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出会ってからずっとリリオンは健康であったし、ランタン自身も病気をしたことはあまりない。一度熱を出してリリオンに看病して貰ったことがあるが、あくまでも心配をされる側のことであってする側ではなかった。
ランタンは甘い兄であった。
ローサの眠るベッドの脇に腰掛け、その寝顔を見つめる。
「もう心配性なんだから。大丈夫よ」
日付が変わってもローサの熱は下がらなかった。
汗の浮いた額と、赤らむ寝顔。呼吸は穏やかだが、半開きの口から漏れる寝息はやはり熱っぽい。
ランタンは上げかけた腰を落として、額に浮いた汗を拭ってやった。
甲斐甲斐しいランタンを見てリリオンは苦笑する。
熱は下がっていないがローサの寝顔は穏やかだった。夕食は残さず食べたし、よく汗をかいて、よく水を飲んで、よく眠っている。発熱以外の不調を訴えることもない。
だがランタンはやはり心配でしょうがないようだった。
寝顔を見下ろす視線が優しくて、熱を持った頬をそっと撫でる手つきは繊細だった。
この甘い優しさを自分は一身に受けてきたのだと、横たわるローサに自身の姿を重ねてリリオンは少し照れてしまう。
「ほら、ミシャさんに無理を聞いてもらったんでしょ。行かなきゃダメよ」
ミシャには昨日の朝に探索の中止を伝え、その夜に再び仕事を依頼した。
つまりは今日の朝一番に入っていた予約の、その前にランタンたちを迷宮に送ってくれるのである。他の探索者ならば断っている依頼だった。
「小さい頃はなんでもなくても熱を出すものよ」
ああそうか、とリリオンは思う。
小さい頃の記憶がないから、これほどに心配してしまうのかもしれない。もちろんささいな怪我や病気で命を落とすこともあるが、治るときはけろりと治るものだ。
リリオンはランタンの腋に手を差し込んで、よいしょと立ち上がらせた。
背嚢を負わせて、それを覆うように外套を羽織らせる。探索の準備をすっかり済ませてやると、その肩に手を触れた。
「はい、ローサに行ってきますしてあげて」
子供に言い聞かせるように言うと、ランタンは少し頬を綻ばせた。
腰を折って顔を覗き込む。
「いってくるよ。はやくよくなって追いかけてくるんだよ」
ランタンはローサを起こさぬように呟いて、最後に汗で額に張り付く前髪を払ってやった。ローサの眉と目蓋がくすぐったそうにぴくぴくと痙攣した。
「いってらっしゃいっ、て」
「言ってないだろ。さすがにそれは無理があるよ」
「うふふ、じゃあわたしが代わりに。いってらっしゃい、お兄ちゃん」
リリオンはランタンの頬に唇を押しつける。
「いってらっしゃい、ランタン」
それから呼び方と唇の位置を自分らしくやり直して、ランタンを送り出した。
その迷宮は地上と時刻にほとんど誤差がない。
降り立つとまだ薄暗く、東の空の果てがようやく白んできたところだった。
リリララがわざとらしく大あくびをする。
「ああ、眠ぃ。ったくこんな朝早くから探索なんて」
そんな風に愚痴をこぼすが、平時ならば垂れている彼女の兎の耳が今はぴんと立ち上がっている。
怠けることなく兎人族の鋭敏な聴覚で周辺状況を探っていた。
言葉とは裏腹にやる気は充分なようだった。
そしてもう一人の同行者であるルー・ルゥも同様だった。
魔精酔いが過ぎ去るまでランタンは腰を下ろしていたが、ルーは立ったまま周辺を見回している。
腰を捻ったり身体を揺らしたり、逸る気持ちを隠そうともしなかった。
今回の探索はこの二人とランタンの三名で行う。本格的な迷宮攻略ではなく、迷宮の雰囲気を掴むための偵察探索だった。
「ルー、そんなにしてたら疲れちゃうよ。おいで」
ランタンの呼びかけに応じ、ルーはその隣に腰を下ろした。
「今はここ。南端まで出て、時計回りに予定通り進むよ。危なそうな場所があったら教えて」
車座になって広げた地図を覗き込む。
今回の迷宮は開放型迷宮であったが、すでに大雑把な地図が存在した。
この迷宮は孤島であり、島の周辺はどれだけ目を凝らしても陸地らしいものはなく、ただ水平線があるばかりだった。
水平線の向こうに、もしかしたら陸地があるかもしれないが、永遠の海原である可能性もある。さらに言えば迷宮空間が球形ではない可能性も大いにあって、ひたすら真っ直ぐ進んでも元の位置に戻ってこられないかもしれなかった。
探索するのはこの孤島だけで、もし最下層が見つけられなかったら攻略は諦めなければならない。
島は南北に大小の丸を二つくっつけたような瓢箪型で、現在地は南側の山の頂付近だった。
黒々とした溶岩石が剥き出しになっており植生は乏しく、空気も薄く、肌寒かった。
長々と腰を据えるような場所でもないので、さっそく移動を開始する。
どうやら火山らしく、まだ腹の中に溶岩を煮えたぎらせているようだった。山を下っているとふと硫黄の臭さが鼻を突く。風向きや窪みなどに注意しなければ、ガス中毒に陥る危険性があった。
「結構、地割れもあるな」
「天然の罠ですわね。命綱付けますか?」
互いにロープで身体を結び合えば、地割れに落ちたとき致命的な状況を回避することができる。しかし魔物と遭遇した際には、そのロープが枷になってしまう。
「いや、やめとこう。ルーもリリララも落ちる心配はないでしょ?」
「お前はよ」
「僕が落ちたら助けてよ」
「うふふ、お任せくださいませ」
片や重力の魔道使いであり片や地の魔道使いである。
落下の心配をする必要はなかった。
「ふうむ、ローサが落ちるほど幅はないか。荷車もあるし。でも荷車はちょっときつそうだな、この山道じゃ。リリララ整地できる?」
「三ヶ月ぐらいくれりゃあな。あと山ほどの魔精薬」
リリララはまったくする気もなく言った。地の魔道使いは戦闘よりもむしろ土木工事に用いられることが多く、街道の敷設や補修には彼らの力が大いに役立っている。
しかし一から十までも魔道で行うというよりは、魔道を通じて身に付けた知識を労働者に浸透させるのが主な役目だった。彼らが魔道を用いるのは人の力の及ばぬ大岩などの除去や、大規模構造物建設の補助的な役割だった。でなければ費用対効果が釣り合わない。
「じゃあ荷車を諦めるか。あとは何が危ないだろう?」
「ローサさまのことならば、やはり火気ではありません?」
「たしかに迂闊に火を使ったら暴発しそうだ」
噴き出しているガスの中には可燃性のものも含まれているかもしれない。ローサばかりではなくランタンもだが、戦い方はずいぶんと制限されるだろう。
「この山はさっさと下るべきだな」
島の南端は山の中腹だった。巨大な爪を立てて真っ直ぐに削り落としたような崖になっている。覗き込んだ眼下には波が崖肌に当たって渦を巻いている。発生した白泡が海底へと引きずり込まれる。
崖肌には無数の海鳥が巣を作っており、雛でも育てているのか親鳥の出入りが激しかった。
「ルーがいれば下れるね」
「わざわざ下る必要ないだろ」
崖沿いを進んで山を下っていく。
山の標高は下がるほどに緑が増えてくる。黒い溶岩石に草花が根を張るようになり、やがて低木が、そして頭上を覆うような森林へと姿を変えていく。そして緑が増えるほどに気温が上がっていった。
地上では真冬だが、この迷宮は常夏の島のようだった。
途中で着込んでいた防寒着を脱いだ。
ランタンは戦鎚代わりに持ち込んだ肉厚の山刀で枝を払いながら進んでゆく。
「気配は多いが、魔物ってよりは獣の反応に近いな」
この迷宮には様々な魔物が出現する。獣系、昆虫系、植物系、水棲系。だがランタンたちがそれほど気配を隠さずにいるというのに襲われることがなかった。それどころか物音に反応して逃げ去っていく。
「閉鎖型迷宮はまだあれだけど、開放型迷宮は多いよね。こういうの」
魔物とは本来、人に襲いかかってくるものだった。
しかし開放型迷宮が発生するようになって、魔物はより複雑な行動を取るようになった。今まで通り襲いかかってくるもの、様子を見るもの、逃げ出すもの、そしてごく稀に友好的な態度を示すもの。
「ルーは色んな人と探索行ってるけど、どう?」
「戸惑いの方が多くありますね。これまでは単純でしたから。魔物は敵。そこに選択の余地もありません。けれど今は戦闘を回避できる可能性もありますでしょう?」
「うん」
「わたくしはいいことだと思っていたのですけど。けれども一手目が遅れることがどうしてもありますわ。戦わないに越したことはありませんから、下心が出ますわね」
「主導権が向こうにあるのか」
「ええ、まさに図らずとも開戦の主導権が奪われた形になります」
「実は図られてるんじゃねーの?」
リリララが混ぜっ返すが、それは核心を突いているのかもしれない。
迷宮は人を量っている、ようなところがあるとランタンは思う。それは迷宮が人の意思によって形を変化させるものだからかもしれない。
出自を知らぬランタンばかりではなく、誰もが大なり小なり自分というものを知りたがっているのではないか。あるいは探索をともにする仲間たちを。
「かといって最初から敵と決めつけるのも、いたずらに敵を増やすだけのようにも思うな」
「身に染みてるな」
「ルーだって最初は敵だったしね」
「それは言わないで下さいませ。ランタンさま」
「気にしなくていいよ。リリオンだって最初はそうだし」
時折、魔物の気配や足音を感じながら山を抜けると、裾野は広く草原めいた丘陵となっている。そこでは馬が緑の草を食んでいて、ひどくのどかな光景だった。馬の魔物の何頭かは首を伸ばしてこちらを見ている。警戒心はある。だがそれだけのようだった。
「ちょっと落ち着かないな」
「ですわよね」
ランタンの言葉にルーが同意する。
一見、敵対的に見えなくても魔物は魔物である。それが目の端に映っている限り、あるいはそこにいると知ってしまったからにはずっと意識をしてしまう。
「来るなら来いって感じだけど、その時点で向こうが先か。ああ、もどかしい」
落ち付かなげに山刀をぶらぶらさせるランタンの背中にリリララが触れた。
「じゃあさっさと先に行こうぜ。無視無視、飯食ってるだけだよ」
邪魔しちゃ悪いよ、と触れた手が背中を押す。
砂州で繋がる瓢箪型の下方、島の北側へ移ると魔物の気配は濃密になった。
「これは、わかりやすくていいな」
ランタンは自分に呆れるように呟いた。
島は中心に向かって木々が濃くなる樹林帯だ。林の縁を歩いていると、その中から明確な敵意が伝わってくる。わかりやすいその感覚にランタンはむしろほっとしている。
「先手を打ちますか?」
「いや、ここは待とう。開けた場所の方がやりやすい。多少地面が緩いけど、ルーはそれでいい?」
「わたくしはどこでも」
「そりゃ心強い。リリララは」
「右に同じ。と言いたいところだが、あんまり相手が硬いと微妙だな」
リリララは地面を蹴り込んだ。たいした力が無くとも爪先が埋まる。海岸が近いせいだろうか。やや湿り気を帯びた砂地だった。
「ま、補助程度だな。……数が増えたな。でかいのが一つ、こまいのが十三、四」
リリララが耳を澄ます。
「でかいのは二足歩行。あとは四足、獣系だろう」
「でかいのをわたくしに任せていただいてもよろしいでしょうか?」
「まかせた」
「ありがとうございます。がんばりますわ」
ルーの戦型は徒手格闘術だった。探索者である限り様々な形状を持つ魔物と対峙しなければならないが、やはり得意な相手は人の形をしたものだった。
魔物はこちらの様子を窺って仲間が集まるのを待つ程度の知能はあるようだったが、しかし戦闘を見送ることはなかった。それはやはり魔物の本能だった。
先陣を切って樹林から姿を現したのは魔犬であった。潰れた鼻に弛んだ黒い皮膚、口元から牙が覗いているさまは一見すると猪のようにも見える。それが黒波のように群となってこちらへ疾走してくる。
それを見てルーが走り出した。
「浮き足立ってるな」
「それこそがルーの神髄だよ」
この緩い足場にルーの足跡は微かだった。流れるような足運び。十四からなる魔犬の波がルーに襲いかかる。その瞬間にルーが跳躍した。
「わぁ!」
ランタンは思わず歓声を上げる。手に山刀を握っていなければ拍手をしたい気分だった。
ルーは魔犬の頭を踏みつけにして、その波の上を走って行く。砂地に足跡も微かな足運びがまったく同様に見えて、魔犬の頭部を踏み抜いている。
「見惚れてんなよ」
「いや、あれはすごいよ。僕も頑張らないと」
リリララが冷ややかな声を出した。
ランタンは軽く返事をして、山刀を片手に魔犬の群へと斬り込んで行く。ルーに大物を任せるためには、魔犬たちをランタンが引きつけなければならない。
「こっちだ、よっ!」
特殊な能力が付与されていないただの山刀である。厚みがあるので多少、乱暴に使っても問題はない。ランタンは戦鎚めいて、山刀を振り下ろした。
ぶ厚い頭蓋骨を叩き割って辺りに血の臭いが立ちこめる。
頭上を踏み越えていったルーへと向かった魔犬たちの意識が一斉にランタンに向けられた。即応して飛び掛かろうとした一頭の踏み込みが沈む。
流砂のように足元の砂地がへこんでいる。リリララの仕業だった。前につんのめって差し出された首に山刀を叩き付ける。叩き落とされた首が転がって、魔犬はなおもがちがちと歯を鳴らした。
充分、引きつけたな。
ランタンの視線の端ではルーが最後に現れたでかいのと対峙しているのが見える。
それは二足歩行になった魔犬だろうか。
しかし皮は弛んでおらず、黒々とした短い毛に覆われた巨軀は大猿のようでもある。牙の発達した頭部は猪で、下半身を腰蓑で覆い、手に粗野な石斧を構えている。
まるで蛮族の戦士のようだった。
「さて、いいところを見せませんと」
ルーは大きく間合いを取って、小さく囁いた。魔犬の群のことをすっかり頭から消し去る。
対峙する相手は見るだに怖ろしい魔物だ。変えようもない体格差。
こちらからはまったく打ち込めない。けれど向こうの間合いを僅かに外した距離だった。
斧を避けなければならないが、そればかりに気を取られてはいけない。単純な力比べならば防御ることは不可能だ。
だがルーは重力を操ることができる。これをいかに用いるか。
ルーはぼんやりと全体を見ていた視線を、ふいに蛮族戦士の目に焦点を合わせた。すかさずそれを外すと、戦士がその誘いに乗って斬り込んでくる。
乱雑な足運び。大振りの上段。圧倒的な暴力の気配。
相手の踏み込みに合わせてルーは前進し、相手の出足を蹴り払って体勢を崩す。体勢の傾きに合わせて斜めに大回りする上段をやり過ごし、肩からその懐に入り込む。
獣臭。
右前。右拳を左腰に溜めおく。後肢を蹴り込み、腰の旋転。物が落下するような力の流れが、背筋を伝って腰から肩に逆上がって行く。先行する肘。その先の前腕が鞭のよう跳ねる。
拳が鋼の腹筋に触れる。最後の踏み込みはその後だった。
「ふんっ――」
踏み込みと同時に触れた拳を突き出した。
解放された力に戦士の肉体がくの字に折れ曲がる。ルーの拳はその肉体に埋まっていた。
硬い皮膚がその下の筋繊維とともにみしみし音を立てて千切れる感触が伝わってくる。
「――はっ!」
その拳に身体を引きつけて、殴れる位置まで落ちてきた顔に左の拳を叩き込む。
しかしさすがの戦士である。内臓を損傷しているはずなのに、それでもまだ闘志は衰えない。口からだらだらと血を溢れさせながら身体を振り回す。ルーは距離を空けず、その動きに等速でついて行く。
今度は軸足を狙って足を払った。
戦士はどうして自分がこれほど単純に転ばされるのかを理解できない。
常に一定に働くはずの重力が、相手に操られているなどとはまったく思いもよらない。音も匂いも色もない。ルーの魔道の強みはまさにそれだった。
仰向けに倒された戦士はルーを見上げる。
緑の髪、女の細腕。
迷宮に生まれ落ちて、人間の女など喰らったことはないはずなのに、それが美味であることを戦士はどうしてか知っていた。
腹が鳴った。内部で引き千切れた臓腑が飢えている。
迫り上がってくる血で溺れそうになる。飼い犬どもを呼ぼうと吼えても、一頭たりとも集まっては来ない。その理由を知る余裕は戦士になかった。
戦士は渾身の力で立ち上がった。
斧を持った理由は何だろうか。腰に巻いた蓑の理由は何だろうか。この思考は何だろうか。喰らうこと。それのみであったはずの戦士の脳内に今まで考えたこともなかったような思いが稲妻のように走った。
臓腑が焼けている。その熱が己を滾らせた。
腰蓑の前を割って、己のそれが反り返った。
足を蹴り外されたならば、どうするか。戦士は上半身から前のめりになって突っ込んで行く。顔の前に腕を交差させ、その隙間にルーを睨みつける。避けられるだろうか。それならばそのまま突っ走ってしまえばいい。
ルーは逃げなかった。
爪先が跳ね上がった。交差した腕の隙間から戦士の顎を蹴り上げる。しかし加速した質量は止まらず、そのままルーにぶち当たるはずだった。
重力の流れが逆転する。蹴り上げた力そのままに、戦士は空に向かって落下し、それから正しく地面に身体が叩き付けられた。
何が起こったのかを理解することは不可能だった。
もう起き上がることができなかった。ルーの足が戦士の首を踏み抜いた。柔らかな砂地は何の役にも立たなかった。
ただ最後に一矢報いるかのように溢れるような吐血がルーの身体を汚した。
ルーはランタンを振り返り、それからゆっくりと息を吐いた。
ルーの戦いは、いつだって命の距離が近すぎる。気を抜く暇など一瞬もなかった。
魔犬の群は一掃され、ルーと同じようにランタンも血塗れになっている。
緊張が身体から抜ける。
こちらに向かって手を振るランタンの姿は、泥遊びをした子供のように見える。




