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極北の地はリヴェランドの港の目と鼻の先にある。
そこは太古の昔、環境の過酷さに見捨てられた大陸だった。
伝説の中には、巨人族の支配を受けていた人々が支配から逃れるために極北の地を目指したこともあった。だがその伝説は常に悲劇だった。
そこは人を寄せ付けぬ氷結の土地である。
そして皮肉にも未踏の地を遂に足を踏み入れ、切り開いたのは巨人族だった。人間たちとの戦いに敗れ、逃げ出したその先の土地だった。
そして千年の昔から今日に至るまで、巨人族は極北の地に封じられ続けている。彼らは人にはとても生きられぬ過酷な土地で長年にわたり営みを続けていた。
巨人族は歩いて極北の地へ渡ったと言われている。もともとは大陸と砂州で一続きとなる陸繋島だったが、今では砂州の気配もない。大戦の折、敗走の殿を務めた巨人の戦士が追撃を阻むために剣でもって砂州を断ったという伝説が残っている。
極北の地は空と海の二通りの行き方があるが、基本的には海路となった。
船は大渦を避けるように大回りしなければならない。
最短航路には大渦が横たわっており、それが航海を妨げるからだ。
しかしそれでも大渦の影響からは逃れられない。海はかなりの範囲で荒れ模様となり、それに呼応するかのように天候も不安定だ。雪ならばまだよい。雹が降れば帆船の命たる帆に穴が空き、行き足はかなり落ちる。
風の具合にもよるが最低でも二日はかかった。
しかもそれは海に出てからの話であり、時に風は気まぐれで順風が吹くのを港で数週間も待つことがあった。
空路ならばその手間はない。もちろん荒れた天候は時に竜種にすら牙を剥いたが、それだって船旅に比べれば危険は少ない。
だがリヴェランドの竜種は対巨人用の武力であって、移動手段ではなかった。
港では大型の貨物船に極北の地へと運ぶ物資が次々と積み込まれていた。穀物や芋類を始めとした食料や大量の布である。
ランタンはそれを見て意外に思う。
例えば極北の地には人も駐留している。民間人ではなくリヴェランドの軍人だった。巨人族の管理と監視のためである。
しかし船に積み込まれる物資のほとんどは彼らのためのものではない。
物資は巨人族のためのものだった。
彼らの暮らしは原始的な狩猟採集の生活だ。
黒壁の森の木々を切り、そこに住む獣を狩猟し、海に網をかける。
彼らは迷宮を探索できない。なんのことはないその巨大さゆえ迷宮口を潜れないのだ。
しかし崩壊した迷宮から解放される魔物も、彼らの狩猟対象の一つだった。
そうやって生活物資を得ている。
だが足らぬものも多くあった。氷の大地は耕せども作物の育つ土地ではない。
それは一種の交易だった。
彼らの営みは伝説の終わりから続く永遠の賦役のようなものだ。黒壁の森の良質な材木と氷の大地の下にある鉱石を人々へ差し出し続けなければならない。
それは一方的なものだと思っていた。
しかしそうではなかった。
リヴェランドは極北の地では得られぬものを、交換するように巨人族側へ渡している。もちろん等価交換ではないし、交易としての公平性もなかった。
噂に聞くアラスタ王子の政とはずいぶんと異なった。アラスタ王子は強硬な対巨人族派として名を馳せている。
噂と対比すれば寛大と言ってもいい行いだった。アラスタの代になってから改善も見られている。
リリオンは毎日、海を見に来ている。
ランタンはそれに付き合っていた。
リリオンは少しばかり不安定だ。楽しそうにしているときもあれば、落ち込んでいるときもある。荒れる海を見て船が出ぬことにほっとしたり、もどかしげにしたりする。
それは一種の幼児退行のようなものだった。
ランタンはリリオンに寄り添いながら、余計なことをしたのかな、と思う。
逃げ出してきた故郷の大地は、リリオンを傷つけるだろうか。
アラスタ王子から差し出された巨人鋼を得て、さっさと温かな我が家へ帰った方がリリオンのためになったかも知れない。
治りきらぬかさぶたをむりやりに剥がしたようなものだった。
そうやって海を見ていると街の人たちは優しかった。
温かい料理を渡してくれたり、いい風が吹くように祈りをくれたりする。子供たちは何かを察したのか、それともただ無邪気なだけか椅子と釣り竿を用意してくれた。
餌は魚の切り身を発酵させたもので、臭いこそきついものの食いつきはいい。海面に釣り糸を垂らしておくだけで、少し心は落ち着いた。
背後で焚かれている火はランタンが起こしたものだ。子供たちは魔道の発現を見たがった。
魔道を間近で見られる機会はそうない。
釣りもせず小難しい顔をして炎の形を思い浮かべながら、いつまで経っても汗も浮かぬ手を飽きもせず見つめているような子もいる。
子供はどこでも変わらない。孤児院の子たちも似たようなことをした。
釣った魚をその場で捌いて料理を作ってくれる。焼いたり煮たりと単純なものだが内臓をきちんと処理しているので臭みもない。
「リリオンさま、おいしい?」
「うん、とっても」
リリオンが頷くと七つになったばかりという犬人族の少女は嬉しそうに飛び跳ねた。それを見て他の子たちもわたしもわたしもとリリオンに料理を献上する。
黙っていればリリオンは凜々しい女騎士のようだった。海を眺める物憂げな表情が大人びた雰囲気に輪を掛けた。
男の子たちも釣りに精を出して、大物を釣り上げては競うようにリリオンへ報告し、釣れてはいるが小物ばかりのランタンに勝ち誇ったような表情を向けた。
負けず嫌いではあるが、さすがに子供たちに腹を立てたりしない。風が吹くと欠伸が凍りつく。襟を立てて首を竦める。竿先がしなり、頃合いを見計らって竿を立てた。
「釣れますか?」
「邪魔さえ入らなければ」
釣り上げられて身を捩った魚は、乱暴に針を外して海へと戻っていった。まあまあ大きな魚だったが、釣れても自慢にはならないだろう。
声をかけてきたのは海軍の伝令だった。
海竜の討伐を終えて、ずいぶんと彼らの態度も改まった。ともに戦った仲間と言うだけではなく、ハーディが船出までの暇潰しに彼らと酒を酌み交わしたおかげもあるだろう。
「それは失礼いたしました。――船の用意が済みました。明日は風も吹くでしょう。船出のご準備をお願いいたします」
「もうすっかり済んでるよ」
ランタンがリリオンへ視線を向けると、少女ははっきりと頷いた。
船出には見送りが大勢いた。ずっと世話をしてくれたサリエはもちろん、エスタスも別れを惜しんでくれた。
商人ギルドからランタンたち三人のために、大量の食料や質のいい防寒具が用意された。
アラスタ王子はいない。
だが密かにランタンに手紙が渡された。どうかお一人で読まれますように、と忠告とともに。
大型貨物船はその大きさゆえに港にはつけられない。沖に係留された船へと小型船で運ばれた。貨物船はそれ自体が戦闘に向かない。この海域には時折、海賊も出るし、魔物も出る。二隻の軍船が護衛としてこれにともなった。
船旅はリリオンにとって懐かしいものだろうか。
かつてと行く先は逆である。リヴェランドから極北の地へ。
リリオンは貨物にまぎれて、極北の地から逃げ出したのだ。
なるほどそれも可能だろう。
例えば行きの貨物の量は膨大だが、それでも船倉の半分程度にすぎない。しかし帰りは積みきれぬほどの荷物を積んで帰ることになる。隠れる場所は山ほどあった。
そして巨人族が船に隠れ潜むことはできない。積み忘れに気をつけることはあっても、密航を警戒する必要などないのだ。
だからこそか、とランタンは思う。
アラスタからの手紙の内容は地図だった。
それは極北の地に構えられた黒い卵の研究施設の在処が記されている。既に放棄されているが、少なくとも十数年ほど前、リリオンが生まれる頃まで稼働していたらしい。
短い文章が添えられ、最後は後悔と祈りの言葉で手紙は結ばれている。
リリオンが極北の地から逃げ出したように、黒い卵の研究者もそこに入り込んだのだ。
転移結晶を開発した彼らである。一人そこに送り込めば、後は鼠のように増えて行くだろう。
「ランタン、こっちこっち!」
リリオンが腕を引っ張った。甲板から船の内部に降りて、階段をどんどんと下っていく。船内では船員が忙しくしており、歩き回る二人の探索者を少々邪魔くさそうにしている。
船の一番下に船倉はあった。
ランタンは戦鎚の先に光を灯した。赤い色をした温度の低い光だ。
船倉はすぐその下に海を感じさせた。
埃っぽく、湿っぽく、潮と木材の匂いがあり、壁を伝う波の音が頭と同じほどの位置にある。
箱やら樽やらが整然と積まれ、横転せぬように荒縄で縛り付けられている。
片隅に積まれた板や植物繊維の束は浸水があったときの応急処置用だが、一緒に置かれた手桶で水を掻き出そうというのは無謀ではないかと思う、
「えっとねえ」
リリオンはうろうろしながら、荷物の間を進んでいく。多くの食料品と布、そして数こそ少ないが金属の道具もある。木を切り倒すための斧や鋸だ。いくつかの部品に分けられているが、それでも巨大だ。
「ないのかしら? おかしいわ」
「なに探してるの?」
「たーる」
リリオンは歌うように言った。声の明るさに反して唇を尖らせて、顔は拗ねているみたいだった。
樽はそこかしこにあった。中身は酒であり、塩漬けにされた肉などの保存食だった。酒は酒精のきつい蒸留酒だった。そうでなければ寒さに凍ってしまうからだ。麦酒など運搬の揺れで気が抜けて飲めたものではない。飲料水代わりの水精結晶もある。
船が揺れる度にちゃぷちゃぷと音を立てる。それが浸水音のように聞こえて少し不安だった。
「樽なんて沢山あるじゃん」
「もっと大きいのがあるはずなの」
「大きいの?」
樽なんて大きさはどれも変わらなかった。高さで言えばランタンの胸ぐらいで、抱え込むには腕の長さが一本分ほど足らない。
リリオンは真剣な顔で樽を探している。
「どれぐらい大きい樽?」
「わたしが入れるくらい」
そうリリオンに言われてランタンは探しているものが何か気がついた。自分が隠れ潜んだ樽を探しているのだ。
出会ってから二十センチぐらいリリオンは大きくなっている。
「リリオン、リリオンはたぶんこの樽に入ってきたんだよ」
ランタンは手近な樽を叩く。表面は濡れていて、冷たく、ささくれ立っている。
「これ? 入れないわ。もっと大きくないと」
リリオンはその樽の前にしゃがんで見せた。膝を抱えて、背中を丸めて、首を引っ込めて、むりやり蓋を閉めればどうにかなるかもしれない。
リリオンは膝を抱えたままランタンを見上げた。ランタンは手を差し伸べて、リリオンを立ち上がらせる。
「それだけリリオンが大きくなったんだよ」
「あ、――そっかぁ」
リリオンは意表を突かれたというように目を丸くして、それから溜め息混じりに囁いた。ランタンは掴んだままの手をぎゅっと握る。
「一個聞いていい?」
「なんでも聞いて」
「樽の中ってどんな感じ?」
「うーんとねえ」
酷な質問であったかも知れない。しかしリリオンは、昨日の朝食を思い出すように首を傾ぐ。そして困ったように眉尻を下げた。
「あんまりおぼえてないわ」
「そっか」
ランタンは近くの樽をいくつも叩いた。どれも中身が詰まっている。もし空の樽があれば試しに入ってみたかった。
母親を失うと言うことを知ることはできないが、せめてそれぐらいのことはランタンも知ることができる。
「酔っ払ったりしなかった?」
ランタンは酒樽にきつく打ち込まれた栓をいとも簡単に抜いて見せた。覗き込むように顔を近付けて匂いを嗅ぐと、それだけでくらりとくる。
「酔っ払うのにお酒なんて必要ないわ。きゃ、もう。栓して、怒られちゃう」
船が揺れる。酒が飛び出して、リリオンを濡らした。ランタンは慌てて栓を打ち込んだ。
この揺れならば酒よりも余程、効くだろう。
「もー」
「ごめんって。でもお酒だからすぐ乾くよ」
それから二人して船倉をぐるりと回った。やはりリリオンの探した大樽はなかった。
「酒の空樽ならあたりだね」
「じゃあ外れは?」
「そりゃこれだろ」
それは魚の塩漬けの樽だ。栓をしてあるのに生臭さと発酵臭とが混じり合って壮絶な匂いを醸し出している。
しかしきっとリリオンはこの空樽に入っていてもその事を覚えていなかったのではないかと思われた。
船倉の端、壁伝いに鼠が走っていった。
海上にいることに今頃、気付いて慌てているのかもしれない。
夜更けに雹が降って帆を畳んだ。到着は少し遅れるがしかたのないことだ。
船をがんがんと雹が叩く音が夜明けごろまで船内に満ちた。
若い船乗りの中にはこういった音に精神をやられてしまうものもいるという。彼らは一様に、海で死んだ者たちが乗せてくれと船を叩いているのだと口にする。
扉を閉ざし続ければ哀れな死者を見捨てた後悔に苛まれ、呼びかけに応じれば海へと引きずり込まれる。
一日、二日の船旅ならばよい。だが本格的な海洋貿易船に乗れば、一ヶ月も船にいることはざらにある。
船の中に逃げ場はない。船員に向いてないと気がついても陸は遥か遠くにあった。
精神を病むには充分だったし、そうやって海へ跳び込んでいったものたちの半分は本当に亡霊に手招きされていた。
海に出る魔物はなにも海中からばかりやってくるわけではない。例えば亡霊は気がついたときには船内にいる。船員を海に突き落として取って代わったり、船を傷つけて沈めようとしたりするらしい。
そのため船は出航前に聖水で清められ、祝福を受けた聖火を積んでいた。
狭苦しい船室の一室をランタンとリリオンの二人で使っている。
二つ用意されたベッドの一つに荷物を置いて、二人で一つのベッドを使う。
向かいの部屋をハーディが使っており、彼のものか、それとも別の船員か雹よりもうるさいいびきが響いていた。
リリオンはランタンにしがみつくように眠っている。
眉間に皺の寄った苦しげな寝顔だった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
ランタンは祈るように唱えながら、リリオンの眉間を指先で撫でる。毛布の中で足を絡げた。毛布はギルドが用意してくれたものだ。軽く柔らかく温かい。だと言うのにリリオンの足は冷たい。せめてそれを温めるように、自分の足で挟んでやった。
単純な力比べならば、きっとランタンはもうリリオンにかなわない。
だがランタンにとってリリオンはともに戦うものであると同時に永遠に守るべきものでもある。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
ランタンはもう一度唱えた。
それはまだ一人で、不慣れな迷宮探索を行っているときの口癖だったかもしれない。そうやって自分に言い聞かせ、勇気を奮い立たせていたのではなかったか。
ランタンは唇を曲げて一人笑った。つまり今の自分はあの頃の自分と同じだった。
不安に思っているのだろう。
「もう怖いものなんて無いと思ってたんだけどな」
リリオンの眉間を撫でていた指が、いたずらに少女の顔をつつきはじめる。頬や、鼻先、唇。そうするとリリオンはむずがるように吐息を漏らした。
「母親か」
リリオンに母性を覚えることがある。あるいは他に優しくしてくる女性たちに。だが彼女たちは自分の母親ではない。
ランタンは本当のそれを、親というものを知ることをもう諦めている。
迷宮生まれだと嘯くのはそのためだ。
しかしもし本当に迷宮が自分の母親だとしたら、ずいぶんと厳しいものだと思う。
「あれ……?」
しかし更に深く考え込んだランタンは思わず声を零した。
命を賭して迷宮へ挑み、それ故に命を繋いできた。
親を求める赤子のように迷宮を求め、乳のように魔精を与えられ、そしてもしかしたら探索者ランタンは育まれたのかもしれない。
そんな頓狂な考えが思い浮かぶのも、ランタンが肉親というものを知らぬからだろう。あるいは捨て子であっても自分の父母の存在を、彼らの間から生まれたことを疑うことはないはずだった。
やはりほんとうに迷宮生まれか。
ランタンが自分に呆れながらそんなことを考えていると、リリオンが薄く目を開いた。何度か瞬きをして、それから寝顔の苦しさなど微塵も感じさせぬ微笑みを口元に浮かべた。
「ランタン、ねむれないの?」
優しい声でそう囁いた。
「いびき、文句言ってこようかな」
「ダメよ、我慢してあげて」
今、眠っているのは客であるランタンたち以外では、日中に働いたものたちだけだった。リリオンはランタンの頭を胸に掻き抱いて、両の掌でランタンの耳を塞いだ。
「これでねむれる?」
耳を塞がれても、口の動きからそう言ったのが伝わった。
ごうごうとリリオンの血が流れる音が聞こえる。その手が暖かく、ついさっきまで冷たかった足先に熱が灯っている。むしろランタンが温められるほどだった。
「おかげさまで」
「よかった。おやすみなさい。ランタン」
リリオンは眠たげな目つきでランタンを見つめた。ランタンが瞼を閉じるまで、きっとリリオンは目を瞑らないだろう。
こういう時ランタンはリリオンに母性を感じる。
自分がどうしようもない甘ったれにされてしまう。
「おやすみ。リリオン」
ランタンはそういって目を瞑った。
翌朝すっきり目覚め、狭い船室で朝食を取り甲板に出る。
梯子状に張られたロープに何人もの船員がよじ登って、帆の様子を確かめている。
天気は薄曇りだった。その空模様を天気がいいと思ってしまうあたり、リヴェランドに毒されている。
いい風が吹いている。
「わあ、冷たい」
リリオンが叫んだ。頬を押さえて笑みさえ零す。
甲板には昨晩の雹がごろごろと転がっており、船を傷つけていた。船員たちにも負傷者が出たようだ。ランタンは拳ほどの大きさのそれを一つ拾って海へと放り投げた。頭部に当たれば死ぬ可能性もある。
「ハーディ、おはよう」
「おはようございます」
甲板の縁に身体を預け海を見ているハーディは振り返って、おう、と応えた。
「早起きだね」
「いびきがうるさくてな」
ハーディは噛み付くような欠伸をして、半ば凍りかけておる髭を擦った。
「そっちはよく寝られたようだな。うらやましいことだ」
「……あれはハーディじゃなかったか」
ハーディは肩を竦めた。
「本当はわくわくして眠れなかったんじゃないの?」
「かもしれん」
ハーディの見つめる方に極北の地がある。
この騎士が求めるのは巨人族との戦いだけだ。ランタンやリリオンのしがらみなどなんの関係もない。騎士でありながら自由な男だった。
しかしリヴェランドでは浴びるほど酒を飲み、何人かの女たちと関係を持ったようだが、それではこの男の渇きを癒やせない。自由だが、不自由な男でもある。
「ちょっと付き合ってくれんか? さすがに身体が鈍った」
ハーディは腰の剣を叩いて見せた。
「働いてる人の邪魔になるよ」
「なにをしていなくても邪魔なのだからいいだろう。あの狭苦しい船室に閉じこもっていては息が詰まる」
「何がいいのかわからんけど――」
ランタンがぐちぐちと文句を言っていると、リリオンがその肩に手を置いた。
「いいわ。じゃあわたしが相手になってあげましょう」
「おお、さすが。話がわかるな」
「ちょっと怪我させないでよ」
ランタンが言うと二人して、もちろん、と答えた。
リリオンが鞘から隕鉄剣を抜く。独特の波紋が凍風を受けて魚鱗のようだった。
ハーディが大剣を構える。
ランタンは離れ、何事かと船員が近付いてくる。
「遊びだよ。気にしないで」
しかし気にするなという方が無理だろう。
何しろリヴェランドの英雄同士の手合わせなのだ。
片や巨人の血を引き、片や竜殺しである。
剣を打ち合わせるが、本気を出してはいない。
互いに当てるだけだった。
揺れる甲板をものともしない足運びから、リリオンが上段を振り落とした。半身になって躱すハーディを追って逆袈裟に跳ね上げる。ハーディはそこで踏み込んだ。逆袈裟の根元を抑え、剣筋を逸らした。
身体の使い方は騎士のそれにやはり似ている。大柄な体格を活かした力押しもできるが、小技も効いた。
肘から先を小さく使い腕を畳んだままリリオンの胴を狙った。
だがリリオンは引き足を残している。滑るように身体全てを引いて、胴払いをやり過ごした瞬間に放たれた矢のように前に出る。
ハーディが不利な体勢からそれでも受けた。
鍔迫り合いである。
いつの間にか二人を囲んでいる船員が喝采を上げた。
「足!」
ランタンが口を挟んだ。
「おいっ!」
ハーディが歯を食いしばりながら文句を垂れた。リリオンと力比べをしながら、蹴りを放とうとしていたのだ。
「剣の勝負だろ?」
「そんなことひと言も――」
「だってさ」
「てえい!」
ランタンがそっぽを向いた瞬間、リリオンがハーディに強烈な膝蹴りを見舞った。
ハーディは渾身の力で腕を突き出し、二人は反発し合うように離れる。その間際、リリオンの膝が伸びた。飛び掛かる蛇のように上段蹴りがハーディを追った。
直撃した。
だがハーディは揺らぐこともなく、リリオンの足を掴まえてそのまま関節を極めにかかったところで勝負を終えた。
いいものを見たと喝采を上げた船員たちは散り散りになって仕事に戻っていくが、さぼりを咎めるものはいない。
上官たちも野次馬の一部だったからだ。
彼らの目にはハーディの勝ちに見えただろう。それでもリリオンの評価が下がることはない。そういう手合わせだった。
「当てるだけでなければ俺の頭は今頃、魚の餌だ」
「でもランタンに言われなかったらわたし蹴ってくるの気付けなかったわ」
「では俺の勝ちということでいいな。そもそも尋常の勝負に口を挟むとは騎士の風上にも置けん」
「わたしたち騎士さまじゃないわ」
目一杯身体を動かして、リリオンの気分は少しは晴れただろうか。
ランタンは海を見つめながら、そうだったらいいと思う。
「ランタン、どう見ても俺の勝ちだろう?」
「僕が決めていいの? じゃあリリオンの勝ちで」
「なぜだ」
「リリオンのこと好きだから」
「やったー! わたしのかち!」
「やってられん」
大きな魚が飛び跳ねた。それが海面に盛大な飛沫を上げると、無数の小魚たちがそれに混じって飛び跳ねる。ほんの数秒、数千数万の魚が跳ねて海面を白く染めた。
しかし白い泡は波に飲まれた幻のように消えてしまう。
その先にはもう極北の地がはっきりと見えている。
それだけはどれだけ波が打ち寄せようが消えはしない。
海岸線からはかなり長く桟橋が突き出ている。その根元にあるのは駐留兵の兵舎だった。
土地は緩やかに起伏し丘陵となって、その麓に巨人の集落が形成されている。
兵舎よりも遥かに巨大な丸太小屋がいくつも立ち並んでいた。
森は見渡す限り東西に延々と続いている。巨人族の力を持ってしても、切り倒し尽くせぬように思える。
巨人族を囲う壁と呼ぶ相応しい佇まいだった。
「大丈夫、大丈夫。僕がついてるよ」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
ランタンが繰り返すと、リリオンもそれを真似て繰り返す。
桟橋に船が着くと、そこかしこを巨人族が行き交っていた。甲板にたち、ようやく視線が同じ高さになるかと思われる。
王都で一人の巨人族の戦士を見たとき、なんと大きな人だろうと思った。
しかしこの地へ来ると、まるで違う印象を受けた。
彼らが大きいのではない。自分たちが小さいのだ。
極北の地は、巨人族の土地だった。
リリオンは胸一杯に息を吸い込む。
故郷だった。




