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勇気と恐怖、その二つが胸の内に渦巻いていた。
友達を助ける。その使命感が勇気を支えている。
ローサは迷宮口に飛び込んで目を閉じなかった。
魔精の白い霧を見るためだ。
あちらとこちらの境目だと兄は言っていた。
霧の向こう側が迷宮だと。
先の見えない濃密な白が眼前に迫って、それに呑み込まれてなおローサは瞼を下ろさない。色も温度もない霧が、真白の闇がローサを包み込んだ。
視界の喪失は落下感覚の喪失だった。
狭い迷宮口とその通り道。傾斜を滑り落ちるほどに肌を削った岩肌の感触が霧の中でふいに失せ、ローサは浮遊するような感覚に囚われた。
ぞっとした。
地上から切り離された、と思う。兄や姉との繋がりが断ち切られたような。
不安が襲いかかってくる。
これが迷宮。
迷宮の孤独。
迷宮に虎模様の巨大な岩が転がり落ちてきた。
そんな風にローサは迷宮に到達した。
土埃にまみれ、所々に擦り傷もある。顔から地面に落ちて、ごろんごろんと転がる。
「うう、けほっ、けほっ、ううん……」
鼻の奥がつんとする。全身がじんじんと痛んだ。痛みは孤独感を忘れさせた。
奥歯を噛み締め、ゆっくり起き上がる。呼吸を整え、鼻血が出ていないことを確認し、視線を巡らせる。
「めいきゅう、ここが……」
地上の夏を一切焼き尽くしたかのような、灰色の迷宮だった。
不揃いの鱗のように辺り一面が瓦礫で埋め尽くされている。一歩踏み出すと瓦礫が揺らいでがちゃりと音を立てる。
ローサはその音に驚いて身を竦ませる。
「……だいじょうぶ」
小さく囁く。
迷宮口直下は安全地帯だ。魔物はよほど出現しない。まずここで落ち着いて体調を確認し、不調ならばそれを整える。
ローサは胸に手を当てて、意識的な呼吸を繰り返す。
降下直後は魔精酔いを高確率で起こす。水分補給や仮眠、時間の経過によって症状は緩和される。急ぎの場合は気付け薬を服用してもよい。ただしとても不味い。覚悟しておくように、とさんざん脅された。
ローサは乗り物酔いする質だった。しかし魔精酔いは起こさなかった。それはローサの半身が影響しているのだろう。通う血は人の赤きそれであっても、半身は魔物である。
魔精との親和性が高いのも当然のことだった。
浮遊感の名残を魔精酔いかと思う。自分がそうなのか、そうでないのかの判断をしてくれる人はいなかった。自分で全部を決断しなければならない。
下肢の感覚が薄いような気がして足踏みを繰り返す。血が巡り、体温が低いことを自覚する。がちゃがちゃと音を鳴らしながら足踏みを続ける。
そして前に、一歩踏み出す。
尾を引っ張られるような感覚がある。もう一歩。その感覚は嘘ではない。何者かに尾を掴まれて引っ張られている。
ローサは血の気が引いた。途端に身動きが取れなくなった。
速くなる呼吸を無理矢理に静める。確認が必要だった。しかし後ろを振り返ることがどうにも怖い。ローサはそろりと後ろ手に腰の狩猟刀を抜いた。ずしりとした重さが心強い。
振り向くぞ。振り返るぞ。さあやるぞ。やってやるんだ。
なけなしの勇気を振り絞る。
「とあぁっ!」
ローサは身を翻した。
尾の先に背嚢がくくりつけられていた。
恐怖の正体はそれだった。そしてそれをしたのは自分である。
笑うよりも安心した。
ほっと胸を撫で下ろすと、思わず腰砕けになってしまった。瓦礫の冷たさが腹に触れる。狩猟刀は鞘に戻さず、傍らに置いた。
下肢を丸め、尻尾を手繰り寄せる。結んだ背嚢を解いて、中身を確かめた。自分が詰めたそのままになっていることに安心した。背負った重さもそのままだ。
変わらぬことが地上との繋がりを思わせた。
「あせっちゃだめ。でも、おわなきゃ」
気合いを入れるように頬を張った。
少年たちはもうすでにいなかった。ローサが迷宮口に飛び込んだのは、少年たちから五分と遅れてはいない。魔精酔いを起こさなかったのか、それとも酔いを起こしながらも進んだのか。
迷宮の規模にもよる。歩く速度にもよる。しかし三十分も歩けば、魔物と遭遇する確率はかなり高くなる。そしてそれは死の確率に等しい。
一人で慌てふためいていたのはどれぐらいだろうか。ローサは気を落ち着けながら、時計で時間と魔精の濃さを確かめる。
「きっと、だいじょうぶ」
一度混乱し、それから冷めたおかげでローサは冷静だった。
本当は走り出したかったが、きっと転ぶだろうという予感がある。
しつこく、しつこく、嫌になるほどしつこく、逃げ出したくなるほどしつこく危険を説いた兄の注意が呪いのようにローサの無茶を制限していた。
まずは歩く。身体を迷宮に慣らし、少しずつ速度を上げる。走るのは逃げる時だけだ。
迷宮路は広々として、天井も高い。しかし瓦礫の足場は不安定だ。強く踏み込むと沈む。踏み出し方によっては、瓦礫を後ろに蹴り飛ばすだけになって足が滑る。
「おーい、おおーい!」
大きな声を上げることは厳禁だ。魔物に感付かれてしまうから。先手を取られることほど悪いことはない。先手必勝、奇襲上等。探索者の心得だ。
しかしローサは呼びかけながら進んだ。魔物に出会う前の少年たちに声を届けるために。
灰色の迷宮は荒涼としている。所々に立ち枯れた木が生えていた。
枝が折られている。彼らが通った目印だった。
「ローサだよ! ――もうっ、どこまでいっちゃったの?」
大きな声を出していると、それだけで元気が出る。
ローサは段々と調子を取り戻してきた。不安はまだある。だが少し迷宮への興味を抱く余裕が出てきた。攻略のための観察ではない。純然たる好奇心だった。
地面の下にこのような空間があることが不思議でたまらない。どうしてか懐かしいような気もする。
灰色の迷宮は蛇のようにぐねぐね波打っている。曲がり角を大回りに、死角を覗き込むように足取りを膨らませる。
立ち枯れの木の枝を手折る。
ぱきっと乾いた音がする。断面の匂いを嗅ぐ。木の酸っぱい匂いがして鼻をむずむずさせた。唇を閉じてくしゃみをする。
細い枝先を壁に触れさせて進む。壁を引っ掻き、おうとつに引っ掛かってはしなり、ぴんと弾ける。壁を形成する瓦礫の一欠片をほじくり返すと、その周辺ががらがらと崩れて窪みになった。
天井まで連鎖崩壊することはなかったが、次もそうであるとは限らない。
狩猟刀で枝の断面を鋭く尖らせる。そしてそれを空の鞘に差し込む。武器を増やす。
「どこにいるの!? へんじして! まものにたべられちゃうよ!」
返事はない。
だが声が聞こえる。ローサの虎耳が音を探った。
叫び声だ。
ローサは放たれた矢のように駆けだした。
彼らの声だ。声変わりの狭間にあるざらざらした少年の声が五つ。全員生きている。ローサはそれを聞き分けることが出来た。まだ生きている。血の臭いがする。近付くほどに臭いは濃くなる。
「ローサだよ、ローサがきたよ!」
ほとんど円を描く大きな曲がり角を最高速度で抜けた。
眼前に壁が現れる。それは少年の背中だ。ローサは思いっきりそれに衝突した。鹿人族の少年だった。
「うわあっ!」
少年が悲鳴を上げ撥ね飛ばされる。残りの四人の視線が一気にローサに注がれる。
まん丸に見開かれ、血走った目がぎょろりとしていた。手に手に武器を携えているが、武器と呼べるものは体格の良い少年の短剣ぐらいのもので、あとは使い古しの包丁や薪割り斧や金槌だった。
しかしそれを向けられてローサは全身が粟立った。
向けられたのは武器だけではなく、明確な殺意とそして少年たちを侵す狂気だった。
少年たちの足元に魔物の死体がある。
青い血溜まりに沈むそれはまだ子供の狼だろう。毛皮を剥いでいる最中のようだが、しかしこれでは売り物にならない。子狼は滅多打ちにされている。どのような毛色だったのかも定かではない。ぐずぐずになっていた。
少年のまだ小さい手が青い血に染まり、ひたひたと雫を垂らしているのは血溜まりをさらって魔精結晶を探したからかもしれない。しかしこれほど打ち据えては結晶など生成されないだろう。
はあ、と漏れるように息を吐く。
かけるべき言葉を見つけられない。
互いに黙ってじっと見つめ合った。少年たちは見知らぬ他人を見るようにローサを見ている。
「……いてて、なんだ。あ、ローサっ!? なんでここに!」
撥ね飛ばされた鹿の少年が振り返って声を上げた。
ローサはようやくはっとする。
「――たすけにきたんでしょ! もうっ!」
地団駄を踏みながら叫んだ。
少年たちが夢から覚めたように瞬きをし、顔を見合わせる。青く染まった自分の手を見て驚く。慌ててズボンで掌を拭った。
拭いながら眉根を寄せてローサを見る。
「はあ、たすけに? お前、――はあ?」
頼んでねえよ、などと少年たちはぶつぶつ言うが、しかし仲間が増えたことにほっとしているようだった。ローサが背嚢の中身に地上を見たように、少年たちはローサに地上との繋がりを感じた。
彼らがローサの予想よりも遥かに迷宮を進んでいたのは、紛れもなく恐怖に急かされたからだ。迷宮で人は追い立てられる。進んだが最後、奥へ奥へと誘い込まれるものだ。
だからこそ冷静さが重要だった。歩幅の把握、歩数の把握、距離の把握、時間の把握。そういったものを計算すると、進行速度を数字にできる。そしてその数字の大小は自分の状態そのものだ。
もっともローサはまだ計算式を覚えられてはいない。
ローサは敏感に少年たちの安堵の気配を嗅ぎ取った。だが震えを止めることができない。震えを誤魔化しながら狼の死体を指差す。
「……あれ」
少年たちの視線がローサの指先に誘導される。
そして無惨な死体を見て、自分たちの所行をようやく知った。
少年たちは孤児院の手伝いで日常的に家畜を絞めている。それ以前の浮浪児としての暮らしでは、大鼠や牙蛙と戦ってこれを日々の糧とした。命を奪うことには慣れていた。大人の酔っ払いや薬物中毒者と戦ったこともある。行き倒れ食い荒らされた人の姿も。地上で、同種の狼を狩猟したこともある。
経験を積んでいるとは言わない。しかしそれなりに修羅場をくぐり抜けてた自負があり、そして魔物との戦いを経験しているのは事実だった。それは彼らの自信に繋がり、迷宮へ行くきっかけの一つになった。
魔物と戦う自分を夢想するのは楽しかったに違いない。
こんな風に我を忘れるとは思ってもみなかったはずだ。
ローサは魔物に哀れみの視線を向けた。
迷宮では戦闘を避けられない。さんざん言われたことだ。これは当然の結果だった。
無惨に殺すのも、綺麗に殺すのも、殺された方からしてみればさしたる違いはない。温かな血臭が生々しい。そうしなければ無惨に食い殺されていたのは少年たちの方だった。
子狼だろうと魔物は魔物。魔物に容赦していたら、命は幾つあっても足りない。
言葉では理解していた。
ローサは現実を見て、複雑な思いに囚われる。
「……なんだよ」
沈むローサの表情に、少年がふて腐れたように呟いた。批難されたと思ったのかもしれない。
「ここは迷宮だぞ! やらなきゃやられてたんだ。俺たちが殺された方がよかったって言うのかよ!」
怒鳴られてもローサは表情を変えなかった。唇を固く結んだ。
少年は戸惑う。自分たちに言い聞かせるように声を張った。
「見ろ! 俺たちがやったんだ。やってやった! 二匹いたんだぜ。へへっ、迷宮なんてこんなもんだ。なあ!」
呼びかけると同意の声が上がった。戸惑いを滲ませ、しかし、そうだそうだと繰り返すほどに自己暗示にかかる。
「お前の助けなんていらねえよ!」
憎まれ口を叩く少年にローサは変わらぬ視線を向ける。
「けがは? けがしてない? だいじょうぶだった?」
「――べつに、平気だ。魔物の血が染みたら魔物になるなんて言う奴もいるけど、そんなの嘘だ」
たじろいた少年は視線を逸らしながら言う。
「ほんと? よかった」
ローサは血に汚れた少年の手を取った。少年は絶句する。少年たちの視線がローサに注がれる。
「ねえ、かえろ。おうちにかえろうよ。あぶないよ」
少年はその手を振り払った。
例えばこれが一人だったら、ローサの言葉に頷いただろう。しかし周りには友人たちがいた。
迷宮から逃げ帰るわけにはいかなかった。残りの四人も同じだ。他の誰かがローサに同意するのなら、自分たちもそれに乗っただろう。だが自分が一番に頷くわけにはいかない。
多感な時期の自尊心がそれを許さなかった。
ローサはもう一度手を取った。ローサの言動は幼いが、肉体は少年たちよりも大人びている。
「たんさくしゃだって、はじめては、はんぶんしんじゃうの。おにーちゃんがいってた」
ローサは手を強く握りしめる。
「もどろ? おにーちゃんたちがむかえにきてくれるよ」
兄の、ランタンの存在はローサにとって絶対的なものだった。
兄は絶対に助けに来てくれる。
しかし少年たちにとってのランタンは。
「ランタンがなんだよ!」
その名を聞いて少年がかっと頬を赤らめた。それは紛れもなく怒りだった。
「俺たちと同じ歳であいつはもう迷宮攻略してんだぞ!」
ローサの手を払いのけ、その身体を叩くかのように強く押した。
「うっ」
しかし後ろに下がったのは少年だった。体重差に、そもそも足の数さえ違う。当然の結果だった。だがそれがいよいよ少年たちを後に引けなくさせた。
「俺たちだって、もうできるんだよ! 行こうぜ! お前は一人でおにーちゃんを待ってればいいさ!」
「……おい、あれは」
「ほっとけ! 奥にはもっと金になる魔物がいるはずだ!」
ローサと一緒に狼の死体を置いて、少年がずんずんと歩き出す。他の少年たちはちらちらとローサに視線を送りながら、彼を追いかけた。状況を理解していないわけではない。しかし仲間を一人進ませるわけにはいかない。
迷宮での不和は大人の探索者同士でも、熟練の探索者同士でも起こりうる。
ローサは泣きたくなるのを堪えながら前を向いた。
友達を追いかける。友達を助ける。
少年たちの後ろをつかず離れず、とぼとぼと付いていった。少年たちは時折振り返るが、声も掛けてこなければ、視線も合わない。ローサも黙っている。少年たちの背中の、その更に向こうを睨むように見つめる。
兄は絶対に助けに来てくれる。
革鎧に付着した少年の手形が小さく思える。強く押されたのに少しも痛くなかった。
手を握った際に付着した魔物の血をローサは無意識に舐め取った。生命の味であると同時に、死の味でもある。
それまでは自分が彼らを守るんだ。
ぐる、とローサの喉がごく小さく唸った。
それは獣の唸り声である。




