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その夜をリリオンの生家で過ごしたのは、霰混じりの雪が降ったからだった。
兵舎へ戻ろうかと家を出た途端にリリオンが、ひゃ、と悲鳴を上げた。背が高い分、先に少女の頭に氷の粒が当たったのだ。
それからはあっという間だった。
黒壁の森は見る間に雪に閉ざされた。
急げば大丈夫だろうと兵舎へ行こうとするランタンを止めたのはリリオンだった。
その忠告を無視していたら、どのような困難な迷宮からでも帰還してきたランタンでさえきっとその途中で冷たくなってしまったかもしれない。
極北の地の厳しい寒さはそういうものだった。
巨木の葉が霰に打ち据えられて不気味な音を奏でている。時折、葉に積もった雪が自らの重さにどさりと崩れた。みしみし、みしみしと冷たさが木々や大地を軋ませる。
暖炉でぱちぱちと爆ぜる薪の音が心強い。
世界には自分とリリオンの二人しかいない。
そう思わせるには充分な静けさだった。
頑丈なベッドに二人して寝転がる。毛皮の外衣を布団代わりにして、身に着けているものはむしろほとんど脱ぎ捨て、素肌を合わせる、その方がなぜだか温かくなることを知っていた。
暖炉の炎が天井に揺らめく影を映し出した。
「一人で留守番してたときはどうしたの? ちゃんと一人で寝れた?」
「ひつじ、お家の中に入れて、いっしょに寝てたよ。お外だと、こおっちゃうから。こうやって」
リリオンはそう言ってランタンに抱きついた。柔らかな素肌が押しつけられる。
「なるほど」
ランタンは頷いて、リリオンの真似をした。少女の背中に腕を回して、引き寄せるように、あるいは自ら近付くように力を込めた。そうすると負けじとリリオンも力を込める。
その温もりは触れ合った肌に汗が浮くほどだった。
これはただ寂しいからとかではなく、切実な生きるための手段だった。
そうやってくっついていたおかげで、二人は温かく眠ることができたし、寝ている間に凍死することもなかった。
ただ目覚めはあまり良いものではなかった。
煙突の掃除が甘かったのか、それとも煙突の先に雪でも詰まったのか、酸欠のような息苦しさがあった。
ランタンはリリオンを起こさぬようにベッドを降りて、暖炉に溜まった灰を掻き、まだぐずぐず燃え残っている薪に新たな薪を重ねた。煙突の中を覗き込む。空気は通っているようだった。
それからようやく大きく深呼吸をする。
足元からひんやりとした冷気が伝ってくる。
ランタンはつい思わずベッドに戻り、リリオンの胸の中に潜り込んだ。
その足の冷たさにリリオンが目を覚ます。
「……ママ?」
第一声がそれだった。母親の夢を見たのかもしれない。目覚めたときの寂しさはひとしおだろう。だがせめて幸せな頃の夢を見ていたならいいと思う。
「おはよう。よく寝られた?」
ランタンが尋ねるとリリオンは微笑んだが、眉は八の字に下がっている。その表情を隠すみたいに、リリオンはランタンの首筋に顔を埋めた。
「……おはよ」
それから小さく囁いた。ランタンは、うん、と頷いてリリオンの髪に指を通す。ずいぶんと高い天井をぼんやりと見上げる。
「雪、まだ降ってるかな?」
「もう、ふってないわ」
窓は隙間なく板が打ちつけてあり、外を見ることはできない。だがリリオンは首筋に顔を埋めたまま答えた。
「だって、もう雪の音、聞こえないもの。けどきっと、つもっているわ」
「扉開くかな?」
「開くわよ。だって内開きだもの」
「……そうだっけ?」
ランタンが空惚けると、リリオンはくすくすと笑った。
「そうよ。わたしの扉はそうなの。――集落に戻らないと。ハーディさん、きっと心配しているわ」
「心配は、してないんじゃないか? ああ、起きるの嫌だ。寒すぎる」
「じゃあ、せーので起きましょ。せーの! ――もう、どうして起きないの?」
「リリオンだって」
今度こそいっしょに起き上がって、競い合うように床に脱ぎ散らかした衣服を拾い集めてそれを身に着ける。
軽く食事を摂って身体を温め、準備を済ませた。
「そっとよ」
リリオンに言われて、ランタンはそっと扉を内に開いた。扉の向こうには雪の壁があった。
巨木の枝葉が幾らか雪を遮ってくれたが、それでもランタンの胸の辺りまでの積雪があった。
雪は自分自身の重さで圧縮されている。手で掘り返すことも不可能ではないが、地面を掘っているような感触だった。所々に混じっている霰の粒が、小石のように爪の隙間に入り込む。
「上の隙間から出られなくはないけど、……もっと積もったらどうするの?」
リリオンの母親が使う扉は外開きになっている。母親ならばこの程度の積雪などものともせず、雪ごと扉を押し開くのだという。
「ほら、あそこ見て」
リリオンが大きな扉の中程を指差した。そこにはもう一つ扉が用意されていた。
普段ならば転落するばかりだが、ひどく雪が積もればあのあたりがちょうど地面の高さになる。そこまで積もらなくても、下の扉が使用不可能になればそれだけ積もった雪がクッションになるので飛び降りることもできる。
もっともこれほど雪が積もることは珍しい。この地は寒すぎて雲は雪にもならずただ凍り付くことがほとんどだ。
「でもこれぐらいなら掘ればいいわ」
「全部?」
「全部じゃなくていいわよ。見ていて」
リリオンは大剣を抜くと、雪を斬りつけた。縦にそれぞれ距離を取って二回、そしてその切れ目の下端を繋ぐように、横に一振り。それから梃子の原理を利用して、横の切れ目に差し込んだ剣を持ち上げると、雪の塊がぼこっと取れた。
それを脇に放り投げる。
何度か繰り返すと、階段状になった雪の道が開けた。
「はい、どうぞ」
場所を譲ったリリオンに促され、ランタンは雪の階段を上って雪上に出た。
空は相変わらずの雲が覆っている。しかし陽の光がないのにもかかわらず、森の中は不思議と輝いていた。
思わず目を細めた。あたり一面を覆う白い雪が、微かな光を乱反射させているのかもしれない。
その照り返しで頭上に被さる木々の影が雲に映った。
「迷子になりそう」
右を見ても左を見ても変わらぬ景色にランタンは立ち竦んで呟いた。
「大丈夫、あっちよ」
リリオンの迷いない道案内に導かれて森の中を進んだ。しっかり積もった雪は踏み付けてもなかなか沈まないが、やはり歩くのは大変だった。リリオンも少しばかりそれには戸惑っていた。
ランタンよりも小さかった頃には、それだけ体重も軽かった。成長した分だけ、思い出の頃よりも深く雪に足を取られるのだ。
靴底に雪の塊が付着して、時々立ち止まってそれを落とさないといけない。
駆け抜けた行きとはまるで進む速度が違った。
「夜までにつくかな」
「その時には雪でお家をつくりましょ」
そんなことを言いながら木にもたれかかり小休憩をしていると、集落の方からこちらへ向かってくる人影があった。
それは一人の巨人だった。毛皮に身を包み、積もった雪などへでもないようにのしのしと進んでくる。ランタンの胸まで積もる雪も、彼にしてみれば膝下程度の積雪にすぎない。
それは迎えだった。
「リリオン、とランタンだな?」
二人の前に立ち止まると、井戸を覗き込むみたいな前屈みになって男が言った。肩まである長い毛と一体化したもじゃもじゃした髭。巨人族の例に漏れず声は低く太いが、まだ若そうな感じがする。
ランタンはリリオンの前に出た。
「ああ、そうだよ。もしかして、迎えてきてくれたの?」
巨人の男は頷いた。
「お前たちの連れは必要ないと言っていたが、兵隊さん方が気にしてね」
「……ハーディめ。それでわざわざ、ありがとう。ちょっと雪を見くびっていたんだ。助かるよ」
「気にするな」
巨人の男は首を横に振って、その場で膝を突いた。それでもまだランタンの倍以上の高さがある。男はリリオンに視線を合わせようとした。
「俺はシーギス。リリオン、俺のことを覚えているか? 俺はお前に会ったことがあるんだ」
俯いていたリリオンは顔を持ち上げて、遠い記憶を探るように視線を彷徨わせた。
シーギスが眉を下げる。顔が大きいから、表情の変化が大げさなほどよくわかった。
「……お前の母、リディアの死を伝えたのは俺だよ。お前は小さかったから、覚えていないのも無理はないだろう。今もまだ小さいままだ」
リリオンの目が大きく見開かれた。
「俺はリディアと一緒に、坑道で魔物を狩っていたんだ」
シーギスは一台の雪車を牽いていた。丸太船のような造りだが、使用している木が巨大なので迫力がある。乗れ、と彼は言った。ランタンは立ち尽くすリリオンを促した。
二人を雪車に乗せてシーギスは森を歩き出した。
一つ足を踏み出すごとに、高く積もった雪が極限まで圧縮された。
揺るぎない足取り。
彼は戦士だった。
巨人族の主な仕事には木々の伐採、鉱石採掘、狩猟の三つがある。そして狩猟の中には魔物の討伐も含まれた。
迷宮は鉱石採掘の現場に発生した。鉱山を一つすり鉢状に掘り潰した露天掘りの斜面に時折、迷宮口が口を広げる。
巨人はその大きさから迷宮には入れない。なので崩壊するに任せ、溢れ出した魔物を討伐する。
しかし半巨人であるリリオンの母、リディアは全てではないにしろ迷宮に入ることができた。そして巨人族の、まだ成長途中にある子供も。
もちろんいくら巨人族といっても、全ての子供が戦闘に耐えうるわけではない。多くの子供は集落の雑用や、比較的安全な伐採作業、鉱石採掘の手伝いをする。
リディアとともに迷宮へ行くのは選ばれた子供たちだった。
シーギスもその一人だ。
「あの日、物凄い数の魔物が現れたんだ。見たことのないような形のやつもいた。でもリディアはそいつを知っていたのかもしれない。戦おうとした俺たちに向かって、逃げろって言ったんだ」
「――それで、ママを残していったの?」
シーギスはリリオンの問い掛けに答えなかった。しかし沈黙が雄弁な答えでもあった。
リリオンは真っ白になるほどに拳を握った。
リリオンが探索者でなかったら、あらゆる呪いの言葉をシーギスに浴びせたかもしれない。
しかしリリオンはもうすでに探索者だった。
迷宮がどういうものかを、そしてそういうときに探索者がどういう行動を取るかを、その理由を知っていた。
その瞬間の母親の気持ちを。
「すまない」
呪いの言葉を浴びせられた方がましだというように、シーギスが呟く。
「リディアは最後、お前のことを言っていた。別れの言葉を伝えてくれと。旅だってくれと伝えてくれと俺に託したんだ。……いいや、最後だけじゃない。いつもリリオンのことを気にかけていたよ」
立ち止まったシーギスは振り返り、償いの言葉のように告げた。
リリオンはランタンの背中に抱きついて、顔を押しつけると。風にさらされると涙は凍ってしまい、流れることもない。昨夜も泣いたから、リリオンの眦は赤く擦り切れている。
「一つ、聞いてもいいか?」
今まで黙っていたランタンが口を開いた。
「なぜ、リリオンを集落に迎えなかったんだ? 巨人族たちが母を失ったような子を、見捨てるようには思えない」
駐留兵と声を交わす巨人たちや、このシーギスの態度は伝説の中にあるどうしようもなく野蛮で傲慢な巨人族の姿とはかけ離れている。
普通の街に暮らす人々と何ら変わりのないように思えた。
「人の血が、混じっているからか?」
答えぬシーギスにランタンが問いを重ねると、ようやく巨人は頷いた。
「おそらくは、……でもくわしくは知らないんだ。ただ大人たちは、リディアを腫れ物のよう扱っていたと思う。長老がリディアを許さなかったという話を聞いたことがあるけど」
長命種である彼らの長は齢三百を超える古老である。
千年も閉ざされた集落の中で年々血は濃くなり、住人のほとんどは血縁関係にあった。リディアは、つまりリリオンも、その長老の血筋であった。
「その長老に聞けば何かがわかる?」
「難しいだろうな。もうすっかり呆けてしまった。最近はまともなときは一時もない。リディアが迷宮から帰ってこなくなってからすぐに呆けが進んでしまった」
「そうか」
ランタンは白い息を吐いた。
背中にリリオンの呼吸がある。大きくゆっくりとした呼吸は意識的なものだ。迷宮で息を整えるための、気持ちを静めるための呼吸だった。
やがて森を抜けて、海岸線に出た。雪は積もっていなかった。波に洗い流されたのかもしれない。海に氷の塊が漂っている。それは集落に積もった雪だったものだろう。
辿り着いた集落は泥濘みこそあるものの、積もった雪は綺麗に片付けられていた。
「ありがとう。助かったよ」
雪車から降りてランタンが言うと、シーギスは首を横に振った。それから空の雪車を引いてのしのしと去っていった。魔物が出るという鉱山に向かって行ったのだ。
兵舎の前で、ハーディが駐屯兵と一緒になっていた。
「ほら、戻ってきただろう。逃げ出すようなたまではないさ。余計な心配だったな。では俺は行くからな」
ハーディは鎧を脱ぎ、防寒着に身を包んでいる。大剣を背負い、腰に斧をぶら下げていた。
「なに、その格好? 巨人と戦える算段はついた?」
「いや。遊びには付き合ってもらえんようだ。何しろ奴らは忙しいからな。この森を全て切り拓かなければならんようだ」
無限とも言える広がりを見せる森を指差し、肩を竦めたハーディは、しかし焦った様子を見せなかった。
「ちょっと彼らの仕事を手伝ってくる」
「ふうん。その格好、似合っているよ」
途端にハーディの姿が樵に見えた。
なにを考えているのかはよくわからないが、ハーディには彼なりの考えがあるのだろう。
「そっちは?」
「僕ら? そうだね――」
リリオンが繋いだ手を遠慮がちに引いた。
「……おじいちゃんと、お話ししてみたい」
「長老と?」
ランタンが聞き返すと頷いた。
「長老か。会話はできんぞ。昨晩、顔を見せに行ったが伏せておられた」
ハーディが苦い顔でそう言っても、リリオンは考えを曲げなかった。ハーディは一つ頷き、隣の兵士の背を叩いた。兵士は二、三歩も前に出て、大げさに咳き込んだ。
「案内してやってくれ」
「頼みます」
ランタンが頭を下げる。それでも躊躇っていた兵士は、じっとリリオンに見つめられてついに渋々といった感じでそれを了解した。
「過去は変えようがない。あまり囚われないことだ」
ハーディはそう言って森へ入っていった。
二人は兵士の背中を鴨の子のようについて行く。
巨人の集落は建物の一つ一つの大きさもあって、ランタンの目には立派に映った。
たしかに造りは簡単なものだが、使われている木材は人の世界では一級品だった。そして家屋一つ取ってみても砦のような大きさがある。
成人すれば身長が十メートル近くにもなる巨人族ならではのことだった。
剥き出しの地面も踏み固められて石畳よりも硬く整っている。
行き交う巨人の姿は少なかった。
みなそれぞれ働いているのだろう。
森からは木を切る音が響いている。それはまるで鐘の音のようだった。
人族の通り道は、大きな通りの中心に設けられている。下手に家のそばを通ると、その方が危ない。巨人族に踏み潰されてしまう可能性も充分にあった。
かつては森の際に立てられたという長老の住まいは、集落の中程にあった。長い年月の間にそれだけ森を切り拓いたのだった。これほどとも思えるし、これだけとも思える。
兵士は扉をノックした。
長老の住まいは人間を含めた集会所にもなっているのだろう。リリオンの生家と同じように、扉の中に扉が作られていた。
兵士はその扉を開けると、顔だけを覗かせる。
「客人を連れて来た。いや、昨日の戦士ではない。――ああ、そうだ」
いくつか言葉を交わし、二人に入るように促した。
中まで案内する気はないようだった。面倒くさがっているのか、気を使っているのかはわからない。扉を押し開いたまま、急かすように顎をしゃくった。
「おじゃまします」
ランタンが先に室内に入り、リリオンが後ろに続いた。
集落の巨大な家屋の中にあって、長老の住まいはさらに広く大きかった。巨人たちが何人も集まれるようになっている。
ネイリングの屋敷とどちらが広いだろうか。そう思わせるほどだった。屋敷はそれをいくつもの部屋に区切っているが、この住まいは一つの空間であるからより大きく思える。
ふと迷宮最下層を思い出した。
住まいの奥に伏す巨人こそが長老なのだろう。
伏してなお他の巨人たちよりも一回りも大きいことが窺える。
縮れた灰色の髪と髭が顔中を覆っている。
獣の吐息じみた寝息が室内に渦巻いている。
上下する胸は得体の知れぬものがその下に潜んでいるような気にさせた。
それは臭いのせいだ。腐りかけの果実のような、むせるほどの臭気が充満していた。それは長老から発せられる死臭だった。
老いによって呆けているだけではなく、病も得ているようだった。
長老のそばには、世話役なのだろう二人の女がいた。
初めて見る巨人族の女性だった。リリオンよりも濃い鋼色の髪をして、逞しい肉体を前合わせの衣服で包んでいる。腰に結ばれている帯には刺繍が施されている。
困惑と哀れみに満ちた視線をリリオンへ向けた。
その哀れみはアラスタ王子の視線によく似ている。
「……おじいちゃん、寝ているの?」
リリオンはその視線に気付かぬように長老に向かって言った。身体を揺すろうと伸ばした手を世話役が遮った。
伏してはいるが、眠ってはいないようだった。
だが正気ではあるまい。髪の中に埋もれ、天井を見つめる巨大な眼球はすでに現実を映していない。時折、痙攣し、目覚めながら微睡んでいる。
リリオンが強くランタンの手を握った。
長老へ向けられた睨むような視線は、少女が痛みを覚悟したからに他ならない。
その少しでも肩代わりできるようにランタンは手を握り返す。
「わたしはリリオン。昔、集落の外れに住んでいた巨人族の戦士リディアの娘、リリオン!教えてください。おじいちゃん。長老さま。どうして、どうしてわたしたちは――」
長老の視線が動いた。その視線にリリオンが射すくめられる。
長老は四肢を動かした。掛けられた毛布がずり落ちる。世話役の二人が片膝を立てる。いつでも飛び掛かって、押さえつけられるように。
長老は微かな動きでさえ獣じみている。
長老は笑ったように思う。
そしてしわがれた、喉に痰の絡んだ、がらがらした声で叫んだ。声は半分ほどが、まともな音にならなかった。
「おお、リアーナ! 我が孫娘! どこへ行っていたのだ!」
それはリリオンの名でも、母親の名でもなかった。
もしかしたらリリオンの祖母か、さらに血の古い祖先の名前なのかもしれない。
長老が過ごしているのはその時代なのだ。
リリオンがその狂気に当てられてはっと息を飲んだ。
「――ちがいます! わたしはリリオン、リディアの娘! わたしのママのこと」
そして叫んだその言葉に長老は一瞬沈黙をし、そして身体を起こそうとした。
「リディア!」
しかし老いて、病を得た肉体は意思の力に応えず、その巨大な肉体は裏返された昆虫のように暴れるだけだ。
しかし世話役の二人が長老を押さえつけようとするが。それでも動きを止められぬ程の力がある。
「ああ、リディアっ! 人の子を孕みしあの裏切り者め! 巨人族の誇りはどこへいったのだ!」
ひどく咳き込み、血痰が髭を汚した。ぎりぎりと歯が食い縛られる。その隙間からなお呪詛が紡がれた。
「辱めを受け、なぜ腹の子とともに死ななんだ! 呪われた子を産んでどうするというのだ!」
「――聞くなリリオン!」
ランタンはリリオンの耳を塞ぐように少女を胸に隠した。
リリオンは氷像のように冷たい。
目の前では一人の老いた巨人族と、二人の女の巨人族が取っ組み合っている。巨大な三つの肉体はあわや二人を押し潰さんとするようだったが、ランタンもリリオンも一歩も動けなかった。
やがて世話役の一人が長老の口に薬を流し込んだ。
それでどうにか長老は落ち着きを取り戻した。正気でもなく、狂気でもない。曖昧な状態に。先程の暴れようが嘘のように天井をまた見つめる。
哀れな姿だったが、ランタンは怒りを抱いている。
「……――どうか長老をお許しください」
世話役の一人が、ぎこちなく頭を下げた。彼女の顔には長老を押さえつける際に殴りつけられた青痣が浮かんで、唇が切れていた。もう一人の方もひどく痛めつけられている。
そんな姿の二人に頭を下げられも、ランタンの怒りは収まらなかった。八つ当たりだとわかっていても、二人に対してひどいことを言ってしまいそうになった。
だから黙っていた。
胸の中から、リリオンが囁くような声を出した。
「どうして、……こんな風になってしまったの?」
世話役が苦しげに口を開いた。
あるいはリリオンに聞かせるべきではないことだったのかもしれない。
しかしリリオンは聞いた。
彼女たちは長老の世話が仕事だった。
長老はもう何年も前から正気と狂気を行き来しており、狂気に支配される時間が長くなったのはリディアが迷宮で失われてからだった。
狂気の間、長老は過去を生きている。
それは憎悪と怒りの過去だった。
理性でもって決して口にしなかったものを、世話をするために長く長老の傍にいるがゆえに彼女たちは聞いてしまったのだ。
長老は語ったのではない。譫言のように、ただ一人で呟くだけだった。
人間は、巨人族を怖れると同時にそれに興味を抱いていた。
多くの権力者が強い力に興味を持っている。しかしそれはハーディの明解な興味とは異なる、昏い興味の持ち方だった。
秘密結社黒い卵に近しい考え方を持つものは少なくないということだ。
巨人族の頑強な肉体は、戦場できっと役に立つだろう。それは世界を支配しうる肉体だ。
だが巨人族を支配することはできない。
伝説の中でさえ人々は巨人族を支配することはできず、この地に追い詰めることがやっとだった。
ならばどうするか。それは人の歴史の中に答えがあった。
野生の獣の家畜化、つまりより人に扱いやすい種に交配するのだ。
それは人族と巨人族の交配である。
そこに愛など一欠片もない。
交配の最大の障害となるものは、その大きさの違いだった。
どうしようとも人族の女と巨人族の男が交わうことない。その逆であった場合も困難だ。それは虎と家猫が交わうに等しい。
それをどのように克服するか。
そこには底知れぬ人の残酷さがあった。
巨人族の女が交配可能な大きさの内に、薬物でもって子を孕めるようにするのである。
そして生まれた子がリディアと、リリオンだった。
たった二つの成功例の影には黒い卵の技術提供があったに違いない。ランタンが懐に隠し持った、アラスタ王子からの手紙が胸に重い。
リリオンは呼吸さえ止めて世話役の言葉を聞いた。
交配のために連れて行かれる娘たちの姿を長老は見送ってきたのだ。そうとも知らずに。
その事実を長老に伝えたのはリディアだった。そしてリディアは集落を追放された。リリオンとともに。
それから長老の狂気は増大していく。
人間への恨みと絡み合いながら。
リディアが集落外れの森の中に住むことを許されたのはせめてもの情けだったのだろう。そして戦士としてもっとも過酷なところで働くことで、リリオンを育ててきたに違いない。
「人間にも様々なものがいることは知っています。兵士たちの中には気のいいものもいる。だが気を許したからこそ、長老は出し抜かれたのだと言われた……。裏切られたと何度も繰り返すのです」
世話役がリリオンを見下ろす。
同胞たる巨人族として、憎むべき人族として。
それは曖昧な視線だった。
リリオンはそれを真正面から見つめ返した。
世話役が息を詰まらせた。
母親と同じ色の淡褐色の瞳はいつだって真摯な光が宿っている。
知るべきだったのか、知るべきではなかったのか。自分の生まれの秘密をリリオンはどのように受け止めたのだろう。
歯を食いしばって涙を堪える。
「ランタン、わたし、ママのこと、もっと知りたい」
リリオンは一つ一つ区切るように告げた。
「わかった」
「わたし、迷宮に行きたい」
「うん。一緒に行こう」




