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ミシャは迷宮口へ垂らしたロープを伝って操縦桿に返ってくる感覚からある程度、探索者の状態を把握することができる。
立っているのか座っているのか、それとも横たわっているのか。疲れているのか傷ついているのか。どれぐらいの迷宮資源品を持ち帰ったのか、何人の命が失われたのか。そういったことが。
ランタンたちを地上へと引き上げながら、ミシャは微かな安心感を覚える。操縦桿を握る手に伝わってくるのは欠けることない三人分の重みだ。
最近のランタンの探索は常に安定している。
もちろん実際に顔を見るまで安心することはできないが、それでも操縦桿越しの感覚に裏切られたことはここ最近はなかった。
しかし一泊二日の偵察探索を終えたランタンたちを地上に引き上げて、ミシャは悲鳴を上げそうになった。
迷宮口からぬっと顔を出したランタン、リリララ、ルーの三人はひどい有様だった。
全身が真っ黒に汚れており、ミシャはそれを血汚れだと思った。魔物の青い血が固まったものか、それとも赤い血が固まったものか区別がつかない。
一体どれほどの凄惨な迷宮だったのだろう。汚れは乾き黒くひび割れ、ひびの下に覗く肌にまで染みている。
大急ぎで、しかし丁寧に起重機を操作する。ミシャは慌てて起重機から飛び下りて、ランタンの下へと駆け寄った。
四肢は揃っている。指も全部ある。目も潰れていないし、耳だって削ぎ落とされていない。
「ランタンくん! 大丈夫っ?」
うっとする臭気が鼻を突いた。それは血の臭いではなかった。
それは泥の、汚泥のような臭いだ。
三人を汚しているのはまさに泥だった。
「大丈夫に見える?」
唇の隙間から除く歯も欠けていない。怪我らしい怪我はない。
「ああ、いいよ、僕に触らないで」
気遣うように手を伸ばしてくるミシャを避け、ランタンはうんざりした様子で汚れを拭った。緩慢な動きは疲労と、泥の付着した衣服の重さのせいに違いない。
ぶ厚い垢のように汚れが剥がれる。しかし剥がれた汚れの下もまた汚れだ。
リリララもルーもまったく似たような有様だった。
ランタンと同様に疲れ切っており、リリララに至っては毛に覆われた耳で泥が塊になって前衛的な装飾品のようだった。無理に塊を取ろうとすれば、毛どころか耳ごと毟り取れそうなほどだった。
「どんな迷宮だったの?」
「泥沼」
ランタンは短く答えた。
初日の探索は順調だった。魔物の確認もできたし、湖の捜索という翌日の目標も立てられた。しかしその湖の捜索が思いの外、困難だった。
湿地林は奥深くへ入り込むほど沼の様相を見せ、滞留する夜の冷気と、押し寄せる蒸し暑さの寒暖差に体力が奪われた。それでも懸命に湖を探していたのだが、その途中で蛮族に発見された。
リリララの万全の警戒も、しかし完璧ではないと言うことだった。
発見されてから、蛮族は泥から湧き出るように数を増やした。もちろん魔犬も一緒に。
そこには探索者の排除という迷宮らしい敵意がもちろんあり、しかしそれ以上に湖への到達の妨害という主題があったように思う。
発見された時点で逃げ帰ればこのような有様にはならなかっただろうが、状況判断の正誤はさておき、ランタンは湖の発見、つまり当初の目的を優先した。
湿地林の奥へ向かった。
結果として湖は発見できたが、最大の問題はそこからの帰還だった。
どうなったかは見ての通りだ。
うじゃうじゃと現れる蛮族を避け、泥の中を這いずり回り、海岸線へ出ることもできずに馬が草を食む平野を突っ切り、それでもなお迫ってくる蛮族の追っ手を殲滅して、這々の体で迷宮口直下でミシャの迎えを待った。
飲料水で最低限身体を綺麗にしたが、泥汚れはなかなか落ちないし、零下の山中で裸になって行水をする気にはさすがになれなかった。
「……次の探索の時は、お湯用意しておこうか?」
「次はもっと上手くやるよ。そのための偵察だもん。ごめんミシャ、もう帰る」
「うん。そうね」
迷宮特区を区分けする壁際でリリララとルーが最低限、身嗜みを整えた。冬のティルナバンは迷宮の山頂よりも暖かい。もっとも吐いた息は白くなるし、酔って眠りでもすればそれが最後の、永遠の眠りになりかねないが。
「代金は今度でいい?」
ランタンはミシャに背を向けて尋ねる。腰に付けたポーチは土中から掘り返したかのようだった。隙間から流れ込んだ泥に支払い用の貨幣が沈んでいる。
「いいわよ。早く帰ってお風呂入った方がいいものね」
ミシャはわざとらしく、すんすんと鼻を鳴らした。
「ランタンくん。におうわよ」
ミシャにとってランタンは傷だらけの迷宮帰りであっても不思議と清潔感を失わない存在だった。愛とかいう感情が、そう見せる錯覚ではなく実際にランタンはそうなのだ。
そんなランタンが汚れて、異臭を放っているのは珍しい。
ランタンもそんなことを言われ慣れていないのだろう。少しショックを受けている様子だった。
「リリララ、ルー! 帰るよ!」
ランタンはミシャをその場に残して迷宮特区を出た。
時に傷病者や死体を、時に運びきれぬほどの迷宮資源をギルドへ運ぶための馬車に乗って我が家へ帰ってきた。
「ただいまー!」
ランタンは館に入らずに、大きな声で叫んだ。
飛ぶようにやって来たのはリリオンだった。メイドであるガーランドは出迎えに出てこない。ローサの様子でも見ているのだろう。
「おかえりなさい――って、わあ、ランタン! みんなどうしたの?」
汚れ放題の三人を見てリリオンも目を丸くした。自分の様子を見てはいないが、余程ひどいらしい。
「汚れた」
「……汚れただけ? 怪我はない? 大丈夫?」
矢継ぎ早に質問を投げかけてくるリリオンを安心させながら、ランタンは少女から距離を取った。
「……どうして逃げるの?」
「だって僕、におうらしいから。いや、そうじゃなくて。リリオンちょっとお金用意してくれない?」
「お金?」
「そう、こんなかっこじゃ歩いて帰ってこれないから馬車に乗せてもらったんだ。けど、お金も汚れてるから、渡せなくて。外で待たせてる」
「なるほど。わかったわ」
「座席汚したからちょっと多目に渡して」
リリオンは代金を用意しに一度戻り、それからすぐに館の外へと小走りに駆けていった。
その後ろ姿を見送ったリリララが感心したように言う。
「もうすっかりお嫁さんって感じだな」
その間三人は汚れた衣類を玄関前で脱いだ。脱いだまま放り出された衣類はまるで堆積した汚泥そのもののようだった。
リリオンは胸に財布を抱いて、やはり小走りに戻ってくる。肩の小さな上下、吐いた息が白く、その霞もまた小さい。
「払ってきたわ。三人とも――」
リリオンは脱ぎ散らかされた衣類や、泥山のような背嚢をちらりと一瞥する。
「――お風呂の用意してあるから入ってきて。これはわたしが片付けておくから」
「いっそ燃やしてもいいよ」
「もう、そんなこと言わないの。大事なものはある?」
「魔精結晶と、あとは石版の写し。収納袋に入れてあるからよっぽど大丈夫だと思うけど、紙だから水洗いはしないで。それから綺麗な貝殻。ローサのお土産。そう言えばローサの様子はどう?」
ようやく思いだしたようにランタンが尋ねると、リリララとルーは目配せをした。探索の間ランタンがよくローサの心配をしているのを知っているからだった。
「もうずいぶんよくなったわよ」
「ずいぶん? 完全にじゃなくて」
「ちょっと微熱が残ってるかしら? でももう寝てるのに飽きたってガーランドさんを困らせてるわ。お風呂から上がったら会いに行ってあげてね」
「さすがにこれじゃあな。二階に上がるわけにもいかないし」
すぐにでも会いに行ってやりたかったが、服を脱いだといっても室内をうろつける状態ではなかった。
「あ、そうだ。二人は先に風呂に行ってて」
「お前はどうするんだよ?」
「なにかやるべきことがあるのなら、わたくしが代わりましょうか?」
「いいから。誰も誰かの代わりにはなれないよ」
「何それらしいこと言ってんだよ。まあ、いいか。行こうぜ」
「かしこまりました。ではお風呂でお待ちしております。リリオンさま、お手数をおかけして申し訳ありません」
「気にしないで。お風呂どうぞ」
二人は脚だけを綺麗に拭って、身に纏った汚れを落とさぬような慎重な足運びで風呂へ向かった。
「それで、ランタンは?」
「ローサに顔見せてくる。あっちから」
ランタンが庭の方を指差すと、リリオンは納得したようだった。
「自分の部屋で寝てる?」
「ええ」
「じゃあ行ってくる」
ランタンは庭の方へ回り、拾った小石を窓へ投げ付けた。
「ローサ!」
そして呼びかけると、内側から吹き飛ばすみたいに窓が開いた。
「ただいま」
「おにーちゃん、おかえり!」
身を乗り出すローサをガーランドが支える。ローサはすっかり元気になっているようだった。寝癖と寝汗で跳ねた髪をして、頬はまだ少し赤みを残している。吐いた息の白さが濃いのは微熱のせいだろう。
「ちゃんと寝て、休んでたか?」
「うん! ローサ、もうげんき!」
「そうか。じゃあもっと元気になったら、迷宮へ行こうな」
「うん!」
「ちょっと迷宮で汚れたから風呂に行ってくるよ。あがったら会いに行くから」
ランタンはひらひらと手を振って、早くベッドへと戻るように伝えた。だがローサはランタンがその場にいる限りいつまでもそうしているので、ランタンは苦笑しながらその場を離れた。
「すっかり元気だな」
背嚢をひっくり返しているリリオンに声をかけると、リリオンは頷いた。
「だから言ったでしょ。大丈夫だって。ほら、ランタンも早くお風呂いって。ローサが治ったのにランタンが風邪をひいたら本末転倒よ」
「難しい言葉知ってるな」
ランタンは泥の中から巻き貝の殻を拾い、それを手にして風呂場へ向かった。
浴室ではリリララとルーが先に身体を洗っていた。
「あ、もう来やがった。ああ、もう早えよ」
泡立てた頭をがしがししながら、泡が目に染みるのか半目になったリリララが文句を言う。
「早いも遅いもないでしょ」
「お世話をするにはそれなりに用意が必要なのですわ。ランタンさま」
爪に入り込んだ泥をブラシで落としながらルーが拗ねたような口ぶりで告げた。
「世話してもらう気はないよ」
「そんなこと仰らずに。それがわたくしたちのお役目なのですから」
リリララは頭から湯を被り、ルーは桶に張った湯で指先をそそいだ。床を流れる湯が黒く、浴室に棲みついた不定型生物のブロブが泥遊びをするように這いずっている。
二人はランタンの足元に傅いた。
「きれいにしてやる」
挑むような目つきでリリララが告げ、すっと立ち上がったルーがランタンの手を取った。
二人は貴重な出土品でも磨くかのようにランタンの泥汚れを落とした。皺の一筋に入り込んだ泥を落とし、絡まった髪の一本一本を丁寧に解く。
ルーはランタンの手を取って柔らかなブラシで爪を磨く。
「痛くはありませんか?」
「くすぐったいよ。もう充分じゃない?」
「指は特に綺麗にいたしませんと。わたくしランタンさまの指、好きですわ。小さい手、でも指は長くていらっしゃる」
うっとりした様子で爪に艶が出るまで指を磨く。
細かなところはルーがやり、リリララはランタンの背中を流している。
「結構、日焼けしてるな」
裸になって海水浴をしたせいで、背中は全体的にうっすらと赤くなっている。服を着たあとも露出していた項は泥染みが皮膚の奥に染み込んだように微かに褐色を帯びている。
「痛くねえか?」
「だからくすぐったいって」
「我慢しろ」
リリララは無慈悲に言いながら、しかしはっきりと手つきは優しくなった。しかしそれがよりくすぐったさを増大させる。
ランタンが身を捩ると二人して抱きつくようにその動きを封じ込める。背中に小さな膨らみがあり、がっちりと腕を挟み込むものはそれよりも大きい。
ぬるぬるした柔らかさに挟まれたランタンは観念して身動きを我慢した。
「ほら、顔あげろ」
「足を伸ばしてくださいませ」
そして二人の言いなりになる。
リリララは口調とは裏腹な手つきで髪を洗い、ルーは跪きランタンの足先をまた同じように磨く。ランタンは二人の甲斐甲斐しさを一身に受けながら、そうしてくれることの嬉しさと同時に戸惑いも憶える。贅沢な話だ、と自分でも思う。
二人のそれは例えばリリオンが自分に世話を焼きたがるのとはまるで違った。
二人のそれはまさしく奉仕であり、自分をランタンよりも下の位置に置くための儀式のようですらあった。
自分を下に置こうとする二人は、しかしランタンが嫌がってもそれをやめようとはしない。
ランタンはそれを気にしないが、やはり立場というものがある。二人はあくまでも従者であった。特にリリララはレティシアの僕であり、そしてレティシアの伴侶たるランタンは彼女の主だった。
「ルー」
「またくすぐったかったですか?」
「顎あげて」
ランタンの言葉にルーはその白い喉を無防備に晒した。喉仏のない喉にランタンは手を伸ばし、そのまま項へと指を回す。緑の髪の下に、落としきれぬ汚れが残っていた。
「あ、ランタンさま……」
ランタンはそれを指先に掻き落とす。
用意とはそう言うことか、とランタンは思った。
ルーは頬を赤らめた。ランタンは汚れを手の中にそのまま握り込んだ。まるでルーの恥じらいを隠すように。
「ありがとうございます」
熱っぽい呟きをランタンは聞かなかったことにする。ルーは目を伏せて、いっそう丁寧に爪先から脛へ、そして太ももへと手を伸ばしてゆく。
「ほら、流すぞ。目を閉じろ」
髪を流され、そのまま流れ落ちる湯にルーの恥じらいを一緒にとかしてやる。
「ありがとうリリララ。もう大丈夫?」
リリララはランタンの髪を絞り、毛繕いするように洗い残しがないかを確かめる。日に焼けた項に、赤い点がいくつかあった。それは虫刺されのようでもあるが、自分たちが吸い付いた跡でもあった。
少年の身体にはいくつかそういう赤い点がある。
リリララはその点を指先で数えるように押さえる。
振り返ろうとするランタンの頭を咄嗟に押さえた。首の骨が音を立てる。
「痛った」
「あ、わりぃ。つい」
「ついで頸椎粉砕しようとしないでよ」
ランタンはルーに抱え込まれた足を抜き、立ち上がった。振り返るとリリララは身体を隠し、そして隠した自分に気が付いたようにその腕を下ろした。
魔道使いによく見られる青白い身体。濡れた兎の耳が側頭に垂れ、首の細さが上半身の引き締まりを、そしてその細さは下半身の逞しさをより強調した。
ランタンは思わずまじまじとその身体を見てしまった。
「後ろ向いて」
リリララは黙って後ろを向いた。
背中は小さい。背筋は腰回りに近いほど発達している。お尻はつんと上向きで、太ももとの境がくっきりとしている。尻の始まりの所には丸くぽんとくっつけたような兎の尻尾が生えている。濡れたそれは少し萎んだようにも見えて、ランタンは無造作にそれを握った。
「ひ――」
びっくりしたような悲鳴をリリララは気合いで飲み込む。
「尻尾がかわいい。僕は尻尾が好きなのかもしれない」
「ああ、……そうかい。それならレティは喜ぶだろうよ」
照れ隠しの憎まれ口をこちらを見ずに告げ、しかしリリララは尻尾を握る手を振り解こうとはしなかった。
ランタンは尻尾を放してやった。リリララは尻尾を撫でる。
リリララの背中を押して、ランタンはルーに肩を押されて、そのまま三人で湯に浸かった。
「ルーには尻尾生えてないよね」
「残念ながら」
ルーは本当に残念そうに告げる。ルーは亜人族の中でも少数種族に分類される蛙人族である。
「子供の頃も生えてないの?」
「わたくしは生まれたときから変わりませんわ」
ルーは首を横に振った。
「ってことはわたくし以外には生えてるんだ」
蛙人族の子供には尾のあるものもいる、という程度だった。
昔はほとんどの赤子が尾を持って生まれたが、今では十人に一人いるかいないか。それぐらいの割合で尾の生えている子供が生まれてくる。
それは暗灰色のおたまじゃくしのような尾であり、早ければ五つほど遅くても十になるまでに退化してしまう。
「へえ、不思議なものだな。歯が生えたり、髭が生えたり、角が生えたりは普通だけど、なくなっちゃうのか」
「いつまでも尾が残っていると成長が遅いと心配されるので、古い考えの親を持っていると」
ルーは指で鋏の形を作った。
それが成長を早めると信じているので尾を切除してしまうのだった。
「親心でもあるのでしょうが、かわいそうですわね」
ルーの身体が丸まる。湯に透けて、腹部の刺青が色を濃くした。
迷宮の疲れを癒していると、にわかに脱衣所が騒がしくなる。ランタンは二人と目配せをした。
「我慢しきれなかったのか」
「みてえだな」
「あら、すっかりよくなったみたいで」
「――ローサだよ!」
裸になったローサがガーランドを振り解いて浴室に駆け込んできた。ガーランドばかりではなくリリオンもいる。
「ごめんなさい、ランタン。とめられなかったわ」
「だろうね」
申し訳なさそうなリリオンにランタンは同情した。ランタンは咄嗟に湯から上がり、洗い場でローサを待ち受けた。ローサは一目散に、遠慮無用に突撃してきた。これをベッドに押さえつけておくのは至難の業だろう。
「ローサもいっしょにおふろはいるんだ!」
妹を抱きとめながら、ランタンは病み上がりとは思えぬ力強さにむしろほっとしていた。
「ローサ、ランタンは迷宮から帰ってきたばっかりなんだから。ほら、わたしが洗ってあげるから」
「おにーちゃんにあらってもらう!」
「我が儘いわないの」
「――いいよ、リリオン。ほら、洗ってやる。リリララ、ルー。リリオンのこと洗ってやって。ローサの世話で疲れてるだろうから」
「え、わたしじぶんで――」
「よしきた」
「おまかせくださいませ」
「っと、ガーランドもいたな」
「いらん」
みんなで並んで身体を洗われたり洗ったりする。
リリオンはリリララとルーにいいようにされていた。ランタンのように、そしてランタンにするときのような邪念はないので、それは顔の似ていない姉妹が戯れているような無邪気さがある。
ローサはずっと風呂に入っていないので、すっかり垢じみていた。下肢の虎毛は脂ぎっていくら石鹸で擦ってもなかなか泡立たず、上半身は垢なのか皮膚なのか区別がつかないほどぽろぽろと汚れが落ちる。
「かいがら。これローサにくれるの?」
「そう迷宮土産」
「とげとげしてる」
洗っている間もまとわりついてくるローサの気を引くために貝殻をくれてやる。
「どんな迷宮だった?」
「最初は山。寒くて、岩がごろごろしていて、こんな急な下り坂を下っていく。転ばずに歩けるか?」
「ローサ、へいき!」
「山を下りると暖かい。それから平野。馬が草を食べてるから食事の邪魔をしちゃだめだ。近くで見たくても近付かない」
「うんうん」
「それから海」
「うみ!」
「陽射しが暖かくて、透き通って波も穏やか。泳ぐと気持ちいいよ」
「おふろとおなじくらい?」
「迷いどころだな。でも期待していい!」
「やったー!」
「それから森。ここは最悪。泥だらけって感じ」
「どろんこになっちゃう?」
「なっちゃう。ローサは四本脚だから特にどろだらけになる。荷車は使えないな。最初は岩山だし、足元はぐちゃぐちゃだし」
「えー!」
相変わらず荷車を牽くのが好きなローサはがっかりしたように肩を落とした。
「それから森を進んで、湖を目指す!」
「いくぞー!」
「湖には祭壇がある」
「さいだん! ……さいだんって?」
ランタンたちは迷宮で目的の湖に明らかな人工物の存在を確認している。
そしてそれは蛮族たちにとって重要なものであるらしい。彼らはそれを守護し、湖を含めその祭壇から探索者たちを遠ざけようと動いていた。
ランタンは風呂桶を裏返し、それをいくつも重ねて祭壇らしきものを作った。
「こういう感じの建物」
「へー、へんなの。だれがすんでるの?」
「お家じゃないよ。神さまに捧げ物をして、願いを聞いてもらうための施設だよ」
ランタンの説明はまったくローサには通じない。どうやって教えたものかと首を捻る様子をリリオンたちが微笑ましげに見ている。
「ううん、そうだな。どう教えればいいのか」
ローサはふと湯桶の祭壇の上部に貝殻をおいた。いつの間にか天井に張り付いていたブロブが落下して、貝殻を包み込んだ。
それは生け贄を貪る悪神のようだ。
「そう、それ。そういう感じ」
「かみさまがふってくるの?」
ローサはますます首を捻った。
「かみさまって、なあに?」
その場にいる誰もが答えられない。
「めいきゅうにいけばあえるかな? おにいちゃんはあったことある?」
「――いまのところ、ない」
ランタンはどうにか答える。
「ローサ、かみさまとともだちになろうかな」
ローサは脳天気に呟いた。それはまだ残った微熱のせいだろうか。




