322
322
迷宮でローサは探索者ランタンに初めて出会った。
小さな背中に外套も羽織っていなかった。それは慌てて飛び出してきた証拠に違いないだろう。
ティルナバンの街を、迷宮を駆け抜けたのだろう汗に濡れた黒髪と項。しかし、そうとしれぬほどの呼吸の静けさ。
迷宮探索の用意など何もなく、ただ手に戦鎚だけを握り締めている。
それはローサの知らぬ兄の姿だった。
ローサと手合わせをして勝ったり負けたりを繰り返す兄はそこにいなかった。
現れた凶獣が、ローサがそれまでに倒した狼を集めて足らぬような巨体に思えたのは恐怖が見せた錯覚ではなかった。
少年たちを腹の下に隠し戦うことをやめて兄を求めたのは、兄が助けに来てくれるという確信と、凶獣と自分の隔絶した力の差を本能的に悟ったからだ。少年たちばかりではなく、腹の下には尻尾も隠していた。
自らが狼たちに与えた死というものが、まさにローサの目の前に現れたようだった。
凶獣は死の化身に違いなかった。
そしてそんな凶獣があっという間もなく倒された。
黒々とした戦鎚が赤々と赫く。光を受ける兄の後ろ姿に影が落ち、照らされた凶獣の表情がありありと炙り出される。
狼のような、熊のような、あるいは大猿のような獣面である。獣面であると同時に目元に知性があった。
ローサの炎を恐れず、命を焦がしながら飛び込んできた狼たちの親玉が、その時はっきりと畏怖したのをローサは見た。
一撃だった。
戦鎚の一振りは凶獣に触れただろうか。
赫く戦鎚は踏み込んだ左脚の爪先から、右斜めに振り上げられた。三日月のように弧を描く。その線上にあるものは、その周囲もろとも蒸発し、消失した。
地面と壁と天井が飴のように溶けて糸を引く。
凶獣は顔を守ろうとした両腕ごと頭部を失い、倒れ伏したその姿は、それでも巨大な岩のようだった。
もう動かないのはわかっている。しかし目を逸らすのを躊躇う禍々しい存在感はまだそこにあった。首を失ってなお襲いかかってくるのではないかというような。
だがそれ以上にランタンが圧倒的だった。
ローサは言葉もなかった。血を失い冷えた肉体が熱を持つのがはっきりとわかった。
振り上げられた戦鎚を真下に振り下ろす。まだ赤い光が残っていた先端が急速に黒さを取り戻す。血振りするように戦鎚を回したのは兄の手癖だった。そのまま流れるように戦鎚を腰に結び、視線の端から振り落とすように凶獣に背を向ける。
そういった何気ない動作の一つ一つにローサは痛みさえ忘れて見惚れた。
腹の下で喚く少年たちの声は彼方にあり、物言わぬ魔物の死体は臭いさえ失い、迷宮にはローサと探索者ランタンだけがいた。
ランタンはゆるりと顔を上げてローサを見た。
それは初めて見る兄の顔だった。
ローサを見惚れさせた探索者ランタンはもういなかった。
ただ妹を心配する兄の顔がそこにあった。
見つめられたローサは痛みを取り戻した。
ローサの腕を穴だらけにした牙は筋膜を貫き、骨にまで届いているものもあった。赤々とした血に濡れた両手を取る。
「……おにーちゃん」
ローサは目覚める。
その時、迷宮で泣いたようにローサは少し泣いて目覚めた。
手の甲で涙を拭った。
泣いたローサは迷宮で遂に気を失い、次に目覚めた時には自室のベッドの上にいた。
それからずっとベッドの上にいる。そして迷宮のことばかりを考えていた。
ローサは探索者になると決めた時から、迷宮に行くことばかりを考えていた。迷宮に行ってどんな風に活躍をするのだとか、そういうことばかりを夢見てきた。
だが本当に難しいことは迷宮から帰還することだ。迷宮へ行くだけならばローサにだってもう出来た。だがローサは帰還していない。抱きかかえられたのか、引きずられたのか、どう連れ帰ってもらったのかさえわからない。
全身が鉛のように重く、最初の覚醒はそれが夢とも現ともしれない微睡みだった。
ずきずきと痛む両腕。日に何度も取り替えられる包帯。染みる薬を塗られ、苦い薬を飲まされた。
クロエとフルームが見舞いに来て、それから数日経って少年たちが謝罪に来た。
食事は全て運んでもらって、両腕が使えないので食べさせてもらった。風呂にも入れないので姉に身体を拭いてもらい、兄は毎日、怪我の様子を確かめに来た。
ローサはきっと怒られるに違いないと思っていた。友達を助けるためだとは言え、約束を破って勝手に迷宮に行ったのだ。怒られても仕方のないことだと思っていたし、その覚悟をしていた。
けれど兄はローサを怒らなかった。
毎日やってきて、調子を尋ね、それから頭を撫でてくれる。それだけだった。
「起きたか」
ガーランドがいつも部屋にいて、ローサに異変があると兄や姉を呼んでくれる。
目覚めたローサに水を一杯用意する。
「もうじぶんでのめるよ」
「ああ」
ローサは握力の戻った手にコップを掴み、水を飲む。コップの底をガーランドの触手が支えていた。
「ん、――ぷはぁ」
「腹は減ってないか?」
「んー、ちょっとへってない」
「もう一杯飲むか?」
「いい」
「そうか」
ガーランドは空のコップを受け取ると、窓に寄ってカーテンを開け放った。柔らかな陽射しが室内を照らした。
ローサは包帯が巻かれた腕を伸ばす。しばらくは持ち上げることもできず、肘も完全に伸びきらなかった。手を閉じたり開いたりすると痛みや痺れがあったりもしたが、もうすっかりなくなっている。
なくなっているはずだが、ふいに痛みを思い出すことがある。迷宮内では夢中になって気付かなかった痛みが、今となってありありと蘇る。
ローサはぞっとして肩を震わせた。
「降りるか?」
「うん」
ガーランドに手を取ってもらい、ローサはベッドからこっそりと下りた。
部屋の中を歩き回る。ずっとベッドの上にいては身体が鈍ってしまう。
「ゆーれーは迷宮にいったことある?」
「ないな」
「そうなの? じゃあ魔物みたことある?」
「ある。よく戦った」
「迷宮にいったことないのに? どこでたたかったの?」
「海の中だ」
「へー……うみのなか。魔物こわい?」
「怖くなどはないな」
「けがしなかったの?」
「怪我はした。噛まれた」
ローサは尊敬の眼差しでガーランドを見つめた。ガーランドは鋭い視線を困惑に緩めて、視線を窓の向こうへと逸らした。
「今は、もう怖くなどない。最初は誰もが恐れるだろう。迷宮が怖くなったのか? あれほど楽しみにしていたのに」
「うん、……ちょっとだけ」
ローサは素直に頷いた。それから声を潜めて言う。
「おにーちゃんにはないしょだよ」
ローサにとって迷宮は、もう空想に思い描くだけものではなくなっていた。
魔精の濃い空気、奥へ奥へと誘い込むような路、襲いかかってくる魔物。
自分の肉体が自分のものでなくなるような感覚があった。下肢が勝手に動いて魔物を切り裂き、衝動は上半身へと流れ込んだ。かつてまだよちよち歩きだった頃を思い出す。自分の身体が、自分の思い通りにならなかった頃を。
歩くと爪が床に触れてかちかちと音を立てる。
ローサは壁際に飾られた革鎧を手に取る。軽くて丈夫。ローサの肉体を守った革鎧だ。
散歩に行くたびに身に付けて、帰ってくるたびにぴかぴかに磨き上げた革鎧は、いまやもう無数の傷が刻まれている。
自分の血や魔物の血が染みこんで色むらもできていた。臭いを嗅ぐと、血の臭いはしなかった。革と、それを磨いた油の匂いがするだけだ。
「……――ローサ!」
ガーランドが小声で鋭く名を呼び、扉の方へ視線を滑らせた。ローサは革鎧を置くと急いでベッドに戻り、布団をかぶった。
「入るよ」
返事を待たず入ってきたのは兄、ランタンだった。
妙に張り詰めた部屋の空気にランタンは訝しげに視線を巡らせた。
「ガーランド、ローサの様子は?」
「一度水を飲んだ。後はよく寝ている。痛みももうないようだ」
「そうか。で、寝たふりしてる理由は?」
ローサはひょっこりと布団から顔半分を出して右、左と一つずつ目蓋を開いた。
「な、なんとなく」
ランタンは肩を竦め、ローサの顔を覗き込む。
「まったく、おてんばめ。ほら、顔を見せな」
布団を剥ぎ取って、額に触れた。ランタンの掌よりは熱いが、発熱しているわけではない。子供の体温などこんなものだ。
「ローサ、もうげんき」
そう言って、ぷく、と頬を膨らませた。ランタンは呆れた顔になる。
「ほら、お手」
差し出された手の上に、ローサは言われた通り手を乗せた。
ランタンは慣れた様子で包帯を解く。無数にあった咬傷はもうすっかり塞がっている。
傷跡が残っていないわけではない。多少窪んだり、色が抜けてしまっているところがあった。
「よし。おかわり、――こっちもよし。ぐーぱーして、よし。握れ」
「むん」
ローサはランタンの手を掴んで、力一杯に握り締めた。探索前にこういう力比べをした時は、痛い痛いと、大げさに痛がって見せた兄はただ頷いただけだった。
「まあ、よし。元気になったな」
「うん」
「じゃあ、説教だ」
ランタンはローサを見つめた。冗談ではなさそうだった。
叱られる覚悟をしていたというのに、ローサは思わず視線を逸らした。兄の顔に、背中しか見ていないはずの探索者ランタンの面影を見た。
「ローサ、げんきじゃないかもしれない」
「そうなのか?」
「……げんきになった」
「まったく。ローサを責めようって言うんじゃない。約束は約束だけど、迷宮に行ったのだってしかたのないことだろ。あれはお前のせいじゃない。その事についてはもう充分怒ってきたからな」
「おこったの?」
「怒ったよ。すごく怒った。物凄く怒った。ローサが危険な目にあったのはあいつらの所為だからな」
ローサは謝罪に来た少年たちの顔を思い出した。これでもかというほどの落ち込んでいた顔を。ローサはそれを見て笑った。びっくりするぐらい情けない顔をしていた。
笑って悪かったな、と思う。兄に怒られたのだ。きっとそれは恐ろしいことだろう。
「ローサ」
「うん」
「心配したんだ。本当に」
「……ごめんなさい、おにーちゃん」
「ああ。僕も遅れて悪かったよ。もうちょっと早く助けに行けたらよかったんだけどな。あんなに穴だらけにされちゃって。さすがに肝が冷えた。だから――もうああ言うことはなしにしてくれ、とは言わない。ローサ、お前は優しい。だから困ってる人を見ると放っておけないんだろう。それはきっと直しようがない」
ローサは外を見る。
迷宮へ向かった時、青々としていた夏の緑はもう色褪せていた。
庭木は紅葉しているものもあれば、落葉しているものもある。常緑樹だけがローサに夏の気配を微かに感じさせる。そう言えば水やりは誰がやったんだろう。菜園の植物たちは枯れてしまっていないだろうか。
「なつ、おわっちゃった?」
「ああ、もう終わりだ。もう秋だよ」
「ローサ、もう迷宮にいけない?」
夏は燃え尽きてしまったのだろうか。
「迷宮、また行きたいか? 迷宮にまだ、行きたいと思うか?」
ローサは秋の庭から視線を戻し、兄の目を見て頷いた。
「ローサ。お前のことについて少し話そうか」
「ローサのこと?」
「ああ」
ランタンが頷く。背後で扉が閉まった。ひっそりとガーランドが部屋を出て行った。
「ローサの身体や、お姉ちゃんのことだ」
言われてローサは首を傾げる。
「ローサの、おねーちゃんのこと?」
「リリオンのことじゃない。もう一人、お姉ちゃんがいるんだ」
「どこにいるの?」
「――ここだ」
ランタンはローサの胸を叩いた。
炎虎の半身ばかりではない、ローサの身体には実の姉であるロザリアの臓器が移植されている。水槽に浮かぶ物言わぬ少女だったローサが陽の下を歩き、迷宮を駆けることができるのはそういった存在があるからだった。
「ここに……?」
「ローサ。僕やリリオンはもちろんローサを大切に思ってる。でも、それだけじゃない。それだけじゃすまない」
ローサは胸に当てられた兄の手に、自分の手を重ねた。
心臓の鼓動が兄の小さい手を貫いて、自らの掌を強く打った。
「ローサ。お前は他人に優しくしてやるのと同じぐらいに、自分にも優しくしなくちゃいけない。ローサは本当に大切に思われて生まれてきたんだよ」




