
夜の闇の中に幾人もの女の姿がある。
衣装を着崩し、冬の寒さに肌を晒している。客を待っている女たちだ。それ自体が光るように、夜闇の中で肌の色が妙に目立った。
女たちは、進んでやってきたというのに迷い込んだような素振りの男たちに声を掛け、さみしげな袖を引く。
近くで殺人があり、その犯人も捕まっていないというのに、それでも女たちは客を求める。そうしなければ生きていかれない。
男は立ち止まって女の姿を上から下まで一瞥し、引かれた袖を振り払ったり、あるいは女の求めに応じたりする。
振り払われた女は悪態をついたり、しつこく男を追ったりするが、ある程度の範囲から向こうに男が行ってしまうと追うのを諦める。
もぐりの娼婦だが場所割りは決まっているようだった。
そんな女たちに混じってルーが立っていた。
殺された女の一人、その場所を借りている。
微かに俯く、物憂げな表情には奇妙な色気がある。それに一人の男が寄ってくる。
「……お高く止まりやがって、売女のくせに!」
ルーが袖にすると、声を掛けてきた男は罵声を浴びせて、暴力さえ振るおうとする。それをさっと躱し、男の足を引っ掛けて転ばせた。
男は顔中を真っ赤にして、捨て台詞を吐いて去っていった。
ランタンはその一部始終を見下ろしていた。吐いた息が氷のように真っ白だった。
それでもルーや、あの女たちに比べれば着込めるだけ温かかった。
殺されてしまった娼婦たちと比べれば、寒さを思えるだけ幸運だった。
その日の夜に起こった出来事といえばそれぐらいのものだった。
それでも諦めず、夜ごとルーは通りに立った。三人の殺された女たちの亡霊のように。
四日目の夜はことさら寒い夜だった。
朝から厚い雲が空を覆い、夜になれば幕を下ろしたように辺りは暗く、やがて雨が降ってくる。
しばらく雨に打たれなければ降っていることにも気付けぬような小雨だが、それでも濡れた身体は痛むほどに冷たくなった。
さすがに男たちは訪れず、女たちも闇に溶けるように消えていった。
その場にルーだけが残された。
闇の中に白い息を吐く。
そんな彼女に声を掛ける男が一人、どこからか現れた。
ランタンは屋根上から、猫のように目を見開いてそれを注視する。
姿を隠すようなゆったりとした衣服にフードを被っている。それは変異者によく見られる格好だった。
武装しているようには見えないが、短剣ぐらいならば隠せるだろうか。
体型は中肉中背、やや猫背気味で、呼吸の速さが立ち上る息の白さに見て取れる。
興奮、あるいは怯え。変異による呼吸器の変形のせいかもしれない。
「旦那さま、お寒い夜でございますね。こんな夜に物好きなこと」
ルーがそれらしく声を掛けた。
男を誘う声は、つまりその男が犯人の可能性が高いとルーが判断した証拠だった。
「……いくらだ」
闇の中に響く男の声。低いが、急くようでもある。懐から取り出した銀貨を親人中の三指で握り、それをルーの掌に落とした。
二人が路地に消えていく、その姿をランタンは追いかけた。
ルーが先に行き、男が後ろを追う。
「旦那さまは探索者さまでいらっしゃいますか?」
「……」
「この辺りにはよく遊びにいらっしゃるのですか?」
「……」
ルーの声ばかりが聞こえる。無言を貫いているわけではない。男はひどく小声だった。
ランタンは男の背中に、かすかな怯懦を感じ取った。
いったい何に怯えているのか。
路地裏の行き止まり。
もぐりの娼婦の仕事場に辿り着いた途端に、男がルーの背中に組み付いた。
ランタンが飛び出そうとすると、ルーと目があった。
「旦那さま、お急ぎにならないで。わたくしは逃げはいたしませんわ」
「ほんとうか。おれを受け入れてくれるのか」
「はい。ですからお聞かせください。――なぜ殺したのです」
男の背中が波打った。獣の毛が逆立つように。
殺した女に問い掛けられたかのような反応だった。
「違う、おれは。おれはただ」
はっきりと男の声に戸惑いと、そして狂気が滲んだ。
「違いません。この場所に覚えがあるはずです。この場所であなたは何を」
「おれはただ、ただ抱きしめたかった、だけなんだ――」
ルーの顔に一瞬の苦痛が浮かぶ。
後ろから組み付かれたまま、しかしそれでも男の腕の中で身体を回し、零距離から男の胸を打ち抜いて拘束を振り解いた。
鮮血が舞った。ルーの背中が掻き切られていた。
剣でも、爪でもない。
男の指が変形している。
両手で薬指と小指が一つに癒着し、長く伸び、鎌のような刃物となっていた。根元から指を曲げ、前腕に沿わすことで隠していたそれが今は剥き出しとなっている。
「お前も、けっきょくおれを受け入れてはくれないのか。お前も!」
男の声が怒りを孕んだ。
先程まであった怯えを、すっかり塗り潰してしまうような怒りだった。
肉体は変異し、そして精神も器たる肉体に従うようにまた変異する。
変異者は精神的に不安定なものが多く見られた。そしてそれは容易に凶暴性や、攻撃性に結びついた。
彼ら自身にその衝動を止める術はない。
男がいきなりルーに斬りかかった。
「もうこれ以上の殺しは許さない」
割って入ったランタンの戦鎚が、男の一撃を食い止める。
もはや男の指は肉ではない。それは鋼以上の硬度を持つ凶器だった。
がちっと音を立てて火花が散った。フードの下で血走った目をした男の顔が照らされる。
「なんなんだ! なぜそんな目で見る!」
男は探索者だったに違いない。その腕には探索者証が嵌められて、その一撃は人体を両断しうる威力が込められている。
「うお!」
予想外の威力に戦鎚で受けたランタンの身体が弾かれる。
咄嗟に固めた腹筋に、男の前蹴りがまともに飛び込んできた。
ランタンの顔が苦痛に歪む。
男の追撃をルーが阻む。踏み込んで男の攻撃を弾き、腕を取って投げ飛ばす。男は獣の身のこなしで起き上がる。横一閃。ルーは急停止し、後ろに倒れるようにどうにか躱す。
入れ替わりにランタンが殴りかかる。
男は戦鎚の横振りを紙一重に躱し、即座に反撃に転じる。その最中にルーへの牽制も忘れない。
思考してはいない。肉体に染みついた戦闘技術だった。
強い。
いくつも迷宮を攻略した高位探索者だったのだろう。
そんな強い男でも変異がもたらしたものに抗うことができなかった。
「なぜ、おれを、なぜおれを!」
菓子を一つしかもらえなくてなんでなんでと駄々をこねる子供のように、男はそう繰り返す。
距離を空け、息を入れる。冷たい空気に肺が痛む。
「ルー、傷は?」
「掠り傷でございます。ランタンさまは」
「靴跡がついただけだよ」
本当はかなり痛んだ。腹の中に重たい鉛の塊が居座っているようだ。
雨が次第に強くなりつつあった。指先が悴む。身体が冷える。
「もう逃げ場はない。もうこんなことは止めるんだ」
「なぜおれを、なぜおれがこんな目に!」
男が振り返った。行き止まりの壁を切り裂いたかと思えば、いきなり逃げ出した。
あれほどの攻撃性が再び反転して怯えとなったようだった。
「逃がしませんわ!」
その背中を追いかける。
この寒さにこの雨でも、大通りは明るく賑わっている。
客は探索者ばかりではなく、普通の男たちもいるし、もちろん男があぶれぬだけの女もいた。
あの男がそこに飛び出せば、いったい何が起こるかわからない。見境なく殺し回るだろうか。
「待て、そっちは――!」
ランタンが怒鳴る。
その声を聞いたわけではないだろう。だが男は突如、方向を転換した。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ――!」
男はもう言葉もなく、呼吸を荒らげているばかりだ。
どこにも逃げ場がないと悟ったのか、再び足を止めてその異形の鎌を構える。痙攣に似て震えている。
男はランタンとルーの二人相手によく戦った。
だが数と実力差は覆らない。
男は路地に倒れ込む。左の足が変な方向に曲がっている。腕の力でどうにか身体を起こし、壁に背中を預けて支える。外れたフードから三十頃の男の顔が現れる。
ランタンとルーは、二人とも手傷を負っている。
ランタンは出血した脇腹を押さえる。血がずいぶんと温かい。
ルーも肩で息をしていた。背中からの出血が雨に希釈され、足を伝っている。
「おれを、どうする気だ」
「騎士に渡す」
「たのむ、おれを――」
見逃してくれ、とでも言おうとしたのだろうか。その口元が凍り付く。
雨を踏み付ける足音がいくつも聞こえてきた。男の身体が震える。
「ギルドです。花街の」
ずいぶんと都合のいい登場だった。ランタンとルーがこの男を捜していると知って、二人のことをどこからか監視していたのだろう。
「そうか。――とまれ、何の用だ!」
ランタンが声を張り上げると、娼館ギルドの治安維持隊は一定の距離を空けて立ち止まった。傭兵部隊のように好き好きに武装をしている。
「その男を渡してほしい。探索者ランタン」
一人の男が前に出た。比較的若いが、指揮者なのだろう。
「なぜだ?」
「俺たちもそいつを捜していた。その男が娼婦殺しの犯人だからだ。我々の敷地内で起きた事件だ。裁く権利がある」
「どう裁く?」
「そいつは三人殺している。死罪だ。通りに吊し、事件が解決したと知らしめる。でなければ女たちの不安は晴れない。安心して男と寝ることもできん」
騎士に渡したとしても死罪は免れないだろう。立場によって命の値段は変わる。しかしもぐりの娼婦でも三人殺せば、その罪は命で購うしかない。
「たのむ」
男がランタンに声を掛ける。
「たのむ、おれを、殺してくれ。たのむ」
人前に出ることをこの男はひどく怖れている。
だから明るい大通りには出ることができなかった。
男の声には切実さがあった。
「ランタンさま……」
「ランタン、その男を渡せ! こちらもお前と事を荒立てたくはない!」
ランタンは大きく息を吐いた。
戦鎚を腰に結び、男を抱き起こした。
ゆったりとした服の下で、その肉体は歪だった。肉の柔らかさではない。
「なぜ、おれは、こんな姿に。なんのために、こんな姿に」
探索者の変異はサラス伯爵領の戦闘を収めるために、戦場に身を投じたがゆえに起きたものだった。
彼らは勇者たる戦士だった。
しかしそんな戦士を人々は怖れ、嫌う。その異形ゆえに。
「ランタン、男をこちらに寄越せ。寄越すんだ!」
「なぜ、なぜ、なぜ……」
ランタンは男の疑問に沈黙し、雨に濡れて冷たい身体を強く抱きしめてやった。
「――確かに、渡したからな」
ランタンは男の首を指揮者の男に手渡した。
首から下の肉体はどこにもない。もうこの世のどこにも。
濡れた路地の一部だけが熱を持って乾き、降り注ぐ雨にまた熱を奪われていく。
「ルー、帰るよ」
「はい、ランタンさま」




