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リヴェランドの朝は恐ろしく冷え込んだ。
窓の外が妙に明るいのは積もった雪に朝日が乱反射しているからだった。夜の内に雪は止んだ。冴え冴えとした空気そのものがきらきら光っているように思える。
ランタンは温もりを求めてリリオンを抱き寄せる。
「うう、ん」
すうすうと愛らしい寝息が唇で音に変わった。
無造作に身体を抱き寄せた腕に起こさぬようにと配慮が宿る。
ランタンは少女の顔を隠す髪をそっと払い、しばらくその寝顔を見つめてから、滑るようにベッドから下りた。床が氷のように冷たく、ランタンは昨晩の内に用意した着替えに慌てて着替え、それでも足らぬので毛皮の外衣を羽織った。
室内であっても吐き出す息が白い。
結露が窓の内側で氷に変わっていた。
「はあ、寒い……」
手に息を当てて擦りあわせる。
厳しい土地だ、と思う。たった一夜過ごしただけであるが、その思いが肌身に染みた。
ここでこれほど厳しいのだ。ならばもっと北に住む、巨人族の生活はきっとなお厳しいに違いない。
彼らの罪はそれほど大きなものなのだろうか。極北の地に隔離されなければならぬほどの。
ランタンは燃え尽きた暖炉の灰を綺麗に片付け、用意されていた薪を積んだ。
多い方がいいだろうとやたらめったらに薪を詰め込もうとして、昨晩はリリオンに注意された。暖炉とはそういうものではないらしい。
この薪は巨人族自治区で伐採されたものだった。巨人でしか伐採できないような巨大樹の枝材である。薪にしてしまえばどこにでもあるような薪だが、もととなる枝はそれだけで巨木に匹敵する太さがあった。
ランタンは掌を見つめる。
小さな火種が発生した。触覚を失った昆虫のように火種が掌を動き回る。火種は動き回りながら掌の中で空気を喰らい、すくすくと成長して一塊の炎となった。
ランタンはそれを薪の上へ乗せた。
丸い塊だった炎が、氷が溶け出すように薪の表面を滴った。
炎は滴り、染み込み、焦がし、纏わり、薪を飲み込んでいく。
ランタンの焦茶色の瞳が橙色に染まったのは、ただ炎の色を反射したに過ぎない。木の焼ける独特の匂い。ぱちぱちと音が弾ける。逆立つ火先がゆらゆらと揺れる。白い煙が煙突に吸い込まれていく。
しばらくじっと見つめていると薪そのものが橙色に発光する熱の塊となった。
ランタンは頬を叩く。炎に炙られた頬がひりひりとした。
部屋が暖まったので一階へ降りた。ハーディはまだ眠っているようで、館はまったく静まりかえっていた。おかげで波の音が聞こえた。雪が余計な音を吸っているのかもしれない。
ランタンは厨房へ向かい朝食の準備を始める。
ティルナバンから持ってきた食料を並べ、しばらく考え込んだ挙げ句まとめて煮ることにした。
鍋に油を回し、ざくざくと切り分けたベーコンを炒め、その脂が溶け出したところに萎びかけた芋を入れる。皮を剥いて面取りした。あまりいじると芋が崩れてしまうので、色づいた表面をひっくり返す時ぐらいしか触らない。
芋がベーコンの油を吸って全面に色づいたところで水と酒を加え、塩と香辛料を振り入れた。沸騰したところに水で戻した豆を加え、弱火で更に煮ていく。時折、味を確かめて足らなければ塩を加える。
「――ランタン」
毛皮の外衣は既に脇にやられ、厚手の冬服を窮屈そうに腕まくりしていた。
ランタンは額に浮いた汗を拭い振り返った。
「リリオン」
おはよう、と続けようとしたランタンは驚きに言葉を飲み込んだ。脱いだ外衣を引き寄せてリリオンに近寄る。
「そんな格好で」
リリオンは寝衣のままだった。首から胸にはだけた前合わせ。肩になにを羽織ることもなく、素足に靴も履かず、床を歩くほどに失った体温に爪先が赤く悴んでいた。
ランタンはせめてリリオンの肩に外衣を羽織らせる。
どうした、のその答えを聞くまでもなくランタンは理解している。
リリオンは自分を探しに来たのだ。
耳や頬が寒さに赤い。だが華奢な首筋が青々として血の気が引いていた。
リリオンはランタンの顔を見た途端に、隠すこともなくほっと息を吐いた。
かつて母親を失った記憶を蘇らせていたのだろう。
「ランタン、なにしてるの?」
何でもないようにリリオンはそう尋ねた。
「なにって――」
ランタンは答えかけて、振り返り、慌てて吹きこぼれそうな鍋を火から外した。煮立たせてしまったせいで、透明だったスープは微かに白濁した。鍋に蓋をする。
「――朝ご飯作ってたんだよ」
「いい匂い」
「ふふん」
自慢げに鼻を鳴らしたランタンに、リリオンはころころと笑った。
「お手伝い、なにかすることある?」
「うーん、そもそもそんなに食材がないし。でも、その前に着替えておいで」
うん、とリリオンは頷いて、しかし躊躇いを見せた。厨房から離れようとはしなかった。
まるでランタンの姿を瞳の中から失うことが、そのまま永遠の別れであるかのように。
「しかたない。そのままじゃあ床が冷たいからな」
「え、わわっ、ランタン――!」
ランタンはリリオンを有無を言わさず抱き上げた。色気のある抱き方ではない。獲物を捕らえた蛮族みたいに、肩に担ぎ上げてしまった。
リリオンは恥ずかしがって暴れたが、その長い脚が一纏めに封じられている。
「ほら連れてってあげるよ。まったく手間のかかる。こいつめ」
「やあん」
ランタンは手持ち無沙汰な左手で、リリオンの尻を引っぱたいた。肩の上で少女が逃げ出そうとするように身を捩った。
きっとリリオンが駆け下りてきたように階段を駆け登り、開け放たれたままの扉に飛び込んだ。暖炉の火は廊下からの冷気にむしろ盛んに燃え、ランタンはリリオンをベッドに投げ下ろした。
ベッドの上に寝転んだリリオンは恨めしげな視線をランタンに向けた。ランタンは平気な顔をしてその視線に答えた。
「よし、じゃあついでに着替えさせてやろう」
「いーよ」
「遠慮しなくていいから」
立ち上がろうとするリリオンをランタンは巧みに押し止め、その足元に跪いた。
裸足の足裏が汚れている。ランタンはその汚れを丁寧に拭い取って、靴下を履かせてやった。そして躊躇うことなくリリオンの前を開き、まったく手慣れた様子で少女の長い腕を袖から抜き出した。
「うう」
リリオンが恥ずかしげに呻いた。寒さに粟立つ肌の胸元が炎を呑んだように内から赤らんだ。
「リリオンはお姫さまだな。全部、僕にやらせて」
なにもさせなかったランタンがそう嘯くのを、リリオンは髪を編まれながら聞いた。左右の髪をそれぞれ編み込み、後頭部で馬の尾のように一つにまとめる。
「ランタンはお姫さまのお尻を叩くの?」
「必要なら叩くよ。よし、こっち向いて」
向いて、と言いながらランタンはリリオンの頭を掴んで無理矢理に振り向かせた。尖らせた唇を丸める暇もない。
「なんだ、不満そうだな。綺麗に編めたよ。ほら、見てよ」
リリオンは渡された手鏡を覗き込む。規則正しい編み目の美しさよりも、肩口から覗き込むランタンの顔が目に入った。
褒めて貰おうとうずうずするような、あるいは叱られるのではと怯えるような、何とも言えぬ少年の表情を浮かべていた。
リリオンは唇の尖りを丸めて、精一杯に姫君のような澄まし顔を作ってから、鏡の中の少年に微笑みかけた。
「ありがとう、ランタン」
リリオンは鏡を伏せて振り返る。
昨晩と変わらず厨房で朝食を取っていると、討ち入りかのように玄関扉が殴打された。
しかしこの程度のことで慌てる三人ではない。
ランタンはほくほくと煮えた芋をスプーンで崩しながら、ハーディに視線を向けた。
「ちょっと見てきてよ」
大きな手でちまちまと茹で卵の殻を剥いていたハーディは文句も言わずに立ち上がった。
「行ってくる。塩を取ってくれ」
塩でも撒いて追い返すのかと思ったがそんなことはなかった。半分剥いた卵に塩を振りかけ、殼の際まで一口で齧ると残りを放り出して厨房から出て行った。
「昨日の今日か。思いの外反応が早いな」
「どういうこと?」
「来たのはどうせ王子さまからのお迎えだよ」
ランタンはスプーンの上に芋と豆とベーコンを器用に乗せて大きく明けた口に運んだ。
「集落へ行くの、許してくれるかしら……?」
「さて、どうかな。最終的には許してもらうつもりだけど」
リリオンは不安そうにスープをかき混ぜる。ランタンは自分の器からベーコンを二切れ取り出して、リリオンの器に移した。
「ありがと」
リリオンはそれを素直に受け取って食事を再び始めた。
ハーディはすぐに戻ってきた。厨房の入り口から顔を覗かせる。
「アラスタ王子からの使者だったぞ」
「ほら、やっぱり」
ランタンはくわえていたスプーンを指揮棒のようにハーディに向けた。
「それで?」
「飯に誘った。いいか?」
ランタンは視線をリリオンに向け、それから頷いた。リリオンは立ち上がり器を用意し、温かなスープを注ぐ。
椅子を抱えたハーディの後ろから亜人族の騎士が入ってきた。全身を焦茶色の獣毛に身を包み、その上から革鎧を纏っている。まったく熊そのものが人のように振る舞っていると思えてしまうほど獣の血の濃い熊人族の男だった。
それほど血が濃いのにもかかわらず、その表情に困惑の色が透けて見えたのは状況があまりにも奇妙だからだろう。
「どうぞ」
ハーディが運んだ椅子に腰掛けるようにランタンは促し、座ったところでリリオンが器とスプーンを渡した。
「どうぞ、召し上がってください」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
まだ若々しい声だった。リリオンの顔に見惚れるかのように、黒く円らな熊の瞳が瞬いた。
「人を待たせていてはおちおち飯も食べてはいられないからな。飯は落ち着いて食わねば」
そんなことを言うハーディへ若熊の騎士は視線を向ける。
「しかし王子をあまり待たせるわけにも」
もっともな台詞だった。彼は王子からの使者である。与えられた仕事への責任と使命感を抱えている。時には強権を発動し、その使命を果たそうとするだろう。
だがそのような男でさえ、有無を言わさず自分の行動に付き合わせてしまうのがハーディという男だった。
「わかっている。食べたらすぐ行くとも。なあ」
「御前で腹でも鳴らしたら無礼だしね」
ランタンは適当なことを言い、リリオンはただ微笑む。
「足らなかったら言って下さいね。おかわりありますから」
「あ、はい」
「お口に合いますか?」
「はい、おいしいです!」
「よかった。ランタンが作ったんですよ」
「ああ、そうなんですか」
騎士は心なしかがっかりした様子で、スープを勢いよく食べ始めた。
騎士が最初に食べ終わり、最後に食べ終わったのはおかわりをしたハーディだった。卵の殻をまだ燃える竈の中に放り込む。それから火を消した。
「では行くか」
それぞれの王子に会うに相応しい正装は、これから戦いに行くかのような完全武装である。
リリオンは竜骨の腕甲で左腕を覆い、大剣を腰に吊している。ハーディは毛皮と鱗で構成された重鎧に身を包み、大剣を背負っている。ランタンはいつものように腰に戦鎚を結ぶだけで、それぞれがその上から毛皮の外衣を羽織っていた。
軍用の馬車に乗せられ城へ運ばれる。それはティルナバンにおいては政治の中枢であり、ここリヴェランドにおいては軍事の中枢だった。城壁の中にそれはある。
車中でランタンはハーディに命令した。
「用件はハーディが言って。顔見知りでしょう?」
「よかろう。で、お前たちは?」
「僕らは後ろから見守ってるよ」
「……ははぁ、それは心強い」
さすがのハーディも腕組みをして、訝しげにランタンを見た。
「アラスタ王子は巨人族がお嫌いでいらっしゃる。だからリリオンは勿論なし。僕も余計なことを言いそうだから、これもなし。じゃああとはハーディだけだよ」
「何か策は?」
「ここでのやり取りに策なんかないよ。許可が出ればよし、出なければ色々する。今からするのは用件を伝えることだけだ。下手に怒らせてはいけないけど、僕そう言うの得意じゃないし。ハーディだって下手に策を弄するのは得意じゃないだろう?」
「それもそうだ。しかたあるまい」
城壁に入ってからもしばらく馬車は進み、ようやく停車してから車外に出る。ハーディを先に出し、ランタンはリリオンの頬に触れる。
「僕の後ろに隠れてな」
「隣がいい」
「ああ、それでいいよ」
ランタンも降り、リリオンの手を取って車外へと導いた。
若熊の騎士の視線が繋がれた二人の手に向けられた。この二人の関係性を掴みかねているようだった。
「あちらで王子がお待ちです」
案内される間、多くの視線に晒されたのは三人の素性が明らかだからこそだ。一人はすでに武勇名高い騎士であり、一人はこの北の地にまで名を知られた探索者であり、もう一人は言わずもがなの巨人族の血を引く少女である。
行き交う人々の多くは毛皮に包まれている。防寒具としてのそれではない。亜人族の騎士が多いのだ。北の地だからこそだろう。
「得物は?」
「そのままで大丈夫です」
ハーディの問い掛けに騎士は答えた。
謁見の間への大扉の前で騎士は立ち止まった。振り返り、朝食の折には見せなかった厳しい表情を浮かべる。
「失礼の無いように」
扉の奥に進んだ。
左右に六人ずつ、玉座の向こうに二人、今し方通った扉の脇にもう二人の騎士が構えている。頭上には弓手も構えていた。四方に四人。既に矢を番えている。厳重な警備だった。
ハーディが立ち止まり、空の玉座に向かって跪いた。ランタンはそれを真似し、リリオンはランタンの真似をする。
更に二人の騎士を従えた男が入ってくるのがわかった。
どかりと玉座に腰掛ける。きっとアラスタ王子だったが、ランタンは顔を上げなかった。
アシュレイの気安さについ勘違いしそうになるが、貴族や王族への礼儀とはそういうものだ。
窮屈だな、と思う。
ハーディに任せてやはり正解だった。
「面を上げよ」
低く落ち着いた声だった。
顔を上げると絢爛な鎧に身を包んだ、壮年の男がそこにいた。第五王子のアラスタだ。日に焼けた肌の皺は深い。ほとんど白に近い金髪と厳めしく刈り込まれた髭を蓄えて、いかにも武人と言った様子の男だった。
鋭い視線がにこりともせずにハーディに向けられる。
玉座に深く腰掛け、肘掛けに腕を預けている。
「お久しぶりでございます、アラスタ王子。王子の黄金に等しいお時間を我らのためにご用意していただいたこと、ありがたく思います」
「ああ、久しいとも。騎士ハーディ。まったく貴様は、困った男だな」
「そう、おっしゃいますな」
背後であったが、ハーディがふてぶてしく笑ったのがわかった。
「此度もまた、ただ一つの願いを聞いていただきたく参上したに過ぎません」
「ふん」
アラスタは荒々しく鼻を鳴らした。頭上で弓の元を引き絞るような気配がした。だが放つ気配はない。
「願い、願いか。まさか同じ願いとは言うまいな」
「はっはっはっ、まさかそのようなことはございませんとも」
「では、申してみろ」
冷厳な視線がハーディに向けられた。
「極北の大陸、巨人族の集落への渡航の許可を頂戴したく思い参上いたしました」
「――その願いの、以前となにが異なるか申してみよ」
眉一つ動かさず処刑を宣告しそうな視線だった。だがハーディは少しも臆することなく答えた。ただの胆力ではない。武力に裏付けされた落ち着きだった。
「私一人ではなく、我ら三人分の許可を頂戴したく存じます」
「くだらぬ洒落だ。一人が三人になったところで、なにが変わる」
「世界が」
謁見の間に沈黙の帳が落ちた。
アラスタは厳しい視線をハーディに向け続けている。
ランタンは面を再び下げた。アラスタから表情を隠し、肩を揺らさぬように気をつけながら笑った。
世界とは大きく出たものだ。いやしかしあながち間違いでもない。もっとも三人もいらない。一人が二人になれば、それだけで世界は変わるだろう。
「貴様――」
アラスタが沈黙を破った。
「――名をランタンと言ったか」
急に語りかけられ、ランタンはゆっくりと面を上げた。笑いの名残が口元に残っており、口角が少女めいて上がっている。
アラスタの視線が真っ直ぐに向けられた。
「はい」
「貴様、なにを考えている?」
「なにを、と申されましても」
「アシュレイを誑かし、教会や商会に働きかけ我がリヴェランドで不穏な動きをしておるようだが」
それはティルナバンから行った工作活動の一つだった。
「不穏なことなどありません。リヴェランドの不漁は遠くティルナバンにまで届いております。この地の寒さや厳しさも。ならばせめてもと配給の手配をさせていただいただけのことでございます。余計な真似をいたしましたでしょうか?」
「……」
「ですが女子供がひもじさに苦しむのは見るに堪えません。ティルナバンであってもそのような光景は残酷でございます。これより厳しくなるリヴェランドの冬ともなれば寒さもいっそう――」
「もうよい」
「――食糧事情はなお厳しく、やはり漁場を取り戻さなければ。そのお手伝いも」
「よいと言っている!」
怒気を孕んだ制止であった。
だがランタンは水を浴びせられた魚のようにけろりとしている。
「失礼いたしました」
冴え冴えとしたランタンの声だった。
むしろアラスタの溜め息の重々しさが耳に残った。
「話はこれまでだ」
強い意志の込められた声だった。この北の地で鍛えられたに違いない氷のような声だ。
願いは退けられたことが、それだけでわかる。
だがハーディはまったくそれに気付かぬように尋ねる。
「お許しは頂けませんでしょうか?」
「――去ね」
アラスタはそう言い、玉座を立った。鎧を鳴らし、騎士を引き連れて去って行く。
城から出てランタンは白い息を吐き出した。リリオンとすぐに手を繋ぐ。冷たい手だった。
リリオンはかつて極北の地から脱走した。王と教皇によりリリオンの自由は保障されているが、アラスタがこれを罪にしようと不可能ではなかった。
「あいつ、リリオンのこと一度も見なかった」
「あいつって、王子のことか?」
「一度もだよ。ちらりとも、視界の端にも入れなかった」
それはむしろ無関心とはまったく逆のことだった。噂に聞く以上の巨人族嫌いなのだろうか。変にリリオンに難癖をつけられるよりはましだが、それでも腹立たしいことに変わりはない。
ランタンは脇にどけられた雪を蹴り飛ばした。
行きは馬車で連れて来てもらったが、帰りは歩きである。わざわざ送り届ける理由がなかった。
若熊の騎士が城壁の外まで連れ立ってくれた。別れ際にハーディはその肩をぽんと叩く。
「いずれ肩を並べて戦いたいものだ」
「はい、いずれかならず!」
ハーディは人たらしであるが、さすがにアラスタには通用しなかった。帰路を歩きながらハーディは頭を掻いた。
「で、断られたぞ。これからどうする?」
「策を弄する。働いてもらうよ」
「難しいことは頼むなよ」
ランタンは懐を弄り、小袋をハーディに押しつけた。
「これは?」
「小遣い。お酒を飲んでリヴェランドの人たちと仲良くなってきて。じゃんじゃん奢ってあげていいよ。金が足らなくなったら言って」
「それが策か?」
ハーディは戸惑いの視線をランタンに向けた。
この男は無自覚だった。
自分がいかに人を惹きつけるかと言うことを。
「そうだよ。巨人族に会いたくて、でも断られて、ならせめて海を通行止めにしてる魔物の討伐を願いでて、でも断られて――と言うようなことを吹聴してきて。自分がいかに優れた戦士であるかを売り込んできて。好きでしょ、自慢話」
「俺をいったい何だと思っている。しかしそのようなことで王子は動くか?」
「動くよ。飢えた街の人の不満の声を、王子は無視できない。これから寒さはもっと厳しくなる。それに街の人は王子がいなくてもいいけど、王子は街の人がいないと存在し得ないもん」
「そんなものか?」
民衆というものがいかにアシュレイを悩ませているか。力になれることは少なかったがランタンはよくその相談に乗っていた。
「そんなもんだよ。きっと向こうから頼みにくるよ」
「ふうむ、わかった。では俺は言いつけの通り昼酒を食らうことにしよう。お前がいかに慈悲深く、弱者への施しを惜しまぬ男か語ってこようではないか」
「いいよ」
ランタンは露悪的に表情を歪めて、ハーディの申し出を心から断った。
人々への配給は完全に打算に基づいた行動だった。結果としての善であっても、それは別の目的の副産物に過ぎない。
「お前たちはどうする?」
「買い出しかな。ティルナバンから持ってきた分は朝飯で使っちゃったし。商人ギルドにも用はあるし。あと街の探検」
向かう方向は一先ず一緒だった。
夜の間に降り積もった雪は踏み荒らされて、泥のようになり、また凍っていた。
「どぅあ!」
足をとられたハーディが受け身も取れず転び、それを笑ったランタンは危ういところでリリオンに抱きとめられた。
「なんでリリオンは転ばないの? 凍ってないところでは転ぶくせに」
「だってなれてるもの。小さく歩くのよ。ちょっとずつ」
それはまさしくこの地でリリオンが生活を営んでいたことの証だった。




