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兎を咥える猟犬が意匠された看板が風に揺れている。
扉には兎の真白い頭蓋骨が飾られていた。それは握り拳よりも小さく、薄っぺらだった。
これで店名を賢い兎亭と言うのだから趣味が悪い。
ランタンが店に入ると、昼飯にはまだ早いが食事を摂る客たちで席の半分ほどが埋まっている。彼らは入ってきたランタンをちらりと振り返ったり、視線を寄越したりするが、すぐに興味を失って提供された料理に注意を戻した。
「らっしゃい!」
客と客との間を行き来する年増の女が威勢のいい声を掛けて笑顔を浮かべる。
だがランタンのすぐ後ろからリリオンが、そしてローサがぬっと入ってくると店内の視線が再び、一斉に集まった。ざわっと店内がざわめき、息を呑むような沈黙が広がる。
店の奥で飼育されているのだろう猟犬がわんわんと吠え立てている。客たちは沈黙し、身動ぎもせず、山奥で熊と遭遇したかのように気配を殺している。
「いい?」
ランタンは店内に満ちた不穏な緊張を一顧だにせず、片隅の席を指差しながら驚いた様子の年増女に声を掛ける。
「――どうぞ」
促されて、ランタンは友好的な笑みを浮かべる。
「椅子借りますね」
ランタンはきょろきょろするローサを奥に押し込み、使われてない椅子を一個足して、三つ並べた椅子に妹を座らせる。
「兎のシチューと、あと軟骨とお芋、お酒を下さい」
リリオンが調理場からこちらを覗いている店主に声を掛ける。
店主と年増女は夫婦のようで、奥から聞こえる騒ぐ猟犬を宥める声は息子のものだろう、まだ声変わり前だった。
例外なく驚きに満ちた店内は速くも落ち着きを取り戻し始めている。
ローサの姿はやはり、急に目にすると驚くべきものだったが、その驚きは長く続く類いのものではない。
探索と称してよく散歩しているローサを街の人はよく目にしており、人懐こい虎の少女は有名だった。
ローサは魔物ではなく人である。当たり前のことが知られている。
ただ外で見るとの室内で見るのでは印象が異なるのも事実だ。
半身が炎虎のローサの巨体を室内で見ると、一回りも二回りも大きく見える。そして場所を同じくすると、その圧迫感たるや猛獣の檻に閉じ込められるも同然だ。
だがその猛獣には二人の探索者が寄り添っている。
それはローサよりももっと有名な二人だった。
リリオンもローサと同じように一目見て忘れられないような姿をしている。
角まで含めればリリオンよりも長身の人々はまだ少なからずいる。だが一際に頭抜けた長身は、半身が虎であることと同じぐらい印象深い。少女に巨人族の血が流れていることを直感的に納得させる。
そんな二人に比べればランタンは地味なものである。
どこにでもいそうな子供だった。彼について多く語られる武勇伝とは、まったく結びつきがたい姿だ。だが話とかけ離れているがゆえに、より得体の知れなさがあった。かつては侮りを生んだが、今は底知れなさがある。
客は料理から湯気が失せるのも気にせず、それを口に運ぶこともなく、ちらちらと三人の席を気にしている。
視線には気付いていたが、それを無視する。
「うろうろするなよ。他人の食事の邪魔になる」
「あれなに?」
「人の話を聞け」
ランタンはローサの首に前掛けをかけてやる。ローサが指差したのは壁に飾られた兎の尻尾だった。白色や薄茶色、黒色の尻尾が星取り表のように壁に並べられている。
「兎の尻尾だよ」
「なんで?」
「なんでって、ふわふわしてるからじゃないか」
「はー」
ローサはさっそく席を立ってそれを触りたそうにしたが、ランタンの一睨みで大人しくなった。だが大人しいのも一瞬のことで、すぐに背伸びするみたいに背筋を伸ばしてきょろきょろと視線を彷徨わせる。
他の客のテーブルの上にある料理や、熱気とかぐわしい香りが漂う調理場や、猟犬が吠える店の奥がどうしても気になるらしい。
躾けられた猟犬がこれほど騒ぐのはローサの気配のせいか、それともランタンの気配のせいかどちらだろう。
ローサは屋台で買い食いをすることはあっても、こういう店に入るのは初めてのことだった。
この場で視線を気にせず、物怖じせずに色々なものに興味を示せるのは、リリオンに巻いてもらった髪型がローサに勇気を与えるからだった。
手にした槍や、身につけた鎧と一緒だった。工房で研いでもらった槍の穂先は新品のようにぴかぴかしている。巻いてもらった髪はまだしっかりと波打っていた。
「はい、おまたせ」
程なく料理が運ばれてきた。
名物の兎肉の煮込みは鍋ごとテーブルの真ん中に置かれる。他の客はちゃんと一皿一皿提供されているが、ランタンはさておいて、二人は見るからによく食べそうだからだろう。
褐色に煮込まれたスープの中には根菜がごろごろしている。内臓を丁寧に取り除き、骨ごとぶつ切りした兎肉が一緒に煮込まれており、芳醇で甘い香りが湯気に燻っている。
ローサが音を立てて唾液を飲み込んだ。
芋と軟骨は油で揚げたものだ。皮ごと揚げて塩胡椒を振っただけのころころした小さい芋と一緒の皿に、皮を剥いだ兎の耳が並んでいる。
それは幅広で、厚手の笹の葉のようだった。こちらも油で素揚げにしてある
「初めて食べるな、兎の耳」
言いながらランタンはリリララの耳に悪戯をしたことを思い出した。あれは唇で食んだだけ。そんなことを考えながら揚げ耳軟骨の尖った先っぽに小動物のように齧り付いた。
兎の耳は軟骨を主体に構成されているが、うっすらと肉に覆われている。それは筋肉だった。だからこそ兎の耳はぴくぴくと自在に動くのだろう。
ぶつと繊維を断ちきるような歯触りと、こりこりした軟骨の食感が面白い。塩気と一緒にきちんと肉の味も感じられた。血の味だろうか、独特の風味が強い。肉が厚く付いているところと、薄く付いているところで軟骨の食感が変化する。薄い部分はよく揚げられていてさくさくした軽い口当たりだった。
「これはお酒のあてだな」
ランタンはそう言って淡く緑に色づいた自家製酒を口に含んだ。薬草の風味が強い辛口の酒だ。思わず顔を顰める。
「あぁ、これは好き嫌いがあるな」
口直しに残った耳軟骨をしゃぶった。
リリオンなんかはこういった酒を平気で嗜む。コップの半分を口の中に放り込むみたいにしてけろりとしている。ランタンはほとんど減っていない酒のコップをリリオンの方へと押しやった。
そんな兄姉の姿を右に左に視線を動かしながら見ているローサに兎の煮込みを取り分ける。玉じゃくしでぐるりとかき混ぜるだけで、骨から肉が外れた。ローサは並々とよそわれる皿に目が釘付けになった。
「たべていい?」
「召し上がれ」
ローサは目一杯深呼吸をして店中に響き渡るような、いただきます、を宣言する。
皿に顔を突っ込むみたいにシチューを掻き込んだ。まるではやく食べろと誰かに脅されているみたいに必死だった。
リリオンがランタンに、そして自分の分をよそう間にすっかり食べ終わって二杯目を要求する。
「ちゃんと噛みなさい。身体に悪いわよ」
リリオンが要求に従いながら小言を言う。ローサは頷いて、言われた通りによく噛んだ。混ざっていた骨がばりばりと音を立てる。
「美味いなあ、これ。今度、家で作ってよ」
兎の肉は柔らかく、しっとりとした食感だった。脂っ気はなくて、耳肉と同じで血の風味が感じられたが、甘みもある。一緒に煮られた根菜類にもよく味が染みていて、赤蕪はとろとろしている。
「まかせて。じゃあ兎つかまえてこないと」
「リリララ、大人しく鍋に入ってくれるかなあ」
素知らぬ顔でランタンが言うとリリオンは笑った。
「迷宮兎でもできるかしら」
昼食時が近付くほどに、客入りが増えてゆく。
大人しくしていてもランタンたちはやはり目立ち、客は見つける度にいちいち驚いた様子を見せた。
鍋を持参して、これに煮込みを入れて持ち帰っている人の姿もあった。若い男がほとんどで、おそらく近場で働いている職人見習いが買い出しを任せられたのだろう。
客の中には兎人族もいる。耳軟骨を肴に、美味そうに酒を喰らっている。
今ではもう慣れたが、ランタンは最初の頃、こういった光景を見る度に奇妙さや、不安を覚えていた。兎人族が兎を食べたり、牛人族が牛を食べたりすることに。
だが人は人、獣は獣。
そして亜人族は人である。いちいち言うまでもなく。
「ローサ、口」
ランタンが言うとローサは汚れた口を突きだした。ランタンはローサの胸元を守った前掛けを剥ぎ取り、乱暴に唇を拭った。満足そうに笑むローサの視線がふいに厨房を覗いた。
顔を半分だけ出して、男の子がこちらを見ていた。
店主の子供だろう。十に満たないだろう少年だ。犬が吠え止まぬので助けを求めに来たらしく、ランタンたちがその原因だと教えられたのか怖々と、けれど興味津々といった感じで盗み見ている。
ローサと目があって照れくさそうにしたかと思えば、ランタンが振り返って料理場に隠れてしまった。
「嫌われてしまった」
「そんなことないわよ」
さして傷ついてもいないランタンをリリオンが慰める。
鍋をすっかり空にして、ランタンの飲み止しの酒をリリオンが飲み干すと三人は席を立った。すっかり満腹だった。
ランタンが女に代金を払っている間中、女の脚に先程の男の子が隠れるようにしがみついていた。
嫌われてはいないのだろうが、なんとなく怖がられているような感じがしたのでランタンはその子を意識的に視界から外した。
ランタンが支払いを終え店から出ようとすると、小さな手が外套を握っていた。
「探索者の、ランタンですか? ほんものですか?」
恐る恐るといった感じで子供が尋ねる。ランタンが視線を向けると、子供はぱっと手を開き外套を手放し、もじもじとうつむいた。ランタンは思いがけず戸惑い、そうだよ、とぶっきらぼうに返す。
単純な驚きだった。子供は目も口も、鼻の穴もまん丸にした。
なんなんだ、と思いながらランタンは店を出る。
リリオンが扉を開けて待っていた。秋風が店内を混ぜっ返す。
早く閉めろ、と文句の一つを言われてもしかたがないが、誰も何も言わなかった。酒と料理で身体が温まっているからかもしれないし、この三人に文句を言うような命知らずがいないだけかもしれない。
最後にもう一度振り返る。子供は女に、母親にしがみつき、ぴょんぴょんと飛び跳ねていた。その気配を察したように猟犬たちがけたたましく吼える。
扉が閉じる。
「ありがと」
ランタンは扉を支えてくれていたリリオンに礼を言った。
リリオンは扉に遮られた向こう側にいる、子供をじっと見ていたのかもしれない。ランタンの言葉にはっとしたように反応して、小さく頷いた。
「美味しかったわね」
「うん、当たりだったな。さすがはミシャのおすすめだ」
リリオンは微笑みながら、ランタンの首にマフラーを巻き直した。食事のおかげで身体は温かかく、その必要を感じなかったがランタンはそれを巻いてもらった。外套の前を閉じず、秋風に身体を当てながら三人はティルナバンの街を腹ごなしに散歩した。
先頭のローサはいつの間に拾ったのか木の枝を振り回しておりご機嫌な様子だった。背負った槍を街中で振り回すよりはましなのでそのままにさせておく。
「あの子」
急にリリオンが言った。
「お料理屋さんの子、将来は探索者になるかもしれないわね」
「なんで」
「だってランタンのこと、きらきらした目で見てたもの」
ランタンは顔を顰めた。相変わらずのランタンの反応にリリオンは苦笑する。
「あんな甘ったれに探索者がつとまるかな」
「あら」
リリオンが意味深にランタンを見つめた。リリオンは甘ったれなランタンを知っていた。けれどそれをいちいち口には出さなかった。自分もそうであることを自覚していた。
母親にじゃれつく子供。
閉ざされた扉に自分の過去をリリオンは見ていた。
「あの子のことも心配してあげるのね。ランタンったらママみたい」
「跡取りがいなくなったら美味いごはんが食べられなくなるからな」
ランタンは言い訳するようにそう言った。
それからぶっきらぼうに手を差し出した。リリオンは妙に照れくさくそれを握った。しばらくしてローサが振り返る。繋がれた手を見て叫んだ。
「ずるい!」
「ずるくないわよ」
「ローサもいれて!」
「と言ってもな」
しかしそう叫んだローサはいつの間にか両手に木の枝を握り締めている。その二振りで揺れる影や、枯れ葉を巻く旋風をばったばったと切り捨てながら闊歩してきたのだ。
塞がった両手を見てローサは愕然とした。しばらく悩んでから、それを放り捨ててランタンとリリオンの間に割って入る。
「腰に差しゃよかったのに」
ランタンがそう言ったのはずいぶんと歩いてからだった。ローサは驚いたような顔をして、捨ててきた木の枝を振り返った。
「意地悪なお兄ちゃんね」
「いじわる」
「今、思いついたんだもん」
ローサにぶつくさ文句を言われながら、遠回りをして迷宮特区の隔壁沿い、引き上げ屋が並ぶ通りを歩く。
昼過ぎである。車庫はどれも鎧戸が閉められていたが、この時間帯はその内側がどれも空であることを探索者なら誰もが知っていた。
「ミシャさんいる?」
「いないよ、仕事中」
ローサは残念がった。
通りに人影はまばらで、目的無く歩いているものは一人もいない。それらは皆が探索者だった。引き上げ屋に迷宮降下の予約を入れに来ている。あるいはその目的を終えて帰るところだ。
よほどのことがなければ、ふらりと入った店に仕事を頼む、と言うようなことはしない。誰もが馴染みの店を持っていた。
蜘蛛の糸。
アーニェの店に入ろうとすると、先客がいた。引き上げ屋の事務所は大抵狭い。建物の大半が車庫だからだ。中に入って待つことはできないし、できたとしてもしないのが礼儀だった。
三人は外で待った。ランタンとリリオンは車庫の鎧戸に背中を預け、ローサは覗き窓にべったりと顔をくっつけている。先客に対する嫌がらせのようだ。
身体を揺らしながら待つランタンをリリオンは横目に見る。
寒いから身体を揺らしているわけではなかった。落ち着きがない。
「おわ、ランタン!」
先客が出てきた。ランタンの顔を見て驚く。
「いい?」
ランタンは鎧戸から背を離す。先客の男は頷いた。
「お前さんにあやかろうと思っただけだったんだけどよ。腕いいよな、ここ。店主も美人だし、腕二本だったら言うことないんだけどなあ。おしいよなあ」
男は聞いてもいないことを口にする。
ランタンは世間話に付き合わなかった。素っ気なく一瞥するだけで事務所に入った。
「あら、いらっしゃい」
アーニェがいつもの笑みで三人を迎え入れた。秋だというのに肩を出した姿をしている。
蜘蛛人族でも珍しい六本の腕、一番下の二対が振り返りもせず背後の棚に先程の男の書類をしまっている。
ランタンとリリオンだけならまだ余裕があるが、ローサが入るとぎゅうぎゅう詰めだ。
「また、もう探索? ちょっと早くないかしら?」
「大丈夫ですよ、慣れてますし、まあ怪我もありませんし、――ほら、ローサ」
ランタンはローサの背を突いた。ローサは肩掛け鞄から、探索者ギルドの書類を取り出してアーニェに渡した。
「今度の探索の予約はローサの名前で」
「よろしくおねがいします!」
「ローサちゃんが? ええ、いいわよ。何事も経験だものね。じゃあここにお名前をちょうだい」
「ここ?」
「そう、そこ」
アーニェが身を乗り出して、指し示す。前屈みになると白く豊かな胸の谷間が露わになった。血の繋がらぬ娘に受け継がれた膨らみだ。
ランタンは表情を変えずに自然と視線を逸らした。目を伏せて、自分の爪先を見る。平静を装っているのだろうが、妙な緊張感を漂わせている。店の前で待っている時からだった。
リリオンはそんなランタンを見ていた。
ランタンのその反応は、アーニェが色っぽくて魅力的な女性だからではない。あるいはかつてはそうだったかもしれないが。
今のランタンの緊張の理由は、アーニェがミシャの母親だからだ。
母親に自分がどう見られるかが、気になってしかたがないようだった。
――ママ。
リリオンは故郷を思い出す。まだ母親がいた頃の故郷を。
「――どうした?」
ランタンを見つめていたはずなのに、リリオンの視界は故郷の雪景色を映していた。
「ううん、なんでもない」
リリオンは我に返り、本当に何でもないというように首を振った。
見つめていたはずなのに、いつの間にか見つめられている。
リリオンは一歩前に出て、ローサの背中越しに書類を覗き込む。
「ちゃんとできてる?」
「できてる、ほら」
姉妹のやり取りを、そんなリリオンの背中をランタンは見つめる。




