382
382
年が明けた。
最初の日は虚無の日の気怠い雰囲気をまだ残しており、街がようやく活気を取り戻すのはそれから三日、四日経ってからだった。
新年になったからと言って何かが劇的に変わるわけではない。
日々はまた同じように続いていく。街にはいつもの賑わいがあり、迷宮特区からは戦いの音色が響き渡っている。
ノックもせずにリリオンの部屋の扉を開けた自分が悪かったのかもしれない。
「……なにしてんの?」
ランタンは見てはいけないものを見たように、それでいて見て見ぬ振りはできぬと言うような怖々とした口調でリリオンに尋ねた。
リリオンはベッドに座り込み、剣を抱いていた。赤ん坊でも抱くように。そしてその剣に魔精結晶を押し当てている。
「え、わ! わわ――あうっ!」
振り返ったリリオンは驚きのあまり結晶を放り投げ、慌てて追いかけるあまりにベッドから落っこちた。どうにか大剣だけは握ったまま、無様に逆さまになっている。
ランタンは掴んだ結晶を掌で転がしながら部屋の中に入り込み、リリオンを見下ろした。
探索後に換金せずに手元に置いてある魔精結晶はいざという時の資産だ。最終目標級とまではいかないが、なかなかいい魔精結晶だった。
リリオンとの共有資産であるが勝手に持ち出すことは珍しい。
「ノックして」
逆さまのままでリリオンが言う。
「それは悪かった。で、何してたの?」
ランタンは逆さまのままのリリオンに問う。
リリオンは剣をどうにか置こうとするが体勢が悪いのかどうにも上手くゆかず、かといって立ち上がることもできずに裏返された亀のようにもぞもぞしている。
ランタンがしばらくじっと見ていると、ぷくりと頬を膨らませて、無言のまま手を伸ばした。
爆発物に触れるようにその指先をつっつくと、リリオンはいよいよ爆発する寸前みたいにもっと膨れた。
「いじわる」
「いやだって。ちょっと、変なことしてたし」
とりあえず剣を受け取り、それからリリオンを引き起こしてやった。
立ち上がったリリオンはランタンを掴んだままベッドに倒れ込んだ。ぐるりと俯せになってランタンを下敷きにし、いじわるいじわる、と繰り返しながら首や耳に甘く噛み付く。
熱烈な反撃に、ランタンはくすぐられたように身体を捩った。
何度も噛み付いてようやくすっきりしたのか、リリオンはゆっくり身体を起こす。
見つめ合ってランタンが笑う。
「よかった。いつものリリオンだ」
「もう、ほんとうにいじわる」
「それでなにしてたの? 剣に、――魔精結晶を押し当てて。なんかの儀式? っていうか、食べさせようとしてなかった? 剣に、魔精結晶を」
「……」
「僕の見間違いならいいんだけど」
「だって、この子は戦うほどに育っていくのよ」
巨人鋼を用いて作られたリリオンの大剣は揺籃の剣という。
戦うほどに鍛えられていくその剣は、あるいは月食みの剣と呼ばれることもあった。
ある迷宮で月の化身である、無貌の魔人を斬ったことがその由来である。
無貌の魔人を斬ったことで、いや無貌の魔人を斬るためにその剣はより硬く、よりしなやかに、より鋭くなった。
迷宮でどのような戦いが繰り広げられたかは、その場にいたものたちしか知らないはずなのにどういう訳かその逸話が広がっていた。
ルーか、それともベリレか、あるいはローサあたりが言いふらしたのかもしれない。姉を自慢するためなら尾鰭どころか、角や翼まで生やしかねない。
「だからちょっと試してみただけじゃない」
「何がだってなのかはわからないけど、へえ、ふうん、そう」
「そう、よ。いけないかしら」
リリオンはひったくるみたいに剣を手にとって胸に抱き、ぷいと視線を逸らした。唇が尖って、耳が恥ずかしげに赤くなっている。
自分でも変なことをしていたという自覚はあるようだった。
「上手くいった? どれ、齧られた跡はないな」
ランタンは光に透かすように魔精結晶をじろじろと眺め回し、べたべたと表面を撫で回した。
ああ、そうだ。この魔精結晶は蜥蜴の魔物から得たものだ。口吻は短く、その先端の鱗が硬くぶ厚い。破城鎚のような突進が脅威だった。結晶化したのはその鱗だ。
これを喰わせたら剣は蜥蜴をよく斬るようになるだろうか。それとも鱗を砕くようになるのだろうか。
拗ねたリリオンの横顔を十分に堪能したランタンは満足気に頷く。
「悪かったよ。もうからかわないから」
這うようにベッドの上を移動し、魔精結晶についた指紋を拭き取ってテーブルに置いた。
鞘を渡すと、リリオンは大剣を納めた。
「ほんとうに、もうからかわない?」
「しないしない」
「ほんとうね」
頷くランタンに、じゃあ許してあげる、とリリオンはまだちょっと拗ねたように言った。
剣を立て掛けて、俯せになるとランタンの腹に抱きつき、顔を擦りつけた。
「それ、育てようと思ったの?」
「うん」
「無機物まで。うちの女の子は世話焼きだな」
ローサはほとんど毎日、陶馬の世話を欠かさず行い、冬の寒さから逃れるために馬屋に居着いた野良猫の世話まで行っている。
リリオンはそんなローサのよい見本となっている。本当の姉のように。
もっとも今みたいに甘えてくるときは、ただ一人の少女のままだ。
銀の髪を撫で、指先に巻き付け、また解く。リリオンはうっとりした視線でランタンを見上げる。
「ランタンだって世話焼きでしょ」
「そんなことはない。僕が焼くのは敵だけだよ」
「じゃあわたしはランタンの敵ね」
「最初だけね」
懐かしさと、妙な照れくささにリリオンは目を伏せた。
じゃあ今は、と聞かれたらランタンも恥ずかしくなってしまっただろう。
甘ったるく気まずい沈黙に耐えかねて、ランタンはわざとらしい咳払いをする。
「――そろそろ迷宮選びでもしようか。育てたいんなら、迷宮に行かないと。っていうか探索者だし、仕事だし、働かないと明日のご飯もないし」
「ちゃんと買い置きしてあるわ。たしかにローサはよく食べるけど」
「例え話だよ。っていうかローサもだろ。ちょっと太ったんじゃないか? 迷宮行かないからだな」
柔らかな頬を挟んで揉みしだく。太ったと言うほどでは、まったくない。ただリリオンは日に日に大人の女性に近付いているだけだ。
「いてぇ!」
リリオンは服の上からランタンの腹に噛み付く。脂肪の薄い腹に無理矢理噛み付いたので、それは抓るようだった。
「ランタンはぜんぜん変わらないわね。あ、赤くなっちゃった」
服を捲り上げて噛み跡を確認し、リリオンはそこに唇を寄せる。
「痛い痛いの飛んでけー! これでもう平気ね」
「どこに飛ばしたんだよ」
「あっちの方」
「巻き添え食らってる人がいなけりゃいいけど」
二人して窓の方に目を向けると、ばん、と音を立てて窓に何かが叩き付けられた。
巻き添えでなければいいが。
それは全身が羽毛に包まれた小型の竜種だった。
高高度に流れる高速気流に乗って空を駆けるネイリング家の伝書鳩だ。小型だが竜種なので本一冊分ぐらいの重さならば軽々と運ぶことができる。
竜種はずいぶんと疲れている様子だった。
もちろんいつだって仕事を終えた竜種は疲れ切っているが、今回はそれに輪を掛けて疲労しているようだ。運んできたのは一枚の手紙だった。
その紙が鉛でできているわけでもない。重たいものを運ばされたのはでないのなら、何かに襲われて必死になって逃げてきたのか、それとも方向を失って彷徨ったのか。
小型とは言え竜種である限り前者の可能性は低く、後者の可能性もまた竜種であるがゆえに少ない。竜種は特別な魔物だ。その強さばかりではなく、知能の高さが竜種を特別なものにしている。
「いい子ね。ほら、よく噛んで食べるのよ」
リリオンが毛布にくるんだ竜種に餌をやっている。
よく茹でた豚肉を細かく切ったものを、その茹で汁と一緒に小さなスプーンで口に運んでいた。
リリオンの言っていることを理解しているわけではないだろうが、竜種は嘴をかちかちと何度も鳴らした。よく噛んでいる、と訴えかけるように。
竜種はその羽毛からつややかさが失われている。
羽毛の下にある鱗越しにも痩せているのがよくわかった。この竜種は体力の消耗を避けるために一度気流に乗ってしまえばあまり羽ばたくことなく、超長距離を滑空するように飛ぶ。
ランタンはレティシアの兄であるファビアンと二、三ヶ月に一度ほど手紙のやり取りをしている。
ファビアンはランタンの持つ未知なる技術の知識であったり、視点であったりを重宝していたし、本人は直接言わないが妹レティシアの様子を尋ねる一文が記されないことはなかった。
この手紙もファビアンからのものだった。
内容は短いが、ランタンは何度かそれを読み返した。
「ほんとうに?」
誰にでもなく呟く。
見もせず破った封蝋を繋ぎ合わせネイリングの紋章であることを確認し、自室に戻って過去の手紙を引っ張り出して筆跡や署名が同じであることを確かめる。
手紙の日付は二日前だ。竜種が疲れているのは、いつもの倍以上の速さで飛んだからだった。
手紙を光に透かし、それでどのように真贋を確かめるのかも知らず、しかしせずにはいられなかった。
ランタンはじっと手紙を睨む。
すっかり餌を食べ終えた竜種は、使っていない納戸を流用した鳥籠の部屋へとリリオンが連れていった。
ローサが帰ってきたら、きっとすぐに見に行こうとするはずだ。疲れていることをしっかり伝えなければならない。
数ヶ月に一度会いに来るこの小さな生き物をローサは気に入っている。気に入りすぎてちょっかいをかけすぎるので、竜種からはあまり好かれていない。
ランタンはベッドに腰掛けまだ手紙に視線を向けている。戻ってきたリリオンはその隣に腰を下ろした。
「なにか変なことでも書いてあったの?」
「……へんなことがかいてあった」
「ふうん、怪文書っていうやつね。見てもいい?」
「どうぞ」
差し出された手紙を受け取らず、リリオンは頬をくっつけて手紙を覗き込む。
短く、簡潔な一文である。
それを読んだリリオンは目を丸くした。だがランタンのように怪訝な顔はしない。
「すごいじゃない! わあ、そうなんだ。へえー!」
単純に驚きと喜びを露わにした。ランタンに抱きついて、ちょっと興奮した様子で身体を揺する。
「レティはこのことを知ってるのかしら?」
「実家のことだし、そりゃ知ってる。いや同時に届いたんじゃないか。そうだ! レティに聞けばいいんだ。さすがに自分ちの手紙なら真贋の区別もつくだろう」
「もうランタンったら、嘘の手紙を送る理由なんてないじゃない」
「なんか、あるだろ。ほら、――」
「例えば?」
「愉快犯とか、嫌がらせとか、暇つぶしとか」
「ランタンはつむじ曲がりね」
リリオンは呆れた様子でランタンのつむじを覗き込んだ。綺麗に渦を巻いて、少しも曲がってはいないのが不思議だった。
「でもレティには会いに行きましょ」
「真贋を確かめにね」
「お話を聞くのよ。だって気になるじゃない。ね、ランタンだって気になるでしょ」
「……なる。とても」
リリオンは目をきらきらさせて、ランタンは神妙に頷いた。
二人は立ち上がって、手早く外出の用意を済ませた。
ガーランドに留守番とローサへの伝言を、特に納戸へは近付かないようにと頼み、互いにマフラーを巻き合った。
いざ出かけようというとき、吹き飛ばすように扉が開かれた。
尋ね人は向こうからやって来た。
レティシアだった。
レティシアは硝子窓にぶつかった竜種との違いは、手があるかないかの違いだろう。もしなければレティシアも扉にぶつかっていた違いない。
レティシアは二人を目にするや否や、両手を広げて駆け寄ってきた。
「ランタン! リリオン!」
そして二人をひとまとめに抱きかかえて、大きく笑いながらその場でぐるぐると何度も回転した。
ランタンもリリオンも目が回って、身体をふらふらさせてしまう。
レティシアは笑みを浮かべたままもう一度二人に抱きつく。
二人は緊張して身体を強張らせた。もう一度、ぐるぐると回されたら嘔吐してしまうかもしれない。
「レティ、ちょっと」
「うう……」
「やあ、二人とも手紙は届いたか? ファビアン兄さまからの!」
「来た。来たから、ちょっと落ち着いて」
「落ち着いてなどいられるか!」
「いや、落ち着いて。ほんとうに、でないとレティをちょっと嫌いになりそう。あと声でかい」
ランタンがそう言うと、レティシアは流石に落ち着きを取り戻した。いや、尻尾がそわそわと床を叩いている。
「はあ、目が回った。レティは落ち着いてる方が素敵だよ」
リリオンが無言で何度も頷く。
「レティがこの様子じゃ、どうやらこの手紙は本物みたいだな」
「ああ、そうだとも。なんだ、疑ったのか。そりゃあ私も最初は目を疑ったが、だがこんな嘘をついてどうなる」
「――ほら、わたしが言ったとおりじゃない」
「……ぬか喜びさせるためとかあるだろ」
未練たらしくぶつくさ言い返すランタンの唇を指で塞ぎ、レティシアは嫌に真剣な目つきになった。
「二人とも迷宮に行こう」
「言われなくても迷宮には行くよ。探索者だもん」
「竜系迷宮だ」
「ああ、ネイリングの伝統絡みだね。いいよ、迷宮の攻略はお任せあれ」
「わたしもがんばるわ」
急な頼みだったが断る理由はない。
「いや、目的は攻略じゃない。竜種を捕らえる。生け捕りにする。攻略よりも難しいぞ」
「いいよ」
それを断る理由はない。
レティシアの願いである。
なかなか気をつけようもないのですが
台風が接近する地域にお住まいの方はお気をつけください。




