036
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前夜はあまり食欲がなかった。それは血色芋虫の異様がちらついたせいということもあるし、臓腑に重くのしかかる欲求不満が胃の腑を圧迫していたというのもある。空腹に目を覚まし、朝食はたらふく食べた。空腹に勝る欲求はないのかもしれない、とそう思った。
不満は今は懊悩とも言うべき物になっていたが、まだある事にはあるのだ。
暴れたりない、と言うそれは、運動したりない、を物騒に言い換えただけなのか、それとも暴力に飢えているという事なのか。戦闘の余韻から抜け出し、たっぷりと脳に栄養を捧げた今ランタンはどちらなのだろうかと思案していたが、その答えが見つかる事はなかった。
「ふうむ」
ランタンは気の抜けた声を漏らした。混沌たる感情は、けれど全て腹に納めている。昨晩のように感情を持て余し、それを表情に漏らすという事はない。もやもやしたものは、運動によって昇華するか、と酷く冷静に考えている己が妙に笑えた。
「どうしたの?」
小さく息を漏らしたランタンに、髪を梳かされているリリオンが振り返る事も出来ずに、頭を上下にくるりとひっくり返そうとするように顎を上げた。
「なんでもないよ、ほら前向いて」
寝るときに緩く三つ編みにしていたため、リリオンの髪はふんわりと波打っている。髪油を使うようになってから櫛通りが良くなった。頭頂から毛先まで、絡まることなく梳ることが出来る。さてどうしようか、とランタンはリリオンの髪を一つ掬い取って考え込んだ。
リリオンの髪を纏める。いつもは三つ編みにしたり、簡単に一つ結びにしたりする。長く背中に垂らして歩く度に先端の跳ねるそれは快活な印象が愛らしく、また駆けるとふわりと棚引き、それは龍の尾のようで優美だった。だがその反面、戦闘時に跳ねた血で汚れたり、攻撃が掠めたりと心配になることも多い。事実嵐熊にはそれを切断されたことは記憶に新しい。
これからの帰り道に襲撃があるという確証はないが、だがもしあるのならば乱戦になるだろうと予想される。あまり長く垂らしておくのは危ないかもしれない。魔物がそれをすることは滅多にないが、人間相手では髪を捕まれることがある。それは思いがけず致命傷を招くことがある。
「よし、決めた」
幸い時間はまだたっぷりとあったのでランタンはまずリリオンの前髪を丁寧に編んでいった。
「痛くない?」
「うん、だいじょうぶ」
ランタンが聞くとリリオンは弾むような声で返した。形が崩れないように少しきつめに編んでいたが、そのことよりもリリオンは形を変える自らの髪を楽しんでいるようだった。ランタンはベッドから飛び降りると、リリオンの前に立ちその顔を真正面から見つめた。
「ランタン?」
「うん」
「ねぇ、ランタン?」
「うん」
リリオンの問いかけにランタンは全く上の空で、編み込んだ髪の様子を確かめ、返事でなくただ自分が納得したように頷いて再びベッドへと上ると、いそいそと編み込みを再開した。そんなランタンの様子にリリオンが大人ぶった微笑みを浮かべる。
ランタンはリリオンの笑みに気づきもせずに黙々と髪を編んだ。編んでいるときは、思考がそれだけに集中して心が落ちいた。
戦闘時に前髪が目に掛からないように、サイドの髪からきっちりと編み込んでカチューシャを作り、余った髪をこめかみの辺りでさらに複雑に編み込んで短く垂らした。それは幸運のお守りのように揺らめいた。後ろ髪はくるりと纏めて低い位置でシニヨンにした。ヘアピンも髪紐も足らないのでシニヨンが少し緩い。だが言い方を変えればそのシニヨンは花弁の柔らかい白薔薇のようにも見える。ランタンはリリオンの頭を撫でて、作業が終わったことを伝えた。
「できた?」
「まぁね」
「見てくるね!」
リリオンは叫ぶように言うとベッドから立ち上がって宿の備え付けの鏡に向かって走って行った。ランタンはリリオンと入れ替わるようにベッドに腰を下ろしてばきぼきと指を鳴らす。
視線の先でリリオンが鏡に向かって笑いかけていた。左のこめかみから右のこめかみにアーチを掛けるカチューシャ状の編み込みに指を這わせて、そっと項辺りのシニヨンの形を確かめている。喜んで貰えたようで何よりだ。
じっくりと自分の姿を堪能したリリオンが戻ってくる。ランタンの目の前に立ち止まると、くるりと回って見せた。今は戦闘服に身を包んでいるが、ひらひらしたスカートでも履かせたらお嬢様に見えるかもしれない。
「どう?」
「攫いたくなっちゃうね」
ランタンは笑いながらそう言った。リリオンはもっと直接的に褒めてもらいたかったのか少しばかり不満気に、それでも口角を緩めた。だがそれが笑みを形作る事はなく、リリオンは浅く開いた唇から舌を覗かせて、少し濡らした。
「……ランタン」
リリオンがそわそわと落ち着かないように指先を擦り合わせて、そっと囁くように名を呼んだ。そして、ごめんなさい、と頭を下げた。纏めた髪は流れる事無く、きちんと纏まったままになっている。
ランタンは一瞬戸惑って、それから静かに訊いた。
「何のごめんなさい?」
ランタンは座ったまま、目の前の位置まで下げられたリリオンの頭に触れて、剥き出しになったおでこを撫でるように顔を上げさせた。ランタンの目は冷たい厳しさを湛えてリリオンを見上げている。
リリオンの淡褐色の瞳はまるで感情に移ろうように色を変えた。時に金色にも見える瞳が、今は濃緑色に沈んでいた。
「……わたしが、狙われてるから、それで、ランタンに迷惑が――」
碌でもない理由だと思ってはいたが、やはり碌でもなかった。
ランタンは手を振ってリリオンの話を打ち切ると、蹴り飛ばすように靴を脱いでベッドの上に仁王立ちになった。リリオンと目を合わせる。目を伏せたリリオンの頬をぱちんと両手で挟み込んで、目を逸らす事を許さなかった。額をくっつけて、その瞳の奥に潜るように。
「それってリリオンに何か非がある事なの?」
リリオンは答えない。ランタンは構わず続けた。
「違うでしょ? 悪いのはリリオンを狙ってる奴だよ。そんな奴のために頭を下げる必要は無い」
ランタンはリリオンの頬から手を離して、苦笑するように鼻を鳴らした。
「――って言うか謝るんなら、寝返りで僕を蹴っ飛ばした事とか、涎垂らして枕を濡らした事を謝って欲しいね」
「わたし、……蹴ったの?」
「膝が脇腹にめり込んだよ。晩ご飯食べてなくてよかったよ」
「……わたし、よだれ――」
「出てた。僕のご飯も食べたのに、夢でもご飯食べていたのかしらないけど、冷たかった」
「――ごめんなさい」
「よろしい。じゃあ靴拾って」
偉そうに頷いたランタンはベッドに尻餅をつくように座って、リリオンが揃えてベッドの足元に置いた戦闘靴に足を通した。リラックスするためにゆるゆるだった靴紐をきつく締め直し、爪先で地面を二度ノックした。
「さ、行くよ」
「うん」
リリオンの尻を叩いて、忘れ物がないことを確認して宿を出た。まだ不審な人影は見当たらない。
さて拐かされようじゃないか、とランタンは表情に出さずに冷たく笑った。
通りで少しだけ買い食いしながらぶらぶらと散策し、適当に入った魔道薬局で所持重量を減らすように買い物をする。金貨と魔道薬の交換。魔道薬はグラム当たり金より高価で、物によっては腐るようなこともないので今回使う機会がなくても問題はない。もっとも金貨は純金ではなかったが、それでも。
購入する時に店内で服用する事を伝えると店主は頼んだ品を銀の杯に注いでくれる。液剤の満たされた杯をかちんと鳴らして、二人揃って一気に呷った。温く、喉越しが滑っているが口当たりは気体を飲んだように軽い。レモンフレーバーのおかげでいくらか飲みやすいが、味が美味いというわけではない。喉に苦みがへばり付いていた。唇からは杯を外すと二人揃って眉を顰める。顔を見合わせて苦笑した。
それは毒物への耐性を向上させる薬だ。カルレロ・ファミリーの扱う薬物は大抵は陶酔感や多幸感をもたらす麻薬であったが、それ以外の毒劇物の売買も確認されているとテスが教えてくれた。
ランタンの探索者として強化された身体機能は毒物への耐性へも及んでいるが過信は出来ない。リリオンに至ってはどれほどのものか判らない。耐毒薬は一杯で二四時間から四八時間程度、服用者の有害物質に対する免疫機能を向上させる効果がある。これから襲撃が起こるのならば充分すぎる効果時間だった。
ランタンは店主に杯を返却した。リリオンは隣で後味を洗い流すように水筒から水を飲んでいる。ランタンは時計に目を落とした。時刻は一四時。物珍しげに薬品を眺めるリリオンと店内を冷やかしていたせいもあってテスとの約束の時間が迫っていた。
ランタンはリリオンの手を引いて薬局を後にすると、時間を調整するように道を選びながら上街と下街を分かつ門までやって来た。辺りを見回そうとするリリオンの手を強く握りしめて、その行動を諫める。
薬局からきっちり三〇分歩いた。リリオンはおろかランタンさえも感知することが出来ないが、どこからかテスが二人を見守って、二人に危険が迫ったら合流する手筈になっている。
本当に見守っているのか不安になるほど完璧な隠行だが、ランタンは足を止めずに門を潜り抜けた。
「テスさん、どこにいるんだろうね」
「どっかにいるでしょ? 全っ然、気配探れないけど」
「ねぇ、うしろ振り返ってみてもいい?」
適当に雑談をしながら下街の廃墟じみた街並みを歩く。リリオンがランタンの手をちょんちょんと引っ張って、そっとランタンの表情を窺った。
「なにリリオン、怖いの?」
「こわくないわ」
ランタンが意地悪そうな顔つきで言うと、リリオンは間髪入れずに言い返した。小声でしか話せないので、その分ランタンの手を強く握った。手の甲がぎしぎし軋む。
「怖がってもいいんだよ?」
「こわくないわよ。……だってランタンが守ってくれるんでしょう?」
頬を膨らませ、唇を尖らせたリリオンが拗ねるように呟いて、それから疑いの一つもない澄んだ瞳でランタンをじっと見つめながら続けた。
「そうだよ」
ランタンは一呼吸も置かずに頷いて、その吸い込まれそうな瞳に映った己から目を逸らした。
なるほどこれはなかなか大変なことだ、とランタンは今更ながらにこれから行うべき事を再確認してゆっくりと深呼吸をした。
有象無象の薬物中毒者とそれを統率する悪党を撃滅するのではなく、傷つきやすく繊細なこの少女の不安を払わなければならないのだ。例えばこうやって手を繋いで歩かなくても済むように。
「ランタンのことは、わたしが守ってあげるからね」
「どうもありがとう」
ランタンが呟くと、リリオンはしてやったりと微笑んで、それから手を離し、腕を組んで肩を寄せた。守るとか守られるとかは別の問題として、ただ一時だけ、甘えるように。
目抜き通りをふらふら歩いて、左右に立ち並ぶ露天を覗き込むように足を止めると、気のせいか複数人が少し離れた露天で同じように足を止めた、ような気がした。
ランタンは繋いだ手の指先を少し動かしてリリオンの手の甲を擽る。
「んっ」
妙に色っぽい声を出したリリオンに不意打ちを食らわされて再び歩き出すと、その立ち止まった中でさらに数人だけが同じように歩き出した。ただの偶然かもしれないし、そうでないのかもしれない。
「どっちかな?」
「んー、釣れたっぽいような気もする」
ふるいに掛けるように、人混みから次第に人気の少ない方へと足を進める。ついてくる者もいるし、こない者もいる。そしてこない者に入れ替わるように、どこからか姿を現した者もいた。
さほど索敵能力の高くないランタンにさえ明確に、その存在感を露わにして。
「これはあたりだね」
「どうするの?」
「予定通りに進めるよ」
後をつけている者は、隠行技能が低くその存在を現したと言うよりは、あえてランタンたちに自らの存在を見せつけているようだった。獲物を追い立てるように、いかにも恐ろしげな雰囲気で。
ランタンは喉を震わせて、低く笑った。
猟犬が獲物を追い立てることが出来るのは、獲物にとって猟犬が脅威であるからだ。臭いであれ、足音であれ、吠え声であれそれに恐怖を感じて、自らの意思に関係なく本能的に逃げ出す。
だがランタンはその敵意漲る追い立て役たちを半ば無視して自らの意思を以て人気のない方へとどんどんと足を進めた。
辿り着いたのは開けた場所だ。左右には殆ど建物がなく、あったとしてもどうして崩壊していないのか不思議なほどの廃屋が幾つかあるだけで、弓男が姿を隠すとするのならば正面にある四階建ての見張り塔しかないという有様の。
「なんとも好都合な」
思わず呟いたランタンにリリオンがきょとんと首を傾げた。テスから指定された場所は相手が身を潜める影が限定されていて、あつらえたようにさっぱりしている。
遮る物のない灰色の風景が、日の光を反射して落ち着いた白色に輝いている。吹く風がほんわか暖かくて穏やかだ。天気も良いしお弁当でも持ってくればよかったな、とランタンは思った。
「さあて」
ランタンが呟くと、リリオンがその意図をくみ取ったように、けれども名残惜しげに組んでいた腕を外して、真っ青な空に手を伸ばすように大きく背伸びをした。それに倣ってランタンも大きくあくびをしてみせた。
待ち伏せはあの廃屋の影に潜んでいるだろうか。追い立て役は、自らの思い通りに追い立てられたと考えているだろうか。弓男はきちんと先回りしてあの塔に籠もっているだろうか。
――いるな。
見張り塔から真っ直ぐに、矢のような殺意が撃ち込まれている。身に覚えはないが、随分と嫌われたものだ。ランタンは呆れたように苦笑した。どうとも思っていない相手に嫌われようともランタンにはこれっぽっちも関係のない話である。居ることが判れば充分だ。
「リリオン」
「……もうっ、わたしなら大丈夫よ。こわくないの」
リリオンが人差し指でランタンの唇にちょんと触った。心配性の小うるさい少年を黙らせるにはそれで充分だった。押し黙ったランタンにリリオンが笑いかけて、ランタンは驚いたように目を瞬かせた。
人の気配が増える。まるで小さな石を持ち上げたら、思いの外大量の虫が蠢くように。
誘い込みは充分と思っているのだろう。この辺りからが弓男の射程内なのだ。ぴりっと殺意が濃くなった。
背後から追い立て役が合流して一塊の集団を形成し、そして左右の廃屋の影から、追加の集団が二つ。あっという間に三方向から囲まれてしまった。包囲網を狭められれば、いかにも絶体絶命である。
ざっと見ただけで五〇人は超えているようだが、その全てが薬物中毒者というわけではないようだ。中毒者を管理する人間、おそらくカルレロ・ファミリーの構成員が何名か紛れ込んでいる。集団はまるで優等生のようにきちんと徒党を組んでいる。
それは身体を大きく見せるために寄り集まった魚群のようにも見えた。その中に貫衣のものと思わしき気配はない。牛頭の姿も見えない。
最大戦力が用いられていないのは侮られているからか、それとも別の理由か。
じゃらりと抜剣する音が響いた。これは明確な攻撃意思の表示だ。これで反撃したからと言ってランタンたちが罪に問われることはない。それを目撃する人間がいなくとも、建前は大切にしなくてはならない。
「囲まれるのは面倒くさいな」
笑顔を消したランタンがそっとリリオンに囁いた。
「どっちに行く?」
「後ろかな」
ランタンがそう言うと、リリオンは一度胸を膨らませて、息を全て吐ききった。身体の中にある余分なものを排出して、再び吸い込まないように少し息を止めて、それから口を開いた。
「わたしが行くわ」
「うん、任せた。真っ直ぐ突っ切れ、まずは蹴散らすだけでいい。背中は――僕に任せて」
「うん」
リリオンは立ち止まった瞬間に振り向いて、走り出すと同時に盾を構えた。それに一つ遅れて斜め前から接近していた集団が色めきだって一斉に駆けだしてきたが、あまりにも遅すぎた。気をつけるべきは弓男だけだが、そちらからも矢が射られることはない。
せっかく格好良く決めたのに役に立たない弓男だ、とランタンは一人ぶつぶつと口の中で不満を呟く。その不満を呼び水にするように、腹の中で大人しくしていた欲求が足並みを揃えて迫り上がってきた。そしてリリオンが真っ直ぐ突き進むのを羨ましげに眺めている。
「はあぁっ!」
鎧袖一触に十数名からなる男たちが蹴散らされた。小魚の群れに鯱が突っ込んで蹂躙するように。リリオンは速度を落とすことなく、男に臆することなく真っ直ぐと突き進み、そして突き抜けて足を止めると振り返った。
その目に映るランタンは死に神のように悠然と戦槌を振り回している。群れは左右に分割されて、真っ直ぐ一本道ができあがっているというのに、わざわざ片方により道をして混乱してる男たちの頭を砕いて回っていた。戦槌を濡らす血を振り払って、ようやくリリオンに追いつく艶然と笑った。
「沢山、引く、七人。残りは幾つ?」
ランタンは歌うように尋ねた。リリオンは盾から剣を引き抜く。
「……いっぱい」
「うん、気を抜かずに行こう」
ランタンは高揚感を感じていたが、実のところ少しだけ恐怖も感じていることを自覚していた。今までも荒事をそこそこ熟しているがこれだけの人間を相手をするのは初めてだ。そして奔流のように思考を塗り替えようとする陶酔感。暴力へと言うべきか、力を振るうことと言うべきか。
何にせよこれに身を任せるには危険だと七名の命を代償に悟った。あるいはそれは気持ちの悪さだったのかもしれない。
「さて」
自己の葛藤を解決するのは後回しだ、とランタンはさっさと思考を切り替えて戦槌を構えた。どんな答えであれやるべき事はそう変わらない。リリオンを守ること、それが最も重要なことだ。
男たちが向かってくる。
囲むことを諦めたのか群れが集まり一つになって、より巨大な群れとなって二人を食い散らそうと向かってきた。
群れの中に何名か素面の者も居るが、やはり殆どが薬物中毒者のようだ。だが前回とは違い、身なりがかなりマシである。極端に痩せている者はおらず、そこいらにいる健康な破落戸とたいした違いはなかった。
ただ酷く興奮しているようで目が血走っており、やたら滅多らに叫び声を上げて剣を振り回している様は共通している。興奮剤か覚醒剤のたぐいをキメているのだろう。七名の死体を見ても恐怖を感じず、むしろより興奮したように暴力への喜びに身を委ねている。
自らの欲求に逆らわない勝手気ままなその様子を見て、だがランタンは羨ましいとは思わなかった。ああはなりたくないな、とランタンは自省を込めてその姿を見つめた。
彼らの敵意はリリオンへも向いている。リリオンを無傷で捕らえることを不可能だと、そう理解したのだろうか。あるいは教育を施す時間が足りないのか。
そのぎらついた瞳にランタンは舌打ちを一つ吐き出して、血の臭いに酔う肉食魚の群れへと飛び込んでいった。
男たちは密集して、互いが互いを傷つけ合うことも気にせずに剣を振り回している。
「ふっ」
ランタンが戦槌を閃かせると、男たちの腕が砕け、胴が陥没し、頭蓋が割れた。痛みさえも快楽か。腕が砕けただけでは男は止まらない。
ランタンは新鮮な動死体のような男の噛み付きに蹴りを食らわせて、吹き飛んだその男に入れ替わるように向かってきた男の刺突を仰け反るように躱した。だが予想以上に鋭い突き込みに、ふわりと浮いた前髪が数本切り取られた。動きがいい。ランタンは前回の戦闘の記憶を脇にどかして意識を改めた。
ランタンは仰け反った勢いのまま地面を蹴って宙返りするように距離を取った。天地が逆さまになったその瞬間、腹筋をねじ切るように身体を捻り戦槌を振るった。そして飛来した矢を叩き折った。前にも見た高級そうな黒い矢だ。
「茶色だったかな」
着地したランタンはぽつりと呟いた。手がじいんと痺れている。連射性よりも、一射の強さを取ったのだろうか。着地の瞬間に追撃があるかと気をつけていたが、そこに二射目はなく弓男は再び沈黙した。相変わらず刺し貫くような殺意をランタンに向けながら。
それを鬱陶しく思いながらもランタンは視線を動かした。
先ほどランタンが居た敵の群れ、その中にリリオンが居た。
「うわぁ……」
そしてそれを見てランタンが思わず声を漏らした。既視感があったが、それよりも酷い。
右から左へと薙ぎ払われた大剣が一度に五人の男を両断したのだ。残された下半身が地面に棒立ちになっており、投げ出された上半身が大量の落とし物をしながら錐もみ回転している。青空を汚すかのように。
頬を引きつらせたランタンは靴底に爆発を起こして一瞬でリリオンに接近すると、その捻られた細腰に抱きつき、再び爆発を巻き起こして吹っ飛ぶように後退した。
「きゃあ!」
急に後ろに引きずられたリリオンが悲鳴を上げたがランタンは無視した。緊急事態だった。
「ぎりぎりせーふ!」
ランタンは命の危機を脱したように大げさな安堵の溜め息を吐き出した。
先ほどリリオンが立っていた場所に血と内臓と、そして汚物の雨が降っているのだ。血の臭いだけでも相当なのだが、それ以上の異臭が漂ってリリオンがよやく何が起こったのか気がついて乾いた笑いを漏らした。あと一歩遅ければ別の物を漏らしたような悲惨な有様になっていただろう。笑い事ではない。
「戦線を上げるよ。あれの風上に」
「爆発でどうにか出来ないの?」
「できないし、しない、したくない」
一瞬で焼却してしまえば臭いも何もかもなくなるかもしれなかったが、その為にはあの汚物の中に戦槌を叩きつけなければならない。そんなことは何が何でもしたくはなかった。少し怒ったように宣言したランタンに、リリオンが虎の尾を踏んだような顔つきでコクコクと頷いた。
リリオンの剣撃に仰け反った男たちが、鼓舞するような声を上げて動き出した。場所を変えたいが弓男に背を向けたくはないし、可能ならば真正面に見据えていたい。だがそれは難しそうだ。
薬物中毒者たちは逃げれば追ってくるので誘導することは容易いが、素面の者たちはさすがにそうはいかなかった。それに薬物中毒者たちを誘導することに掛けては、相手の方が数段上だろう。辺りに転がる死体は薬物中毒者の死体ばかりで、素面の者たちは彼らを盾にして隙を窺っている。
仕方がない。臭気を防ぐことは出来ないが、矢はどうとでも出来る。弓男の正面は諦めてランタンは円を描くように相手の左側面に回り込んだ。リリオンへの射線は構えた盾によって大部分が遮られている。弓男の精密射撃を思えば嫌がらせ程度だろうがないよりマシだ。
残っている敵戦力は三十名強。素面は十名に満たないだろう。だんだんと薬物中毒者の盾は剥がれ落ちていっている。だが、まず積極的に向かってくる薬物中毒者を排除しなければならない。
ランタンは突っ込んでくる一人を打ち払い、その男を目隠しに使うようにその動脈を切断しながら突き込まれた剣を躱した。素面も前に出てきてはいるようだ。ランタンは手首を返して打ち払った男を鶴嘴に引っかけると、それを振り回して素面に巻き込んだ。
「くそがっ!」
下品な声に野次られたが、ランタンはそれを無視して死体に巻き込まれた素面の頭を砕こうとした。だが別の薬物中毒者が素面を守った。まるで犬がじゃれつくように。ランタンの戦槌は素面の頭蓋骨の代わりに、薬物中毒者の背骨を砕いた。素面は既に攻撃圏外にいる。ランタンは嫌がらせに背骨の折れた男をその素面の方へと蹴り飛ばした。
「くそがあぁぁっ!!」
こっちの台詞だ。ランタンは鼻で笑いながら側に居る男を次々に屠った。この場でランタンの戦槌よりも硬質な物は何一つとして存在しなかった。
戦槌を一つ振るえば剣が割れて、骨が折れた。胴を薙げば内臓が破裂し、砕けた骨が中身を掻き回した。首から上はどこに当たっても衝撃で何もかもが弾け飛んで、それに怯えた素面、後ずさった男をランタンは鶴嘴に引っかけて引き寄せると、その勢いで膝の関節を逆方向に踏み折った。
絶叫を上げ崩れ落ちる男に向かって矢が射られたが、ランタンはそれを打ち落とした。五十余名中でまともに口がきけそうな人間は貴重なのだ。
「化け物めっ!」
どこかで誰かが叫んだ。誰も彼もが叫んでいた。
薬物中毒者たちは恐れを知らぬ獣のように苛烈であり、素面たちの動きは破落戸のような喧嘩殺法ではなく、暴力を仕事にしている者らしく獰猛に洗練された戦士のそれだった。だがランタンはそれ以上だった。
まるで生者を冥府に誘うカボチャ頭の幽鬼のように、軽やかに戦槌を振るい、無慈悲に命を砕いて舞い踊った。瞳に宿る橙の光が、日差しの中でなお鮮烈に煌めいた。
リリオンはランタンへの信頼を胸に抱いて、恐れることなく男たちと対峙している。
先ほどのあれで少しだけ剣筋が大人しく、腹腔を切りつける事を避けていたが、突っ込んでくるしか能のない薬物中毒者を切断するには充分な威力を秘めていた。振り回される大剣と、巨大な鉄板に等しい方盾は暴風そのものだった。すらりとしたリリオンの細腕と、冗談のように片腕で振るわれる大剣の射程は男たちの倍はあった。接近してしまえば、と考える者もいたがランタンが絶妙にそれをさせなかった。
それは偶然だったのだろうがリリオンが振り回した方盾が巻き起こした風に、飛来した矢が煽られ、勢いを失い無残にも落下する様にランタンは思わず笑ってしまう。馬鹿げた膂力だ。
そんなランタンに次々に矢が撃ち込まれた。まるでランタンの笑みに苛立ったように、とびきりの憎悪を込めて。ランタンは咄嗟に薬物中毒者を引き寄せて、それを盾にした。だが軟らかな肉の盾を矢はあっさりと貫通して、ランタンは外套を翻らせてその矢を逸らした。外套が少し解れたことに、ランタンは嫌な顔をした。瞳の炎がふつ消えて、茶色の瞳が拗ねた子供のような眼差しを作った。
「なんだよ、くそっ!」
「こっちの台詞だよ、まったく」
あっという間にぴったり十名に数を減らした男たちが叫んだ。膝を砕いて、あえいでいる素面を入れれば十一名か。ランタンは外套を叩きながら、冷たく呟いた。
「話が違ぇっ! くそがっ、あの野郎っ、話がっ――」
そうやって駄々をこねれば許されるとでも思っているのだろうか、まるで示しを合わせたように男たちが戦うことをやめた。薬物中毒者までもが罵倒を始めた。ランタンに、リリオンに、そしてバラクロフに。
ランタンはそんな中でぴょんとリリオンに近づいた。死体や血だまりを避けるのが大変だ。辺りは地獄の様相だった。人間族亜人族混合の四十余名からなる死体が散らばって、灰色の地面を赤黒く汚している。血の臭い、死の臭いが渦巻いている。
ランタンはノックするようにリリオンの盾を叩いた。その瞬間に再び矢が射られた。ランタンは自分に向けられた一つを叩き落とし、叫んでいた男のこめかみに一つが突き刺さるのを見た。
「あーらら」
ランタンが言うと同時に男たちが脱兎の如く逃げ出し、そこへさらに矢が射られた。ランタンは取り敢えず膝を砕いた一人だけでも生かして捕らえておこうと、面倒くさそうにその男の前に立ちはだかってやった。
「あ」
「あっ!」
矢を打ち込まれた男たちは七名死んで、三名生き残っていた。視線の先にいつの間にか人影があり、それが矢を切り払ったようだ。人影は頭巾付きの外套を羽織っており、顔を隠している。
「なんだてめぇはっ!」
生き残った男が、自らを助けたその人影に向かって叫んだ。人影は朗々と言った。
「いたいけな少年少女に、これほどの大人数を以て襲いかかるとは不届き千万。たまたま通りかかった善良たる大人としてこれを見過ごすわけにはいかない、決して」
「てめぇ、この状況を見て何を……!!」
大人数の屍の中に立ち竦むいたいけな少年少女がぽかんとして人影を見つめていた。助けられた男たちは声を震わせるほどに怒っている。人影はくふふと笑った。
「私がなんだと聞いたな」
人影は男たちに一歩にじり寄って続けた。
「なんなんだよ……」
男たちが気圧されたように一歩後退り、あえぐように口を開いた。人影が満足そうに頷く。
「――正義さ」
正義の使者はそれだけ言うと問答無用に男たちをぶちのめした。
少年少女はあっけにとられて、正義の鉄槌が下される様を見ているしかなかった。そして悪い事はしないようにしよう、と深く心に刻み込むのだった。




