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きりきりと弓を引き絞る。
探索者で弓を装備するものはそれほどいない。
魔精によって強化された持ち前の腕力で石ころでも投げればそれだけで十分な殺傷力が保証されるし、なにより技術を習得する手間がいらない。
「片目じゃなく両目で見るんだ。呼吸は止めずゆっくりと」
一頭の馬にランタンとレティシアが相乗りしている。
大柄で綺麗な葦毛の馬だった。ネイリングの馬だが、魔物の血は混じっていない。それでいてランタンをあまり怖れなかった。銅像のように立ち止まり、呼吸で微かに上下するばかりだ。
レティシアが後ろで手綱を握っており、ランタンは彼女に抱えられるように見える。
「背筋は伸ばして、背筋で引く」
それでいて姉と弟のように見えないのは、その親密さからだろう。教えるように、それでいて背筋をなぞる指先はいかにも甘やかだった。
「くすぐったい」
「集中すればくすぐったくなくなる。ほら、集中」
ランタンの体格からすれば大振りなその弓は、屈強な男でもとても引けぬ強弓だった。
竜の角を用い、その髭と腱を縒り合わせた弦を張っている。ランタンでさえ軽々と、とはいかない。
「呼吸止まってるぞ」
「心臓は動いてるよ」
「それはいいことだな。すばらしい」
ランタンは息を吐く。冷たい風が体温を白く染める。
目を細める。緑と冬枯れが混じる下生えに目標がいる。白と灰色の斑色をした野兎だ。長い耳が下生えから覗いている。ねずみのようにのそのそ歩いていて、まったく無防備だった。
「……威力過剰じゃない?」
「狼に昼飯を横取りされるぞ」
「木っ端微塵になりそう」
高く弦が鳴った。
長い耳が矢羽根の風切り音を捉える。だが兎は動くこともできない。
ただ放たれた矢が足元に突き刺さるまで。
「やっぱり威力過剰だ」
矢は金槌で打ち込んだように半分以上が地面の中に埋まっていた。
「当たればな」
レティシアはランタンの肩に顎を乗せ、耳元で囁いた。
「当たったよ。地面に」
「ほう、ずいぶんと大物を狙っていたんだな。知らなかったよ」
探索者はあまり弓を用いない。
迷宮は閉鎖環境で弓を有効活用できるほどの距離で交戦することなど滅多にない、なかったからだ。一撃必殺ならば使いようもあるが、魔物の生命力はそれを許さない。二の矢をつがえている間に距離を詰められてがぶりだ。
レティシアがランタンの耳朶を噛んだ。
「さあ、次の獲物を探すぞ」
「うわ!」
慰めるように頬に口付けをするとレティシアは馬の尻を竜尾で打った。
急な加速にランタンはレティシアに押しつけられる。
二人を乗せた馬がティルナバン郊外の草原を疾走する。ランタンはレティシアの胸を我が物顔で背もたれにし、楽器のように弓弦を爪弾いている。
「レティ、楽器は?」
「聞くのが私の仕事だ」
「ドレスを着て?」
「そうとも」
「踊ったり、口説かれたり?」
「ああ、そうだ。なんだ、妬いてるのか?」
「いいえ」
「あっはっはっ、口説かれはしたが、口説き落とされてはいない」
レティシアはランタンに手綱を渡すと、少年の腰に腕を回した。
「ランタンだけだよ」
「――僕とは大違いだ」
「だが今日は私のものだ」
ようやく政務から解放されたレティシアは嬉しそうにそう言った。
ランタンは腹を蹴って馬を加速させた。
代わり映えのしない冬景色が後ろに過ぎ去ってゆく。竜種の速度とは比べるべくもないが、それでもレティシアの抱擁が強くなる。
「こんなにくっついてたら兎、探せないよ」
「こんなに早くては見つけられるものも見つけられん。振り落とされそうだ」
「――見つけた。けど、やめとこう」
「本当に見つけたのか?」
「見つけたよ。でもリリララ似だ。赤茶っぽい」
「尻が大きくて練習にはよさそうだ」
「その代わりにすばしっこくて当てづらいよ。当ったら当たったで文句言われるし」
レティシアの体温が惜しくて、ランタンは速度を落とすどころかいっそう加速させる。
そしてレティシアはいっそうランタンに身を寄せた。
赤茶の兎は命拾いした。
今度はレティシアが弓を構える番だった。
ランタンでさえ引くのに手こずる強弓は、レティシアにはもっと手強い。引っかけた弦が指先に食い込む。
痛そうだが、レティシアは表情一つ変えない。涼しげですらある。
馬からは降ている。ランタンはレティシアの足元に座り込み、その射姿を見上げる。
黒曜石にも似た濃い肌の上を情熱的な紅髪が流れる。額からは紅髪を掻き分けるように一対の角が伸びていた。ゆるりと捻れるそれとは違い、背筋がぴんとしている。
「くすぐったいぞ」
三本目の足のように姿勢を支える尾をランタンは撫でていた。
レティシアの肌色と同色の鱗に覆われた竜尾である。硝子のようにつるつるしているが、張りのある肌のような柔らかさもある。
「集中力が足りないよ」
「当てたら食事の用意をしてもらおうか」
「当てたらね」
ランタンは尾を伝ってそのままレティシアの上向いた尻に手を這わせた。
弦鳴り。
「――では、ランタンはよろしく頼むよ」
野兎は地面に縫い付けられている。
馬に丸めてくくりつけた絨毯を広げ、レティシアは乗馬靴を脱いでそこに上がった。少女みたいに足を伸ばして、兎をさばくランタンを見つめる。
近くの農村でも荒らしているのか、よく太った野兎だった。
腹を割くと、腹腔に血が溜まっている。矢が動脈を傷つけたのだろう。外した内臓を埋め、頭ごと毛皮を剥ぎ、血を水でよく洗い流す。
「手際がいい」
「まあね」
剥いだ毛皮で手を拭いて、四肢を外し、背骨を縦に割る。味付けは塩と胡椒だけ。串を打って、火の落ち着いた焚き火にかざした。
「あとはいい具合に焼けるまでお待ちくださいお嬢さま」
ランタンは芝居がかった身振りで執事の礼をする。
「では、焼き上がるまで、それまで私を楽しませてくれ」
ランタンはのろのろと靴を脱いで絨毯に上がったかと思えば、猫のようにレティシアの足を枕に寝転がった。レティシアを見上げて、にっこりと笑ってみせた。
レティシアは呆れるように肩を竦めるが、満更ではなかった。
風に冷たくなった黒髪に何度も指を通す。百年時間があっても足りないとレティシアは思う。
ランタンが手を上げる。
「血の匂いする?」
「しないが、冷たいな」
「水がきんきんに冷たい。もう弓は引けないな」
「どれ、あたためてやろう」
ランタンの手を包み込むと、レティシアは息を吹きかけた。竜種の息吹のように熱っぽい。悴んだ指が溶けるように和らいでいく。
「指、食べないでよ」
「もう、まちきれない」
のんびりとした時間だった。執務机に齧り付いていたときとは比べものにならない。
「お仕事終わってよかったね」
「少々恐怖を使いすぎたがな」
「犯罪件数は減ってるんでしょ?」
「まあな。だが所詮、対症療法に過ぎん。いずれ効きが悪くなる」
ランタンは起き上がって、今度は自分の足をレティシアに差し出した。
レティシアはごろんとランタンの膝枕に寝転がった。
「それに恐怖が効かないのもいる。あいつとか、あいつとか、あいつとか」
「誰だよ」
「そうだな。例えば狼だ」
「狼?」
「そう、ここから西に行ったところに農村がある。そこの羊が襲われている。村の連中が夜番に立ったが、夜な夜な一頭ずつ羊が襲われるのでついにうちに頼みに来た」
「それで?」
「成果はなし。剣をぎらぎらさせて、あたりを捜索したが狼一匹見つからなかった。うちのものが三日三晩夜通し見張りをして、被害は三頭だ」
「……狼じゃないんじゃない? 人間とか」
「それならば、うちの連中はもう少し上手くやっただろう。人狩りは得意なのだ。ははは」
笑ったまま欠伸をしたレティシアは恥ずかしそうに口元を押さえる。
「寝てもいいよ」
「いや、せっかくの時間がもったいない。兎もいい匂いがしてきた」
「ほんとだ。いい鼻してる」
鼻先を指先でちょんとつつくと、レティシアはばね人形のように身を起こした。ランタンは靴も履かずに焚き火の方へと歩いて行く。
肉は表面が少し焦げて、じゅうじゅうと透明な肉汁が火に弾ける。
リリオンの作ってくれた弁当を広げ、皿に兎のあぶり焼きを並べた。
レティシアは兎の右後ろ足にかぶりついた。みしみしと骨から肉が剥がれる。脂肪の少ない、淡泊な赤身肉はけれどしっとりとして柔らかい。
「うん、美味い。抜群の塩加減だ」
噛むほど旨味が広がる。肋の部分は野性味が強いが臭くはなかった。微かな血の苦みがいいアクセントになっている。大人の味だ。
レティシアは肉汁に汚れた指先を一本ずつ舐め取った。貴族であるのに、そういう仕草がよく似合った。どことなく風格がある。まさしく竜種の化身のようだった。
「リリオンの料理も最高だ。至れり尽くせりだな」
「お紅茶でございます」
「うむ。――ああ、こんなにのんびりとした時間は本当に久し振りだ」
レティシアは再びランタンの膝枕で、丸のままの林檎をしゃくしゃくと齧る。眠たげに目を細める彼女の頬をランタンは両手で挟んだ。そのまま顔を近付ける。
「なんだ? ――んっ、急に」
「林檎味」
「……ランタンは兎の味がした」
言われてランタンは自分の耳を引っ張った。
「伸びてはないね」
「私は赤くなってないか?」
「さて、どうかな。よく見せて」
ランタンはじっとレティシアの顔を覗き込む。彼女の濃い肌色はあまり感情を透けさせない。だが頬からは、そしてその緑柱色の潤んだ瞳からも感情の熱が初心なほどに伝わってくる。
レティシアがゆっくりと目をつむった。
微かに顎が上がり、唇が求めた。
ランタンはそれに応じ、また自らも求めた。
甘く、鼻から息が漏れる。ランタンの両手が頬から喉へと滑った。そのままレティシアの上着の一番上のボタンを外す。
レティシアが驚いたように目を開いた。
「ランタン、……外だぞ」
「知ってる。それにお昼だってこともね」
ランタンはそのまま手を滑り込ませた。服の中には熱がこもっていた。とても柔らかいものも。
「誰もいないよ。馬以外は」
ちらりとそちらの方に視線をやると、馬はこちらを気にする様子もなく下生えの緑を食んでいる。
邪魔は入らない、とそう思ったとき。
馬が急に悲鳴を嘶き、もんどり打ってどうと倒れた。
流石のランタンも、もうそれどころではなかった。
レティシアも飛び起きて、馬の方へ駆け寄った。馬は立ち上がろうとするが、体重を支えきれず何度も膝が折れる。
「落ち着け、落ち着け。よおし、いい子だ。立たなくていい」
暴れていた馬を落ち着かせる。葦毛の腹に牙でやったような傷口が開いていた。血が流れるだけだが、もう少し深ければ内臓が零れていたかもしれない。
レティシアが馬を落ち着かせる間、ランタンは神経を集中してあたりを探る。
「獣……、狼か?」
この辺りで一撃で馬にあれほどの傷を負わせる獣はそれぐらいのものだ。あるいは熊もいるが、熊ならばもっとひどい。
しかしそのどちらであっても、馬が襲われるまでランタンが気付けないはずがなかった。たとえ他のことに気を取られていたとしても。
風が吹く。枯れ草ががさがさと音を立てる。焚き火が揺らめき、煙がなびいている。馬の呼吸が荒いが、先程よりずいぶん落ち着いた。レティシアの声が優しい。
ならば魔物だろうか。
しかし魔物ならば、よりランタンが気付けないはずがない。
いや、その油断が命取りだ。そういう侮りのせいで、前回の探索では酷い目にあった。
こんなことは魔物にしかできない。いや、あるいは悪意と能力のある人間にも。
すでに逃げ去ったあとか。それとも次の機会を疑って身を潜めているのか。
どちらにせよ、ランタンもレティシアもそれの存在をまだ掴めていない。
「レティ。警戒したままで。相手は影も形も、音も匂いもない。今のところか」
「わかった。馬の傷から見るに、大きさは狼大だ。下からがぶり」
「それで、よく。――よく反応したな。真似するか」
頭の中で、すぐそうやって、とリリオンが叱ってくる。
「ランタン、無茶はするなよ」
「大丈夫だよ。馬より反射神経いいんだから」
ランタンは腕まくりをすると一見、無防備にあたりを歩き回る。戦鎚を振り回し下生えを千切る。出てこいどこだ、と自らの居場所を教えるように騒ぎ立てた。
ようやく感じたのは、生暖かさだった。牽制として振っていた戦鎚を握る右腕だ。
なにもない空間に、裂け目ができたかと思えば、その裂け目には牙が生えている。
分厚い舌が、涎が糸を引き、獰猛な呼吸が封を開いたように溢れ出した。
長い犬歯が皮膚に触れた。それは鋸刃のようにぎざぎざしている。
瞬間にランタンは腕を引いた。
事前に対処できないのならば、やられてから動けばよい。
薄皮一枚、一筋の傷から微かに血が滲む。切り返して振り回した戦鎚が空を切った。遅れて戦鎚の通り道が破裂した。真っ赤な爆炎がランタンの進行方向を覆い尽くした。
だがそれは下生えを焼いただけだ。
「レティ!」
レティシアはすでに雷撃を構えていた。
額の角が帯電し、紫電がぱちぱちと音を立てる。レティシアはそれをランタンの背後に盛大にばらまいた。前後に、雷火がランタンを覆うようだった。
その周囲にあるものは問答無用に巻き込まれる。
「消えた!?」
瞬間移動でもしたのだろうか。
そうとしか思えない結果だった。爆炎はランタンの前面を焼け野原にし、背後は雷に発火している。それだけだ。
「下だ!」
レティシアが叫び、ランタンの真下で何かが動いた。
見えざる獣はランタンの股下で雨宿りでもするように雷火を避けたのだった。
レティシアが咄嗟に一条の雷を放った。
「ぎゃあ!」
それは獣に直撃し、連鎖してランタンを感電させた。叫び声は獣とランタンのものだった。
「すまん、ランタン!」
「大丈夫。もうちょっとであれだったけど。罰が当たるところだ」
ランタンは縮こまった自分の位置を直しながら、風のように走り去っていく獣に目を凝らした。
それは鏡のように周囲を反射する毛皮をもっている。そうすることで透明になったかのように周囲に溶け込んでいるのだ。
レティシアの一撃で、僅かに反射に綻びが生まれた。
まぎれもなく魔物だった。地上には定着して繁殖しているような魔物もいるが、いま見たのはそうではない。人知れず発生した迷宮が、人知れず崩壊しそして姿を現したに違いない。
「あれ、農村を襲ったって狼じゃないか?」
「かもしれん。追うぞ」
「仕事は終わりじゃないの?」
「仕事に終わりなどないさ。責任がある」
「馬は使えないよ」
「足がある。行くぞ」
馬をその場に残し、二人は駆け出した。
「さすがに速いな。追いつけないんじゃないか。レティの一撃を食らってぴんぴんしてる。もう僕の視力じゃどうにもならないよ」
「私には見えてるよ。ずいぶん目が良くなったからな」
「竜種の目か」
それは遥か上空から地上の獲物を見つける目だ。角が生え、尾が生え、そして魔精による肉体の変化は見えざる所にも及んでいる。
「なら狼なんて逃げようもないね。目だけじゃなくて翼はないの」
「翼なんて生えたらもう二度と仰向けに寝れなくなる」
「寝不足になるね」
ランタンは足元の石を拾い、狼に向かって投げ付けた。それは三百メートル以上も直進し、着弾地点に土煙が立ち上る。たいした威力だったが、狼を打つことはなかった。
「おしい」
「おしかったの? でもたぶん当たらないな」
「いや、効果は充分だ。猟犬程じゃないが、追い込んだ。ランタン、あそこの丘に行くぞ」
レティシアに促され、小高い丘の上にあがった。
ランタンはもう狼がどこにいるのかわからない。
「場所は私が教える。だから頼む」
レティシアはそう言ってランタンの弓を渡した。
「頼むってねえ。今日の僕、一匹も仕留めてないよ」
「私では力が足らん。ほら、構えて。背筋、呼吸、両目で見て」
「見てもわかんないよ」
「距離四五〇、風向きは西から東の向かい風」
ランタンの視界には冬の草原が広がっている。背の低い緑が、冬枯れの下生えに覆い隠されるようだった。枯れ草が風になびいている。兎一匹見当たらない。
「もう少し強く。向きはあってる。上、行き過ぎ、戻りすぎだ。左、やっぱり右」
「どっち」
「狼に聞いてくれ。――左、そのままゆっくり左に進んでる」
「当てたらなにかある?」
「何でもしてやろう」
「ほんとに? よし。わかった」
「ランタン?」
ランタンは両目を瞑った。どうせどこに狼がいるのかわからないのだ。ならばレティシアの言葉だけを頼りにした方がいい。
「その方向。もっと強く、目一杯に引いて。――射て」
暗闇の中、ランタンは矢を放った。
ゆっくりと目を開く。
「どうだった?」
「――当たりだ」
「弓ってあんまりいい印象ないんだけど、名誉回復」
ランタンはひと仕事を終えたようにぐるぐると腕を回して、大きく伸び上がった。
そんなランタンにレティシアはもじもじと視線を向ける。
「それでだ。その、私は何をすればいい?」
「そうだな。どうしようかな」
ランタンは意地悪く笑い、たっぷりとレティシアを焦らした。
「でもレティ疲れてるからな。――そうだ、レティは今日はなにもしなくていいよ」
「なにもしなくていい、のか?」
「そう」
レティシアは拍子抜けしたような、少しがっかりしたような表情を作った。
「レティは何もしちゃだめ。ぜんぶ僕がしてあげるから、死体みたいに動かないで。大丈夫。けっこう、いや、だいぶいいものだよ」




