326 迷宮
326
滾々と湧き出る泉のように、まったく水気のなかったところに現れた沼地は見る間に広がり、小山のように迫り上がった。
斜面を流れる濁流めいて深緑が滑り落ちると、それは深緑よりもより緑い緑の塊だった。
液体の柔からさを脱ぎ捨てて、沼底から姿を現したのは沼地の主なのだろう。
それは大亀である。
たっぷりと膨らんで複雑に波打つ黒々とした甲羅を背負い、その巨体を沼面に支える肢は鰭である。付け根の太い尾は沼の中に沈み、のたうつ大蛇のような妖しい影だけが透けている。
鬣のような藻の絡みつく長い長い首は竜種のそれに似て、顔は黒緑の髭苔に覆われている。
拳大もある水滴が絶え間なく髭先から落下して沼に飲み込まれる。
ローサは自分が股の間に尻尾を挟んだことに気が付かない。
大亀を睨む三人の背中は頼もしくもあるが、比較すれば余りにも小さい。
先触れのように虎の毛が逆立った。
大亀の咆哮だった。
「に゛ゃあっ!」
ローサは叫んで猫のように身体を丸めた。
樹高よりも高く伸ばした首。空から見下ろす大亀。髭の隙間から赤々とした口腔が覗く。
放たれた咆哮は樹海の隅々に響いたのかもしれない。遥か遠くで羽根を休めていた鳥たちが一斉に飛び立って空を陰らせる。
全身に音が叩き付けられた。
沼が波打ち、押し出されるように辺りを浸食し、泥濘ませた。
沼にあらゆるものを投げ込んで、大亀を挑発し、それを呼び出した猿どもが慌てふためく。
あまりの大声に十数匹もが気を触れさせた。ある猿は放心、気絶し、ある猿は惑乱、動転して樹上から転げ落ちた。溺れる猿もあれば、少しの抵抗もなく沼底に沈みゆく猿もある。
どうにか樹上に留まっていた猿たちは仲間を助けようともせずに、再び姿を消した。
魔物としての格がまるで違った。
大亀はまるで最終目標のようだ。
あらゆる生き物を恐怖のどん底に叩き落とした咆哮であるが、動じない三人がいる。
ランタン、リリオン、ガーランドの三人はそれぞれ手に武器を携えて、放たれたように巨岩から飛び立っていた。
髭の隙間から大亀の目が三人を射貫いている。まったく濁りのない青い視線である。
沼が泡立つ。
大きな気泡の一つが弾けた。
螺旋を描くように水柱が立ち上がった。
それはガーランドが魔道で産み出した足場だった。二つ、四つ、八つと沼の所々から無数の水柱が屹立する。
大亀に近付くには沼地に降りるしかない。だが沼に落ちた猿どもは、溺れていた猿も含めて全ては沼底に沈んでいる。
ランタンとリリオンの二人は、それぞれ水柱に着地した。不思議な感触だったが頼もしい。
ガーランドだけは沼面に降り立つ。まるで体重を感じさせない。水切り石のような波紋を広げて、果敢に大亀に接近する。
曲刀の二振り。左の曲刀が沼面を掬い、ガーランドはそれを大亀に浴びせるように放った。
緑の水塊が大亀の顔に向かって真っ直ぐに飛んで行く。それは文字通りの目潰しだった。水塊は金属めく硬度を有し、直撃すれば眼球を潰しただろう。
その速度は、それだけの威力を発生させる。
だが水塊は大亀の眼前で速度を失った。
大亀がガーランドの魔道に干渉し、支配権を奪ったのだ。ガーランドが口の中で舌打ちを転がす。支配を奪い返そうとしたが、それを諦めた。
大亀はガーランドの力に、己の力を上乗せする。拳大の水塊が質量を増し人頭大に膨らみ、それは見る間に分裂してまた更に巨大になった。
隕石のように降り注ぐ。
半分はガーランドを狙い、半分は闇雲に放たれたのかもしれない。
自らに纏わり付く蝿を追い払うかため手を振り回すように、水塊が沼に叩き付けられる。
水柱のいくつかが打ち砕かれ、ガーランドは咄嗟に再構築する。
破壊と再生を繰り返す。
水塊は何かに触れると砕け散り、飛沫の一粒一粒が散弾のように四方へ広がった。
散弾にガーランドが取り囲まれる。
女の肺が膨らんだ。踏み付けていた沼面に爪先が沈む。ガーランドはそのまま沼の中へ潜行し、辛うじて散弾をやり過ごした。
ランタンはいずれ砕けるだろう水柱を蹴って大亀に肉薄した。
大亀はもうガーランドを見ていなかった。もたげた首がうねり、ランタンは旋毛に視線を感じる。大亀の首筋に流れる、膜のような水分が槍のようにランタンに突き出される。
ランタンは空中で身体を捻りそれを躱し、捻った勢いのまま身体を旋転させる。
遠心力の全てを戦鎚の先へ集中させる。
巨木のごとき大亀の首。
「ふうっ!」
しかしそれは巨木を圧し折る一撃だ。
打撃音はあまりにも鈍い。
おそよ生物を叩いた音ではなかった。打ったランタンの手の方が痺れる。折れたのは首から突き出た水槍ばかりだった。
追撃の爆発が皮を炙る。首の水分を一気に蒸発させる。だが髭から流れ落ち続ける水流が渇きを癒した。
「くそ!」
ランタンは反動で大亀から距離を取り、入れ替わるようにリリオンがまったく同じ場所へ大剣を一閃した。
どっと刃が食い込む。だが血も流れない。ざらついた爬虫類の皮と、その下の肉と脂肪が恐るべき弾力をして刃を挟み込んだ。
「ん――てぇい!」
リリオンが力任せに大剣を振り抜く。その大剣がなまくらかと思えるほどに、刃は大亀の皮を滑っただけである。
「んもう!」
甲羅はやるまでもなく硬そうだったが、それにして恐るべき頑強さだ。
ガーランドは沼中から四肢の付け根を狙った。
付け根から甲羅の内側へ突き入れるように、水の浮力さえ用いた刺突だった。だが刃はまるで入らない。
大亀が鰭で沼面を打った。耳が痛くなるよう破裂音。馬鹿げた衝撃に沼底まで露わになる。沼底ではあらゆる生物が骸を晒していた。骨も剥き出しに重なり合っている。
辛うじて残っていた水柱の足場が崩れる。ランタンが跳び、リリオンがそれに続いた。どうにか浮かんでいた倒木を足場にするが、波に揺られ安定性に欠ける。
「ガーランド!」
ランタンの声が届いたわけではない。離れた位置でガーランドが沼中から姿を現した。
沼そのものに手をかけて、ざぶざぶと緑を滴らせながら沼面に立ち上がる。
触手の髪を掻き上げる。右の耳から血が垂れている。口腔を汚した沼を吐き捨てる。それには血が混じっている。身体を濡らした緑の雫が、蓮の葉を滑るように女の身体から流れ落ちる。
ガーランドの目が鋭くなった。
使用人としての生活の中で、ゆっくりとゆっくりと失われつつあった鋭さだった。
胸の前で交差させた曲刀を八の字に切り開いた。
斬撃が飛ぶ。
それは水気を依り代として白々とした剣線を宙に走らせる。
大亀が干渉する暇を与えぬ速度である。
ガーランドは沼面を疾駆する。疾駆しながら曲刀を乱舞した。斬撃が大亀に降り注ぐ。
だが致命傷を与えるほどではない。露出した四肢や首に触れては弾け、甲羅に触れては砕ける。顔を覆う髭が刈り取られて散った。
まったく無意味なようにも見える。
だが大亀はそれを無視しない。蜂の一刺しのように痛みはない。しかし蚊の一刺しなのである。大亀にとってそれは無力ながら煩わしいものだった。
沼からぬらぬらとした緑が幾つも生えた。まるで群生する青葦だった。それが斬撃に身を投げ出して、互いに砕け散る。
ガーランドは幾つも斬撃を飛ばしながら大亀に接近した。狙いを左の後肢に定めたのはそこが最も近いからでしかない。鋭い視線が更に細められる。
ガーランドの腕は立つ。だが例えば当代の竜殺しハーディと比較しては非力である。狙いの左後肢から、さらに狙いを絞る。成長の突端。最も若くまだ幼い、柔らかな鰭の先。
噛み付くように曲刀を上下から閉ざし、そして振り切った。
どろりと青い血が流れる。
致命傷にはほど遠い。指先をちょっと斬った程度だった。しかし傷つけたという事実こそが重要だった。
獰猛に笑う。
ガーランドはそれに満足せず、間を置かずに切断面に右の曲刀を突き入れる。ぶに、と水を吸った肉を裂く。痛みを与えるために間髪容れず捻る。
扇を乱暴にあおぐように鰭が振り払われる。
ガーランドが吹き飛ばされる。その行方を大亀が追う。蛇のように首を回し、大亀は口を開いた。
髭が刈り取られて露わになった卵形の頭部がほとんど裂けるような開口だった。
上顎と下顎の間に緑の水球が生成される。
弦を弾いたような高音が響いたかと思うと、水球の一点から鋭い水の筋が放たれる。まるで光線だった。距離を切り裂いてガーランドを狙う。ガーランドを掠めた。血が飛沫く。放水は沼面を穿って、底に沈む骸を粉砕し、それでも止まらずに地中を掘り返した。
避けるガーランドを追う。放水はその線上にあるものを撫で切りにした。放水は途切れない。
ガーランドは沼面を駆ける。波頭を蹴って加速する。しかし背後に放水が迫る。もうあと少しで追いつく。追いつかれる。
それこそがガーランドの狙いだった。
紙一重にガーランドは沼中に飛び込んで、大亀の腹下に潜った。
放水はガーランドを追うがあまり、大亀は自らの巨体を撃ち抜いた。
放水は右後ろの鰭を根元から切りおとし勢い余って甲羅の縁を削った。緑の沼に青い血が混じる。
大亀が仰け反って絶叫を放つ。顎門に挟まれた水球が崩れ、落水は瀑布のようだった。
それは沼を溢れさせた。
沼は生き物のように波打ち、押し寄せる緑の大波はローサが佇む巨岩をも揺さぶった。
ローサは荷車を守るようにそれにしがみつき、瞬き一つせずに三人の戦いを見守る。
ガーランドの奮戦の一方でランタンとリリオンは足場の悪さに苦戦している。
ガーランドはすっかり戦いにのめり込み、打ち砕かれた足場の水柱が再構築されることはなかった。
浮かぶ倒木は、しかし沈み行く倒木である。ランタンとリリオンはそれらに飛び移りながら、何かいい手はないかと大亀を観察する。
「――あっちに飛び移るか」
ランタンは沈み行く倒木の端で溜め息半分に呟いた。
「わたしも一緒に」
リリオンの細い腰を抱き、ランタンは爆風を受けて高く飛んだ。
大亀の甲羅に着地する。峻険な岩場のようにでこぼこした甲羅だった。甲羅の窪みには沼の緑が湛えられ、苔生してぬるぬると滑る。
ランタンはリリオンをそっと下ろし、リリオンは甲羅を踏み締めた瞬間に大剣を奔らせた。
何かを斬った。
それは大亀に寄生する線虫の魔物だった。大亀の体格に見合った大きさで、顔の無い白い大蛇のようだ。
大剣にやられて引き千切れるが、大亀には寄生虫が何匹も住み着いていた。
一種の共生関係を築いているのだろう。甲羅に降り立った二人の気配を察知して、それは見る間に集まった。巨大な甲羅のそこだけが、真っ白に染まっている。
ランタンもリリオンもさすがに嫌な顔をした。
一匹だけなら蛇のようであるが、それが無数に集まると生理的嫌悪感に肌がむずむずした。
リリオンが果敢に踏み出して大剣を振り抜くと、線虫はまったく抵抗無く藁束のように断ち切られる。
だが減ったような感覚がない。沼の底から無限に湧くかに思われる。
取り囲んだ線虫が二人に一斉に飛び掛かった。
白くぬるぬるした気味の悪い生き物に二人の姿が埋め尽くされた。
だが次の瞬間に白い塊が炎に包まれた。しかしその炎さえ押し潰し、掻き消しすかのように線虫が殺到する。
ランタンの爆発が抑え込まれる。隙間から噴き出す炎を塞ぐように、線虫が複雑に絡み合う。二人の姿も、炎もまったく見えなくなってしまった。
しかしその沈黙を破ったのは、やはり爆音である。
「おらぁ!」
ランタンの爆発は閉鎖環境でこそ最大の威力を発生させる。数十、数百の絡みつく線虫の殼が内部の圧力を閉じ込めきれずに荒れ狂う炎を噴出させて四散した。
ランタンは半ば引き攣った顔で、肩で息をする。内部でどのようなことになっていたのか、何度も唇を拭った。ランタンの肉体に、陽炎めく炎が揺らいでいる。
少年の外套の内からリリオンが顔を出す。
「ちょっと焦げたか」
「ううん、平気よ」
線虫の大半を焼き払い、残ったそれらを駆除しながら二人は甲羅をでこぼこを登ったり下ったりする。
そして甲羅の影に身を潜める。
二人に、そして爆発に反応したのは線虫ばかりではなく大亀もそうだった。その視線を甲羅で遮る。
「……なるほど」
「なにがなるほど?」
線虫は大亀に寄生していた。逆を言えば大亀は線虫を寄生させていたのだ。
「なんのために?」
「なにか利益があるんだよ。甲羅に隠れる僕らみたいのを排除するとか。その代わりに寄生虫は宿主から栄養をもらう」
「――またきた」
リリオンが甲羅の影から身を剥がし、一足で線虫に肉薄するとそれらを両断する。そして一足飛びにランタンの下へ帰ってくる。
「減らないわね。どれだけ暮らしているのかしら」
「……迷宮兎みたいに発生してんのかな」
生命は泥の中から生まれるわけではないが、魔精から生まれることはある。しかし迷宮兎の増殖は、それがそういう性質を持つからだ。
この線虫はそうではない。寄生虫の魔物である。そして甲羅の表面を這っている。だが常に甲羅の表面を這っているのではないだろう。そうならば這う寄生虫が遠目に見えたはずなのだ。それを見逃すようなランタンではない。
ならば隠れ潜む巣があるのかもしれない。
頭上で大亀が荒れ狂っている。高圧で放れた水が自ら作った虹さえ切り裂いている。ガーランドが持ち前の俊敏さで大亀を引きつけているのだ。
ランタンの表情に逡巡の色が浮かび、それは一瞬で失われた。ランタンはぽんとリリオンの尻を叩く。それだけでリリオンは何かを悟った。
ランタンは甲羅のでこぼこの、最も高いところに飛び乗った。
「ローサぁっ!」
ランタンは岩上のローサに呼びかける。はじめから甲羅のその影に潜んでいたことを知っていたみたいにローサと目があってランタンは少し驚いた。
「うねうねはどこからきた!?」
ランタンの問い掛けにローサは何か叫び返すが、様々な水音に遮られてランタンの耳には届かない。
大きく動くローサの口の動きを読むが、しかしそれを読み取れたとしても余りにも抽象的だった。
「あっち! あっちのほう! あっちのほう!」
ランタンは高く戦鎚を掲げた。ローサの指差す方を見る。方向だけでも充分だった。
甲羅が大きく傾いた。放水が止んだ。大亀が絶叫を放ち、背後でローサが身体を縮こませる。巨大な水の塊が落下し、辺り一面に靄がかかる。襲いくる線虫をリリオンが切り捨てる。
ランタンはローサが指差した方へと跳躍した。
沼面にガーランドの探索服が浮かぶ。大亀の首を二振りの曲刀だけが滑るように上がって行く。大亀はそれに気が付かない。短くなった髭をさらに斬り払い、露わになった青い瞳に問答無用に曲刀が突き立った。
大亀は自らの頭部を沼面に叩き付ける。瞳に曲刀は刺さったままで、ランタンさえガーランドの姿を見失った。残った青い一つ目が悠々と姿を現したリリオンを見つける。
「きなさい」
リリオンは鋒を向けて、はっきりと大亀を挑発した。大亀の周囲に無数の水球が浮かぶ。それがリリオンに向かって放たれた。リリオンは鞘に収めていたもう一振りを抜き打つ。巧みに二刀を用いて水球を切り裂いた。
破裂した飛沫の散弾が、どこかに潜むガーランドによって霧に変えられる。靄が濃くなる。ランタンの姿を覆い尽くす。
大亀が首をうねらせる。リリオンを喰らおうと大口を開ける。リリオンは甲羅の隆起を次々と飛び移る。振り返り、咄嗟に左の大剣を槍のように口腔へ投げ込んだ。口が閉ざされる。恐るべき速度で閉ざされた顎門が大剣を噛み砕く。
距離を取っていたリリオンは一転し、口を閉ざした大亀に接近する。大剣を右から左に持ち替える。リリオンは左前に構え、左の腕を身体に巻き付け、大剣を背中に回す。
身体を捩る。引き絞る。力を溜める。
唇を真っ直ぐ結び、肺から絞り出した息が頬を膨らませる。
狙いを定めた。
渾身の横振りだった。
右から左に振り抜かれた大剣は、大亀の上下の顎の継ぎ目を断ち切った。支えを失った下顎がだらりと垂れて、剥き出しになった口腔の赤が外に溢れた。
大亀が炎を吐き出した。
それは爆炎である。
大亀の甲羅に存在した線虫の巣穴にランタンが戦鎚を突っ込んでいた。
発生させた爆発が大亀の体内を蹂躙したのである。
大亀は声さえも焼き尽くされ、藻掻くようにのたうった。
大亀の長大な尾が振り回され、沼の外側にある木々までへし折って、ローサが見守る巨岩を掠めた。
ローサは悲鳴の一つも上げない。
満天の星空に圧倒されたように、三人の戦い振りに圧倒されていた。
残されたのは大亀の甲羅と透き通る泉、そして魔精酔いの苦しみだった。
大亀は息絶え、その肉体は溶けるように失われて甲羅だけがそこにある。でこぼことした甲羅はそれだけをみると超巨大な二枚貝のようだった。
沼の緑は気が付けば色褪せ、透けて青々とした。今は陽射しを反射させる穏やかな水面があるばかりだ。どこからか飛んできた鳥が喉を潤している。
水底の骸はどこかへ消え去って、ローサが溺れるような犬かきをして泳ぎ、何度も沼に潜ったガーランドが身体を洗っている。
魔精酔いから復活したランタンとリリオンは、靴を脱ぎ、膝までズボンをめくって泉に脚を浸していた。
「この魔精酔い、もしかしてこいつ最終目標だったんじゃないか。あー気持ちわるい」
「それ、魔精酔いのせい? ランタンも身体洗ってきたら?」
「――ガーランドが終わったらね。一応、迷宮だし、リリオンの大剣はまた折れたし」
「あ、うねうねついてるわよ」
びくりとするランタンを見て、リリオンはくすくす笑った。
「ガーランドさんが終わったら、すみずみまで洗ってあげるわね」
「いやな冗談言わないでよ。ほら、鳥肌立っちゃった」
ほら、と腕まくりをする。リリオンは鳥肌の立ったランタンの腕を撫でてやった。
ランタンは溜め息を吐く。
「で、リリオンはどう思う?」
「最終目標かどうか? そうね、うーん、なら迷宮核はどこにあるのかしら?」
「甲羅の中じゃない? ああ、沈む前に探さないと――」
ローサがこちらに向かって手を振った。そして泉の中へ潜った。
大亀は水脈をもぐり、沼とともに樹海を移動していた。あるいは沼の出現するところに大亀が現れただけか、それとも大亀のあるところに沼が発生するのか。
最下層に最終目標は座する。
最終目標の座するところこそが最下層となるか。
「んー、わからん」
「もしそうなら、迷宮は探索者に攻略されたがっているのかしら? わざわざ近付いてくるなんて」
「待ってるのが嫌になって近寄ってきたんじゃない? ぶっ殺してやるぜ! みたいな」
「――ばあ!」
水面を割って、二人の足元からローサが顔を現した。驚かそうとしたようだが、沼のままならまだしも、泉は水底まですっかり見通せる透明度である。
「おどろいて!」
「驚いてほしいなら、ちゃんとびっくりさせてよ」
ランタンは濡れた頭をぽんぽんと叩く。ローサは頬を膨らませて、むう、と唸った。唸った顔の、口角が隠しきれずにんまりと持ち上がる。
そして水中に隠していたものを二人に見せびらかす。
「じゃん! どー?」
「……お前、これ。どこで見つけた?」
「みずのなか! びっくりした?」
「した。これ、迷宮核じゃないか! しかも結構上等な」
黒いほどに緑い大きな魔精結晶だった。ほとんど間違いなく迷宮核だと、探索者としての経験が告げている。
色は濃く、だが妙な透明感がある。透かしてみた向こう側が上下逆さまに写る。その不思議な色合いの結晶をローサはうっとりと見つめる。目がゆっくりと丸くなる。
「――おさる」
ローサはぽつりと呟いて、泉から上がった。
ランタンとリリオンがほとんど同時に振り返った。
そこにはあの猿がいた。
群で、一回り大きな個体を先頭にこちらをじっと見ている。
「……そうだった。大亀がやってきたんじゃなくて、こいつらに誘導されたんだった」
ランタンは舌打ちをし、戦鎚を握る。
「おにーちゃん」
猿は妙に人間臭い素振りで身体を竦ませると、群全体で平伏した。鼻面を地面に落とし、首筋を差し出すようだった。
ランタンもリリオンも困惑する。
「なんだ、これ」
「ともだちになりたいのかも」
ローサが妙にわくわくした口ぶりで言った。
大亀はもしかしたら樹海全体の脅威だったのかもしれず、猿は救いを求めて探索者であるランタンたちをこれに差し向けたのかもしれず、平伏は友好や恭順を示しているのかもしれなかった。
ローサが恐る恐る、しかし期待に満ちた足取りで猿に近付く。猿が仰ぎ見るように面を上げる。ふわふわの毛に包まれていると、それだけで警戒心が和らぐ。まるでぬいぐるみのようだ。
仲良くしよう、とでも言うように猿が手を差し出した。
ローサがその手を取ろうと一歩近付く。
「――」
毛に覆われた猿の顔面に刃が突き刺さった。
ローサが言葉もなく固まる。
狩猟刀を投げ打ったのはランタンである。
後ろに倒れる猿のその両手に、恐ろしく鋭い爪が柔らかな毛の奥から飛び出していた。今の今まで隠されていた、ローサの首を掻き切るための爪だった。
――もしかしたら探索者を利用して迷宮の主の座を奪おうとしていたのかもしれず。
ランタンは慰めるようにローサの肩を叩いた。
「ま、迷宮なんてこんなもんだよ」
猿の顔面から生える狩猟刀を抜き、それをリリオンに投げ渡す。
「魔物に囲まれたらどうするんだっけ?」
「……けちらす」
ローサは落ち込んで答えた。
背後から美しい青の水弾が放たれて猿の群に打ち込まれる。
それを合図に兄と姉が猿の群に突っ込み、言葉通りにそれらを蹴散らした。
ローサはやけくそになって火を吹いた。
ほろ苦い気持ちを焼き尽くすように、ローサの炎は赤々としている。
夏の太陽の色だった。




