表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カボチャ頭のランタン  作者: mm
15.Memories
353/518

353

353


 桟橋に接舷し、錨を下ろす。波の打ち寄せる鎖に見る間に氷が付着し、育っていった。

 桟橋で待機する駐留兵に係留ロープを投げ渡し、それを係留柱に結びつけた。

 それから船の揺れが収まるのを少しの間、待たなければならない。梯子もかけられぬ程揺れていた。

 リリオンは揺れが収まるのをもどかしそうに待っている。船の縁を握る手に力がこもった。遠くを見ようとするように伸びた背筋が、硬く強張っている。

「リリオン。手」

「……ありがとう」

 ランタンの呼びかけに小さく答えて手を繋ぐ。

 強く手が握られた。

 剣を握るように。

 そうしなければ立ってもいられないように。

 なにを思っているのだろう、とランタンは思う。

 幸せだった頃の記憶か、それとも喪失の苦しみか。戻ってきた、帰ってきたことに喜びはあるのだろうか。それともただただ不安なだけだろうか。

 懐かしさはあるのだろうか。

 リヴェランドから大回りで二日の船旅。

 もし大渦がなければ、直線ならば半日もあれば着くだろう。竜種ならば数時間もかかるまい。

 たったそれだけの距離。

 しかし極北の地に吹く風の冷たさは、根本的にリヴェランドに吹く風とは異なるようだった。

 砂嵐が吹きつけるかのように、ざらざらした風が頬を刺激する。呼吸には痛みがともない、吐いた息は白くもならない。

 そういった風が吹く大地は、色を失ったようだった。

 とても生物が生きていけるようには思えない。船上に立って風に吹かれているだけで、体力が消耗していく。

 空に立ちこめた灰色の雲は千年も動かずにいるようで、眼前に迫る黒壁の森もまた永遠にその場に立ち尽くしているに違いなかった。

 大地は凍り付いている。

 時間そのものが停滞しているようにも思える。

 ようやく船に梯子がかけられた。

 ランタンたちの身体能力ならば飛び降りてもよかったが、大人しく待っていた。

 船長が最初に降りて、その後に続いたのはハーディだった。そしてランタンの後に、リリオンの足が桟橋に着いた。

 出迎えの駐留兵は猪人族の男だった。

 硬そうな茶色の剛毛を防寒着の中に隠しているが、突き出た鼻と牙は隠しきれない。凍り付いた鼻水が、三本目の牙のようにも見える。

「話は聞いているが、我々は彼らに命令することはできない」

 ハーディがさっそく自分の用件を伝えていた。

 男は続いて降りてきたランタンとリリオンに複雑そうな視線を向ける。リリオンの素性を知っているのだ。

 リリオンだけはこの地を訪れたのではない。帰ってきたのだった。

 何かを言葉をかけようとして、諦めたのがわかった。

 視線をハーディに戻した。

 ハーディの望みはただ一つ、巨人族と戦うことだった。自分の力を試したいのだ。

 負けず嫌いで、一見すると勝ち負けにこだわりを持つように思えるが、ハーディはむしろ戦うことだけが望みなのかもしれない。勝敗は結果にすぎない。

 そして彼自身の強さによって、ハーディと戦いが成り立つ相手は少ない。

 戦いを探し求めて、こんな世界の果てまできた。

「それを聞けてよかった」

 ハーディはたっぷりと頷き、大きく笑みを浮かべた。唇が割れて血が滲む。

 それを獣のように舐め取った。

「俺が望み、彼らがそれに答えてくれたとき、邪魔はせんと言うことだな」

 男は凍った眉を僅かに動かして頷いた。困ったというよりも呆れたという感じだった。

 この寒さである。

 一説によれば巨人族がこの地に封じられているのは、この寒さによって反抗を企む余裕を与えないためだと言われている。

 そして寒さに加えて巨人族である。

 海岸の向こうから大きな人影が近付いてくる。

 それは四人の男の巨人族だった。獣の皮を継ぎ接ぎした粗末な衣服に身を包んでおり、巨大な獸のように見えた。

 王都にやってきた巨人族の若者も巨大だったが、数が増えればその迫力は倍にして足らず膨れあがった。

 人々は生得的に巨人族への恐怖心を有している。それはかつて巨人族に支配され、使役されていた頃の記憶を受け継いでいるからだと言われている。

 だが本当にそうだろうか。

 これは単純に巨大な存在への恐れ、あるいは畏れではないかと思う。

 ハーディはそういった存在にわざわざ戦いを挑みに来たのだ。

「兵舎に部屋を用意させている。案内するので自由に使ってくれ」

 ランタンたちが巨人たちに視線を奪われているというのに、男は気に止めた様子もなく言った。彼らにしてみれば、巨人族の姿はありふれた光景だった。

「こっちだ、こっち! 今日の海も冷たいが頼むぞ!」

 巨人たちに向かってそんな風に声をかける。気安さや親しささえ感じさせる。

「おう!」

 それは答える巨人たちもだった。

 低く大きな声で一つ応えると、彼らは大きな(いかだ)のようなものを肩に担ぎ、桟橋に沿ってざぶざぶと海中に入っていった。見ているだけで身が凍る光景だったが、彼らにとっては慣れたものなのかもしれない.

 そのまま船の横まで身体を進める。もう胸の辺りまで海に沈んでいた。

 彼らが担ぐ筏の上に積み荷が降ろされはじめた。

 兵舎に向かいながら、ランタンはその光景を何度も振り返った。彼らは震えることなく積荷が全て乗せられるのを待っている。

 リリオンに気がつかなかったな、と思う。

 リリオンもまた彼らに声をかけなかった。

「ずいぶんと気安いんだな」

「毎日、顔を合わせているんだ。敵同士じゃない」

 男はそう言った。

 この極寒の地で駐留兵として毎日、巨人族と向き合わねばならぬのだ。

 職務とは言え貧乏くじを引いたと嘆き、巨人族に恨みを抱くものもいるだろう。

 駐留期間はまちまちだが、耐えられぬものはひと月と持たない。

 だがこの男はそうではないようだった。

 同じ土地を生き抜く仲間のように思っているのかもしれない。

「友人か。俺にも巨人族の友がいるぞ。名をトールズという。知っているか?」

 ハーディは自慢するように言った。

 王都でリリオンと戦った巨人族の若者の名をハーディが口にすると、帽子の下で目が大きく開いた。

「ああ、トールズ。知っているとも」

 男は懐かしげに名を呼んだ。

「よければその話を彼らの親の前でしてやってはくれないか。手紙もないのだ」

「親不孝なことだ。だが手紙は無理だろう。何しろやつの手に合うペンなどないのだ。是非とも話をさせてもらおう」

 二人がそんな会話を繰り広げている間、リリオンはあちらこちらに視線を向けていた。

 海岸線や、森に、巨人族の足跡や、それらが続いた先にある集落。

 生活。

 そして。

「――リリオン!」

 突如リリオンが走り出した。繋いでいた手が振り解かれる。ランタンが名を呼んでも振り返りすらしなかった。

 ランタンはリリオンを追いながら、背後に声をかけた。

「ハーディ!」

「行け行け。気にするな」

 ハーディは男の肩を抱き寄せるようにして行動を封じていた。一見すると親しげな様子だったが、男が慌てているのは表情からも明らかだった。

 駐留兵の職務は巨人族の監視と管理、そして極北の地そのものの管理だった。

 たとえばもしハーディが喧嘩を吹っ掛けるように巨人族へ挑んでいったら、彼らはそれを咎めるだろう。

 勝手に走り出したリリオンを問い質すのも、また彼らの職務であるのかもしれない。

 ランタンは追いかけながら考えた。

 リリオンを走り出させた感情はなんなのだろうか。

 ランタンと出会ったとき、リリオンは強くなりたいと願った。

 そのため迷宮探索を望んだのだ。力を得るために。願いのきっかけは母の喪失であり、母を死地に追いやった巨人族への復讐だった。

 しかしリリオンはもう復讐心は抱いていないはずだった。

 だがこの地に来て、その気持ちが再燃したとしても不思議ではないのかもしれない。

 凍てついた大地で、巨人たちは厳しくとも普通に生活しているように見える。

 普通の生活。それが憎くて憎くてしょうがなく思えるときがある。

 いや、今のリリオンはそんなことを思わない。

 それはランタンがもっともよく知っていた。

「リリオン!」

 ランタンは名を呼びながら追いつけないことに焦りと驚きを覚えていた。

 氷の大地を転ぶこともなくリリオンは駆けてゆく。少しずつ離されていることを実感した。リリオンの全速力だった。

 波の打ち寄せる海岸線とどこまでも続く黒壁の森。その間に巨人族の集落はある。

 リリオンはその集落を通り過ぎ、森の中へ入っていった。




 黒い壁の森の中に入ると波の音は聞こえなくなった。

 冷たさに木々が軋み、曇天の下で影はむしろ明るく思える。地面の下で育った根が、硬く凍てついた大地を複雑に起伏させている。

 木々はその一つ一つが塔のように巨大だった。

 そして森の中に一軒の家が、突如現れた。リリオンはその手前で立ち止まっている。

 肩で息をするランタンと違い、リリオンはぼんやりと立ち竦んでいた。

「リリオン。……これ、リリオンの住んでいたところ?」

 ランタンは息を落ち着かせながら尋ねた。肺の中に入り込んでくる空気が痛い。これほど走ったというのに身体は冷たいままだった。

「……うん。ママと、二人で」

 リリオンは小さく答える。

 それは石と木で作られた素朴ながら大きな家だった。

 人の世から切り離された氷の大地。そこにある巨人族の集落からも離れ、森の中に孤立した家。

 家の脇には、小屋があった。家の大きさに比べると小さすぎるが、それは人間の尺度では普通の大きさだった。もぬけの空だが、きっと家畜小屋だろう。

かつてリリオンが世話を任された家畜が飼われていたのだ。

 これがリリオンとその母親の大きさの差だった。

 リリオンが家を出てから手入れをしたものはいなかったのだろう。

 家は積もった雪や吹いた風が凍り付き、氷の中に封じ込められているようだった。あるいはそのおかげで形を保っているようにも思えた。

 リリオンは家に近付いた。

 家には扉が二つあった。家の大きさに相応しい扉と、その扉に猫の出入り口のように作られたリリオン用の扉が。今のリリオンならば少し腰を屈めなければならない。

 リリオンはその扉を開けようとした。

 しかし凍り付いた扉はびくともしない。リリオンは苛立ったように、乱暴に扉を開けようとする。リリオンの力ならば無理にでも開けることができるだろう。だが扉は壊れてしまうかもしれない。

「凍ってるだけだよ」

 ランタンはあくまでも優しく、教えるようにリリオンに言った。戦鎚を抜いて氷を剥がした。厚い氷を叩き割り、端々の氷を鶴嘴で掘り返すように削った。

 鍵が壊れたみたいに扉が緩んだ。

「ほら」

 ランタンが扉を開くと、リリオンは吸い込まれるように中に入っていった。

 家の中は薄暗く、外よりも冷たい空気に満ちていた。

 そして扉と同じだった。大きい母親と、小さいリリオンが一緒に暮らしていたのだと言うことがすぐにわかった。

 なにもかもが二通り用意されていた。樽のようなコップ、農具のような食器、大楯のような鍋が巨大なかまどの上で錆び付いている。

 リリオンはそういったものを一つ一つ触っていった。そうすることで過去に戻るかのように、時間をかけて。

 ランタンはその後ろを着いていく。

 もう室内に生活の匂いはしなかった。ただ冷たさだけだがあった。床に敷き詰められた毛皮は腐りこそしていないが、枯れたように朽ちている。

 様々なものが二揃いある中で、ベッドだけは一つだった。ここで母に抱かれながら眠ったのだろう。

 室内は不思議と散らかってはいなかった。リリオンが旅立つとき、整頓していったとは思えない。誰かが整頓し、そして扉を閉めたのだ。

 それはなんのためだろう。

 リリオンを哀れんでのことか、それともそうやって全てをなかったことにしようとしたのか。

 リリオンの立場はあまりにも複雑すぎた。

「どうして?」

 リリオンが呟く。涙声だった。

「どうしてママはいないの?」

 そう呟いて、頬が白くなるほど歯を食いしばった。

 なにもかもが残っているのかもしれなかった。

 だからこそ失ったものの大きさがあまりにもはっきりとリリオンを打ちのめした。

 その問い掛けに答えられるものは誰もいない。

 ランタンはリリオンを抱きしめる。

「僕がいるよ。僕がいる。ずっと」




 一度駐留兵の迎えが来たが、兵舎には行かず家に留まった。

 リリオンはベッドに座っている。

 ランタンは尻から落っこちた。硬い暖炉の床に尻を打ちつける。

「痛ったぁ」

 煙突の中に潜り込んで、汚れや氷を剥がしていたのだ。雪や風をしのげる絶好の場所なのだろう。蜘蛛の巣や鳥の巣もあった。

 ランタンは煤で汚れた顔をリリオンに向けた。

「綺麗になったよ。これで暖炉が使える」

 リリオンは答えなかった。

 涙こそ流していないが、ずっとめそめそしている。

「でも燃やすものがないな。薪もらってこようかな」

 返答がないのは知っていた。それでもリリオンに語りかける。リリオンを残して遠くに行くつもりはなかった。小屋を壊して薪にしようかと思う。

「どうしようか」

 ランタンはリリオンと視線を合わせようとする。けれど俯いたリリオンとは視線が合わなかった。膝の上に置かれた少女の手に掌を重ねる。

 ランタンは、困ったな、というような顔をした。大人びた顔だった。

「まきは……」

 リリオンは小さな声で囁いた。

「うん」

「まきは、あっちに、あるかも、しれない」

 ほんの僅かに顔を動かした。ランタンはそちらに視線を向ける。

「あっち? 家の裏手?」

 こくんと頷く。

「じゃあ取ってくるよ。すぐ戻ってくるからね」

 ランタンはリリオンを撫でて家を出た。寒さに立ち止まりそうになる足をむりやり動かす。

 家の裏手に回ると、そこには確かに薪が積まれていた。放置されていたので、氷の塊のようだった。

 普通の木なら一本を丸々干したみたいな太い薪と、リリオン用の普通の薪が親子のように隣り合っている。ランタンは戦鎚で氷を砕き、薪を掘り返した。

 寒さのおかげでよく乾燥している。

 ランタンはそれを両腕一杯に抱える。

 扉が開けられないので、大きな声で叫んだ。

「リリオン、あけてー! 手が使えない!」

 しばらく返事はなかった。ランタンはじっと待つ。やがてゆっくり扉が開いた。

「ありがと。ただいま。ああ、寒い。すぐに火をつけるからね。扉閉めて」

 いつものようにランタンは言い、暖炉の前に薪を下ろした。それから積み木のように薪を組むと、掌に産み出した炎をその中に放り込んだ。

「大きな暖炉だなあ。ローサの寝床にいいかもしれないね」

 そんな軽口を叩いて、もう一度家の外に出た。

 大きな家だったから、しっかり温めるためには大きな薪も使わなければならない。

 ランタンはそれを一つだけ抱えた。ランタン一人分ほどの大きさがある。今度はリリオンを呼ぶ必要はなかった。リリオンはすでに扉を開けて待っていた。

 ランタンは抱えた薪を下ろし、暖炉を覗き込んだ。

「ああ、こっちが先だったか。これを奥に入れるのか」

 ランタンは炎をものともせずに踏み込んで暖炉の奥の壁に大きな薪を立てかけた。するとそれを伝うように火がするすると昇っていく。まるで煙突を伝って外に逃げるかのようだった。

「はあ、これであったかい。次は水だな」

 水瓶はあったが、さすがに水は涸れていた。水精結晶を砕いてもよかったが、ランタンはリリオンに尋ねた。

「水が汲めるところ知ってる?」

「……うん」

「どっちのほう?」

「あっち」

「じゃあ――」

 汲んでくるよ、と言いかけるとリリオンは立ち上がった。

「一緒に行こうか?」

「うん」

 リリオンは抱きしめるように桶を抱えた。今のリリオンには小さい。しかしかつてのリリオンには大きく、水を汲めばひどく重たかっただろう。

「暖炉、ほったらかしにして火事になったりしないかな? だいじょうぶ?」

 頷くリリオンを信じて水を汲みに外に出た。

 リリオンに任せて、森の奥の方へと進んでいく。

 リリオンの歩いた道だった。

 母と一緒に水を汲みに行ったこともあるだろう。母の留守に一人で水を汲みに行ったこともあるだろう。この冷たく、暗い森を一人で。まだ十歳に満たない女の子がだ。

 長年離れていても身体はその道を覚えている。

 それだけ通った道なのだろう。

 しばらく森を進むと、そこには川があった。川幅は二メートル程度で、流れてはいなかった。真っ白に凍っている。

「これを汲むの?」

 汲むと言うよりも砕いた氷を拾うという感じなのかもしれない。

 ランタンが戦鎚を抜くと、こっち、とリリオンが川に沿ってさらに森の奥へ向かった。

 ほどなく傾斜のきついところで川幅が大きく広がり、段になっていた。

 どうしてかそこは氷が薄かった。子供の力でも割れるほどだ。そして氷の下で水が流れている。

 ランタンが戦鎚で軽く叩くと、氷は音を立てて割れた。真下からこんこんと水が湧き出ているようだった。もしかしたら地熱で温められているのかもしれない。

 リリオンはそこで水を汲んだ。手袋を外すのは、それが濡れると凍傷になるからだ。しかし水に触れた指先が見る間に赤く悴んだ。リリオンが再び手袋をする前に、ランタンが手で挟んで温めてやる。

 氷を握り締めているみたいだった。

 水瓶はそれだけでは満杯にはならなかった。

 何度も往復しなければならない。

 それが幼いリリオンの暮らしだった。

「わあ、鹿だ!」

 森の奥の方に、角のある四つ足の動物の姿が見えた。ランタンが叫んだせいか。それは跳ねるようにして森の奥へと逃げていく。かなり大きな鹿だった。

「立派な角だったね。こんな」

 人の手の入らぬ古から続く森に棲む動物だ。もしかしたら太古の姿を保っているのかもしれない。

 角は王冠のようで、その角を支えるためか牛のように巨大だった。それでいて兎のように俊敏でもある。

「動物も棲んでるんだね。他にも何か棲んでるの?」

「うん」

「猪とか?」

「うん」

「熊とか?」

「うん」

「そっかあ。今度出てきたらつかまえて食べよう。お腹いっぱいになるね」

 うん、と答えるリリオンが嬉しかった。

 水汲みを終えると、汲んだばかりの水を小鍋にそそぎ火にかけた。それが沸くまで、ランタンは家の中を掃除した。

 数年も放置されたとは思えないほどだったが、それでも拭えば布は黒くなった。家の中まで入り込んだ霜が暖炉の火で温められて溶ける。

 水が沸騰すると火から外し茶葉を入れた。コップに砂糖を入れて、そこにそそいだ。

 リリオンは家に残されていた昔、使っていたコップを使った。木の瘤を削って作った可愛らしい丸形のコップだった。

「おいしい?」

「……あまい」

「あますぎた?」

「ううん。……あまくて、おいしい」

 あったかい、とリリオンは言った。

「水がいいのかな。うん、甘くて美味いね」

 ランタンはリリオンの隣に腰を下ろした。

 リリオンはランタンに頭を預ける。

 森はしんとしていた。暖炉で燃える薪の音さえも遠くにあるようだった。

 互いに黙っている。夜が次第に忍び寄り、手の中でお茶がゆっくりと温度を失っていく。

 リリオンが語り出したのはいつからだろう。

「ママは、いつも帰ってきてくれたの。だからわたし、さみしかったけど、怖くなんてなかったよ」

「うん」

「この窓から、いつも見てたの。いつ帰ってくるのかなって。早く帰ってこないかなって」

 ベッドの傍に窓がある。さすがに硝子は割れてしまって、板が打ちつけてある。

 けれどランタンには、ベッドに上って、窓に額をくっつけて、母親を待つ少女の姿がありありと思い浮かべることができた。

 まだかまだかと待ち遠しかったはずだ。不安も怖れもきっとあった。けれど母親の姿を見つけたらそんなものはすっかり忘れてしまったに違いない。

「わたし、お料理がんばったのよ。水汲みをするととっても大変で、お腹が空くの。だからママも帰ってきたら、きっとおなかぺこぺこのはずだから」

「知ってるよ。リリオンが初めてに料理作ってくれたとき、驚いたもん。ちゃんとしてるって。おいしくて」

 帰ってくる母のために何回、料理を作ったのだろう。それほど多くはないはずだった。

 リリオンはずっと母親との思い出をランタンに聞かせてくれた。

 この家にしまわれている思い出を一つ一つ。

 例えば床の傷は包丁を落としたときにできたもので、柱の傷はリリオンの身長だった。七つの時のリリオンは、既にランタンよりも背が高かった。家の外にも思い出がある。リリオンが剣を振り回して、間違って切ってしまった傷が。

「……ランタンは、やさしい。でも、わたしのママじゃないわ」

 リリオンが寂しそうな視線をランタンに向けた。

「でも、ランタンがそばにいてくれて、わたし嬉しい。手、にぎって」

 差し出された手をランタンは握った。

「ぎゅってして」

 強く握り締める。

 リリオンは天井を見上げ、目を瞑った。

「ただいま、ママ。わたし、帰ってきたよ」

 堪えきれず、涙がこぼれる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです。 リリオン元気になってほしいです。
[一言] 集落に移り住んでたとか、そういうオチは、無かったかぁ… 現実はどうしようもなく、残酷だなぁ
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ