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夜寝る時、竜籠の室内を衝立で縦に区切るのは、単純に重量の均衡を保つためだった。唯一の女であるリリオンへの配慮はそれに付随して発生した要素に過ぎない。
ランタンとリリオンを合わせた体重と、ハーディ一人の体重はほとんど変わらないのではないか。閉ざされた空間の中にあってハーディの存在感は悪目立ちする。
「鎧は?」
「質入れした。前に立ち寄った時に充分懲りた。あれは初夏だったが、冬だったならお前らには会えなかっただろう」
ハーディの装備は金属鎧から、皮や鱗で作られたものに変わっている。今は片隅にまとめられているが、まるで魔物が蹲っているようだった。ティルナバンでこの男に見合うものと言えば魔物素材の鎧に違いないだろう。
しかし鎧は手放しても、剣は手放していない。
グランへ研ぎに出したという業物の大剣だった。
「見せてもらっていいですか?」
「では交換といこう」
ハーディは手を伸ばして剣を引き寄せ、リリオンも同じようにしてそれらを交換した。
衝立は寝る時や用を足す時以外は畳まれているが、目に見えぬ境界線を跨ぐことはほとんどなかった。リリオンもハーディも手を伸ばすだけで大抵ものを取り寄せることができる。
剣の大きさはそれぞれ似通ったものだった。だがハーディの剣の方が少し大振りかも知れない。
リリオンが簡素な装飾の施された鞘を払った。
よく使い込まれた剣だった。研ぎに出したばかりだというのに、それがよくわかる。両刃の直剣で鎬の所に文字が刻まれている。
リリオンが剣を上下左右に傾けてその文字を読もうとする。
古い飾り文字だった。
「未来の王、ここにあり……かしら?」
「恰好いい剣だな」
「だろう?」
ハーディが自慢げに頷く。
「貰い物だ。旅の途中で世話になった領主から頂戴した。代々伝わる竜殺しの剣だそうだ」
「それって、家宝って言うんじゃないの?」
「そうだろうな。だが剣である以上、使い手に使われた方がよいだろう。飾られるだけならばその形である意味がない。剣である以上、斬らねばならん」
リリオンに剣を渡したグランとは正反対のことを言っている。だがどちらが正しいとか、間違っているとかいうことではないのだろう。
ただランタンは呆れたように肩を竦めた。
「それ自分で言う?」
「まさか、ぜひに、と渡されたんだ。だから頂戴した。ちょうど剣も折れていたしな」
「折ったんでしょ? 竜種でも斬った?」
「いや人を五十か、百ほど」
何でもないようにハーディが答え、ランタンはいよいよ呆れ果てた。自分も似たようなことをしたことがある癖に、まったくその事を棚に上げた様子だった。
「どうしたら百も斬れましたか?」
リリオンが真面目な表情でハーディに尋ねる。
ハーディはリリオンの剣を鞘にしまった。リリオンの剣は緩やかに弧を描く片刃の剣だった。先端だけ諸刃造りになっている。
「これでも百斬ることはできるだろう。そもそも俺とお前たちでは戦う相手が違う」
ハーディが鞘の先端を摘まんでリリオンへ柄を向ける。互いに互いの剣を受け取った。ハーディはそれを脇に置き、リリオンは胸に抱えた。
「俺の相手は基本的に人だ。そしてお前たちは――」
「魔物」
「――いや、迷宮だろう」
ハーディは疎らに髭の生え始めた顎を撫でる。ぞりぞりと硬そうな摩擦音がいやに耳に響いた。
「俺は探索をしたことがないが、ティルナバンで少し過ごしてわかった。あれは俺の求める戦いとは少し違う」
「そうなの?」
ランタンは思わず小首を傾げる。
戦いへの喜びと渇望。
ハーディは一見すると一種の戦闘狂のようにさえ思う。そして実際にその強さは狂戦士のそれに等しい勇猛さだ。迷宮は彼に似合いの戦場だと、ランタンは思う。
「実のところそうなのだ」
ハーディは茶目っ気を込めて頷いた。
「結局俺の戦いはちゃんばら遊びの延長だろう。俺とお前とどっちが強いか競ってみたいのだ」
「ほう」
ランタンは挑発的に頷くとごろんと俯せに寝転がり、境界線上に右肘を立てた。ハーディがにやりと唇を歪め、同じようにする。手を握り合った。
腕相撲だ。
手の大きさは大人と子供の違いであり、足裏のように硬くなったハーディの掌は握り心地がひどく悪い。ランタンは丁度いい場所を探すように何度か指を開閉する。
「それに比べて迷宮は、ただ一方的に挑むようなものだ。競争ではない。おい、審判」
「わたし?」
急に指名されたリリオンが目を白黒させる。
「四人目はいないだろ」
「しょうがないわね」
ランタンに言われて、組んだ男たちの手に掌を重ねた。中心を取ったつもりが、少しランタン寄りかもしれない。
「手の甲が着いた方が負けよ。よおい、――はじめ!」
ばちん、と生木が裂けたような音がした。それは力の拮抗だった。
男たちの背筋が膨らみ、硬く強張る。僧帽筋に血液が流れ込み、痙攣するように震える互いの腕に血管の筋が浮かび上がった。指先は真っ赤になったかと思えば、力を込めすぎて真っ白になっている。
噛み締めた奥歯がぎりぎりと鳴る。
「ぐぐぐぐっ!」
ランタンは勝負を吹っ掛けたのにもかかわらず、少しも勝てると思っていなかった。そもそも体格が違いすぎる。あまり真面目に語りすぎると、リリオンがどつぼに嵌まって考え込みすぎてしまうから話を逸らしただけだ。
だが一度勝負が始まれば、どうしようもなく負けたくなくなるのがランタンだった。
ランタンが少し押されている。だが床まではまだ遠い。そこから先に押し込めない。
「むうぅぅっ!」
ハーディは顔を真っ赤にし、鼻と頬を膨らませている。
もちろんハーディは勝てると思っていた。しかし勝てる勝負だから、腕相撲に乗ったわけではない。そうだとしてもランタンが競い合いたい相手の一人であることに代わりはないからだった。
だが思いの外、粘られている。一気に押し込んでしまおうと圧を掛けているが、びくとも動かない。この細腕にどれほどの力があるのか。ティルナバンでは魔物の相手ばかりではなく、少しばかり探索者ともやり合った。
だがやはりこの男はものが違う。
審判を任命されたリリオンだが、やはりどうしてもランタンを応援してしまう。心の中で、がんばれがんばれ、と繰り返し、胸の前で握った手に力が入った。
「がんばって」
つい心の声が漏れた。ランタンに声は届いただろうか。押し込まれていたランタンが勝負を五分に戻した。その勢いのまま押し込もうとするが、ハーディもそれは許さない。
掴むところのない左手が五指を大きく広げて床に張り付く。
戦いの熱気が室内に満ちる。
保たれた均衡も、あと少しで崩れるだろう。力がほんの少しでも緩んだ方の負けだった。
「――報告!」
勝負の最中、突如室内に声が響き渡った。伝声管から騎手の声が転がり出す。
「前方に巨大な雲の塊が表れた。迂回する。大きく傾くから左右の壁に分かれてくれ。おい、聞こえているか?」
「ねえ、ランタン、ハーディさんも! もうおしまい。ねえ!」
騎手の声を無視して勝負を続ける二人にリリオンは慌てたように立ち上がる。伝声管に噛み付くみたいに顔を近付けて、わかりました、と返答をした。それから二人の肩を揺すった。
「おしまいだってば!」
二人して呼吸を止めて顔を真っ赤にして、今にも鼻血でも垂れそうだった。
男の意地の張り合いだった。
「もう――」
リリオンが本当に叱ろうとすると、二人は示し合わせたように手を離した。ハーディは左の壁に、ランタンはリリオンの腰を抱いて右の壁に飛び退った。
「――わあ!」
「ほら、早く固定」
驚くリリオンを余所に、ランタンは壁に備わったベルトに身体を固定し、もたもたするなと言うようにそう言った。納得いかぬリリオンが裏切られたみたいな顔をしながら渋々身体を固定した。
「もう、なんなの。勝手なんだから」
リリオンがぶつくさ言う間に、竜籠が傾く。傾きは次第に拡大し、ついに左右はほとんど上下になった。
雲塊の端を掠めたのだろうか、がたがたと大きく揺れる。遠心力に内臓が片寄るのを感じた。
ハーディが下で、ランタンとリリオンが上だった。リリオンの長い髪が垂れ下がった。
「もうちょっとで殺し合いになるところだよ」
「まったくだな」
男二人が冗談を交わした。互いに痺れる手を握ったり閉じたりしている。この傾きが収まれば、再び戦いが始まるだろう。
「まあ、それはそれで旅が広々としていいけど」
「未亡人にしてしまっては申し訳ない」
「あ?」
「ん?」
視線が交わる。
冗談とも本気ともつかぬ好戦的な視線の応酬は、言葉少ない分だけ本気のようにも思えた。
「――ふたりとも」
ランタンはリリオンの方を向いた。髪が少女の表情を覆い隠している。
「頭を冷やすならあっちよ」
そう言って竜籠の扉の方を指差した。
外は飛ぶ鳥さえ凍り付く零下である。
顔が見えぬだけで冗談とも本気ともつかず、それはそれで恐ろしい。
男たちは黙り込んだ。
竜籠の旅はほとんど寝て過ごした。
時折小さな窓に顔を寄せて外を眺めるが、角度のせいもあり地上を見下ろすことはほとんどできないし、星を見上げることもできない。
旅は順調だった。空を飛ぶ魔物に襲われることもなければ、雷の巣のような乱雲に包み込まれることもない。
しかしひどい寒さだけはどうすることもできない。
カードでは勝ったが、サイコロ遊びでは負けたので、ランタンは汚れ壺を抱えて扉に近付く。
食べなければ生きてゆけず、食べたからには出るものは出る。
生物である限りこれはどうしようもないことだった。
扉の下方にある小窓を開けると、室内の暖かな空気が一気に吸い出され、痛いほどの冷気が入り込んでくる。
「おい、早くしろ。凍える」
急かすハーディを無視する。反応する時間さえ惜しかった。
ランタンは壺の蓋を開け、その中身を投下した。それは一瞬にして凍り付き、寒空に吸い込まれていった。水で壺の内部を軽くそそぎ、それをまた空ける。
それこそ壺に不定型生物でも詰めておけばいいのではないかという考えが湧いてくるが、館で飼っている個体に名前をつけてしまったせいで、そんな風に思った自分がひどくいやな人間に思えた。
小窓を閉め、壺に消臭用の炭や灰を放り込み、蓋を閉める。
それを室内の片隅に戻した。
「ご苦労」
「ああ、指痛い」
臭いだの汚いだの言うよりもまず寒さが堪えた。体温が一気に奪われて、指先がどうしようもなく悴んでいる。ランタンは指先を内股に挟んで暖めようとしたが、身体はどこも冷えている。せめて身体を揺らした。早く温かくなるように。
「旅には慣れているつもりだったが、七日ともなるとさすがに身体が鈍るな」
ランタンは室内で大きく背伸びができるが、リリオンとハーディは頭をぶつけてしまう。
空間を広く取ればそれだけ空気抵抗が増し竜種の負担となるからだ。竜籠の旅はあくまでも早く到着するためのものであり、快適性は二の次だった。
最大限速さを求める場合は、籠は棺桶のように小さくなる。
「予定ではあと三日。飲まず食わずの竜種や、身体も拭けない騎手に比べたら天国だろう?」
ハーディはサイコロをしまった。勝ち逃げだったが、ランタンは文句をつけなかった。
「六ヶ月も旅してきた道のりがたった十日なんだ」
「ううむ、それもそうか。贅沢にはそれはそれで悩みがあるものだな」
リヴェランドからティルナバンへのハーディの旅は六ヶ月にも及ぶものだった。もちろん真っ直ぐに来たわけではなく方々に立ち寄り、戦いあれば首を挟み、立ちはだかるものがあれば斬って払うような旅であった。
「より強い敵と戦いたいって、それこそ贅沢の極みだろう」
「む、そうか?」
「そうだよ」
ねえ、とランタンはリリオンへと首を回した。
「どうかしらね。さ、もう寝ましょう。寝て起きれば、もうあと二日よ」
リリオンは気の利いたことを言い、二人に熱々の茶を振る舞った。たっぷりの砂糖を溶かした紅茶である。ランタンは悴んだ指先を暖め、ゆっくりとそれを味わった。
ハーディは蒸留酒を少し混ぜると、それを一息に呷った。髭を濡らした雫を荒々しく拭う。
「美味かった。悪いな。衝立の用意は俺がしよう」
そう言ってからのカップをリリオンに渡すと、窮屈そうに腰を屈めたまま折り畳まれた衝立を広げて、室内を区切った。
リリオンはハーディの姿が見えなくなった途端に、ランタンを後ろから抱きすくめる。膝の上に抱え、頷に顔を寄せた。
「どうした?」
「……うん」
リリオンは呟いて、返事はそれだけだった。
ランタンはリリオンに抱えられたまま茶を啜り、少女の身体に体重を預ける。身体がぽかぽかと温まり始める。リリオンは背中を丸めるように、すっかりとランタンを抱き込んでいる。
「あと二日だよ」
「……まだ三日でしょ?」
「どっちもかわらないよ」
会話は小声だった。衝立は姿を隠すが声を遮るほどではなかった。聞かれて問題のあるような会話ではなかったが、自然と声は小さくなった。
リリオンの吐息が項を湿らせた。
ランタンは飲みきったカップを置き、後ろ手にリリオンの髪に触れた。竜籠では風呂に入るなんてことはできるはずがない。手櫛で髪を梳かしてやると、さすがに指通りが重たい。脂っぽくなっている。
「リリオン、綺麗にしてあげる」
「うん」
ランタンはリリオンから離れ、小振りな水精結晶を砕き、桶に水を張った。あまり並々とそそぐと竜籠が揺れた時に零れてしまう。
ランタンは拳を握り、力を込める。爆発の衝撃を手の中で握り潰し、残ったのは炎だけだ。その炎を桶の中に落とした。炎は不思議なことに、水の中でも燃えたままだった。
ランタンは腕まくりをすると炎の沈む水の中に手を入れて、ぐるぐると掻き回した。やがて湯気が上がった。散り散りになった炎が湯の中でくるくると回転し、中央に集まった。
リリオンは諸肌を脱いだ。冷気が触れられた肌が粟立っている。胸を隠すように前で腕を交差し、背中を向ける。
濡らした手拭いを絞り、ランタンはその白い背中を拭った。腕を取り、長い腕を丁寧に磨く。腋に触れるとリリオンは逃げるように身を捩ったが、ランタンは腕を掴んで引っ張った。
「ほら、前向いて」
「前は自分でやるわ」
「いいから」
リリオンを正面に向かせる。
昔は逆だった。ランタンの方がむしろ恥ずかしがって、リリオンはお構いなしだった。
視線が絡ぐとリリオンは恥ずかしそうに眼を伏せて、それからランタンの背中の向こうにある衝立をちらちらと窺った。
「覗くぐらいなら押し入ってくるようなやつだよ。ほら、背筋伸ばす。隠さないで」
ランタンが指先でリリオンの顎に触れると、リリオンはゆっくりと丸まった背を伸ばし、喉を晒すみたいに顎を上げた。目を閉じる。重なり合った上下の睫毛が扇のようだった。
首に触れるとびくりと身体を震わせた。
呼吸に合わせて胸が膨らむ。ぺたんこの腹に、控えめな臍が窪んでいる。
身体を拭うほど、肌が朱に染まった。
「寒い?」
「ううん、――大丈夫」
「よし、綺麗になった。もとから綺麗だけど」
「そんなこと、ないわよ。だってわたし、ガイコツみたいだったもん」
「もう忘れたよ」
「ほんと?」
「嘘」
「うう、本当でいいのに」
ランタンは手拭いを桶に放り込む。
「次はわたしがやったげる」
「いいよ、って言っても無駄だろうな」
「もちろん」
リリオンは寝衣を羽織り、ランタンは脱いだ。
やり返すみたいにリリオンがランタンの身体を拭った。手拭いが触れた瞬間は温かいが、すぐに冷たさがやってくる。
「寒くない?」
「いや」
だがリリオンがそう答えたみたいに、ランタンも答える。
「んふふ、ぴっかぴか」
ランタンをすっかり磨き尽くすとリリオンは嬉しそうに囁いた。すぐにランタンに寝衣を羽織らせる。前を合わせて、腰紐を結んだ。
「ああ、さみぃ。さっさと寝よう」
「桶の水捨てないと」
「いいよ、こぼれたらそん時だ。向こう側に置いておこう。ハーディの方に」
「――聞こえてるぞ」
「捨てるか。一瞬、扉開けるよ」
桶の水はもうすっかり冷めてしまっている。一晩経てば氷が張る。床に零せば霜柱が立つ。
ランタンはリリオンを寝床に押し込み、扉を少しだけ開けて水を捨てた。宝石を捨てたみたいに、水は氷の粒になってきらきらと光り、そして闇の中に呑まれた。室内は再び冷気に満たされた。
扉を閉め、しっかりと鍵をかけるとランタンは急いで寝床に潜り込んだ。トナカイの毛皮の敷物はリヴェランドを擁する北方から取り寄せたものだった。さらさらした長い毛足が肌に触れるのが気持ちいい。
そこだけはリリオンの体温で温められている。
リリオンがすぐにランタンを引き寄せて、自分の足の間にランタンの両足を挟み込む。
氷のように冷たい足を自分の体温で温めることはリリオンに満足感を与えた。
「ああ、リリオンはあったかいな」
ランタンは夢見心地でうっとりと呟く。
「ランタンも、あったかいわよ」
分け与えた体温はすぐにランタンに馴染んだ。
「……あ、雲の上に出たな」
月の光が小窓から差し込んで、室内を驚くほど明るく照らした。
リリオンの髪が月光に染まる。ランタンは眩しそうに目を細める。月の光はランタンの表情をはっきりと照らした。
「明るい? 布、かけてこようか?」
「いいよ、このままで」
身体を起こそうとしたリリオンを引き止め、そのままよりいっそう抱き寄せた。
リリオンはすぐに身体から力を抜いた。大人しくランタンの隣に横たわる。
「おやすみ、リリオン」
「おやすみなさい、ランタン」




