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リリオンがずずっと洟を啜った。
「らんたあん」
それから鼻声で、寝言のようにむにゃむにゃと名を呼んだ。
ランタンは磨いていた戦鎚をテーブルに一先ず置き、ベッド脇の椅子から立ち上がった。ベッドに横たわるリリオンの顔を覗き込む。
よく眠っていたリリオンは、息苦しさに半分目覚めたようだった。呼吸をする度に鼻がぴいぴいと鳴っている。リリオンはもう一度洟を啜って、何度か瞬きをした。
ランタンを認識すると恥ずかしがるみたいに布団を引き上げた。
「調子はどう?」
ランタンの問い掛けにもごもごと口籠もった。
リリオンは風邪を引いた。
北の果て、この季節の海に短い間だけだが身を晒したのだからしかたがない。沈めば命まで凍る冷たさだ。風邪ぐらいで済んだのは幸運かもしれない。
けれどリリオンはそれを情けなく、申し訳なく思っているようだった。
「ほら、洟かんで」
布団の端で洟を拭おうとするリリオンの鼻にハンカチをあてがった。ランタンは少女の恥じらいを隠すようにハンカチを折り畳んでテーブルへ放った。
リリオンの顔は熱をもって、林檎のように頬が赤くなっている。たっぷりと汗を掻いていた。
「このままじゃ身体が冷えるな。着替えようか」
ランタンはリリオンの額に触れる。熱は少し下がっただろうか。汗で張り付いた前髪や熱のせいで気弱げになった瞳が、なんだかリリオンをいっそう幼く見せた。
「身体起こすよ」
「ん」
リリオンは甘えるみたいに両腕を伸ばした。腋から腕を回して、汗で湿った身体を抱き起こした。
「ありがとう、ランタン」
か細い声だった。
ランタンは着替えとタオルを用意すると、てきぱきとリリオンを脱がした。
濡れた寝衣はぐっしょりと重く、絞れば汗が滴った。外では雪がちらついていた。暖炉で薪がぱちぱちと燃え、やかんの湯は沸騰し蓋がかたかたと暴れた。
リリオンの裸身に鳥肌が立った。
湯を桶に開け、水で程良く温度を下げるとタオルを絞る。汗を拭いやすいようにリリオンが長い髪を束ねて自ら持ち上げた。二の腕の柔らかさと、窪んだ腋の滑らかさ。
リリオンはくすぐったそうに吐息を漏らした。
扉の向こうから声が掛けられる。
サリエの声だった。
「どうぞ」
ランタンが振り返りもせず応答すると、失礼します、とサリエが身体で扉を開けるように入ってきた。彼女は手に盆を持っていた。
そして部屋に入るなり裸のリリオンが視界に入ったので、サリエはそれを落っことしそうになった。
「きゃっ、ごめんなさい!」
二人が何かいやらしいことをしていると勘違いしたのだろう。目を丸く、頬を赤らめ、けれど視線を逸らさなかった。
ランタンは平気な顔で振り返った。
「だいじょうぶ? あれ、サリエちゃんもほっぺ赤いけど風邪? 無理しちゃダメだよ」
「あ、はい。あたしは大丈夫です。はい、ちょっとびっくりしちゃって」
ランタンはタオルを桶に戻し、サリエの手から盆を受け取った。
サリエの腰から生えた狐の尻尾は驚きで通常の倍ほどの大きさに膨れあがっている。ゆっくりと萎みつつあるそれが、再び少しだけ膨らんだ。
あらためて見るリリオンの裸身に感心したようだった。
それは鍛えられた探索者の身体だった。背が高いので目立たない、それどころか細くさえ見えるが、しっかりと鍛えられている。それは刃物の美しさに似ている。
しかし女の丸みを失っていないのは、どうしてだろうか。
サリエはちらりとランタンを横目に見た。
それはもしかしたらこの少年のためなのかもしれない。
ランタンは受け取った盆をテーブルへ置き、リリオンへ着替えを渡した。サリエを振り返る。
「手伝ってあげて」
「はい」
「だいじょうぶよ。わたし、子供じゃないのよ。だいじょうぶだから、サリエさん」
「病人なんて子供みたいなもんだよ。いいから、やってやって。一人より二人の方が早い。いつまでも裸だと風邪がひどくなるよ」
サリエは子守で慣れているのだろう、リリオンの着替えを手際よく手伝った。
リリオンと同じく海に浸かったサリエだが、彼女は風邪を引かなかった。
それは彼女の身体を覆った被毛のためだろう。
亜人族の被毛は水をよく弾いた。毛こそ濡れても、毛と毛の間に蓄えられた空気の層は体温の低下を遅らせた。この地の亜人族は特にその能力が高いのかもしれない。この地での生活が、そう言った能力を選択させたのだろう。
昨日の今日であったがサリエはからっとしてるように思えた。
まだ残る目蓋の腫れぼったさや、充血だけが彼女の嗚咽がたった昨日のものだったことを示している。
盆にはジャムの瓶と薬っぽい匂いの漂うポットが乗っていた。
この北国では体調を崩したときはこれを飲む。
ジャムは野いちごをたっぷりの砂糖で煮たもので、ころころした形がそのまま残っている。砂糖は寒さで結晶になっていた。いちごが氷の中に閉じ込められているようだった。
ポットの中は薬湯だった。少しほろ苦い独特の香りがしている。身体を温め、気持ちを落ち着かせる効果があるという。
ランタンは瓶の中のジャムをこそぐようにすくい、コップの中に落とした。熱々の薬湯を注ぎ入れ、いちごを突き崩すようにかき混ぜる。甘い匂いが湯気に混じった。
使われるスプーンは林檎の木で、これにもなにか意味があるらしくてサリエがわざわざ持ってきたものだった。
「はい、リリオン。冷ましてあげようか」
「子供じゃないってば」
着替えを済ませたリリオンは子供っぽく頬を膨らませた。唇を尖らせて、ふうふうと湯気を吹き散らした。火傷しないように恐る恐る口をつける。
「お加減はどうですか?」
「もうだいぶいいよ」
心配そうに尋ねるサリエは、少しほっとしたように目を伏せた。遺品を見つけて取り乱した自分を思い出しているのかもしれない。椅子を勧めても座らないので、ランタンは彼女を無理矢理に座らせた。
「心配かけて悪いね」
リリオンが不調だということを伝えると、街の恩人の一大事に見舞いの品や医者がたくさん届いた。
「そっちはどう?」
「さっそく漁に出ています。久し振りの漁だからみんな張り切っちゃって」
「それはいいね。今日も大漁かな」
「だといいんですけど。昨日、たくさん捕れたからどうでしょう」
「うん。でもすぐに増えるよ」
「はい。ありがとうございます。お二人と、ハーディさまのおかげです」
ハーディはさっそくランタンの頼みをきいて、ドーフの知り合いの軍人に会いに行っている。
あれほど求心力のある男だ。ある意味ランタンも彼に求められたからこそ、この地に来たようなところもあった。余程のことがなければランタンの目論見は失敗しないだろう。
しかし問題はアラスタ王子にだけあった。
彼はまぎれもなく王家に連なる一人だ。血は能力を必ずしも決定しないが、しかし血にともなう立場は人を創った。ハーディの魅力に抵抗できるかもしれない。
しかし統治者という立場だけが、ランタンたちの渡航を拒絶しているとは思えなかった。
例えば私用に軍船を用いるのは好ましくないことだが、しかしそれは決定的な理由にはならない。好ましくなくとも、融通を利かせることぐらいは普通にある。
「漁に出られない期間が長かったから、網はもうどれも新品みたいになっちゃって、もう繕う網がないんです」
漁に出られない間、商人ギルドの女たちは漁網を新しく編んだり、古くなったものを繕ったりした。これはなかなか大変な仕事で、本来は終わりがない。漁に出れば、その度に網は破れるものだからだ。
しかし今日という日だけはその作業から解放された。明日からはまた忙しい日常が戻ってくるだろう。子の世話もままならぬほどに。
「ちびどもの世話から解放されても、僕らの世話をしてたんじゃ休まらないね」
ランタンは笑いながらテーブルの戦鎚を手に取った。手遊びするみたいに、手の中でくるくる回した。
サリエは首を横に振った。
「そんなことありません。お金だってもらえるし」
ランタンたちの世話はドーフが彼女に与えた役目だった。商人ギルドから与えられた仕事で、賃金が発生した。父を失った彼女の家は一番の働き手を失ったのである。ドーフの配慮だった。
「働き者だね」
「そんなこと、ないです」
サリエは曖昧な表情を作った。笑っているようにも見えるが、悲しんでいるようにも見える。
父親の遺品が見つかって、一区切りついたかと思ったがそんなことはないようだった。
家族を失った哀しみはそうそう癒えるものではないのだろう。ランタンはその痛みを想像することは出来ても、知ることは未だになかった。
「サリエさん、だいじょうぶ?」
薬湯をちびちびと半分ほど飲んだリリオンが気遣わしげに尋ねた。少女は痛みを知っていた。
サリエは頷いて、困ったように眉を八の字にした。
「たぶん、だいじょうぶなんだと思う。リリオンちゃんはどうですか?」
「わたし? わたしは――」
リリオンは薬湯を飲み干して、底に沈殿した野いちごをスプーンで掻き込んだ。溶けきらぬ砂糖の結晶がじゃりじゃりと音を立てる。
「――おかげさまで元気になっちゃった」
サリエが小さく笑った。リリオンが嬉しそうな顔をする。
「よかった。でも、あんまり無理はしないで。街のみんな、リリオンちゃんたちに好き勝手に期待しちゃってるから。まるで急かすみたい。本当に危ないなら、街のことなんか気にしないでいいからね」
湾の月魚は討伐され、次なる脅威は外洋に棲み着いた海竜だった。
街の住人は今か今かと討伐の日を待ち望んでいた。海竜のせいでリヴェランドの経済活動は半減している。経済の要である海運が封じられているのだ。
「だいじょうぶ。きっとやっつけるわ!」
期待されずとも、あるいは急かされずとも海竜との戦いは決定事項だった。ランタンたちには街の経済活動とは無関係の目的があった。
リリオンは拳を握り力強く宣言した。
ランタンは椅子から立ち上がった。
「そのためにも今日はずっと寝てなさい。あんまり興奮すると熱が上がるよ」
リリオンの額に触れ、頬を撫で、諭すような口ぶりで少女を寝かしつける。過保護に布団を被せると、リリオンは暑がった。薬湯がよく効いているのだろう。
鼻の下まで布団を掛けられたリリオンは、拗ねるみたいな目つきでランタンを睨んだ。
額をくっつけるみたいにランタンはリリオンを見下ろした。
「仲、ほんとうにいいですね」
サリエの言葉に見つめ合った二人は思わずはにかんだ。
「うん」
素直に答えたのはやはりリリオンだった。
ランタンは気恥ずかしさのあまりリリオンから視線を逸らした。リリオンはその隙を突いて亀のように首を伸ばし、せめて顔だけ布団から出した。
「サリエちゃんはいい人いないの?」
「あたしにはそんな人、いないですよ。結婚は、早くしないといけないけど」
それは現実的な言葉だった。失った働き手の確保。それ以上の意味は含まれていないかもしれない。
「そうなんだ。あ、――エスタスはどう? あれも独り身だし、いい男だよ。船の上じゃ頼りになった」
ランタンとしては気を利かせたつもりだったが、サリエは小さく首を傾げた。
エスタスはぶっきらぼうなところもあるが、彼女に対する好意は隠していないはずだった。あるいはランタンは知っているから、彼の言動にそういったものを見つけられるだけかもしれない。
「はい。いい人だと思います」
ランタンは内心でエスタスに申し訳なく思いながら、いい人、という言葉に何度か同意を重ねた。
サリエを見送って、ランタンは外に干していた濡れタオルを取り入れた。四折にたたむと、しゃりしゃりと音を立てる。半分凍っていた。部屋に戻ってそれをリリオンの額に置いた。
「ひゃ」
「冷たすぎる?」
「んーん、気持ちいい」
「明日にはもうよくなってるよ」
「うん」
リリオンは素直に頷いて、首を傾けて視線を薬湯へ向けた。
「――これ、わたし飲んだことあるよ。小さい頃、ママがつくってくれたの」
「そうなんだ」
「次の日にはもう治ってたのよ」
「へえ」
ランタンはベッドの、もっと近くに椅子を寄せてこれに腰掛けた。
小さく溜め息を吐く。
「よけいなお世話だったかな。エスタスのこと」
尻を滑らせるように浅く腰掛け、たっぷりと背もたれに体重を預ける。
「エスタスさんは、サリエさんが好き?」
「そう。悪いことしたかな?」
「そうねえ。そうかも」
頷かれて、ランタンはがっくりと肩を落とした。リリオンは慌てて取り繕う。
「ちがうちがう。悪いことじゃなかった。えっと、よけいなお世話っていうのかしら」
「同じだよ」
人間の関係というものが単純ではないことは理解しているつもりだったが、それはあまりにも複雑すぎた。
「慣れないことはするもんじゃないな」




