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陽が傾き始めてから、花街は賑わいを見せ始める。
日中の花街は大通りでさえ人通りはまばらだった。
立ち並ぶ飯屋や酒場は一応といった感じで営業をしているが、やはり本腰を入れるのは夜になってからだった。
どの店も二階部分は宿になっており、開け放った窓に布団が干しているのが妙に生々しい光景だった。
大通りから外れて路地に入ると、花街のあやしげな雰囲気は嫌が応にも増していく。
夜には暗がりの中に隠されているものが、差し込む陽光に晒されている。
「ふうん、鱗通り。そんな名前がついてるんだ。つまり、そういうこと?」
「はい、そういうことでございます」
肩を寄せ合うようなこぢんまりとした十数件の店の連なりは、通りと呼ぶにはあまりにも短い。
軒先の敷石もすり減った古い店構えをしている。
この小さな店の一軒一軒で蛇人族と蜥蜴人族の二つの人種が逞しく生活をしていた。
ここは彼女たちの領地であり、身を守るための要塞なのかもしれない。
どこからか臭う煙臭さにランタンがふと顔をあげると、店の二階の窓に肘を突いている女の姿があった。
煙草を咥え、紫煙を燻らせているのは蜥蜴人族の女であり、顔は茶と緑の鱗で覆われている。煙草を挟む指先もそうだ。
半透明の目蓋が下から上へと閉じた。
鱗に包まれていてなお、口元や目元に皺が見えた。喉の辺りが弛んでいる。だが化粧をしたり、部屋を薄暗がりにしたりすればそれも覆い隠されるだろう。
女がこちらを見下ろして、視線が合った。
ランタンは思わず会釈をする。
女は無表情に灰を落とした。灰が風にさらわれる。
「ランタンさま」
ルーに手を引かれ、ランタンは歩き出した。
「……悪いことをした。気分を害しただろうか」
「そうかもしれません」
興味本位に、こういった通りにやってくるものたちは少なからずいる。
そういったものたちは酒が入って気が大きくなっているのか、からかい半分に店を覗き込んだり、度胸試しのように彼女たちの一夜を買ったりするのだった。
単純に彼女たちが好みだというものもいた。
それが同種族ならば当たり前で済むが、そうでなければ変わりものだと後ろ指をさされる。鱗好きは一種の変態であり、公言できる好みではなかった。
この鱗通りが覆い隠しているものは彼女たちではなく、彼女たちを求めるものたちの欲望だった。そして隠したい欲望を隠すために、彼女たちは自ら隠れ潜むことを選んだ。
鱗通りを過ぎて、昼でも影の外れぬ裏路地へと二人は進んだ。
細い通りは複雑に枝分かれし、そしてその多くは袋小路になっている。
風が澱んでおり、冬でも妙な温さがあり、湿っぽく嫌な臭いがした。
今はもう一掃された下街の貧民街を思い出す。
そこは人の立ち入るべき場所ではないはずなのに、どうしても人の気配がこびりついて、それを感じずにはいられなかった。
「ここか」
袋小路には血を吸った土の黒ずみがまだ生々しく残っている。
「はい、ここです。ここで彼女は殺されたのです」
ルーはしゃがみ込んで、黒ずみに転がった石を積み重ねた。自然と倒れたのか、誰かが蹴っ飛ばしたのか。それは亡くなった娼婦の墓標だった。
肉体は共同墓地へ埋葬されたが、魂はまだここにあるのかもしれない。
ランタンは小さく丸められたルーの背中を見下ろし、両手を伸ばせば左右の壁に触れられる狭い行き止まりに、なんだか物悲しい気持ちになっていた。
土壁は冷たい。
左右の壁、そして突き当たりの壁が窪んでいる。子供が真っ直ぐ水平に手を伸ばしたぐらいの高さで削れている、
暗がりの中で、女が壁に手をつき、腰を屈め突き出す。男が後ろからのしかかる。
袋小路のそこら中で、そういったことが行われている。
そういった姿がランタンの脳裏に思い浮かんだ。
それがただの想像なのか、それともこの場所にこびりついた意識の流入なのか、ランタンには判断がつかなかった。
想像を振り払うようにかぶりを振った。
魔精は人の意思の溶媒である。地上は迷宮ほど魔精が濃いわけではないが、それでもまったくないわけではない。男女の交わりには妙な力が宿るとも言われている。
「はあ……」
ここはあまりにも寂しすぎる。
「彼女は、お店に勤めていたんだろう? なんでこんなところで」
こういった場所を使うのは勤め人ではない、いわゆるもぐりの娼婦たちだった。
ルーが振り返った。
哀しそうな、困ったような目をしていた。
「お金が必要だったようです」
「悪い男に貢いでたとか、借金があるとか、そういうこと?」
「いいえ」
ルーは立ち上がり、首を振った。
「派手好きで、金遣いが荒いとか」
「いいえ。子供のためです」
ランタンはやるせなくなって目を瞑った。
被害者は客との子を産んでいた。どの客との子かなんて、そんなことはわからない。
この世界の避妊技術はあってないようなものだ。どこの店でも軒先や柱には商売繁盛の呪符と一緒に不妊の呪符が大真面目に張り付けられていたりする。
そんな中で男と女が交われば、子供ができるのは当然のことだった。
だから避妊よりも、堕胎技術の方がよほど発達していた。
彼女は子を産んだが、一緒に住んだり、育てたりはしていなかった。産んですぐに教会に預けた、いや、捨てたからだった。それもそれほど珍しい話ではない。
「一目見て気が付いたと言っていました。自分の子だと。しかし直接に話すことも、正体を名乗ることもしていなかったようです。ただ毎月のお布施を欠かしたことはございません。休日の度に教会へ行き、熱心に祈りを捧げていたようです。毎朝、眠りにつく前に長くお祈りをするので同居人たちには少し気味悪がられておりましたね」
ルーは微かな懐かしさを滲ませる。
直接の支援をするのではなく、育ててくれている教会へ寄付をする。健気と言えば健気だった。
「こんなことまでして、こんなことになって。――とんだ自己満足だ」
湧き上がる哀しさを打ち消すように、ランタンはあえて冷淡に呟いた。
この場所は、やはりあまりよくはない。変に感傷的になっている。
彼女の行いは確かに自己満足であっただろうが、しかしそれをするだけの価値があるものだった。
それだけの価値を見出しながらも、我が子を手放さなければならなかったのはいったい何故だろうか。
「殺す必要が、何であるんだ」
「わたくしも、それを知りたいと思っております」
ルーの目的は敵討ちで、ランタンはその手伝いだった。娼婦の顔も知らず、何の思い入れもない。
だがランタンは犯人に対して怒りを覚えていた。
ここは殺しがあった三つの現場の、一番最後だった。
三つの現場は距離的にそれほど離れてはいない。
どれも複雑に入り組んだ路地のどん詰まりで行われているが、犯人がそこに誘導したのではない。
もぐりの娼婦ならばお決まりの仕事場だった。客を案内するのは彼女たちだ。
殺された娼婦に人種の区別はなく、全員が斬り殺されている。
目撃情報の聞き込みに収穫はない。
こういった通りで女を買うものたちは、大抵がこそこそしているものだし、あやしくない人物なんて一人もいない。
犯行は当然夜で、殺しの間隔ははっきりと短くなっている。
遠からずに第四の殺人があるだろう。
ギルドの方もぴりぴりしているようで、二人が帰ろうとするところに荒事の専門家のような三人組が近付いてきた。探索者上がりだろうか。そんな雰囲気がある。
事件を嗅ぎ回っている二人に対して、何事か注意をしに来たらしい。もしかしたら手っ取り早く暴力を使って追い払おうというのかもしれない。
しかし二人の内の一人がランタンであることに気が付くと、三人は目配せをして何食わぬ顔で壁際に身体を寄せた。
「失礼」
ランタンがひと言掛けてすれ違うのを、ああ、とかそんな相槌を打って見送った。
振り返ると、男たちはそのままこちらを見ることもなく去っていく。あっちに行っても行き止まりなのに、はじめからあっち側に用事があるみたいに。
「いい顔はされなさそうだな」
「ランタンさま?」
「まあ、いいさ」
いい顔はされないが、邪魔もされないだろう。
それがティルナバンにおけるランタンの評価だった。
鮮やかな冬の夕焼けは、ほんの僅かな間しか見られない。
娼館ギルドも犯人を捜しており、娼婦たちへ夜に気を付けるようにとおふれも出している。
彼らは花街の事情にも地形にも、ランタンたちよりもずっと詳しい。ランタンが手を出さなくても、この娼婦殺しの犯人をいずれ見つけ、事件を解決するだろう。
この事件にかかわるのなら、彼らに手を貸すという手段もある。しかし彼らはそれを断るだろう。
彼らは独立した組織であり、花街自体がそうであるように他者の介入を嫌う傾向にあった。
「自己満足か。まさにそうだな」
「やはり糸を垂らすのが一番でしょうか」
「そうだな。でも、ううん」
ランタンは腕組みをする。
それはつまり囮を用意するという意味だった。犯人は娼婦を買いにきた男だ。犯人が引っ掛かる可能性はあまり高くはなさそうだが、それに賭けるのが最も可能性が高いかもしれない。
よしんば外れたとしても現場の近くにいられるのならば問題が起こった時に動きやすい。
「やっぱりそれがいいか」
そう言いながら渋るような口ぶりにルーは小首を傾げた。
「なにか問題がございますか?」
「いや、きっと寒いだろうなと思って。冬によくあんなの穿いてられるよ」
ランタンの視線が往来のスカートに向けられるのに気が付いて、ルーは目を丸くした。
「ランタンさま、もしかしてご自身が囮になろうとしていらっしゃるのですか? 娼婦の真似事をして」
「え、でも、他に誰が」
「――わたくしが。もちろんランタンさまは確かに、そういったお召し物もお似合いになるかもしれませんが、けれど被害者は皆、もうすこし身体付きが豊かでございますし、もちろんランタンさまのような細身の女を好む男も多くございますが、いえランタンさまがそういった装いに興味があるのでしたら、わたくしもお目にかかりたいと思いますけれど、しかし――」
慌てたような早口に、今度はランタンが目を丸くする番だった。
ランタンにはもちろんそういった趣味はない。だが囮役は一番危険なので、ただそれを請け負うのは自分の役割だと思っただけだった。
ルーは何かを勘違いしている。
ランタンは捲し立てるルーの唇を指で塞いだ。柔らかく、吐息が熱い。
「じゃあ、ルーに任せる。そういった装いにはこれっぽっちも興味がありませんので」
「そうですか。そうなのですか……」
「なんでがっかりしてるんだよ。ルーってそういう人だったの?」
「いろいろなランタンさまを見たいだけでございます」
「へえ」
「そんな目で見ないでくださいませ」
ルーと二人っきりで出歩くことは少ないので、せっかくだから大通りを経由して遠回りをして帰ることにした。適当に店を冷やかし、屋台の前で立ち止まった。串に打った豚肉を売っている。リリオンの好物だ。
「食べていかれますか?」
「やめておく。もういい時間だし、お腹いっぱいにして晩ご飯食べれなくなったらよくないし。でも何かお土産買っていこうかな。晩のおかず一品増えるし」
ランタンはルーの顔を見上げる。
緑色の髪が揺れる向こうの空は、先程まで茜色だったのに、もう紺色になっている。
東の空から星がいくつも昇りはじめている。
「ルーは何か食べたいものある?」
「わたくしですか?」
「そう、わたくし。ルーの食べたいものを買って帰ろう」
「わたくしの食べたいものですか。本当によろしいのですか?」
「いいよ、よっぽど変なものじゃなければ」
「ううん、そうですわね。食べたいもの、食べたいもの」
ルーはたっぷり迷った挙げ句に、干した羊肉を選んだ。
細長く切った羊肉を香辛料に漬けて干したものだ。見た目は枯れ枝のようだった。そのまましゃぶったり、少し炙ったり、ぶつ切りにして炒めたりして食べる。かなりくせのある食べ物だった。
「こういうの好きなんだ」
「寒い日は刺激的なものが食べたくなりませんか?」
「なる。今日の晩ご飯、辛い鍋にしてもらおうかな」
「そういえば以前ミシャさまに連れて行って頂いた内臓のお店は辛くて美味しゅうございましたよ」
「リリオンから聞いた気がする。ぜんぜん僕とはそういうところ行ってくれないな」
「うふふ、殿方を誘うには色気がありませんもの」
「食い気さえありゃいいよ。色気なんか本人にあるんだから」
二人が並んで歩いていると、後ろからぶつかってくる人影があった。
「おにーちゃん!」
「うお」
それはローサだった。その背後で陶馬を連れたガーランドが、なぜだか己の掌を見つめている。
「いちいち突っ込んでくるな」
「これなに? なにかったの? たべもの? ローサもたべていい?」
「食べていいけど、夕飯まで待て。ガーランドに遊んでもらったのか?」
「うん、いっぱいはしったよ!」
「ローサさま、こんばんは」
「あ、ルー! こんばんは! あれ、いま、こんばんは? こんばんはであってる?」
「あってるよ」
「こんばんは!」
いっぱい走って興奮しているのか、ローサの声は大きい。
ルーはいちいちガーランドにも挨拶をするが、ガーランドは軽く顎を動かしただけだった。
「あ! おねーちゃんだ! おねーちゃぁんっ!」
ローサは通りの賑わいに頭一つも抜けたリリオンを誰よりも早く見つけると、地の果てまで聞こえそうな大きな声で絶叫した。
さすがにリリオンも恥ずかしそうにして、早足になってやってくる。
「ローサ、あんまり大きな声で呼ばないで。お姉ちゃん恥ずかしいわ」
「ミシャさんもいる!」
「ははは、無視されてる」
ローサはミシャに抱きつき、リリオンはランタンをじろりと睨んだ。
ランタンは指差してもう一度笑ってやった。
リリオンはふと表情を緩めると、ランタンの顔に手を伸ばした。そのまま眉間の辺りを指で撫でる。
「ランタン」
「なにこれ? なんかのまじない?」
「今日ずっと眉間にしわ寄せてたの? なんだか硬くなってるわ」
「そんなことはないと思うけど。ちょっと、もいいよ。名前叫ばれるぐらい恥ずかしいよ」
子供みたいに額を撫でられて、いい見世物だった。
わざわざ立ち止まってランタンたちを見ているものさえいる。これほど目立つ集団もないだろうから、それも仕方がないといえば仕方がない。
全員で帰路についた。
「ねえリリオン」
「なに?」
「晩ご飯って決まってる?」
「あら、なにか食べたいものがあるの?」
「うん、辛い味付けの鍋食べたいんだけど。だめ?」
「辛いお鍋? 寒いからいいかもしれないわね。いいわよ。みんなもそれでいい?」
リリオンが尋ねると、みんながそれに頷いた。
「からいおなべでいいよ。カレーでもいいよ」
ローサがそう言ったので、辛いカレー鍋に夕食が決まった。




