039
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ゆっくりと金属製の扉が開かれると蝶番が悲鳴を上げた。踏み込むと安物の魔道光源特有の濃い橙色の光と放熱が三人の身体を撫でる。それに混じって埃っぽい据えた臭いがして、ランタンとテスが揃って顔をしかめた。一人は種族的鋭敏な嗅覚故に、もう一人は性格的潔癖により。
倉庫の天井は高く、採光窓が並んでいるものの汚れで曇っている。奥の壁にもう一つ扉がある。入り口は今し方通り抜けたもの一つだけなので、もう一部屋あると言うことなのだろう。正方形の空間が二つ並んだ造りになっているようだ。
住処は構成員の居住区も兼ねていたようで雑然と家具が置かれて、パイプを組み合わせただけの粗末な三段ベッドなどが隅に並んでいる。酒瓶や何やらが床に散らばり、破落戸を煮詰めたような物騒なカルレロ・ファミリーの構成員たちがそこかしこに蠢いていた。リラックスしていたという風ではないが、準備万端とも言えぬ半端な空気があった。
「遅いぞっ――!?」
入った途端に向けられた声は酷く苛立ちを感じさせて、金属を擦り合わせたような神経質さが耳に障った。それは扉から入って来るはずだった他の誰かへと向けられた怒声であり、決してランタンたちに向けられた物ではなかった。その証拠にその声を発した男は三人の姿を捉えるその表情を驚愕に歪めた。
先頭に立つテスから背の高いリリオンへ、そして小さなランタンへと視線が動き、その存在をようやく脳がしっかりと認識したのか、男は驚愕の表情から更に目を剥いた。目玉がこぼれ落ちそうだな、とランタンは思った。
気のせいかと思える程の一瞬だけ浮かんだ色は恐怖だろうか。だがすぐに憎悪へと塗り替えられた。
後ろに撫でつけた白金色の髪、狭い額、濃い眉毛、暗灰色の瞳、鼻筋の高い鷲鼻、厚い唇。右頬に凄味のある傷跡があり、無精髭が散っている。左右のもみあげが顎の下で繋がって、顎の輪郭に男らしさを添えている。見開いた目がはっきりとした二重だ。
想像よりも色男だな、とランタンは男を見つめる。もっと神経質そうな優男かと思っていたら、彫りの深い野性味溢れる二枚目だ。細かい鱗を重ねた胸当て、右手は肘まで覆う手甲をして、弓が傍らにある。
倉庫内にあったざわめきが、注がれる視線が増えるにつれて波のように引いた。人数が多い。先の襲撃よりは一割増し。ランタンは平然とその視線を受け止めながら、リリオンが息を飲んだ音を聞いた。
テスがゆったり肩を揺らしてくつくつと堪えきれぬように笑った。男の眼球がぐりんと動いてランタンからテスへと移動した。
「おや、飛び入り参加を咎められるかと思ったが、どうやら知らぬ間に待たせてしまっていたようだな。くふふ、それは悪いことをした。これでもそれなりに急いでは来たのだ」
場の空気がテス一人に飲まれていた。安い光源がまるで職人技によって操られる照明のようにテス一人を照らしているようだった。
その凜と背筋の伸びた背中から、揺らめく覇気のようなものをランタンは幻視した。有象無象の構成員たちが初めて死体を見た少女のように息を飲む。テスが鋭く目を細めた。
睨まれた男、――エイン・バラクロフの唇が痙攣する。テスはハスキーな声で冷厳に告げた。
「乙種探索者エイン・バラクロフ、貴様は遵守すべき探索者ギルド法を犯した。探索者ギルドの一員でありながら反社会勢力に身を置き、あまつさえ迷宮を攻略するための力を共に高め合うべき僚友へと向けた。その罪、知らぬとは言わせんぞ」
テスはその手に構えた剣の一振りを真っ直ぐにバラクロフへと向けた。断罪の刃は清廉さを湛えるように白く、だが艶めかしさがあるほど薄い刀身を光らせた。
「探索者ギルド、治安維持局、第三部隊隊長テス・マーカムの名に於いて貴様の罪を裁く。抵抗は無駄と知れ」
バラクロフの唇の震えが大きくなり、頬の傷が引きつった。唇が捲れ上がり牙を剥くように口を開いた。
「――こっのっ、ギルドの犬めっ!!」
「口の利き方には気をつけた方がいい。私への侮辱はギルドへの侮辱と同じだ。これで貴様を斬るべき理由が一つ増えたな」
「何をぼさっとしてる、殺せぇっ!」
雑な指示だ。こちらにはリリオンも居るというのに。それだけ頭に血が上っているのか。バラクロフは懐から何かを取り出すとそれを投げつけた。それは構成員たちの足元で割れて、薄い煙幕のように辺りに靄が広がり舞い上がった。構成員たちが一斉に深呼吸をして、それを吸い込む。異様な光景だ。
「興奮剤だ」
テスが鼻をひくつかせて小さく呟いた。ランタンは、平気です、と冷静に答えたが、鼻の奥がピリピリしてくしゃみが出そうだった。
指示を飛ばされた構成員たちは思い思いの武器を手にとって、一瞬でその様相を一変させた。テスの宣告を恐れながら聴いていた表情から、牙を剥いた獣の顔へ。それは蹴散らした薬物中毒者共の顔とダブって見えた。
戦闘に移行するまでが早い。男たちはきっちりと武装しているし、その姿は住処で寛いでいたと言うには物々しすぎる。バラクロフは失った戦力を補充して反撃をしようとしていたのか、あるいはもともとここに誘い込むつもりでいたのか、と言うような所だろう。
「フリオへの礼は無しにすべきかな」
「さあ、どうでしょうね」
だがどちらにしろ中途半端だったのは間違いないだろう。辺りにはフィデル・カルレロの牛頭は見当たらないし、貫衣らしい姿も見当たらない。貫衣はその衣を脱いでしまっているだけかもしれないが。
ランタンは戦槌を手の中でくるりと回して、リリオンの構えた盾をごんと叩いた。リリオンはビクリと身体を震わせる。ランタンの顔を真っ直ぐ見つめて大きく瞬きをした。それからランタンに聞こえるほどはっきりと深呼吸して、身体の強張りをゆっくりと吐き出した。世話の焼ける子だ、とランタンは微笑んで見せた。
「格好いいテスさんにも見とれるのもいいけど、僕もちゃんと居るんだからね」
「……うん!」
男たちはじりじりと包囲網を狭めていて、遠目からバラクロフが弓を構えていた。複合材の屈曲型短弓は漆黒の本体に赤い弦が張られていて、まるで毒蛇のようだった。
きん、と金属的な響きの弦鳴りは、ランタンが目の前に飛び込んできた矢を払った後に聞こえた。砕けた矢の破片に目を細めて、ランタンは低空を飛ぶように駆けた。一瞬遅れてテスとリリオンが、そして男たちが動き出した。
ランタンは取り敢えず手近な男に戦槌を叩きつけた。男が剣で受けて、それが砕ける。止まらず胴に叩きつけられようとする戦槌を男は身体を仰け反って躱した。男は砕けた剣で殴りつけるように斬りつけてきた。
ランタンは斬りつけを潜り込んで避けて、男の首を鷲掴みすると同時に気道を握り潰し、その身体を振り回した。射られた矢を男の身体で払いのけたが、遠心力で男の喉がぶちりと千切れた。ランタンは手の中にある肉片を投げて、リリオンを狙った男の目潰しとした。血の色が濃い。
薬物中毒者よりも動きの良かった素面、それよりも男たちはさらに動きがいい。傭兵稼業は伊達ではないと言うことか。
ランタンは片目の端でバラクロフを確認しつつ、もう片方の目でリリオンの心配もしていた。テスさんは、と一瞬だけ見てすぐに目を逸らした。テスへの心配など、身の程知らずのすることだった。
漆黒の狼は獲物を確実に屠っている。
その手に持った二振りの剣は男たちの防具の隙間へ水のように滑り込み、そこにある命を刺し貫いた。襲いかかる剣戟はまるで彼女を捉えことができない。恐るべき業物の剣であり腕前だった。そして戦いながらテスもリリオンを気にしてくれているようだ。
テスは番犬のように少女の死角を補い、その周囲から離れなかった。
ありがたいことだ、と思いながらランタンは袈裟斬りをしゃがむように避けて、また撃ち込まれた矢を飛び退いて躱した。すると目の前で別の男が斧を振りかぶっている。振り下ろされた斧をランタンは戦槌で受け止める。柄が掌に食い込むほどに重たい一撃。また別の男が動きの止まったランタンの背中へと薙ぎ払いを放った。
「くっ」
ランタンは両手で支えていた戦槌から左手を離し、斧の柄を取って引きずり回すように位置を交換した。斧男の背中に剣が半ばまで斬り込まれ、ランタンは胴に蹴りをたたき込み脊椎を砕きつつ、後ろの男を巻き込んで吹き飛ばした。手の中に斧だけが残った。
伸びた蹴り足に剣が振り下ろされる。足だけを引くことはできない。ランタンは腰を捻ることで伸ばしたままの足を引っこ抜き、斬り下ろしを辛うじて避けるとそのまま男の顎に後ろ回し蹴りをたたき込んだ。顎が砕け、首が折れた。仰け反って崩れ落ちる。その寸前。
その身体が動死体のようにぞわりと飛びかかってきた。
「なっ――!?」
突然のことにランタンの身体が一瞬止まった。なんと言うことはない、男の後頭部に幾つか矢が突き刺さっているのだ。倒れる途中に撃ち込まれたそれが、死体を前のめりに押し出したのだ。それを理解した瞬間には、まるでばらまいたかように幾つもの矢が射られていた。
ランタンは後退りながらそれを払い、だがさらに次々と矢が飛来し、さらに後退を余儀なくされた。そして大柄な男に退路を断たれた。獲物を待つ蠅取り草のように、諸手を開いている。だがそれが閉じられることはなかった。
ランタンは目線だけで振り返ったかと思うと一気に身体ごと反転し、握ったままにしていた斧を顔面に叩き込む。そして崩れ落ちる男の股下を前転して掻い潜り、身を屈めて男たちの間を駆けた。だがバラクロフの目から逃れることは出来ず、やはり矢が撃ち込まれる。バラクロフはテスやリリオンはまるっきり無視して、ランタンばかりを狙っている。
「くそう、何なんだよ」
ランタンは悪態を吐きながらフリオの語った情報を思い出していた。
独善的。そこそこの指揮。そして的確な射撃。まさしくその通りだ。
味方の攻撃への援護。ランタンの反撃への牽制。嫌なタイミングでランタンを狙う射撃は正確無比と言っていい。男たちの隙間を通して、ランタンに向かって一直線だ。指揮に関しては乱戦となっているので適宜修正できるわけではないが、数を揃えてそれで押すのは正攻法と言ってもいい。構成員の質もそこそこいいために厄介であることに違いはない。ただそれに固執していると言うべきか、融通の利かない辺りが、そこそこ、の所以なのだろう。正攻法といえども三度目である。
そしてただ一人、乱戦から遠ざかり弓を射る。時に仲間の死体を道具のように使い、いやここに居る全ての構成員はバラクロフにとっては自律する囮であり、己を守る盾であるのだ。忠誠心故か、それとも薬物によって操っているのか、男たちはバラクロフに従順である。探索班からは追い出されたが、ここではそんな心配がないようだ。
フリオ、いやジャックはよく調べてくれた。だがそれならばこの敵意の理由も教えて欲しかった。
ランタンは自分に向けられる敵意の理由に心当たりがなかった。物覚えが良い方ではないので自信はないが、バラクロフとは初対面の筈である。バラクロフは探索者ギルドに寄りついていなかったようなので、勧誘を手ひどく振ったと言うようなこともない。
ランタンは乱戦の中を遊撃していたが、気が付けば壁が背中にあった。視界の端にいるバラクロフを真っ正面に捕らえて睨み付けるとバラクロフは笑った。勝ち誇ったようにも見えるし、安堵したようにも見える。ずいぶんとせっかちなことだ。
バラクロフが矢を放った。後ろは壁で斜め前方から二人、左右から二人男たちが突っ込んでくる。まるでバラクロフの矢であるかのように。
「はっ――」
ランタンは攻撃的に笑った。ランタンの小躯に陽炎のごとき揺らめきが立ち上り、何もかもが突き刺さるその直前に大気が爆ぜた。爆音は、鼓膜を揺らす澄んだ耳鳴りに掻き消された。その真白い閃光の中で、ランタンの瞳が鮮やかな赤を湛えて浮かびあがった。
まるで地震のように倉庫が震えて、吊された魔道光源が大きく揺れた。ランタンの周囲の壁や床が焦げ付き、また硝子化してひび割れた。急速な燃焼により膨張した大気が巻き起こす爆圧に矢が明後日の方向へと吹き飛び、男たちの身体は体表面は焼け千切れ、骨が砕け、内臓が破裂した。
「出し惜しみは、するものじゃあないね」
ランタンは自らの発した熱によりひび割れた唇に舌を這わせた。
爆発能力は強力で、それ故に高揚感の呼び水でもある。ランタンは頬を引きつらせたバラクロフに牙を剥いて笑いかけた。
興奮と喜びは別である。その証明は暇になった時に考えるとして、取り敢えず今はそうだ、とランタンは決めつけた。もしかしたらバラクロフのばらまいた興奮剤の影響も少しあるのかもしれない、と言い訳するように考える。
興奮しているのは奴らもか。
爆発の衝撃が収まり、その破壊力を見たのにも関わらず男たちが吠えながら走ってきた。だがそこにバラクロフの矢がなく、人数は二人。片手落ちどころの話ではない。
衝撃は失せ、だがランタンを守る鎧のようにそこにある熱波に肌を焼きながら男たちが向かってくる。ランタンが横一文字に戦槌を薙ぐと男たちの胴体が丸ごと弾け飛び、その頭部だけが慣性と重力によって落下しながら前進して、すれ違うランタンと一瞬目が合った。その瞳に恐怖はない。ランタンは、ふん、と鼻をならした。いい根性をしている。
逃げも隠れもしないと宣言するようにランタンは跳び、テーブルの上を駆けて、バラクロフに向かった。迫り来るランタンにバラクロフが険しい顔つきで、慌てたように矢を番え、けれども正確に射った。何度も、何度も。ランタンは尽くを戦槌で叩き落として進み、また鶴嘴を掬い上げ足元の男を引っかけて投げ飛ばして盾とした。
風切り音が耳を撫でる。一つの矢が肉の盾を通り抜けて耳たぶを僅かに掠めた。だがランタンは止まらない。
皮肉気に頬を歪める。ランタンはまるで矢のように真っ直ぐ、バラクロフに肉薄すると戦槌を横に薙いだ。
「っ!」
バラクロフが咄嗟に矢を手放し、短く息を漏らしながら腰に佩いた小剣を抜き放ちその一撃を止めた。思わずランタンは目を開いた。頑丈な小剣だと言うこともあったが、腐っても探索者と呼ぶべき体捌きだった。バラクロフはただ剣を弾かれただけかもしれないが、するりと戦槌をいなす。弾かれるように地面を向いた鋒が、力任せに斜めに振り上げられた。
速い。身体の泳いだランタンはがら空きの胴を庇うように、反射的に左の掌でそれを受け止めた。
一瞬をさらに薄く切り取った刹那、掌の上で剣が完全に停止した。それで充分だった。ランタンは体勢を立て直すと同時に爪先を跳ね上げ小剣の鎬を蹴り飛ばした。
必殺の一撃を止められたバラクロフが苦々しげに距離を取り、けれどランタンの掌から血が滴るのを見て歪に笑みを作った。ランタンの掌に浅く一文字の切り傷が出来ていた。
「毒……?」
小さく呟いたランタンは転がっていた剣の欠片を蹴り上げて拾い、手の中に握り込むとそれを爆発で熱した。加減が難しい。ランタンは熱した金属片を一秒手の中に握り、ぽいっと捨てた。傷口を熱して塞ぎ、毒を焼いたのだ。毒の種類によっては無意味だがしないよりはマシだろう。
ランタンは火傷で引きつる皮膚を無理矢理伸ばすように何度か手を握っては開いた。乾いた血がひび割れて剥がれた。痺れるように痛いが、それだけだ。バラクロフの笑みが凍った。
「――なん、なんなんだよっ。お前はっ、お前がっ! お前のせいで!」
「僕が、何かしたか?」
ランタンが一歩前へ進むとバラクロフは鋒を向けたものの気圧されたように後退った。じとりと額に脂汗が浮いて、目の焦点が定まっていない。カルレロ・ファミリーの中にあってバラクロフはおそらく唯一とも言える中毒者ではないようだが、その眼球運動は薬物中毒者のそれに似ていた。落ち着きがない。
言葉だけでは答えてはもらえないようだ、とランタンは疾走った。
「あああああああああっ!!」
接近するとバラクロフが絶叫を放ち、それに引き寄せられるように男たちがランタンに群がった。ランタンとバラクロフの間に割り込んだ男は、戦槌の一撃に胴をくの字に折られたのにも関わらず肩が外れるほどに手を伸ばしてランタンの袖を掴んで組み付いた。また別の男が腰だめに剣を構えて突っ込んでくる。
「ええいっ鬱陶しいっ!」
ランタンは組み付いた男を盾にするようにして剣に突き飛ばして、バラクロフの方へ視線を戻す。だがそこには横薙ぎにされる槍の穂先があった。ランタンは仰け反り、そのまま後転して振り下ろされる追撃の槍を立ち上がり様に避けた。ばちん、と床に叩きつけられた槍が音を立てる。ランタンはそれを踏み折り、跳ねた穂先を掴む。
「ふっ!」
大きく一歩踏み込んで、戦槌を振り上げた。力任せに振り下ろされるそれが辺りにいた男を纏めて吹き飛ばした。ランタンは手の中にある穂先を逃げたバラクロフに向かって投げつける。
それはバラクロフを掠め、その背後にある扉にぶち当たって硝子のように砕けた。投擲攻撃はどうにも苦手である。
振り向いたバラクロフの唇が震える。何か呟き、それが音となることはなかったが呪詛であることは間違いなさそうだった。
「――なかなか派手じゃないか、ランタン」
追おうと思ったランタンの背に声が掛けられて、思わず足を止めて振り返った。
「僕に触ると火傷しますよ」
「それはなかなか魅力的な誘惑だな」
「でもそれをするとジャックさんに怒られそうなので、お触り禁止です」
ランタンは身体に纏う熱を払うように外套をはためかせ一つ息を吐いた。
死屍累々。
軽い口調で話しかけてきたテスの背後には、夥しい数の骸が眠るように伏していた。その全てが一刀のもとに絶命させられている。例えば首を切られた骸は、一人は頸動脈、一人は脊椎、一人は気道と言った具合に、そこに一筋の切創が見えるだけだ。殆ど無傷のままに見える骸は、鎧の隙間、そしてさらに肋骨の隙間を通して生命維持に必要不可欠な臓器を的確に潰してあるのだろう。
芸術とも呼べるほどの技術だった。
ランタンはテスの背後を見ていた。その眠るような骸ではなく、戦う少女を。その周りにはテスの手にかかった物とは違う、獣が食い散らかしたような肉の塊が散乱していた。
「――どうやら子守は必要ないらしい。この程度ならね」
いつの間にか視界の端から転げ落としてしまったその姿を見つめるランタンに、それを察したテスが諭すように語りかけた。
今、番犬はランタンの傍らにある。リリオンはただ一人、三人の男と戦っていた。
後退すると同時に斜めに大剣を斬り上げ、男の踏み込みを牽制した。その斬り上げを掻い潜った別の男は、近づくことを許さない高速の斬り返しをどうにか盾で受け止め吹き飛ばされた。回り込もうとした男は、ステップを踏むように後退したリリオンの眼前にその姿を晒すこととなった。
悪態をつく暇すら与えずにリリオンが方盾を薙ぎ払った。巻き起こった風は床に散る埃を舞い上げただけだったが、その分厚い鋼板を叩きつけられた男はその身体が拉げ潰れた。残り二人。リリオンは肩で大きく息をして、盾を前に構えた。
危なげない戦い振りだが、ランタンは落ち着かなかった。リリオンと同じタイミングで息を吐くほどに。
「過保護だな」
テスが呟き、ランタンの頭上に剣を走らせた。それはランタンが気を取られている隙に接近した男の眉間を刺し貫き、脳幹を切断した。引き抜き、剣を払う。またランタンも思い出したように別の男を打ち払った。辺りの男たちはすでに疎らである。
「出来ないことを手助けすることは優しさだが、出来ることをやらせないのは傲慢でしかないよ」
「……わかってますよ」
「うん、――見てればわかるよ。よく我慢している、色々なことをね」
リリオンに剣を突き出し待ち構える二人の男は、まるで嵐の中に取り残されたかのようにも見えた。いやあの二人、数秒前に潰された男を入れれば三人、はまさに逃げる機会を失ったのだ。
「先ほどあの爆発能力ならば、バラクロフもろとも殺れただろう」
「……殺してしまっては、色々と聞けませんので」
リリオンが盾を突き出したまま、ランタンの爆発にも似た加速を以て突っ込んだ。槍衾と呼ぶには少なすぎる二本の剣が蹴散らされる。男たちが吹っ飛ぶように後退を余儀なくされた。さらにリリオンが一歩踏み込み、大剣が右から左へ。男たちの胸板が浅く裂ける。だが致命傷ではない。剣が引き戻され、腕が一本斬り落とされる。そしてまた斬り返し。何度も、何度も。命に届くまで。
「リリオンはなかなかやるなぁ。力任せのぶん回しだが、あの射程、速度、威力。内側に潜り込むのも、安全圏に逃げ出すのもなかなかできるものではないな」
剣ごと、盾ごと、リリオンは男たちの身体を押し斬った。ランタンが作ってやったシニヨンが、少し解れてしまっていた。だが、ただそれだけで怪我はない。リリオンはまた別の男に向かっていった。
こちらに目も向けず、眩いほどに直向きに。
「僕はあまり、いらなかったかもしれませんね」
テスはランタンの頭をくしゃりと掻き回した。
「すっかり冷めて、冷たくなってしまったようだな。ランタンがバラクロフを引きつけてくれたおかげで、私もあの子もずいぶんと好きにやらせてもらえたよ」
「……引きつけたと言いますか、勝手に引っついてきただけですよ」
「おや、モテる男はさすがだな」
「ほんと困っちゃいますよ。――悩みが多くて」
ランタンが表情を緩めて肩を竦めるとテスは喉を震わせて笑い、頭を撫でていた手をそっと滑らせて肩を抱き、耳に口を寄せた。
「バラクロフが逃げたぞ。とは言っても奥の部屋へ引っ込んだだけだが」
「逃がした、ではなくて?」
囁いたテスにランタンがじとりと視線を向けると、気づいていたなら同罪だな、と笑みを浮かべた。バラクロフは奥の扉をこじ開けるようにして、その奥へと逃げていった。奥の部屋に抜け道でもあったらどうするんだ、と思ったが何か考えがあるのかもしれない。
「くふふ、リリオンに随分と食われてしまったからな、実はまだ少し物足りないのだ」
そう言ってテスは自らの腹をぽんと叩いた。細く引き締まった腹は硬そうだ。何か考えがあるのではなく、欲望に素直なだけなのかもしれない。ランタンは、ふむ、勿体ぶって呟いた。
「メインディッシュは何でしょうか?」
「もちろん牛だろうよ。料理は私たちがしなければらならんがね。――お、終わったようだな」
「そうですね」
視線の先でリリオンが最後の一人を両断した。ぽん、と首がすっ飛んで男は踊るようにして崩れ落ちた。水溜まりに伏すように、びしゃりと水音が響いた。斬り裂いたその形のまま、リリオンは大きく肩を上下させて息をしている。
「呼んであげな」
「――リリオン!」
ランタンが名前を呼ぶと、リリオンが大げさにびくんと反応して振り向いた。頬に一筋の血が飛んでいてランタンは一瞬斬られたのかと驚いたが、ただの返り血だった。リリオンは大剣を一振りして血汚れを振り払いランタンに駆け寄った。足元の血だまりや、死体をスキップするように飛び越えて。
滑って転んだら悲惨だな、とランタンもまたリリオンに歩み寄り、少女の腰に手を回して抱きとめた。身体を離し、手を伸ばして頬の血を拭う。リリオンは身体を折り畳んでランタンの髪に頬を寄せた。
「よく頑張ったね」
「んー」
背中を撫でてやるとリリオンは甘えるように声を漏らした。暖かい身体だ。
「まったく、これからメインディッシュだというのに」
テスが呆れたように言った。
「デザートにはまだ早いぞ」




