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鎮守の森じみて鬱蒼とした木々は緑のまま凍り付き、寒風に吹き曝されて鈴の音に似たざわめきを奏でていた。
リヴェランド近郊の竜場は西方に連なる大山脈から流れる大河から分岐する一筋の派川を囲うように造られている。
森のおかげで和らいだ風は、しかしそれでも川面をさざめかせる。
さすがの竜種も寒そうに身体を丸め、竜舎の中で蹲って身動き一つしなかった。
多くの場合、竜種は他の動物に恐れられるが、その巨体に蓄えられた温かさを求めて冬鳥がその傍らで、まるで竜種の真似をするように丸まっている。
寒さは生命に対する最大の脅威なのかも知れない。
ランタンたちは竜籠から降りると、途端に身体を小さくした。
「寒ぃ、ていうか痛い痛い痛い――」
むっつりと黙り込むハーディとは対照的に、ランタンはぶちぶちと文句を言った。よく見ればハーディも寒さにかたかたと歯を鳴らしている。
垂れた文句が端から凍り付くような寒さだった。
千切れそうに痛む耳を両手で覆い、少しもじっとしていられないと小刻みな足踏みを繰り返す。海獣の外衣の襟に鼻先まで埋めた。
大人しいリリオンを見上げると、少女はむしろこの寒さを懐かしんでいるようだった。
陰気くさい灰色の空を見上げて、煙みたいに真っ白な息を吐く。空からは白いものがちらちらと舞っているが雪ではない。それは風に弄ばれる細かな氷の粒だった。
ランタンはリリオンに身体をぶつけた。リリオンが視線を下げ、ランタンを後ろから抱きしめる。まるで風除けになるみたいに。ランタンは後頭部をリリオンに擦りつける。
「んー?」
どうしたの、と尋ねるようにリリオンが喉を鳴らした。
くあああ、と兄弟竜が鳴いた。
十日間も飲まず食わずでランタンたちを運んでくれた竜種たちは、さすがに疲れ果てたようだった。濃い緑の硬い鱗の下の肉体が一回りも痩せてしまっている。
籠が外されるとのそのそと川辺に移動し、流れる川面に鼻先を突っ込んで噛み付くみたいに水を飲んだ。その傍らで騎手たちが労るようにごつごつとした首筋を撫でる。だが彼らも長い空旅によって顔貌は垢と日焼けで黒々とし、頬は削いだように痩けている。
彼らは竜種たちが餌にありつくのを確認してから、宿舎に戻った。
竜種は用意された餌を美味そうに貪っている。火にかけられたままの大鍋に顔を突っ込んで、肉を引きずり出した。それは丸ごと一頭の羊だった。それを何頭も骨までぺろりと平らげ、ぐらぐら煮立つスープまで飲み干した。
竜場はリヴェランドから馬車で半日ほど離れたところにある。竜場にネイリング家の馬車が用意されており、三人は寒さから隠れるように馬車に乗り込んだ。
ランタンとリリオンが続けざまに乗り込んだ馬車が、ハーディが乗った途端にずしんと沈んだ。
「同じもの食べてたのに太ったんじゃない?」
ランタンは暖められた車内に人心地つき、竜籠の半分もない車内にあって倍以上の存在感を見せるハーディを邪魔そうに睨んだ。まともに風呂も入れていない。三人の体臭が車内に満ちた。
「お前らと違ってこちらは独り身だ。寝る以外にやることがない。身体が鈍った」
「僕らだって寝てただけだよ」
ランタンが平然と嘯き、リリオンは頬を赤らめて顔を隠すみたいに俯いた。ハーディは追求しなかった。
ランタンは帽子を外し、頭を掻いた。身体を拭けても頭はなかなか洗えない。爪の間に溜まった汚れを見て嫌な顔をする。
「向こうでは働いてもらうよ」
ランタンは汚れを見つめたたま言った。
「……うまくいく?」
「いかせる」
心配そうに呟くリリオンに対して、ランタンは確信を込めて言う。
「必要ならリリオンを乗せた船を牽いて泳いであげるよ」
それは冗談でもあり、本気でもあった。
「そんな」
「風邪引いたら看病してもらおう」
「おう、まかせろ」
「あんたじゃない。ああ、悪寒が」
まったく、とランタンは口をへの字にした。ハーディは馬車を揺らすように笑う。リリオンも釣られてころころ笑った
車窓からの景色には色がなかった。
ティルナバンでは季節はまだ秋だったが、十日も北進するとすっかり冬になってしまう。
寒冷な気候では農作物はあまり育たないので牧畜が盛んだった。田畑はあまり見られず、馬や羊の群がせっせと牧草を食んでいる。
馬車はほとんど揺れなかった。
きちんと整備の行き届いた街道は道幅も広く立派なものだ。目的地であるリヴェランドは軍港都市であり、軍がこれを管理しているからだ。
家畜に牧草を食わせているものたちも、野盗の心配など少しもしていないようだった。
恐ろしいのは狼や熊や、あるいは魔物だったが、それも軍が対処をしてくれる。あまり探索は盛んではない。
リリオンは齧り付くように車窓の景色を見つめ、ランタンはその横顔を見ていた。ひどく幼い横顔だった。一人寂しく留守番でもさせられているような。
「ローサはさみしくしていないかしら?」
リリオンが心配そうに呟いた。
「十日は、今までもなかったからな」
ローサを留守番させていた時は、長く家を空けないために小迷宮ばかりを攻略していた。
迷宮探索を共にするようになってからは、ほとんど四六時中一緒にいる。ローサはかつてほど一人で気ままにティルナバンを散策することが少なくなった。
探索をすると人は寂しがりになるのかもしれないと、ランタンはふと思った。
「泣いてるかもしれないわ。かわいそうに」
リリオンは窓から顔を出すみたいに灰色の空を見上げる。
「ガーランドがちゃんと面倒見てるよ」
「うん」
「みんなに世話を頼んだし」
「うん、そうね。……雪、降りそうね」
リヴェランドに近付くにつれて、灰色の雲は厚みを増して地表にのしかかるように重く垂れ込めた。
厳しい寒風が湿度を帯び、その中にはランタンの嗅ぎ慣れぬ臭いが紛れ込んでいる。
それはまるで冬というものの体臭のようだった。
リヴェランドは海に面した都市である。
潮の匂いと、魚の生臭さ、そして街全体が燻されたように煙たいのは、暖炉の火を絶やせば家の中であっても凍死しかねない厳しい環境だからに違いなかった。
軍港都市と聞けばもっと物々しい街並みかと想像していたが、そんなこともない。そこかしこを軍人が肩で風を切って歩いているような光景を思い描いていたが、往来には人っ子一人いなかった。
すでに日は落ち、雪さえ降り始めている。
「ここは?」
「商業ギルドが所有してる建物」
「これは、迎賓館とか言うやつではないのか?」
ハーディが呆れるやら感心するやらといった様子で、その豪奢な建物を見上げた。一介の騎士にも、探索者にも不釣り合いな建物だった。何十人も従者を連れた貴族が寝泊まりするような建物だ。
「十日振りの寝床だ。ぐっすり寝られた方がいいだろう?」
「それはそうだが」
迎賓館を用意させたのはもちろんレティシアだった。
遠く離れた地のランタンたちのためにずいぶんと手を回してくれている。その過保護さは愛情に違いなかった。
「はあ、なんとも豪華なことだ」
凍える手で鍵を開け、三人は建物内に入った。
「お、ちゃんと掃除されてるな。でも、さすがに使用人は付かないから」
ランタンは室内の灯りをつけて、大きく欠伸をした。帽子を外し、外衣を脱ぐと雪を払った。まだ本降りではない。
「リリオン、扉閉めて。寒い」
「うん」
リリオンは扉の隙間から名残惜しそうに外を見つめていた。ランタンに言われてようやく扉を閉める。なんだか落ち着かないような感じだった。
無理もない。
故郷はもうすぐそこにあるのだ。
「とりあえずアラスタ王子への謁見は申し込むように頼んだ。返事はいつになるか」
「手の早いことだ。しかし直接会いにいけばよかろう」
「手回しがいいと言ってほしいな。それで前回はそれで会えたんだっけ?」
「ああ。会うことだけはな」
ハーディは自慢げに頷いた。仮にも、いや紛れもなくアラスタは一国の王子であり、一都市の代表者である。そのようにふらりと会いにいって、そもそも面会を許される相手ではない。これもハーディだから謁見を許されたのだろう。この男はそう言う男だった。
ランタンは肩を竦める。
「会うだけが目的じゃないし、こういうのは一応礼儀って言うのが必要なんだよ。武人肌とは言え、お偉方なんだから」
「お偉方ね。袖の下でも渡すのか?」
「まさか」
それを受け取るような相手だったら話は早かったが、調べたところアラスタ王子はそのような男ではない。厳しいところもあるが、街の評判は上々だった。
三人はどの部屋を使おうか迷った結果、とりえず厨房に椅子を持ち込んだ。かまどに火を入れて、鍋に湯を沸かし、身体を温めた。押し潰された炎が鍋の横腹を舐めている。
「心強いものだな」
ハーディの呟きに、今度はリリオンが自慢げに頷く。
「そう思ってもらって何よりだよ。でなけりゃ誘いに乗った甲斐がない。でもまあ、僕らの要求はたぶん断られる」
「なぜだ?」
「一つは要求を呑む理由がない。ハーディが前に会った時から、なんか心境の変化でもない限り。同じ要求をするわけだから」
「人数が一人から、三人に増えたぞ」
「かわらないよ。一人も三人も」
「そうか?」
「そうだよ。戦場を考えてみろ。一人殺すのも三人殺すのもたいした違いはない」
「それもそうだな」
「二つ目は僕らを運ぶ、その余裕がない。今そこの海は魔物が出る」
「ほう、魔物」
ランタンが言うとハーディは目を輝かせた。鈍った身体を研ぎ直すには充分な相手だと思ったのかもしれない。
「結構手こずっていると言う話だ。討伐は未だなされず、自治集落への行き来どころか、漁もままならず困っていると聞いている」
「なるほど、そこで取引というわけだな」
納得した様子のハーディにランタンは曖昧な表情を作った。
「違うのか?」
「いや。まあ、そうだよ。それも取引材料の一つ」
「一つ。ううむ、なんとも手の多いことだな」
ハーディは腕組みをして唸った。今度はちゃんと感心している。
「しかし最も重要なのははったりだ」
「はったり?」
「身体がでかけりゃそれだけ強そうに見えるだろ。矢面に立って貰うからな」
ランタンは自分の姿が相手に与える影響をよく知っている。
小さな身体はどうしても相手に舐められる。いざランタンが表立ち、魔物を討伐して差し上げましょう、と宣言したとしてそれを信じるものは少ないだろう。
ハーディはそういう確信を与える男だった。
ランタンはこの北の地ではティルナバンほど顔が知られているわけではない。
そしてリリオンの存在はアラスタ王子にどのように影響するだろうか。
こればかりはランタンにも読めないことだった。
アラスタは対巨人族の強硬派だ。
場合によってはリリオンを巨人族だと判断して、投獄される可能性だって無くはない。あるいは自治集落へ強制送還されるだろうか。それはある種、目的を達成していると言えなくもないが、もちろんそのようなことになったらランタンは全力でそれを阻止するだろう。
沸かした湯でリリオンが粥を作り、それを三人ですっかり平らげた。
十日振りのまともな食事だった。
ハーディは適当な部屋に荷物を運び込み、ランタンは迎賓館の扉という扉を開けてもっとも豪華な部屋を選んだ。
身体を投げ出すみたいにソファに腰掛けると、急に身体が鉛になったように思えた。
「ああ、風呂入りたいけど、用意が面倒だな」
「用意してきましょうか?」
「うーん、リリオンも疲れてるだろ?」
「ううん、平気よ」
ランタンの返事も聞かずにリリオンは風呂の用意のために部屋を出て行き、ランタンは一人取り残されて目を閉じた。
遠くから波の音が聞こえる。ランタンは耳を凝らした。
それはほんの数秒のことだとランタンは認識していた。
目蓋を開くとリリオンがいる。窓際で街並みを眺めている。
「あれ、……風呂は?」
「あ、ランタン起きたの? お風呂はまだ水風呂よ」
「ちょっと寝てたのか。ああ、ダメだな。風呂で寝て溺れるかも」
「うふふ、ちゃんと一緒に入ってあげるわ」
リリオンは小さく微笑んだ。
その微笑を見て、ランタンはいても立ってもいられなくなる。
「リリオン」
「なあに?」
ランタンは勢いをつけてソファから立ち上がった。一度脱いだ外衣に袖を通し、毛皮の帽子を被った。
「ちょっと海を見に行こう」
「でも、寒いわよ」
「知ってる。雪も降って来ちゃったしな。でも行こう。僕も気になる」
リヴェランドが近付くほど、リリオンは物静かになった。食事中もどこか上の空だった。
「ハーディさんは?」
「誘わないよ。十日も一緒だったんだから。ほら、ようやく二人っきりだよ」
「……うん」
リリオンは控えめに頷き、お揃いの外衣を着込み、帽子の中に髪を詰め込んだ。
大粒の雪がはらはらと降りしきる。着いた時には路面を濡らす程度だったが、今は浅く積もっている。夜通し降り続ければ、リヴェランドの街はすっかり雪に覆い尽くされてしまうかもしれない。
「うう、寒い」
街中は静まりかえっていた。
夜のせいでもあり、雪のせいでもある。
そして。海の魔物のせいで商業が停滞しているからでもあった。
外に酒を飲みに行く金もないと言えばさすがに大げさだが、このまま海が魔物に支配され続ければ、それも大げさではなくなるだろう。この地の冬は特に厳しい。
牧畜が盛んだとは言えそれは農業に比べてのことだ。最も盛んなのはもちろん漁業だった。
大山脈から海へ流れこむ栄養に富んだ川の水は魚をよく育てた。リヴェランドの海は様々な魚が捕れる豊かな漁場であり、その恩恵に与るのは住人ばかりではない。
集まった魚を求めて海獣や、あるいは海の魔物もやってくる。水棲系の魔物も漁の対象だった。そして獲ることのできぬ大型の海獣や魔物を巨人族は狩猟して、日々の糧にしている。
「ティルナバンではあんまり魚は食べられないからな」
「ランタンは、魚好き?」
「生臭くなければね。リリオンはなにが好きだった? 海の生き物」
「なにかしら。イカ、好きよ。ママが持ってきてくれたの、こーんなおっきな脚。吸盤がランタンの顔ぐらいあるの」
「ふうん、おっかねえ食い物だな。食べようとしたら巻き付いたりしないか?」
「おいしいのよ。焼いたり、スープにしたり」
雪降る夜のリヴェランドを二人して歩いた。
見知らぬ土地を歩くことは迷宮探索で慣れていたが、なんだか不思議な気分だった。
特徴的な急角度の三角屋根と、茸みたいに突き出た煙突はなんだか可愛らしくもある。幼子の夢の中に迷い込んだみたいだった。
「こっちよ」
リリオンがランタンの手を引いた。
ランタンが少し笑うと、リリオンが首を傾げた。
「リリオンに案内されてる。変なの」
「わたしだって、案内ぐらいするわ」
港へと近付く。東西に腕を広げて、海を抱きしめるような形の湾になっていた。西側は軍の管轄でありいかにも物々しい軍船が篝火に照らされて浮かび上がっていた。
東側は木造のこぢんまりした漁船が連なり、波に揺られている。
「あんまし近付くと怒られちゃうわ」
「そうなの?」
「うん」
「怒られたことあるんだ」
「……うん」
リリオンは懐かしそうに頷いた。
「今のリリオンなら大丈夫じゃない? きっと子供に怒ったんだよ。危ないぞって」
「そうだったのかしら? それならランタンは怒られちゃうね」
「なんでだよ」
少し離れた高台から、二人は真っ暗な夜の海を見下ろした。昼間なら見えるはずの巨人族の集落も、夜の闇と雪の影に隠されてまったく見えない。
リリオンは白い溜め息を吐いた。寒さに鼻先が赤くなっている。
ランタンは爪先立ちになって背を伸ばし、海に向かって指を向ける。
「あっちにあるんだ、リリオンが生まれたところ」
「うん」
「ぜんぜん見えないな。本当にあるかな?」
「うん」
なにを言ってもリリオンは頷くばかりだった。
リリオンの頬に雪が触れた。それは体温に溶けて、涙のように頬を伝った。その事にも気が付かぬようにリリオンはじっと夜の海を見つめている。
その先にある土地を。
見つめながらなにを考えているのだろう。
「リリオン」
「うん」
「ちゃんと連れていくよ」
ランタンはリリオンに寄り添った。こういう時に肩を抱いてやれぬ己の身長が恨めしくなる。
「だから、安心して」
リリオンは濡れた頬を拭った。
何度も頷いた。
夜空は雲に隠れ、月は影も形もない。雪だけが勢いを増している。
だが不思議と真っ黒な海に三日月めく光が、ぼんやりと浮かび上がった。
それは海に住む魔物の姿だったのかもしれない。
その光は夜の闇を僅かに綻ばせた。
照らされたものが、形を取り戻した。
うねる波や、波頭の白さ、岸壁にいつまでもへばりつく波の泡。
海に沈む夥しい数の雪片。
海の向こうに、リリオンの故郷がある。




