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「芳しい返事ではなかったな」
アシュレイは執務机に手紙を伏せ、冴え冴えとした眼差しをランタンとリリオンへ向けた。リリオンは緊張した様子で、膝頭を合わせた内股になって座っている。
手紙の主は軍港都市リヴェランドの王権代行官にして、アシュレイの腹違いの兄、第五王子であるアラスタだった。
歳も離れていれば、母親も違うアシュレイとアラスタの間に血縁以上の関係性は稀薄だった。年に一度、新年に行われる父王への挨拶の折に顔を合わせるぐらいで、何年も言葉を交わさぬことも珍しい話ではない。
その程度の関係だ。
「まあ、予想はできたことだ。リリオンも気を落とすな。――いや、返事が返ってきたことは予想外のことだったな。ならばこれは僥倖かもしれん」
巨人族の集落への渡航許可を求める手紙に対して、返ってきた手紙は難色を示すものだった。
もっともな返事だった。
渡航を求める理由は、完全な私用である。
一人の探索者が自らに相応しい武器を、その素材を求めて巨人族の集落へ行く。これを私用と言わずして何と言うのか。
そしてそのために軍船を使わせてくれという手紙は、目を通した途端に破り捨てられてもおかしくはない内容だった。
一人の騎士が、ハーディは己の武勇を試すためにアラスタ王子に直接の面会を求めて、実際に王子に対面している。だが彼の陳情は一蹴された。
それももちろん当然の結果だった。
そういうものだった。
そういう騎士や戦士はその実、多くいた。
かつては、その意気や良し、と盛大に送り出したこともあったようだが、一人として巨人に勝利したものはいなかった。
多くの名のある騎士を失い、やがてその損失は無視できぬものと考えられた。彼らの無謀を諦めさせるために許可は与えられなくなり、それでも諦められぬ力自慢が小舟で荒波に挑み命を落としたり、軍船への密航を試みて捕らえられたりしている。
抵抗でもしようものなら凍てつく海に叩き込まれた。
しかし無事辿り着けたとしても、彼らの望みは叶っただろうか。海兵に捕らえられる時点で結果は決まっているようなものだった。
「ご配慮に感謝を」
「構わん。良きに計らえ」
ランタンの謝辞に、アシュレイは女王然として鷹揚に応える。ティルナバンの王権代行官の職に就いてからアシュレイは日に日に貫禄を増しているように思えた。
それは戯れじみた振る舞いだったが、すっかり様になっている。
アシュレイは表情を柔らかく崩した。
「二人には世話になっている。一筆書くぐらいはどうと言うことはない」
「ダメ元でしたが、やっぱりダメでしたね」
「ああ、だが――。リリオン、そのような顔をするものではない」
自分の力ではどうにもならぬ事に対する無力感に、リリオンは肩を落とした。
故郷が遠い。
それがどのような気持ちなのか、ランタンには理解できた。ランタンは自らの出自について、もうはっきりと確信を抱くことはできない。だが、この世界ではない世界こそが自分の世界だと、そう確信を抱いていたかつての気持ちは本物だった。
さみしく、心細く、不安な気持ち。
「返事が返ってきたことも予想外なら、内容もそうだ。芳しくない返事だが、断固たる拒否ではない」
アラスタ王子は強硬な対巨人族派の人間だと認識されている。
長くリヴェランドの王権代行官を務めているのだから無理もないだろう。かの種族の危険性を間近で見続けてきたのだ。巨人族というものの恐ろしさを、最もよく理解する人間の一人だった。
巨人族の極北の地への封じ込めは、絶滅政策に等しい行いだ。そして昨年の巨人族との決闘の開催にも、彼は最後まで反対してきた。
一人でさえ、もし巨人族が本気を出して暴れたらこれを止められないと考えたのかもしれない。
「なにか心変わりでもあったのか――」
「リリオンの戦い振りに感銘を受けたのかもしれないよ」
ランタンはリリオンの顔を覗き込んでそう言った。
ランタンもその一人だった。
生きることは戦いだった。
きっとこの少女に出会わなければ、ランタンはまだ独りで迷宮を探索していたかもしれない。あるいは既に未帰還になっていただろうか。誰を愛することもなく。
ランタンはリリオンに自分が変えられてしまったという自覚があった。それもかなり強引に、もう到底戻しようもないほどに。
「ランタン。わたし、それでも行きたい」
「もともとそのつもりだよ」
「――一緒に来てくれる?」
ランタンは当たり前に頷き、それからリリオンの柔らかな脇腹を噛み付くみたいに鷲掴みにしてくすぐった。
「きゃんっ!」
リリオンは身を捩って逃げ出し、危うく椅子から転げ落ちるところだった。弾みで蹴飛ばされた机がずれ、アシュレイが驚いた。
リリオンが助けを求めるみたいに手を伸ばした。ランタンはそれを握り締め、力強く引き寄せる。
「来るなっていわれても一緒に行くよ。行くから、リリオンの故郷に」
故郷。
その言葉にリリオンの身体が震えた。
ランタンは少女の背中を優しく撫でた。
探索者のよく鍛えられた背中であるのに、ふとした時に年相応の華奢な感覚が掌に蘇った。
リリオンはランタンのことが大好きで、ランタンはその事を自覚していた。
少女の行動原理が、自分にあることを恥ずかしげもなく確信している。
かつてリリオンが力を求めた理由は復讐や、まさしく生き残るためだった。
そして今のリリオンも、まだ力を求めている。
その理由は明白だった。
リリオンは探索者ランタンのために迷宮での力を求め、そしてそのためにランタンを付き合わせる本末転倒に躊躇いを感じているようだった。
もちろん様々な思いを残してきた故郷への、複雑な心境も少女の心を揺さぶっている。
リリオンが故郷を思う時、そこにはいつも母親との美しい思い出があり、そして温もりを失い孤独となった暗い思い出があった。
行きたいと口に出したが、同じぐらい行くのを恐れているのだろう。
ランタンはずれた机をよいしょと直す。
「行かなければならないと、やはり思います」
ランタンはアシュレイに向けてはっきりと言った。リリオンの恐れを理解した上で。
「そうか」
「はい。迷宮は人の心に応えると、特に僕の要求には応えてくれるとそういうことを言う奴もいますけど、やっぱりそれは確実ではないように思います。偶然の一致を必然と思うだけで」
ランタンは指折り攻略した迷宮の数を数えた。
リリオンの望みは、ランタンの望みも同然だった。
「求めましたが巨人鋼は結局、迷宮から産出されることはありませんでした。与えられることを待っては、本当に欲しいものは得られないのかもしれない」
「積極的だな」
かつてのランタンを思い出したのか、アシュレイが笑った。
迷宮か、人か、はたして変わったのはどちらだろうか。
アシュレイの視線が天井を見上げた。
「ランタンもあれに影響を受けたのか?」
あれ、とはハーディのことだった。
アシュレイの耳にも、かの騎士のことは既に届いているようだ。
ハーディは既に多くの探索者からその力を求められるような存在になっていた。
迷宮崩壊戦に参加して示した圧倒的な武勇は、ともに肩を並べた探索者を驚かせるものだった。
実体を持たぬ悪霊を切り伏せ、鱗を持つ獣を打ち倒し、人の似姿をした怪物を叩きのめした。
探索者ギルドも酒場も突如現れた、文字通りの大型新人の話で持ちきりだった。
底の知れなさは得体の知れなさと同意だった。あれは何者かと想像させるに足る人物だった。
彼はこの迷宮都市で、迷宮を探索することなくその力を探索者に認めさせた。
認めざるを得なかった。
ともに探索へ行こうという誘いを断るのになかなか苦労をしているようだ。顔を合わせればおちおち酒も飲めないと困ったような、楽しむような顔で愚痴っている。
彼はもうすでにランタンの世話にはなっていなかった。寝床に頓着する質ではないようで安宿に泊まっていた。むしろ彼の馬の方がいい寝床で寝起きしている。ランタンの口利きでネイリングの厩に預けていた。
「さて、どうでしょうか」
ランタンは曖昧に笑ってはぐらかした。
仮にハーディがいなくても、ランタンは巨人の集落へ向かった。
だがあの男がともに行くことが、心強さを与えたのは事実だった。
「でも、どうやったらお船を貸してくれるのかしら。一所懸命にお願いしたら、お願いを聞いてくれるかな?」
「僕だったらほいほい聞いてあげるけど、まあ難しいかもしれない。だから搦め手を使う」
「からめて?」
「そう、ちゃんと考えてるから安心して」
ランタンは頷いて、口元に悪戯な笑みを浮かべる。
悪巧みをする男たちを、アシュレイは嫌と言うほど見てきた。彼女が議会で顔を突き合わせ、日々戦っていると男たちがふいに浮かべる笑みだ。だが彼らのようないやらしさが、ランタンにはなかった。
彼がまだ若い男の子だからだろうか、それとも一人の探索者だからだろうか。
それともその企みが自分自身のためのものではないからだろうか。
リリオンはその笑みを見て、勇気づけられたようだった。
うん、とはっきり頷いた。
ランタンはランタンで様々な伝手を使ってリヴェランドのことやアラスタ王子について調べていた。そして既に動き始めている。
例えば各ギルドはそれぞれの支部と積極的に情報交換をしている。特に商業ギルドの情報網は侮れない。行商人たちは商品と一緒に情報を運んでくる。情報は荷物にもならず、税もかからない。だが情報は金を生み出すものだった。
金の流れは、その都市の状況をありありと浮かび上がらせる。
ランタンが頼ったのは商業ギルドではなく、商工ギルドのエーリカだった。
レティシアにも情報収集と現地工作を頼んでいる。ネイリング領はティルナバンよりも遥かにリヴェランドに近い。
「悪巧みか?」
「人聞きの悪い。悪いことなんてしませんよ」
ランタンはまったく悪い顔をしてしらばっくれた。
いっそ露悪的な振る舞いにアシュレイは苦笑を禁じ得ない。
「政治家は人気商売だから大変ですよね。ご機嫌取りにはお金がかかるし」
世間話のようにそう言ったランタンにアシュレイは大いに頷いた。
世論の誘導は、権力者を動かす第一歩に相応しい。
「ローサ、おるすばんしてる」
ランタンとリリオンが一つのベッドに並んでいると、ローサがやってきてそんなことを言った。廊下から差し込む光が逆光になってローサの表情は見えない。
ローサが扉を閉めると室内が闇に沈む。炎虎の被毛が蓄光じみて微かな光を放った。
ローサは猫の身軽さでベッドに飛び乗り、二人の腹の上にその巨体を横たえた。瞳が輝く。覗き込んでくるローサの顔に、ランタンは手を伸ばした。
柔らかな頬に掌を押し当てると、妹は甘えるように擦りつけた。
「真ん中においで」
ランタンが言って、リリオンが布団を持ち上げる。
ローサは頭からベッドに潜り込み、どたんばたんとでんぐり返しをして、ぬっと顔を出した。
「お留守番、本当にするの? わたしたちが帰ってくるの、遅くなっちゃうかもしれないのよ」
闇の中でリリオンは心配そうに語りかけた。
この妹が寂しがり屋だと言うことはよく知っていた。
だがローサはしばらく黙り込んでから、うん、と頷いた。蚊の鳴くような声だったが、はっきりとした頷きだった。
「だってね、ローサもいっしょにいっちゃったら、ゆーれーずっとひとりぼっち」
ローサはそう言った。
ガーランドはリヴェランドの出身とも言えた。
ガーランドからもリヴェランドの情報は多く得ていた。都市内の情報はそれほど有していなかったが、ガーランドは近海の情報を有していた。身を以て集めたその情報は黄金ほどの価値がある。
彼女がともに来れば心強いだろう。
だがガーランドはリヴェランドの漁船や軍船を相手に海賊行為を行った過去があった。そして捕らえられ、処刑の代わりに対巨人族との決闘の場に引きずり出されそうになったのだ。
アラスタ王子からしてみればどちらが倒れても得だった。あるいはガーランドの負け、その死を以て巨人族の危険性を改めて周知する意図があったのかもしれない。
だが結局戦いの舞台に上がったのはリリオンだった。
ガーランドはアラスタ王子の思惑の中から逃げおおせ、ランタンの下でメイドとして働くことになった。
リヴェランドでガーランドは札付きだった。少なくとも本人はそう言っていた。
私が行けば迷惑をかける、と。
もしランタンとリリオンと一緒にローサもリヴェランドへ行けば、ガーランドは一人で留守番をすることになる。ガーランドからしてみれば、一人でいることなどまったく問題にならないだろう。むしろ気が楽になるかもしれない。
だがローサは自分のことのように、そのさみしさを心配しているのだった。
「ガーランドは大人だから、一人で留守番をしても寂しがらないと思うよ」
「――ほんと?」
「たぶん」
真っ直ぐな視線がランタンに向けられた。闇の中でも真っ直ぐだとわかるような眼差しだった。
ローサは念を押すようにランタンに尋ねる。
「おとなになったら、ひとりぼっちでも、さみしくならない? へいき?」
「……そんなこともないか」
ランタンは言いくるめられるように、溜め息とともにそう吐き出した。
「でしょお!」
ほら見たことかと言うようにローサは布団の中で駆けるように足を動かした。
「もっとぎゅってして、――ぎゅって、して!」
そして左右の兄姉を引き寄せて、思いっきり抱きしめてもらう。
「だから、ローサおるすばんしてるから、おにーちゃんと、おねーちゃんは、ふたりで探索してきて。ローサ、もう探索者だから、おるすばんへーきだから」
旅に出ることを、あるいは泊まりで出かけることを、ローサは探索に行くことだと思っているのかもしれない。
抱きしめられてローサは照れくさそうに笑う。ランタンとリリオンはようやく闇になれ始めた視線を絡め、笑い合った。
「本当にお留守番できるのかしら?」
「できるよ!」
「こんなに甘ったれなのに?」
「ゆーれにぎゅうしてもらうもん!」
むきになって身体を揺する妹を、二人はことさら力一杯抱きしめた。そして押しくら饅頭でもするみたいに、身体を押しつけ合った。布団の中かがむっと熱を持った。
「あうう、くるしい……」
ローサがそう言っても離してやらなかった。
「できるだけすぐに帰ってくるからね」
「……うん」
ローサはリリオンの胸に顔を埋めた。
頭上の虎耳がゆっくりと動いた。リリオンは妹の頭を掻き抱いた。蜂蜜色の髪をリリオンの指が優しく梳るのをランタンは見つめた。
「お土産はなにがいい?」
「……くじら」
「くじらって、あのくじら?」
「くじらっていう、おおきなおさかながいるって、ゆーれーがいってた。おくちがこおんなにおおきくてー、なんでもぜんぶ、たべちゃうんだって」
ローサは眠たげに呟いた。
「くじらね、うーん、持って帰ってこられるかしら? こーんなにおおきいんでしょう?」
耳の動きがもっとゆっくりになった。
「じゃあ、さめ」
「あんまり重たいものだと、帰ってくるのが遅くなっちゃうかもしれないわ」
「うー……ん……。じゃあ、いい。すぐ、かえって、きてね」
寝言みたいにローサはそう言って、ほどなくリリオンの胸を枕に寝息を立て始める。眠りながら、時折足を動かした。夢の中で鯨や鮫と泳いでいるのかもしれない。
それからしばらくローサを撫でていたリリオンは、やがてふっと口元を緩めた。
「ローサは、なんだか大人みたいね」
しっかりとローサを抱きしめたままリリオンが言った。
ローサと大人。
その言葉の対比にランタンは笑うよりも呆気に取られた。
「そうか?」
「そうよ」
リリオンが欠伸をする。
「だって、わたしの方が、なんだかわがままばっかり」
大きな欠伸の果てに、リリオンの方こそ大人びた微笑を浮かべたのがランタンの視界に映った。
その微笑は眠たげに目蓋を閉じて嘘のように失われた。
「それを言ったら僕はどうなるんだよ」
ランタンは言って目を閉じた。
誰も見ることのない三人の寝顔は、どれも大人の寝顔ではない。




